シャーロック・ホームズの冒険
Adventures of Sherlock Holmes
- 出版年
- 1892年
- 作者
- アーサー・コナン・ドイル
- 翻訳
- 開原 藍誠
- 概要
- シャーロック・ホームズが、鋭い観察力と論理的推理で数々の不可解な事件を解決する短編集。王族の悩みから奇怪な組合の罠まで、多彩な謎に挑む姿が描かれる。

「会衆席にいた紳士が、それを彼女に差し出した。」
第一話 ボヘミアの醜聞
一
シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつもあの女性だった。それ以外の呼び名を口にするのを、私はめったに聞いたことがない。彼の目には、彼女がほかのすべての女性をしのぎ、ひときわ抜きんでた存在と映っていたのだ。といっても、アイリーン・アドラーに恋愛めいた感情を抱いていたわけではない。冷徹で精密、しかも見事な均衡を保つ彼の精神にとって、感情というものはすべて、なかでも恋愛は、忌むべきものだった。私の思うに、彼はこの世に現れた最も完璧な推理と観察の機械であった。しかし恋する男となれば、まるで柄にない役回りを演じることになっただろう。優しい情愛を話題にするときは、必ずからかいや冷笑が伴った。観察する者にとって、そうした感情は実にありがたい。人間の動機や行動を覆う幕を取り払うには、うってつけだからだ。だが、鍛え抜かれた推理家が、精妙に調整された自分の繊細な気質にその侵入を許せば、思考の成果をことごとく疑わしくしかねない、厄介な要因を持ち込むことになる。精密機器に入り込んだ砂粒も、愛用の高倍率レンズに走ったひびも、彼のような性質の人間にとっては、激しい感情ほどの障害にはならなかっただろう。それでもなお、彼にとってただ一人、特別な女性がいた。それが、芳しいとは言いがたい評判を残して世を去った、アイリーン・アドラーなのである。
このところ私は、ホームズにあまり会っていなかった。私の結婚を機に、二人は自然と遠ざかっていたのだ。申し分のない幸福と、初めて一家を構えた男の身のまわりに生まれる、家庭を中心としたさまざまな関心事が、私の心をすっかり占めていた。一方、根っからの自由人で、社交と名のつくものを心底嫌うホームズは、かつて二人で暮らしたベーカー街の下宿にとどまり、古い書物に埋もれながら、ある週はコカイン、次の週は大望と、薬のもたらすまどろみと、その鋭敏な天性から湧き上がる猛烈な活力のあいだを行き来していた。犯罪研究への深い情熱は相変わらずで、警察が解決の望みなしと投げ出した事件の手がかりを追い、その謎を解き明かすために、並外れた頭脳と驚異的な観察力を注いでいた。折に触れ、その活動の噂がぼんやりと伝わってきた。トレポフ殺害事件でオデッサへ招かれたこと、トリンコマリーで起きたアトキンソン兄弟の奇怪な悲劇を解決したこと、そして最近では、オランダ王家のために、微妙な任務を見事な手腕で果たしたこと。しかし、一般の新聞読者と同じように知り得たそれらの消息を除けば、かつての友人であり同居人でもあった男について、私はほとんど何も知らなかった。
ある晩――一八八八年三月二十日のことだった――私は患者の往診から帰る途中、ベーカー街を通りかかった。というのも、そのころには民間の医師として診療を再開していたのである。あの見慣れた玄関の前を通ると、またホームズに会い、その非凡な能力を今は何に傾けているのか知りたいという思いが、急に強くこみ上げてきた。その玄関は、私にとって、自分の恋のいきさつや『緋色の研究』の暗い出来事と、いつまでも切り離せないものだった。彼の部屋は明々と照らされていた。見上げていると、長身で痩せた姿が、ブラインドに黒い影となって二度映った。顎を胸に埋め、両手を背中で組み、せわしなく足早に部屋を往復している。彼の気分や癖を知り尽くした私には、その姿勢と動きだけですべてがわかった。また仕事に取りかかっているのだ。薬の生む夢から抜け出し、新たな難問の手がかりを熱心に追っている。私は呼び鈴を鳴らし、かつて自分も使っていた二階の部屋へ通された。
彼は大げさな歓迎などしなかった。いつもそうだった。だが、私に会って喜んでいたとは思う。ほとんど言葉もかけず、ただ親しみのこもった目で肘掛け椅子を勧め、葉巻入れをこちらへ放り、隅にある酒の箱と炭酸水製造器を指し示した。それから暖炉の前に立つと、例の内面まで見透かすような独特の目つきで、私の全身を眺めた。
「結婚生活は君に向いているようだね」と彼は言った。「ワトソン、前に会ってから七ポンド半は太ったんじゃないか。」
「七ポンドだ!」
私は答えた。
「そうか。もう少し増えたと思ったがね。ほんの少しだけだよ、ワトソン。それに、診療も再開したようだ。仕事に戻るつもりだとは、聞いていなかったな。」
「それなら、どうしてわかるんだ?」
「見て、推理するのさ。では、君がこのところひどく濡れる目に遭ったことや、実に不器用で不注意な女中を雇っていることは、なぜわかると思う?」
「おい、ホームズ」と私は言った。「いくらなんでも、それは度が過ぎる。二、三百年前に生まれていたら、君はきっと火あぶりにされていたよ。たしかに木曜日には田舎道を散歩して、ひどい格好になって帰った。だが着替えもしたのに、どうしてそんなことまで推理できるのか、見当もつかない。メアリー・ジェーンのほうも手のつけようがなくて、妻が暇を出すと告げたところだ。しかし、それもどうやって見抜いたのかわからない。」
ホームズはくすくす笑い、細長く敏感そうな両手をこすり合わせた。
「実に簡単なことだ」と彼は言った。「君の左の靴、その内側の、ちょうど暖炉の火が当たっているところに、ほぼ平行な六本の傷が見える。明らかに、こびりついた泥を落とそうとして、誰かが靴底の縁をひどくぞんざいにこすった跡だ。そこから二つの結論が出る。君は悪天候の中を歩いた。そして、ロンドンの下働き女中のなかでも、ことにたちの悪い、靴を切り裂く手合いを雇っている。診療についてはね、ヨードホルムの匂いを漂わせ、右の人差し指には硝酸銀の黒い染みをつけ、聴診器を忍ばせたせいでシルクハットの脇を膨らませた紳士が僕の部屋に入ってきたら、現役の医者だと判断できないほうが、よほど鈍いというものさ。」
あまりにもあっさり推理の筋道を説明してみせるので、私は笑わずにはいられなかった。「君の説明を聞くと」と私は言った。「いつも馬鹿馬鹿しいほど簡単に思えて、自分でもすぐにできそうな気がする。ところが次の推理になると、また説明してもらうまでは、さっぱりわからないんだ。それでも、目のよさなら君に負けないと思うがね。」
「そのとおり」と彼は答え、紙巻き煙草に火をつけると、肘掛け椅子に身を投げ出した。「君は見ているが、観察していない。その違いは明白だ。たとえば、玄関からこの部屋へ上がる階段を、君は何度も見ているね。」
「何度もね。」
「どのくらい?」
「そうだな、何百回も。」
「では、何段ある?」
「何段だって? 知らないよ。」
「そのとおり! 観察していないんだ。見てはいるのにね。僕が言いたいのは、それさ。僕は十七段あると知っている。見たうえで、観察もしたからだ。ところで、こうしたちょっとした謎に興味があり、僕のささやかな経験を一つ二つ、わざわざ記録してくれる君なら、これにも関心を持つかもしれない。」
彼は、テーブルの上に開いてあった、薄桃色の厚手の便箋をこちらへ放った。「最後の配達で届いた」と言った。「声に出して読んでくれ。」
日付も署名も住所もなかった。
「今夜七時四十五分、きわめて重大な事柄についてご相談したい紳士が、貴殿を訪ねます」と手紙にはあった。「先ごろ、ヨーロッパのある王家のために果たされたご尽力によって、いかに重大と申しても言い過ぎにはならぬ事柄を、安心してお任せできる方であると判明しました。貴殿についてのこの評判を、当方は各方面から、得ております。その時刻には必ずお部屋においでください。なお、訪問者が仮面をつけていても、どうかお気を悪くなさらぬよう。」
「これはまったく謎だね」と私は言った。「いったい何事だと思う?」
「まだ材料がない。材料を得る前に理屈を組み立てるのは、大きな誤りだ。そうすると知らず知らず、理屈を事実に合わせる代わりに、事実を理屈に合わせてねじ曲げるようになる。だが、手紙そのものはどうだ。そこから何を推理する?」
私は筆跡と、その文字が記された紙を丹念に調べた。
「書いた人物は、かなり裕福なのだろう」と、友人のやり方をまねようと努めながら言った。「こんな紙は、一包み半クラウン以下では買えない。とりわけ丈夫で、腰が強い。」
「とりわけ――まさにそこだ」とホームズは言った。「これはイギリス製の紙ではない。明かりに透かしてみたまえ。」
言われたとおりにすると、紙の地に、大きな E と小さな g、それに P、大きな G と小さな t の透かしが見えた。
「どう読む?」とホームズが尋ねた。
「製造業者の名前に違いない。いや、頭文字を組み合わせたものかな。」
「まるで違う。G に小さな t を添えたものは『Gesellschaft』、ドイツ語で『会社』という意味だ。英語の『Co.』と同じ、ごく普通の略記だよ。P はもちろん『Papier』、紙だ。さて、Eg はどうか。大陸地名辞典を見てみよう。」
彼は本棚から、重い茶色の本を取り出した。「エグロウ、エグロニッツ――あった、エグリア。ドイツ語圏、ボヘミアにある。カールスバートからそう遠くない。『ヴァレンシュタイン終焉の地として、また数多くのガラス工場、製紙工場があることで知られる』。ははあ、どうだい、ワトソン?」
目を輝かせ、勝ち誇ったように、煙草から青い煙を大きく吐き上げた。
「紙はボヘミア製だ」と私は言った。
「そのとおり。そして書き手はドイツ人だ。この文の妙な組み立てに気づいたかい――『貴殿についてのこの評判を、当方は各方面から、得ております』。フランス人やロシア人は、こんな書き方をしない。動詞をこんなふうに冷遇するのはドイツ人だ。[訳注:原文では動詞 received が文末に置かれ、ドイツ語の語順を思わせる。]となれば、残るのはただ一つ。ボヘミア製の紙を使い、素顔を見せるより仮面を好むこのドイツ人が、何を望んでいるかを突き止めることだ。そして、間違いなければ、ご当人があらゆる疑問を解きにおいでのようだ。」
そう言う間に、馬の蹄が鋭く鳴り、車輪が縁石をこする音がした。続いて呼び鈴が勢いよく鳴らされた。ホームズは口笛を吹いた。
「音からすると二頭立てだ」と彼は言った。「そうだ」と窓から外をのぞいて続けた。「上等な小型のブルーム馬車に、見事な馬が二頭。一頭百五十ギニーはする。[訳注:一ギニーは一ポンド一シリング。高級品などの値段に用いられた。]ワトソン、この事件には、ほかに何もなくとも金だけはあるね。」
「僕は帰ったほうがよさそうだ、ホームズ。」
「とんでもない、先生。そこにいてくれ。僕のボズウェルがいなくては心細い。[訳注:ジェイムズ・ボズウェルは、サミュエル・ジョンソンの友人で伝記作者。]それに、面白くなりそうだ。見逃すには惜しいよ。」
「だが、依頼人が――」
「構わないさ。僕も君の助けが必要になるかもしれないし、先方もそうかもしれない。来たぞ。そこの肘掛け椅子に座って、よく聞いていてくれたまえ。」
階段から廊下へと近づいてきた、ゆっくりした重い足音が、扉のすぐ外で止まった。それから威圧的な強いノックが響いた。
「どうぞ!」とホームズが言った。

「一人の男が入ってきた。」
入ってきた男は、身長六フィート六インチは優にあり、胸板も手足もヘラクレスを思わせた。その服装は豪奢そのものだったが、イギリスなら悪趣味に近いと見なされそうな豪奢さだった。ダブルの上着の袖と前身頃には、アストラカンの毛皮の太い帯が横切り、肩に掛けた濃青色のマントには炎色の絹の裏地がついていた。襟元を留めるブローチは、燃え立つような緑柱石を一粒はめたものだった。ふくらはぎの半ばまである長靴は、上縁を豊かな茶色の毛皮で飾られ、その全身が醸し出す、野性的なまでの富裕さをいっそう際立たせていた。片手にはつばの広い帽子を持ち、顔の上半分には、頬骨の下まで覆う黒い仮面をつけていた。入ってきたときにも、まだ手を仮面に当てていたから、たった今つけたらしい。見えている顔の下半分からは、意志の強い人物と思われた。厚く垂れた唇に、まっすぐに長い顎。その顎は、決断力が頑固さにまで達していることをうかがわせた。
「手紙は届いたかね?」深く荒々しい声で、強いドイツ語なまりを交えて尋ねた。「訪ねると知らせておいたのだが。」
どちらに話しかけるべきか迷うように、私たちを交互に見た。
「どうぞお掛けください」とホームズが言った。「こちらは友人で協力者のワトソン博士です。ときどき事件の手助けをしてもらっています。失礼ですが、お名前を伺えますか。」
「ボヘミアの貴族、フォン・クラム伯爵と呼んでもらいたい。ご友人は、名誉を重んじ、口の堅い、きわめて重大な問題を託してもよい方と考えていいのだね。そうでなければ、君と二人だけで話したい。」
私は立って出ていこうとしたが、ホームズは手首をつかみ、椅子へ押し戻した。「二人にお話しいただくか、さもなくばお断りするかです」と彼は言った。「私にお話しできることなら、この人の前でもお話しいただけます。」
伯爵は幅広い肩をすくめた。「ではまず、お二人に、二年間は絶対に秘密を守ると約束していただきたい。その期間が過ぎれば、問題は重要でなくなる。しかし今のところは、ヨーロッパの歴史に影響しかねない重大事だと言っても、決して大げさではない。」
「お約束します」とホームズが言った。
「私も。」
「この仮面はお許し願いたい」と、奇妙な訪問者は続けた。「私を遣わされた高貴な方は、使者の身元を君に知られたくないと望んでおられる。それに、今名乗った称号も、正確には私自身のものではないと、あらかじめ認めておこう。」
「承知しております」とホームズはそっけなく言った。
「事情はきわめて微妙なのだ。放っておけば大きな醜聞となり、ヨーロッパのある王家の名誉を著しく傷つけかねない。その芽を摘むためには、あらゆる用心が必要となる。はっきり言おう。これは、代々ボヘミア王位を継ぐ、名門オルムシュタイン家にかかわる問題なのだ。」
「それも承知しております」とホームズはつぶやき、肘掛け椅子に深く身を沈め、目を閉じた。
訪問者は、だらりとくつろいだその姿を、いささか驚いた様子で見た。おそらく彼は、ヨーロッパ随一の鋭い推理家であり、最も精力的な実務家だと聞かされていたのだろう。ホームズはゆっくり目を開けると、待ちかねたように巨漢の依頼人を見た。
「陛下がご事情をお話しくだされば」と彼は言った。「それだけ的確なお力添えができるかと存じます。」
男は椅子から跳び上がり、抑えきれぬ動揺に駆られて部屋を行き来した。それから、やけになったような仕草で仮面をむしり取り、床へ投げつけた。「そのとおりだ!」と叫んだ。「私が国王だ。隠そうとする必要など、どこにある?」
「まったく、どこにございましょう」とホームズはつぶやいた。「陛下がお口を開かれる前から、カッセル=フェルシュタイン大公にして世襲のボヘミア国王、ヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモンド・フォン・オルムシュタインをお迎えしたことは、わかっておりました。」
「しかし、わかってもらえるだろう」と、奇妙な客は再び腰を下ろし、高く白い額を手でぬぐった。「私が自分でこういう用向きを処理することには、慣れていないのはわかるだろう。とはいえ、問題があまりに微妙で、代理人に打ち明ければ、その男に弱みを握らせることになる。そこで、君に相談するため、プラハからお忍びで来たのだ。」
「では、どうぞお話しください」とホームズは言い、また目を閉じた。
「手短に言えば、こういうことだ。五年ほど前、ワルシャワに長く滞在した折、名高い女冒険家のアイリーン・アドラーと知り合った。名は聞いたことがあるだろう。」
「先生、索引で彼女を引いてくれたまえ」と、ホームズは目を開けずにつぶやいた。彼は長年、人物や事物に関する記事を分類して記録する仕組みを用いていた。どんな話題でも人物でも、その名を挙げれば、たいていは即座に情報を出せた。今回、彼女の略歴は、あるユダヤ教のラビと、深海魚の論文を書いた海軍航海長のあいだに挟まっていた。
「どれどれ」とホームズは言った。「ふむ。一八五八年、ニュージャージー生まれ。コントラルト歌手――ふむ。スカラ座――ふむ。ワルシャワ帝室歌劇場のプリマドンナ――なるほど。オペラの舞台から引退――ほう。ロンドン在住――よろしい。陛下は、この若い女性と深い仲になり、露見すると困る手紙を何通かお書きになった。そして今、それを取り戻したい。そういうことですね。」
「まさにそのとおりだ。しかし、どうして――」
「ひそかにご結婚なさいましたか?」
「いや。」
「法的な書類や証明書は?」
「ない。」
「では、陛下のお困りのわけがわかりません。この女性が脅迫なり何なりのために手紙を持ち出したとして、その本物であることを、どう証明するのです?」
「筆跡がある。」
「いやいや、偽造です。」
「私専用の便箋だ。」
「盗んだものです。」
「私の印章がある。」
「模造です。」
「私の写真もある。」
「買ったものです。」
「二人で一緒に写っているのだ。」
「おや、それはまずい! 陛下、実に軽率なことをなさいましたね。」
「どうかしていた――正気ではなかったのだ。」
「ひどくご自分の立場を危うくなさいました。」
「あのころはまだ皇太子だった。若かったのだ。今でもまだ三十なのだぞ。」
「取り戻さなくてはなりません。」
「試みたが、失敗した。」
「お金をお出しになることです。買い取らなくては。」
「あの女は売らない。」
「では、盗むのです。」
「五度も試みた。二度は雇った泥棒に家中を探らせた。一度は旅行中の荷物を横取りした。二度は路上で待ち伏せをさせた。だが成果はない。」
「影も形も?」
「まったくない。」
ホームズは笑った。「なかなか気の利いた難問ですね。」
「私にとっては、きわめて深刻なのだ」と国王は非難がましく答えた。
「ええ、まことに。それで、彼女は写真をどうするつもりなのです?」
「私を破滅させるつもりだ。」
「どのように?」
「私は近く結婚する。」
「そう伺っております。」
「相手はスカンディナヴィア王の第二王女、クロティルデ・ロートマン・フォン・ザクセン=マイニンゲンだ。あの王家がどれほど厳格かは、君も知っていよう。王女自身も、つつしみ深さを絵に描いたような方だ。私の品行にほんの少しでも疑いがかかれば、縁談は終わりになる。」
「それで、アイリーン・アドラーは?」
「先方へ写真を送ると脅している。そして本当に送るだろう。私は、あの女が必ずそうすると知っている。君は知らないだろうが、鋼のような心を持っているのだ。顔は女のなかでも最も美しく、心は男のなかでも最も強固だ。私がほかの女と結婚するくらいなら、どんなことでもする。どんなことでもだ。」
「まだ送っていないことは、確かですか?」
「確かだ。」
「なぜそう言い切れます?」
「婚約が公表される日に送ると言っていたからだ。それが来週の月曜日なのだ。」
「おや、ではまだ三日ありますね」とホームズはあくびをした。「それはありがたい。ちょうど今、一、二件、重要な用件を調べなくてはなりませんので。陛下は、もちろん当分ロンドンにご滞在ですね?」
「むろんだ。ランガム・ホテルに、フォン・クラム伯爵の名で泊まっている。」
「では、進展がありしだい、お便りを差し上げます。」
「ぜひそうしてくれ。気が気ではないのだ。」
「それでは、費用については?」
「いっさい君に任せる。」
「制限はございませんか?」
「あの写真さえ手に入るなら、王国の一州をくれてやってもよいと言っているのだ。」
「当座の経費は?」
国王はマントの下から、ずっしりしたシャモア革の袋を取り出し、テーブルに置いた。
「金貨で三百ポンド、紙幣で七百ある」と言った。
ホームズは手帳の一枚に受取証を走り書きし、国王に渡した。
「それで、マドモワゼルのご住所は?」と尋ねた。
「セント・ジョンズ・ウッド、サーペンタイン・アヴェニューのブライオニ・ロッジだ。」
ホームズは書き留めた。「もう一つ」と言った。「写真はキャビネ判でしたか? [訳注:台紙を含め、およそ十六・五センチ×十一センチの肖像写真。]。」
「そうだ。」
「では、おやすみなさいませ、陛下。ほどなくよい知らせを差し上げられることと存じます。それでは君も、おやすみ、ワトソン」と、王の馬車の車輪が通りを走り去ると、彼は付け加えた。「よかったら明日の午後三時に来てくれたまえ。このちょっとした件を、君と話し合いたい。」
二
きっかり三時に私はベーカー街を訪ねたが、ホームズはまだ戻っていなかった。下宿のおかみによると、朝八時を少し回ったころ家を出たという。私はどれほど遅くなろうと待つつもりで、暖炉のそばに腰を下ろした。すでにこの調査には深い興味を抱いていた。以前に記録した二つの犯罪にまつわるような、不気味で奇怪な趣はなかったが、事件の性質と依頼人の高い身分が、独特の色合いを添えていた。それに、友人が取り組む事件の性質とは別に、状況を掌握する鮮やかな手腕と、鋭く的確な推理には、それ自体、人を引きつけるものがあった。彼の仕事の進め方を見つめ、どんなに解きほぐしがたい謎でもたちまち解いてしまう、素早く巧妙な手法を追うことが、私には喜びだった。彼が必ず成功するのにすっかり慣れてしまい、失敗する可能性など、もはや頭に浮かびもしなかった。
四時近くになって、ようやく扉が開いた。入ってきたのは、酔っているように見える馬丁だった。髪は乱れ、頬ひげを生やし、顔は赤く腫れぼったく、身なりもみすぼらしい。友人の驚くべき変装術には慣れていた私も、三度見直して、ようやく本人だと確信した。彼はうなずくと寝室へ姿を消し、五分後にはツイードの服を着た、いつものきちんとした姿で現れた。ポケットに両手を突っ込み、暖炉の前へ足を伸ばすと、数分にわたって大笑いした。
「いや、まったく!」と叫んだかと思うと、息を詰まらせ、また笑いだし、しまいには力が抜けて、椅子の背にもたれかかった。
「どうしたんだ?」
「あまりにおかしくてね。今朝、僕が何をして、挙げ句にどんなことをする羽目になったか、君にはとても当てられまい。」
「見当もつかない。ミス・アイリーン・アドラーの行動を調べ、たぶん家も見張っていたんだろうが。」
「そのとおり。だが、その先が少々風変わりだった。話そう。今朝八時過ぎ、失業中の馬丁に化けて家を出た。馬にかかわる連中には、驚くほど強い仲間意識と、言葉にしない連帯がある。一員になりさえすれば、知れることは何もかもわかる。ブライオニ・ロッジはすぐに見つかった。小ぢんまりと美しい二階建ての邸宅で、裏には庭があるが、表は道路ぎりぎりまでせり出している。玄関にはチャブ社製の錠。右手に大きな居間があって、立派な家具が入り、床近くまで届く縦長の窓がある。その留め金ときたら、子供でも開けられる、例の馬鹿げたイギリス式のやつだ。裏は、馬車小屋の屋根から廊下の窓に手が届くほかに、特に変わったところはなかった。一周して、あらゆる角度から念入りに調べたが、それ以上、興味を引く点はなかった。
「それから通りをぶらつくと、思ったとおり、庭の片側の塀に沿う路地に、貸馬車の厩舎があった。馬の体をこする手伝いをしたお礼に、二ペンス、二種類のビールを割った一杯、刻み煙草を二服分、それにアドラー嬢について望むだけの情報をもらった。ついでに、近所の半ダースほどの人間の身の上話まで聞かされたよ。そっちにはまるで興味がなかったが、耳を貸さないわけにはいかなかった。」
「それで、アイリーン・アドラーは?」
私は尋ねた。
「界隈の男という男を夢中にさせている。この地上でボンネットをかぶる女性のうち、いちばんの美人だそうだ。サーペンタインの厩舎の連中が、口をそろえてそう言う。静かに暮らし、演奏会で歌い、毎日五時に馬車で出かけ、夕食のため七時きっかりに帰る。それ以外は、歌いに行くときのほか、めったに外出しない。訪ねてくる男は一人だけだが、それがしょっちゅう来る。黒髪の、顔もよくていなせな男で、一日一度は必ず、二度来ることも多い。インナー・テンプルのゴドフリー・ノートン氏という男だ。[訳注:インナー・テンプルはロンドンの法曹学院の一つで、法律家の事務所も置かれていた。]御者を話し相手に持つ利点がわかるだろう。連中はサーペンタインの厩舎から何度も彼を家まで送っていて、何もかも知っていた。話をすっかり聞き終えると、僕はまたブライオニ・ロッジの近くを行き来して、作戦を考えた。
「このゴドフリー・ノートンは、明らかに事件の重要な要素だった。弁護士だという。それは穏やかでない。二人はどんな関係で、何のためにたびたび訪問するのか。彼女は依頼人なのか、友人なのか、それとも恋人なのか。最初の場合なら、写真を彼に預けた可能性が高い。最後の場合なら、その見込みは薄い。この問題の答えによって、ブライオニ・ロッジで調べ続けるべきか、テンプルにあるその紳士の事務所へ目を向けるべきかが決まる。微妙な点で、そのために調査の範囲が広がった。細かい話ばかりで退屈させるかもしれないが、状況を理解してもらうには、僕がぶつかった小さな難点も知ってもらわなくてはね。」
「興味深く聞いているよ」と私は答えた。
「まだあれこれ考えていると、二輪辻馬車がブライオニ・ロッジの前に止まり、一人の紳士が飛び降りた。黒髪、鷲鼻、口ひげを生やした、目立つほどの美男子だった。明らかに、聞いていた男だ。ひどく急いでいるらしく、御者に待てと叫ぶと、扉を開けた女中の脇を、まるで自分の家のような顔で通り抜けた。
「三十分ほど家の中にいた。居間の窓から姿がときどき見えたが、歩き回り、腕を振りながら興奮して話していた。彼女の姿はまったく見えない。やがて男は、さっきよりいっそう慌てた様子で出てきた。馬車に乗るところで、金時計をポケットから出し、じっと見つめた。『大急ぎだ!』と叫んだ。『まずリージェント・ストリートのグロス・アンド・ハンキーへ。それからエッジウェア・ロードの聖モニカ教会だ。二十分で行けば半ギニーやる!』
「馬車は走り去った。あとを追ったほうがよいかと思案していると、路地から、こぎれいな小型のランドー馬車がやってきた。御者は上着のボタンも半分しか留めず、ネクタイは耳の下へずれ、馬具の革紐の端がことごとく留め金から飛び出していた。馬車が止まりきらぬうちに、彼女が玄関から飛び出して乗り込んだ。そのとき、ちらりと見ただけだったが、あの顔のためなら命を投げ出す男もいるだろうと思わせる、実に美しい女性だった。
「『聖モニカ教会へ、ジョン』と彼女は叫んだ。『二十分で着いたら、半ソヴリンあげるわ。』
「ワトソン、これはとても見逃せない。走って追うか、ランドーの後ろにしがみつくかと迷っていたところへ、辻馬車が通りかかった。御者はあまりにみすぼらしい客を見て、二度見したが、断られる前に乗り込んだ。『聖モニカ教会へ』と僕は言った。『二十分で着いたら半ソヴリンだ』。時刻は十一時三十五分。何が起きようとしているかは、もちろん明らかだった。
「御者は飛ばした。あれほど速い馬車には乗ったことがないと思う。それでも先の連中はもう着いていた。僕が着くと、辻馬車とランドーが入口の前にあり、馬たちの体から湯気が立っていた。金を払って教会へ急ぐと、中には追ってきた二人と、白い法衣を着た牧師しかいなかった。牧師は二人に何か言い聞かせているようで、三人は祭壇の前にかたまって立っていた。僕は暇つぶしに教会へ立ち寄った男のように、脇の通路をぶらぶら進んだ。すると驚いたことに、祭壇の三人が突然こちらを向き、ゴドフリー・ノートンが一目散に駆け寄ってきた。」
「ありがたい!」と彼は叫んだ。「あなたでいい。さあ、来てください!」
「それから?」
私は尋ねた。
「さあ、早く、あと三分しかない。過ぎたら法的に認められなくなる!」
「僕は半ば引きずられるように祭壇へ連れていかれ、気がつけば、耳元でささやかれる返事をもごもご繰り返し、何も知らない事柄の証人となって、要するに、独身女性アイリーン・アドラーと独身男性ゴドフリー・ノートンが、しっかり結ばれる手助けをしていた。すべてはあっという間に済み、一方から紳士、もう一方から淑女がお礼を述べ、正面では牧師がにこにこしていた。あんな馬鹿げた立場に置かれたことは、生まれて初めてだ。それを思い出して、さっきは笑いだしたんだよ。どうやら結婚許可証の手続きに何か不備があり、牧師は、とにかく証人がいなければ絶対に式を挙げないと言い張ったらしい。そこへ僕が都合よく現れたので、花婿は街へ出て付き添い役を探す手間が省けたわけだ。花嫁は一ソヴリン金貨をくれた。記念に時計の鎖につけておくつもりだ。」
「それはまったく思いがけない展開だね」と私は言った。「それからどうなった?」
「僕の計画がひどく危うくなった。二人はすぐにも旅立ちそうだったから、こちらも迅速かつ精力的に手を打たなくてはならない。ところが教会の戸口で別れ、男はテンプルへ、女は自宅へ帰った。別れ際に彼女が、『いつものように五時に公園へ出かけるわ』と言った。それ以上は聞こえなかった。二人は別々の方向へ走り去り、僕は僕で準備に取りかかった。」
「どんな準備だい?」
「冷たい牛肉と、ビールを一杯」と彼は答え、呼び鈴を鳴らした。「忙しくて食事どころではなかったし、今夜はもっと忙しくなりそうだ。ところで先生、君の協力が必要だ。」
「喜んで。」
「法律を破っても構わないかい?」
「少しも。」
「逮捕される恐れがあっても?」
「正しい目的のためならね。」
「ああ、目的は実に立派だ!」
「それなら引き受けよう。」
「君は頼りになると思っていた。」
「だが、何をすればいいんだ?」
「ターナー夫人が食事を運んできたら、説明しよう。さて」と、下宿のおかみが出してくれた簡素な食事へ、空腹そうに向き直りながら言った。「時間がないから、食べながら話させてもらう。もうじき五時だ。二時間後には現場にいなくてはならない。アイリーン嬢――いや、今は夫人だね――は七時に馬車で帰ってくる。ブライオニ・ロッジで彼女を迎えなくては。」
「それから?」
「それは僕に任せてくれ。起こることはすでに手配してある。ただ一つだけ、必ず守ってほしい。何が起きても、君は手を出さないこと。いいね?」
「傍観していろということか?」
「何もしないんだ。たぶん、ちょっとした騒ぎが起こる。加わってはいけない。その結果、僕は家の中へ運び込まれる。四、五分すると居間の窓が開く。君はその開いた窓のすぐそばに立つんだ。」
「わかった。」
「そこから僕が見えるはずだから、よく見ていてくれ。」
「うん。」
「僕がこうやって手を上げたら、渡しておくものを部屋へ投げ込み、同時に火事だと叫ぶ。ここまではいいね?」
「よくわかった。」
「たいしたものじゃない」と彼は言い、ポケットから長い葉巻形の筒を取り出した。「配管工が使う、ごく普通の発煙筒だ。[訳注:煙を出して配管の漏れを調べるための道具。]両端に発火用の仕掛けをつけ、自動で火がつくようにしてある。君の役目はそれだけだ。火事だと叫べば、大勢があとに続くだろう。そうしたら通りの端まで歩いていってくれ。十分後には僕も合流する。はっきりわかったかな?」
「手出しせず、窓のそばへ行き、君を見て、合図とともにこれを投げ込む。それから火事だと叫び、通りの角で待つ。」
「そのとおり。」
「では、すっかり任せてくれていい。」
「結構。そろそろ僕も、新しい役の支度をするころだろう。」
彼は寝室へ姿を消し、数分後には、人のよい、純朴な非国教会の牧師になって戻ってきた。幅広の黒い帽子、だぶだぶのズボン、白いネクタイ、思いやりに満ちた微笑み、そして善意の好奇心から何事ものぞき込みたがるような風情。これに匹敵する演技ができるのは、名優ジョン・ヘア氏くらいだろう。ホームズは、ただ衣装を変えるだけではなかった。新しい役を演じるたび、表情も、物腰も、魂までも変わるようだった。彼が犯罪の専門家となったとき、演劇界は優れた俳優を、科学界は鋭い論理家を失ったのである。
ベーカー街を出たのは六時十五分で、サーペンタイン・アヴェニューに着いたときには、七時までまだ十分あった。あたりはすでに薄暗く、家の主を待ちながらブライオニ・ロッジの前を行き来するうちに、街灯がともされ始めた。家は、シャーロック・ホームズの簡潔な説明から思い描いたとおりだったが、周囲は想像ほどひっそりしてはいなかった。むしろ、静かな界隈の小さな通りにしては、驚くほど人の動きがあった。角にはみすぼらしい男たちがたむろし、煙草を吸って笑っていた。研ぎ車を持った刃物研ぎ、子守女中をからかう二人の近衛兵、葉巻をくわえてぶらつく、身なりのよい若者も数人いた。
「この結婚で、話はいくらか簡単になる」と、家の前を往復しながらホームズは言った。「あの写真は、今や両刃の剣だ。彼女もゴドフリー・ノートン氏には見せたくないだろう。依頼人が婚約者の王女に見られたくないのと同じくらいにね。さて、問題は写真のありかだ。」
「いったい、どこだろう?」
「持ち歩いているとは、まず考えられない。キャビネ判だ。女性の服にうまく隠すには大きすぎる。彼女は、国王が人を待ち伏せさせ、身体検査をさせかねないと知っている。現に二度、そういう試みがあった。となれば、持ち歩いてはいないと考えてよい。」
「では、どこに?」
「銀行家か弁護士。この二つの可能性がある。だが僕は、どちらでもないと思う。女性は生来、秘密を好み、隠すのも自分の手でしたがる。わざわざ他人に預けるだろうか。自分で守るなら安心できるが、実業家には、どんな裏からの圧力や政治的な力が及ぶかわからない。それに、数日以内に使うと決めていたことを忘れてはいけない。すぐ手に取れる場所にあるはずだ。自分の家の中だよ。」
「だが、二度も泥棒が入っている。」
「ふん! 探し方を知らなかったのさ。」
「では、君はどう探す?」
「探しはしない。」
「それなら?」
「彼女に教えてもらう。」
「断るだろう。」
「断れないさ。おや、車輪の音だ。彼女の馬車だよ。さあ、僕の指示を一字一句そのとおりに実行してくれ。」
そう言う間に、通りの曲がり角から、馬車の両脇の灯が見えてきた。しゃれた小型のランドーが、音を立ててブライオニ・ロッジの玄関前に着いた。止まると、角にいた男の一人が、小銭目当てに扉を開けようと駆け寄った。すると、同じ考えで駆けつけた別の男が、肘で押しのけた。激しい口論が始まり、二人の近衛兵が一方の男に加勢し、刃物研ぎが同じくらいの剣幕で他方の味方をしたので、騒ぎはますます大きくなった。誰かが一発殴った。その瞬間、馬車を降りた婦人は、顔を赤くしてつかみ合い、拳や棒で激しく殴り合う男たちの小さな輪に取り囲まれた。ホームズが婦人を守ろうと群れへ飛び込んだが、彼女のそばへ達したとたん、叫び声を上げ、顔から血をどくどく流して地面に倒れた。彼が倒れると、近衛兵たちは一方へ、ならず者たちは反対へ逃げ出した。その間に、乱闘に加わらず見ていた、もう少し身なりのよい人々が集まり、婦人を助け、負傷者を介抱した。アイリーン・アドラー――引き続きそう呼ぶことにしよう――は、急いで玄関の階段を上がったが、一番上で立ち止まった。玄関の明かりに見事な姿を浮かび上がらせ、通りを振り返っていた。
「お気の毒に。ひどいお怪我ですの?」と尋ねた。
「死んじまった!」と、いくつもの声が叫んだ。
「いや、まだ息がある!」と別の声が上がった。「だが病院に着く前に、こと切れちまうぞ。」
「勇気のある方だよ」と女が言った。「この方がいなけりゃ、奥様は財布も時計も取られていたよ。あいつらはぐるで、とんだ荒くれ者だったんだから。ああ、息をしてる。」
「道に寝かせておくわけにはいきません。奥様、中へ運んでもよろしいですか?」
「もちろんです。居間へ運んでください。楽なソファがあります。こちらへ、どうぞ!」
ホームズは、ゆっくり、しめやかにブライオニ・ロッジへ運び込まれ、表の居間に寝かされた。私は窓のそばに陣取り、なおも成り行きを見守っていた。ランプはともっていたがブラインドは下りておらず、長椅子に横たわるホームズが見えた。自分の演じる役に、そのとき彼が良心の痛みを感じたかどうかはわからない。だが私は、自分たちがたくらみの標的にしている女性の美しい姿や、傷ついた男を介抱する優雅で親切な様子を見ると、生まれてこのかた、これほど心から自分を恥じたことはなかった。しかし今になって、託された役目から逃げるのは、ホームズに対するこの上ない裏切りとなる。私は心を鬼にして、厚手の外套の下から発煙筒を取り出した。結局のところ、彼女を傷つけるのではない、と考えた。ただ、彼女がほかの人を傷つけるのを防ぐだけなのだ。
ホームズは長椅子の上で身を起こし、空気を欲しがるような身振りをした。女中が駆け寄り、窓を大きく開けた。同時にホームズの手が上がるのが見えた。その合図に、私は「火事だ!」と叫んで発煙筒を部屋へ投げ込んだ。
その言葉が口を出るか出ないかのうちに、身なりのよい者も悪い者も――紳士も馬丁も女中も――見物人が一斉に「火事だ!」と叫び声を上げた。
濃い煙が部屋に渦巻き、開いた窓から流れ出した。走り回る人影がちらりと見え、一瞬のち、中からホームズが、誤報だから心配ないと告げる声が聞こえた。私は叫び続ける群衆をすり抜け、通りの角へ向かった。十分後、友人が腕を取ってくれたときは、騒ぎの場から離れられるのがありがたかった。彼は数分間、黙って足早に歩き、やがてエッジウェア・ロードへ続く静かな通りの一つに折れた。
「実にうまくやってくれたね、先生」と言った。「これ以上は望めない。もう大丈夫だ。」
「写真は手に入ったのか?」
「ありかはわかった。」
「どうやって?」
「言ったとおり、彼女が教えてくれた。」
「僕にはまだ、さっぱりだ。」
「謎めかすつもりはないよ」と彼は笑った。「実に簡単なことだった。通りにいた者がみんな仲間だと、もちろん気づいただろう。今夜のために雇っておいたのさ。」
「そうだろうと思った。」
「そこで、騒ぎが起きたとき、僕は手のひらに湿った赤い絵の具を少しつけていた。駆け寄って倒れ、顔に手を押し当てれば、哀れな負傷者のできあがりだ。昔からある手さ。」
「そこも察しはついた。」
「それで中へ運び込まれた。彼女は僕を入れるほかなかった。ほかにどうしようがある? しかも居間へだ。僕が目をつけていた、まさにその部屋だった。居間か寝室、そのどちらかと考えていたので、見極めようと決めていた。長椅子に寝かされ、空気が欲しいと身振りで示せば、窓を開けざるを得ない。そこで君の出番となった。」
「それがどう役に立ったんだ?」
「そこが肝心だった。女性は家が火事だと思うと、本能的に、いちばん大切なものへ駆け寄る。その衝動にはまず逆らえない。僕はこれまで何度も利用してきた。ダーリントンのすり替え醜聞でも、アーンズワース城の一件でも役に立った。既婚の女性なら赤ん坊を抱き上げ、未婚なら宝石箱に手を伸ばす。さて、今日の婦人にとって、あの家で僕たちの探す品以上に大切なものはない。それは明らかだった。きっと確保しようと駆け寄るはずだ。火事の騒ぎは見事だった。あの煙と叫び声なら、鋼の神経も揺さぶられる。彼女は実に見事に反応した。写真は、右側の呼び鈴の引き紐のすぐ上、横に滑る羽目板の裏のくぼみにある。彼女は一瞬でそこへ走り、半ば引き出したので、ちらりと見えた。僕が誤報だと叫ぶと、元へ戻し、発煙筒を一目見て、部屋から飛び出した。それきり姿は見ていない。僕は立ち上がり、挨拶をして家を出た。その場で写真を手に入れようかと迷ったが、御者が入ってきて、じっと見張っていたから、待つほうが安全だと判断した。ほんの少し急ぎすぎただけで、何もかも台無しになりかねないからね。」
「では、これからは?」
私は尋ねた。
「仕事は事実上、終わった。明日、国王と訪ねる。君もよければ一緒に来てくれ。居間へ通されて婦人を待つことになるだろうが、彼女が現れたときには、僕たちも写真も、もうそこにはないかもしれない。陛下も、ご自分の手で取り戻せば満足なさるだろう。」
「何時に行くんだ?」
「朝八時。彼女はまだ起きていないから、邪魔は入らない。それに急がなくては。この結婚で、彼女の暮らしも習慣もすっかり変わるかもしれない。すぐ国王に電報を打たなくてはね。」
私たちはベーカー街に着き、玄関前で立ち止まった。ホームズがポケットの鍵を探していると、通り過ぎる誰かが言った。
「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん。」
そのとき歩道には何人かいたが、声をかけたのは、厚手の外套を着て足早に通り過ぎた、細身の青年らしかった。
「あの声は聞き覚えがある」とホームズは言い、薄暗い通りを見つめた。「いったい、何者だったんだろう?」
三
その夜、私はベーカー街に泊まった。翌朝、二人でトーストとコーヒーの朝食を取っていると、ボヘミア国王が部屋へ飛び込んできた。
「本当に手に入れたのか!」と叫び、シャーロック・ホームズの両肩をつかんで、その顔を熱心にのぞき込んだ。
「まだです。」
「だが、見込みはあるのだな?」
「あります。」
「では行こう。一刻も待てない。」
「馬車を呼ばなくては。」
「いや、私の馬車が待っている。」
「それなら手間が省けます。」
私たちは階下へ下り、再びブライオニ・ロッジへ向かった。
「アイリーン・アドラーは結婚しました」とホームズが言った。
「結婚した! いつ?」
「昨日です。」
「だが、誰と?」
「ノートンというイギリス人の弁護士です。」
「あの男を愛しているはずはなかろう?」
「愛していることを願います。」
「なぜ願うのだ?」
「そうなら、陛下が今後の厄介事を恐れずに済むからです。夫を愛していれば、陛下は愛していない。陛下を愛していないなら、陛下のご計画を妨げる理由もありません。」
「そのとおりだ。しかし――ああ! あの女が私と同じ身分であったなら! さぞすばらしい王妃になったろうに!」
国王は再び物思いに沈んで黙り込み、サーペンタイン・アヴェニューに着くまで、その沈黙は破られなかった。
ブライオニ・ロッジの玄関は開き、年配の女が階段に立っていた。馬車を降りる私たちを、皮肉な目つきで眺めていた。
「シャーロック・ホームズ様でいらっしゃいますね?」と言った。
「私がホームズです」と友人は答え、問いただすような、いくらか驚いた目で女を見た。
「やはりそうですか。奥様から、お見えになるだろうと伺っております。奥様は今朝、ご主人とご一緒に、チャリング・クロス発五時十五分の列車で、大陸へお発ちになりました。」
「何ですって!」
シャーロック・ホームズは、悔しさと驚きに顔を白くし、よろめくように後ずさった。「イギリスを出たというのですか?」
「二度とお戻りにはなりません。」
「書類はどうなった?」と国王がかすれ声で尋ねた。「すべておしまいだ。」
「確かめましょう。」
ホームズは女中の脇を押し通り、居間へ駆け込んだ。国王と私があとに続いた。家具はあちこちに散乱し、棚は片づけられ、引き出しは開け放されていた。女主人が出奔の前に、慌ただしくかき回したようだった。ホームズは呼び鈴の引き紐へ突進し、小さな引き戸を勢いよく開け、手を突っ込んで、写真と手紙を取り出した。写真は、夜会服姿のアイリーン・アドラー一人を写したものだった。手紙の表には、「シャーロック・ホームズ様。ご来訪までお預かりください」と書かれていた。
友人が封を破り、三人で一緒に読んだ。日付は前夜の真夜中で、文面は次のとおりだった。
「親愛なるシャーロック・ホームズ様――本当にお見事でした。すっかりだまされましたわ。火事の騒ぎが済むまで、少しも疑いませんでした。でも、自分から秘密を明かしてしまったと気づいたとき、考え始めたのです。何か月も前から、あなたには気をつけるよう忠告されていました。国王が誰かを雇うなら、必ずあなたになると聞かされていたのです。ご住所も教えられていました。それなのに、あなたは知りたいことを、私自身に明かさせてしまいました。疑いを抱いたあとでさえ、あんなに優しい、親切な老牧師様を悪く考えるのは、難しいことでした。でも、私も女優として修業を積んだ身です。男装には慣れています。そのおかげで得られる自由は、たびたび利用しているのです。御者のジョンにあなたを見張らせ、私は二階へ駆け上がって、いわば散歩着に着替えました。そして下りてきたのが、ちょうどあなたのお帰りになるときでした。
「それからお宅の玄関まであとをつけて、あの名高いシャーロック・ホームズ様が、確かに私にご関心をお持ちなのだと確かめました。つい軽率にも、おやすみなさいとお声をかけ、その足で夫に会うためテンプルへ向かったのです。
「これほど恐ろしい相手に追われたのでは、逃げるのがいちばんだと、二人の考えは一致しました。ですから、明日いらしたとき、巣は空になっているでしょう。写真については、ご依頼人に安心なさるようお伝えください。私はあの方より立派な男性を愛し、その人に愛されています。国王はお望みのままになさればよいのです。かつて残酷に傷つけられた女が、そのお邪魔をすることはありません。写真を持っておくのは、自分の身を守るためだけです。国王が今後どんな手段に出ようと、いつでも身を守れる武器を残しておきたいのです。代わりに、あの方が持ちたいと思われるかもしれない写真を置いていきます。では、親愛なるシャーロック・ホームズ様、ごきげんよう。敬意をこめて。
アイリーン・ノートン、旧姓アドラー。」
「なんという女だ――ああ、なんという女だ!」三人が手紙を読み終えると、ボヘミア国王は叫んだ。「頭の回転が速く、決断力もあると言ったではないか。すばらしい王妃になったろうに。私と釣り合う身分でなかったのが、惜しくはないか?」
「私が拝見したかぎりでは、あの方は陛下とは、まことに格の違うお方のようです」とホームズは冷ややかに言った。「ご依頼を、もっとよい結果に導けなかったことを、お詫び申し上げます。」
「いや、君、まったく逆だ」と国王は叫んだ。「これ以上の成功はない。あの女は決して約束を破らない。写真はもう、焼き捨てられたも同然に安全だ。」
「陛下にそうおっしゃっていただけて、何よりです。」
「君には大きな恩ができた。どう礼をしたらよいか、言ってくれ。この指輪を――」エメラルドをはめた蛇形の指輪を指から抜き、手のひらに載せて差し出した。
「陛下は、それよりも私には価値のあるものをお持ちです」とホームズが言った。
「何でも言うがよい。」
「この写真を!」
国王は驚いて彼を見つめた。
「アイリーンの写真を!」と叫んだ。「もちろん、君が望むなら。」
「ありがとうございます、陛下。それでは、この件については、もうすることはございません。これにて失礼いたします。」
彼は一礼すると、国王が差し伸べた手には目もくれずに背を向け、私とともに自分の部屋へ帰っていった。
これが、ボヘミア王国を揺るがしかねない大醜聞のいきさつであり、シャーロック・ホームズ氏の周到な計画が、一人の女性の知恵に敗れた顛末である。以前の彼は、女の才知をよく笑いの種にしていたが、近ごろでは、そんなことを口にするのを聞かない。そして、アイリーン・アドラーの話をするときも、その写真に言及するときも、必ずあの女性という敬意をこめた呼び名を使うのである。
第二話 赤髪組合
去年の秋のある日、友人のシャーロック・ホームズ氏を訪ねると、ひどく太った、赤ら顔の年配の紳士と、熱心に話し込んでいた。その紳士は、燃えるような赤毛の持ち主だった。私は邪魔をしたことを詫び、引き下がろうとしたが、ホームズはぐいと私を部屋へ引き入れ、背後の扉を閉めた。
「ワトソン、これ以上ないというほど、いいところへ来てくれた」と、親しげに言った。
「取り込み中かと思ってね。」
「そのとおり。大いに取り込み中だ。」
「それなら隣の部屋で待つよ。」
「とんでもない。ウィルソンさん、こちらの紳士は、私が最もうまく解決した事件の多くで、相棒となり、助けてくれた人です。あなたの件でも、大いに力になってくれるはずです。」
太った紳士は腰を半ば浮かせ、ひょいと頭を下げた。肉に埋もれた小さな目が、問いかけるような視線を素早くこちらへ向けた。
「長椅子に掛けたまえ」とホームズは言い、自分は肘掛け椅子に身を戻し、物事を吟味するときの癖で、両手の指先を合わせた。「ワトソン、君も僕と同じく、日常の慣習や単調な決まりごとから外れた、奇妙なものが好きだと知っている。僕のささやかな冒険を、あれほど熱心にいくつも記録してくれたことが、その証拠だ。失礼ながら、いくらか脚色もしてくれたしね。」
「君の事件には、本当に強い興味を覚えるよ」と私は言った。
「先日、ミス・メアリー・サザーランドが持ち込んだ、実に簡単な問題に取りかかる直前に、僕が言ったことを覚えているだろう。奇妙な結果や途方もない組み合わせを求めるなら、現実の人生に目を向けなくてはならない。現実は、どんな想像力の産物より、はるかに大胆だからね。」
「僕が、あえて疑問を差し挟んだ説だね。」
「そうだった、先生。だが、結局は僕の考えを認めることになる。そうでなければ、君の理性が重みに耐えかね、僕が正しいと認めるまで、事実を次々に積み上げてみせるからね。さて、こちらのジェイベズ・ウィルソンさんが、今朝わざわざ訪ねてくださり、しばらく聞いたことのないほど奇妙な話を始めたところだ。最も奇抜で、ほかに例のない出来事は、大きな犯罪より小さな犯罪に結びついていることが多い。ときには、そもそも犯罪と呼べるものが起きたかどうかさえ疑わしい場合もある。僕がそう言うのを、君も聞いているだろう。今まで伺ったところでは、今回の件が犯罪なのかどうか、まだ判断できない。だが、一連の出来事が、これまで聞いたなかでも指折りの奇妙さであることは確かだ。ウィルソンさん、お手数ですが、もう一度、初めからお話しいただけませんか。友人のワトソン博士が冒頭を聞いていないからというだけではありません。お話があまりに風変わりなので、できるかぎり細かいところまで、あなたの口から伺いたいのです。普通なら、出来事のあらましを少し聞けば、記憶にある何千もの似た事件を手がかりにできます。ところが今回は、私の知るかぎり、類例がないと認めざるを得ません。」
恰幅のよい依頼人は、いくらか誇らしげに胸を張り、外套の内ポケットから、汚れてしわだらけの新聞を取り出した。膝の上に新聞を広げ、頭を突き出して広告欄を目で追う間、私は男をよく観察し、友人にならって、服装や外見が示す手がかりを読み取ろうと努めた。
だが、観察から得られたものは、ごくわずかだった。客はどこから見ても、ごく平凡なイギリスの商人だった。肥満し、もったいぶっていて、動作は鈍い。灰色の細かい格子柄の、ややだぶついたズボンをはき、あまり清潔でない黒いフロックコートの前を開けていた。くすんだ黄褐色のチョッキには、真鍮色の太い時計鎖が渡り、透かしの入った四角い金属片が飾りとしてぶら下がっていた。隣の椅子には、擦り切れたシルクハットと、ビロードの襟がしわになった、色あせた茶色の外套が置いてあった。どこからどう眺めても、燃えるような赤毛と、顔に刻まれた強い悔しさと不満の表情を除けば、取り立てて目につくところはなかった。
シャーロック・ホームズの鋭い目は、私が何をしているかを見抜き、私の問いたげな視線に気づくと、笑って首を振った。「以前に肉体労働をしていたこと、嗅ぎ煙草をたしなむこと、フリーメイソンであること、中国にいたこと、それに最近、かなりの量の書き物をしたこと――そうした明白な事実以外は、僕にも何も推理できないよ。」
ジェイベズ・ウィルソン氏は、人差し指を新聞に載せたまま椅子の上で身を跳ね起こし、友人を見つめた。
「いやはや、ホームズさん、どうしてそんなことが全部わかったんです?」と尋ねた。「たとえば、肉体労働をしていたなんて、どうして? たしかにそのとおりで、私は船大工から身を起こしたんですが。」
「手ですよ。右手が左手より、ひと回り大きい。右手を使って働いたため、筋肉が発達しているのです。」
「では、嗅ぎ煙草とフリーメイソンは?」
「それをどう見抜いたかなどと説明して、あなたの知性に失礼を働くつもりはありません。ことに、結社の厳しい規則には少々反するようですが、円弧とコンパスの胸飾りをつけていらっしゃるのですから。」
「ああ、なるほど。忘れていました。しかし、書き物は?」
「右の袖口が五インチにわたって、あれほどつやつやしている。左の袖も、机に載せる肘の近くが滑らかに擦れている。それ以外に、何を意味するでしょう?」
「それでは、中国のことは?」
「右の手首のすぐ上にある魚の入れ墨は、中国でしか彫れないものです。私は入れ墨を少し研究しておりまして、専門の文献に寄稿したこともあります。魚のうろこを淡い桃色に染める技法は、中国特有のものです。加えて、時計鎖に中国の銭が下がっているのを見れば、話はいっそう簡単になります。」
ジェイベズ・ウィルソン氏は、腹の底から笑った。「これは驚いた!」と言った。「初めは、たいしたお手柄かと思いましたが、聞いてみれば、何でもないんですな。」
「ワトソン」とホームズは言った。「説明するのは間違いかもしれないと思い始めたよ。『Omne ignotum pro magnifico』――知らぬものは何でも偉大に見える、というわけだ。これほど正直に話していては、ささやかな僕の評判も、あえなく沈んでしまう。ウィルソンさん、広告は見つかりませんか?」
「ええ、今ありました」と答え、太い赤い指を欄の真ん中に置いた。「これです。何もかも、これが始まりでした。どうぞご自分で読んでみてください。」
私は新聞を受け取り、次のように読んだ。
「赤髪組合員募集。米国ペンシルヴェニア州レバノンの故エゼキア・ホプキンズ氏の遺贈により、このたび当組合に新たな欠員が生じた。採用者には、ごく名目上の勤務に対し、週四ポンドを支給する。心身ともに健全な二十一歳以上の赤毛の男性は、すべて応募資格を有する。月曜日午前十一時、フリート街、ポープズ・コート七番地の組合事務所、ダンカン・ロスまで、本人が出頭のこと。」
「これは、いったいどういうことだ?」
この奇妙な広告を二度読み返してから、私は思わず声を上げた。
ホームズはくすくす笑い、上機嫌なときの癖で、椅子の上でもぞもぞ体を動かした。「少々、型破りだろう?」と言った。「それではウィルソンさん、初めからお願いします。ご自身のこと、ご家庭のこと、それから、この広告があなたの運命にどんな影響を与えたのか、残らずお話しください。先生、まず新聞の名と日付を控えてくれたまえ。」
「『モーニング・クロニクル』、一八九〇年四月二十七日。ちょうど二か月前だ。」
「結構。では、ウィルソンさん?」
「先ほどもお話ししたとおりです、シャーロック・ホームズさん」と、ジェイベズ・ウィルソンは額をぬぐいながら言った。「私はシティの近くのコバーグ・スクエアで、小さな質屋を営んでおります。たいした商売ではなく、このところは食べていくのがやっとです。昔は店員を二人置けたんですが、今は一人だけ。その一人だって給金を払うのが難しいところを、商売を覚えたいからと、半分の給金で働いてくれるんです。」
「その親切な青年は、何という名です?」とシャーロック・ホームズが尋ねた。
「ヴィンセント・スポールディングです。もっとも、そう若くもありません。年の見当がつきにくい男でして。これ以上、気の利いた店員は望めませんよ、ホームズさん。よそへ行けばもっと出世して、私が払える額の倍は稼げると、よくわかっています。ですが、本人が満足しているのなら、わざわざ余計な知恵をつけることもないでしょう?」
「まったく、そのとおりです。相場より安く働く従業員をお持ちとは、実に幸運ですね。今どきの雇い主には、めったにない経験です。その店員も、広告に劣らず珍しい存在かもしれません。」
「いや、あれにも欠点はあります」とウィルソン氏は言った。「あれほど写真に夢中な男はいません。少しは頭を磨けばいいのに、写真機でパチパチやっては、ウサギが巣穴へ飛び込むように地下室へ潜って、現像するんです。そこがいちばんの欠点ですが、総じてよく働きます。悪いところはありません。」
「今もあなたのところにいるのですね?」
「ええ。あの男と、簡単な料理と掃除をする十四の娘が一人。それで家の者は全部です。私は妻を亡くし、子供もありませんので。三人でごく静かに暮らしております。余裕はなくても、住む家があり、借金の支払いもしております。
「その暮らしを最初にかき乱したのが、あの広告でした。今日からちょうど八週間前、スポールディングがこの新聞を持って帳場へ下りてきて、こう言ったんです。
「『ああ、ウィルソンさん、私も赤毛に生まれたかったですよ。』
「『どうしてだね?』と私が聞きました。
「『赤髪組合に、また空きが出たんです』と、あれは言いました。『採用されたら、ちょっとした財産が転がり込むようなものですよ。聞けば、人より空席のほうが多くて、基金の管理人たちは金の使い道に困り果てているそうです。髪の色さえ変わってくれれば、こんなうまい口に、すぐありつけるのになあ。』
「『それはいったい、どういうものなんだ?』と尋ねました。ホームズさん、私はひどい出不精でしてね。こちらから出向かなくても、お客のほうから来てくれる商売ですから、何週間も敷居をまたがないことが、よくありました。そんなわけで、外の出来事をあまり知らず、ちょっとした世間話でも、喜んで聞いていたんです。
「『赤髪組合をご存じないんですか?』と、あれは目を丸くしました。
「『聞いたこともない。』
「『それは意外ですね。旦那さんご自身、応募できるんですよ。』
「『それで、いくらになるんだね?』と私は聞きました。
「『まあ、年に二百ポンドほどですが、仕事はわずかで、ほかの商売にも、それほど差し支えないんです。』
「それを聞いて耳がぴんと立ったのは、おわかりでしょう。ここ何年も商売がぱっとせず、二百ポンドも余分に入れば、ずいぶん助かりますから。
「『詳しく聞かせてくれ』と言いました。
「すると、広告を見せてこう言うんです。『ご覧のとおり、組合で人を募集しています。ここに、詳しいことを聞きに行く住所もあります。私の知るところでは、エゼキア・ホプキンズというアメリカの大富豪が作った組合で、ずいぶん変わった人物だったそうです。自分が赤毛だったので、赤毛の男には誰にでも深い同情を寄せていました。亡くなってみると、莫大な財産を管理人に託し、その利子を、同じ髪の色の男に楽な勤め口を与えるために使えと、言い残してあったんです。聞くかぎりでは、給金は上々、仕事はほとんどありません。』
「『だが、それなら、何百万もの赤毛の男が応募するだろう』と私は言いました。
「『お考えほど多くはありませんよ』と答えました。『実はロンドンに住む、成人の男だけなんです。このアメリカ人は若いころロンドンから出ていったので、昔の町へ恩返しをしたかったそうです。それに、薄い赤毛や濃い赤毛では応募しても無駄だと聞きます。本当に鮮やかで、燃え上がる炎のような赤でなくては駄目なんです。ウィルソンさんなら、応募さえすれば、すんなり通るでしょう。もっとも、年に数百ポンドくらいのために、わざわざご面倒をかけるほどでもないかもしれませんが。』
「さて、お二人ともご覧のとおり、私の髪は、たいそう濃く鮮やかな色です。ですから、競争になっても、これまで会った誰にも劣らぬ見込みがあると思いました。ヴィンセント・スポールディングは詳しい様子だったので、役に立つだろうと考え、その日は店の戸を閉めて、すぐ一緒に来るよう言いました。あれも休みになるのは大歓迎で、二人で店を閉め、広告にある住所へ向かったのです。
「ホームズさん、あんな光景は二度と見たくありません。東西南北、少しでも赤みのある髪の男が、広告に応じてシティへ押し寄せていたんです。フリート街は赤毛の人間で詰まり、ポープズ・コートは、オレンジを積んだ物売りの荷車のようでした。たった一つの広告で集まったあれだけの人数が、国中にいるとは思ってもみませんでした。色もあらゆる種類がありました。麦わら色、レモン色、オレンジ色、煉瓦色、アイリッシュ・セッターの毛色、肝臓色、粘土色。ですがスポールディングの言うとおり、本当に鮮やかな炎色の者は多くありませんでした。あれほど大勢が待っているのを見て、私はすっかり気落ちし、諦めようとしたんですが、スポールディングは承知しません。いったいどうやったのかわかりませんが、押したり引いたり、頭から突っ込んだりして、私を人混みから通し、事務所へ上がる階段まで連れていきました。階段には二筋の流れがあり、希望に胸を膨らませて上がる者と、しょげ返って下りる者が行き交っていました。私たちも、どうにか割り込んで、やがて事務所へ入ったのです。」
依頼人が言葉を切り、嗅ぎ煙草をたっぷりつまんで記憶を呼び起こすと、ホームズは言った。「実に面白いご経験ですね。どうぞ、その興味深いお話をお続けください。」
「事務所には、木の椅子が二脚と、もみ材のテーブルしかありませんでした。その向こうに小柄な男が座っていて、髪は私より赤いくらいでした。応募者が進み出るたびに二言三言話しかけ、必ず何か欠点を見つけては、不適格だとするんです。やはり、席を手に入れるのは、そう簡単ではなさそうでした。ところが私たちの番になると、その小男は、ほかの誰よりも私に好意的で、内々に話せるよう、私たちを入れてから扉を閉めました。
「『こちらがジェイベズ・ウィルソンさんです』と店員が言いました。『組合の欠員を埋めたいとお考えです。』
「『実にうってつけの方だ』と相手は答えました。『必要な条件をすべて備えておられる。これほど見事なものを見たのは、いつ以来か思い出せません』。一歩下がり、小首をかしげて私の髪をじっと眺めるので、こちらはすっかり気恥ずかしくなりました。すると突然、勢いよく近づき、私の手を強く握って、採用のお祝いを熱心に言うんです。
「『ためらうほうが不公平でしょう』と言いました。『ただし、当然の用心を一つさせていただくことは、お許し願えるでしょうね』。そう言うなり、両手で私の髪をつかみ、痛さで私が叫ぶまで引っ張りました。手を放して、『目に涙が浮かんでいますね』と言いました。『すべて間違いないとわかりました。しかし、用心しなくてはならんのです。二度はかつら、一度は塗料でだまされました。靴屋の蝋を使った話など聞いたら、人間というものが嫌になりますよ』。それから窓へ行き、身を乗り出して、採用者が決まったと大声で叫びました。下から失望のうめき声が上がり、人々は三々五々、立ち去っていきました。やがて赤毛は、私とその管理人のほか、一つも見えなくなりました。
「『私の名はダンカン・ロスです』と男は言いました。『私自身も、あの高潔な恩人の遺された基金から手当を受けている一人です。ウィルソンさん、ご結婚は? ご家族はおありですか?』
「いないと答えました。
「男の顔は、たちまち曇りました。
「『おやおや!』と深刻そうに言うんです。『それは、実に重大な問題です! 残念なお答えです。この基金は、もちろん赤毛の人々を養うだけでなく、その子孫を増やし、広めるためでもあります。独り身でいらっしゃるのは、まことに不都合です。』
「ホームズさん、これを聞いて、私も顔が長くなりました。やはり採用されないのかと思ったのです。ですが、男は数分考えたあと、大丈夫だと言いました。
「『ほかの方なら、これでお断りするところです』と言うんです。『しかし、あなたほど見事な髪の持ち主には、多少の融通を利かせねばなりません。いつから新しい仕事に就けますか?』
「『それが少々困りまして、私にはすでに商売があるのです』と答えました。
「『そんなことは心配いりませんよ、ウィルソンさん!』とヴィンセント・スポールディングが言いました。『私がちゃんとお店を見ていられます。』
「『勤務時間は?』と尋ねました。
「『十時から二時です。』
「さてホームズさん、質屋の商売は、たいてい夕方が忙しいものです。とりわけ給料日の直前の、木曜と金曜の晩にね。ですから、午前中に少し稼げるなら、実に好都合でした。それに、店員がよくできる男なのは承知していましたから、何があっても始末してくれると思いました。
「『それなら、たいへん都合がよいです』と言いました。『給金は?』
「『週四ポンドです。』
「『仕事は?』
「『ごく名目だけのものです。』
「『名目だけとは、どういうことです?』
「『勤務中はずっと事務所、少なくともこの建物の中にいていただきます。出ていけば、その時点で永久に資格を失います。遺言は、その点をはっきり定めています。その時間内に事務所から離れれば、条件を守ったことになりません。』
「『一日たった四時間ですから、出ようなどとは思いません』と答えました。
「『どんな口実も認められません』とダンカン・ロス氏は言いました。『病気でも、商売でも、何であれ駄目です。ここにいるか、職を失うか、そのどちらかです。』
「『それで、仕事は?』
「『「大英百科事典」を書き写すことです。
第一巻は、そこの戸棚にあります。インクとペンと吸取紙は、ご自分で用意してください。机と椅子はこちらで出します。明日から来られますか?』
「『もちろんです』と答えました。
「『では、ごきげんよう、ジェイベズ・ウィルソンさん。幸運にもこの重要な職を得られたことを、重ねてお祝い申し上げます』。男はお辞儀をして私を送り出しました。私は店員と家へ帰ったのですが、幸運がうれしくて、何を言い、何をすればよいのかもわからないほどでした。
「ところが、その日じゅう考えていると、夕方にはまた気が沈んできました。これは何か大がかりないたずらか、詐欺に違いないと思い込んでしまったのです。目的は何なのか、見当もつきませんでしたがね。あんな遺言をする人がいることも、『大英百科事典』を写すだけの簡単な仕事に、あれほどの金を払うことも、とても信じられませんでした。ヴィンセント・スポールディングは、あれこれ励ましてくれましたが、寝るころには、考えれば考えるほど、何もかも嘘だとしか思えなくなりました。それでも朝になると、とにかく様子を見ようと決め、インクを一ペニー瓶ひとつ買い、羽根ペンと大判の用紙七枚を持って、ポープズ・コートへ出かけました。
「ところが、うれしい驚きに、何もかも申し分なく整っていました。机は用意され、ダンカン・ロス氏もいて、きちんと仕事を始めるのを見届けてくれました。Aの項から取りかからせると出ていきましたが、ときどき戻ってきて、順調かどうか確かめました。二時になると、その日の仕事量を褒め、挨拶をして、私が出たあとに事務所の鍵を掛けました。
「毎日それが続きました、ホームズさん。そして土曜日、管理人がやってきて、一週間の給金として、ソヴリン金貨を四枚、机に置いたのです。翌週も、その次の週も同じでした。毎朝十時に行き、午後二時に帰りました。ダンカン・ロス氏は、だんだん午前中に一度しか来なくなり、そのうち、まったく来なくなりました。とはいえ、いつ現れるかわかりませんから、私は一瞬たりとも部屋を離れる気にはなれませんでした。あれほどよい勤め口で、私にはぴったりだったのですから、失う危険を冒すわけにはいきません。
「そうして八週間が過ぎました。『修道院長』『弓術』『甲冑』『建築』『アッティカ』などを書き写し、せっせと励めば、遠からずBの項へ進めるだろうと期待していました。紙代は少しかかりましたが、書いたものは棚一段をほぼ埋めるほどになりました。ところが突然、何もかも終わってしまったのです。」
「終わった?」
「ええ。それが、ほかでもない今朝のことです。いつものように十時に仕事へ行くと、扉は閉まり、鍵が掛かっていました。真ん中の羽目板に、小さな四角い厚紙が鋲で打ちつけてあったのです。これです。ご覧になってください。」
彼は便箋一枚ほどの大きさの、白い厚紙を差し上げた。そこには、こう書かれていた。
「赤髪組合は
ここに
解散した。
一八九〇年十月九日。」
シャーロック・ホームズと私は、そっけない告知と、その後ろにある悲しげな顔を見比べていた。やがて、この一件のおかしさが、ほかのどんな思いにも勝ってしまい、二人そろって大笑いした。
「どこがそんなにおかしいのか、私にはわかりません!」依頼人は燃えるような髪の生え際まで顔を赤くして叫んだ。「笑う以外に何もできないなら、よそへ行きます。」
「いやいや」とホームズは叫び、腰を浮かせた男を椅子へ押し戻した。「この事件を逃すなど、とんでもありません。実に新鮮で、珍しい事件です。ただ、失礼ながら、少しばかりおかしいところがあるのも確かです。それで、あの札を扉に見つけたとき、どうなさいました?」
「呆然としました。どうしていいかわかりませんでした。それから周りの事務所を訪ねましたが、誰も何も知らない様子でした。最後に、一階に住んでいる会計士の家主を訪ね、赤髪組合はどうなったのかと尋ねました。すると、そんな団体は聞いたことがないと言うんです。そこで、ダンカン・ロス氏とは誰なのかと聞くと、その名も初耳だと言いました。

「扉は閉まり、鍵が掛かっていた。」
「『四号室の紳士ですよ』と私は言いました。
「『ああ、赤毛の男かね?』
「『そうです。』
「『あれはウィリアム・モリスという男だよ』と言うんです。『事務弁護士で、新しい事務所が整うまで、一時的に私の部屋を使っていたのさ。昨日、出ていったよ。』
「『どこへ行けば会えますか?』
「『そりゃ、新しい事務所だろう。住所は聞いたな。そうだ、セント・ポール大聖堂の近く、キング・エドワード街十七番地だ。』
「そこで出かけてみました、ホームズさん。ところが、その住所にあったのは膝の補装具を作る工場で、ウィリアム・モリス氏もダンカン・ロス氏も、誰一人、聞いたことがないというのです。」
「それから、どうなさいました?」とホームズが尋ねた。
「サックス=コバーグ・スクエアの家へ帰り、店員に相談しました。ですが、あれも何の役にも立ちませんでした。待っていれば、そのうち郵便で知らせが来るだろうと、それしか言えないんです。でも、ホームズさん、それでは納得できません。あんな勤め口を、何もしないで失いたくなかったのです。それで、困っている貧乏人にも親切に相談に乗ってくださると聞いていたので、すぐこちらへ伺いました。」
「それは賢明でした」とホームズが言った。「実に注目すべき事件です。喜んで調べましょう。お話からすると、一見したより、もっと重大な問題が潜んでいる可能性があります。」
「十分重大ですよ!」とジェイベズ・ウィルソン氏は言った。「何しろ、週四ポンドを失ったんですから。」
「あなたご自身について申せば」とホームズは言った。「この妙な組合に、恨みをお持ちになる理由はないように思います。むしろ、三十ポンドほど懐が豊かになったわけです。Aで始まるあらゆる事柄について、詳しい知識まで得られたのですしね。組合によって、何かを失ったわけではありません。」
「それはそうです。でも、あの連中が何者で、何のつもりで私にこんないたずらをしたのか、知りたいんです――本当に、いたずらならですが。あちらにとっては、ずいぶん金のかかる冗談だったはずです。三十二ポンドも使ったんですから。」
「その点を明らかにするよう努めましょう。まず、一つ二つ質問をさせてください、ウィルソンさん。最初に広告を教えてくれた店員は、そのとき雇ってどのくらいでしたか?」
「一か月ほどでした。」
「どうして来たのです?」
「求人広告を見てです。」
「応募者は、その男だけでしたか?」
「いいえ、十二人ほど来ました。」
「なぜ、その男を選んだのです?」
「何でも器用にこなせて、安く雇えたからです。」
「実際、半分の給金で。」
「ええ。」
「そのヴィンセント・スポールディングは、どんな風貌です?」
「小柄で、がっしりしていて、動作はとても素早い。もう三十にはなっているのに、ひげはありません。額に、酸を浴びた白い跡があります。」
ホームズは、かなり興奮した様子で身を起こした。「やはりそうか」と言った。「耳に、耳飾りを通す穴があるのに、お気づきですか?」
「ええ。子供のころ、ジプシーに開けてもらったと言っていました。」
「ふむ」とホームズは言い、深く考え込みながら、また背にもたれた。「今もお宅にいるのですね?」
「もちろんです。つい先ほど、家に残してきました。」
「お留守の間、商売はきちんと処理されていましたか?」
「文句はありません。午前中は、もともと仕事が少ないのです。」
「それで結構です、ウィルソンさん。一両日中に、この件についての見解をお伝えできると思います。今日は土曜日ですから、月曜日までには結論を出したいものです。」
「さて、ワトソン」と、客が帰るとホームズは言った。「この話をどう思う?」
「何もわからない」と私は率直に答えた。「実に不可解だ。」
「たいていの場合」とホームズは言った。「出来事が奇妙であればあるほど、実は謎は浅い。ごく平凡で特徴のない犯罪こそ、本当に難しい。ありふれた顔ほど見分けにくいのと同じだ。だが、この件は急がなくては。」
「では、何をするつもりだ?」
私は尋ねた。
「煙草を吸う」と彼は答えた。「これはたっぷりパイプ三服分の問題だ。五十分間は話しかけないでくれたまえ。」
彼は細い膝を鷹のような鼻の近くまで抱え上げ、椅子の中に丸くなって目を閉じた。黒い陶製のパイプが、奇妙な鳥のくちばしのように突き出していた。眠ってしまったのだろうと思い、私までうとうとし始めたころ、彼は決心のついた人間の身振りで、突然椅子から跳び上がり、パイプを暖炉棚に置いた。
「午後、セント・ジェームズ・ホールでサラサーテが弾く」と彼は言った。「どうだろう、ワトソン。患者さんたちは、君を二、三時間、貸してくれるかな?」
「今日は何もない。僕の診療は、もともとそれほど忙しくないんだ。」
「では、帽子をかぶって来たまえ。先にシティを通るつもりだから、途中で昼食を取ろう。プログラムにはドイツ音楽がかなりあるようだ。イタリアやフランスのものより、僕の好みに合う。内省的だからね。僕も内省したいんだ。さあ、行こう!」
地下鉄でオールダーズゲートまで行き、少し歩くと、今朝聞いた奇妙な話の舞台、サックス=コバーグ・スクエアに着いた。狭苦しく、小さく、落ちぶれた品のよさを残す一角だった。薄汚れた二階建ての煉瓦家屋が四方に並び、小さな柵囲いの庭を見下ろしていた。その中では、雑草だらけの芝生と、色の悪い月桂樹の茂みがいくつか、煤煙に満ちた、育ちにくい空気と必死に闘っていた。角の家にある三つの金色の球と、「ジェイベズ・ウィルソン」と白字で書かれた茶色の看板が、赤毛の依頼人の商売の場所を示していた。[訳注:三つの球は、イギリスの質屋の看板。]シャーロック・ホームズはその前で立ち止まり、小首をかしげ、細めたまぶたの間から目を輝かせて、建物全体を見渡した。それから通りをゆっくり進み、また角まで戻りながら、家々を鋭く見続けた。最後に質屋へ戻り、歩道を杖で二、三度、強く突いてから、玄関へ行ってノックした。すぐに、利発そうな、ひげのない若者が開け、どうぞと招いた。
「ありがとう」とホームズは言った。「ただ、ここからストランドへ行く道を伺いたいだけです。」
「三つ目を右、四つ目を左です」と店員は即答し、扉を閉めた。
「頭の切れる男だ」と、歩き去りながらホームズは言った。「僕の見立てでは、ロンドンで四番目だね。度胸にかけては、三番目を名乗ってもよいかもしれない。以前から少し知っている。」
「どうやら」と私は言った。「ウィルソン氏の店員が、この赤髪組合の謎に大きくかかわっているらしいね。道を尋ねたのも、あの男を見るために違いない。」
「男じゃない。」
「では、何を?」
「ズボンの膝さ。」
「何が見えた?」
「予想したものが見えた。」
「なぜ歩道を突いたんだ?」
「先生、今は話すときじゃない。観察するときだ。僕たちは敵国に潜り込んだ密偵なのだよ。サックス=コバーグ・スクエアについては、少しわかった。今度は、その裏を調べよう。」
ひっそりしたサックス=コバーグ・スクエアから角を曲がると、出た通りは、絵の表と裏ほども違っていた。シティの交通を北と西へ運ぶ、大動脈の一つだった。車道は、行き来する商業の巨大な流れで埋まり、歩道は、先を急ぐ人の群れで黒々としていた。立派な商店と堂々たる事業所の並びを眺めていると、その裏が、たった今あとにした、色あせて活気のない広場に接しているとは、とても思えなかった。
「さて」とホームズは角に立ち、並びを見渡して言った。「ここの建物の順番を覚えておきたい。ロンドンを正確に知るのは、僕の趣味でね。煙草屋のモーティマー、小さな新聞屋、都市・郊外銀行のコバーグ支店、菜食料理店、マクファーレン馬車製造所。そこまでで、次の区画になる。さあ、先生、仕事は済んだ。今度は遊びの時間だ。サンドイッチとコーヒーを済ませて、ヴァイオリンの国へ出かけよう。そこには甘美さと繊細さと調和ばかりがあって、赤毛の依頼人が難問を持ち込んで、僕たちを悩ませることもない。」
友人は熱烈な音楽愛好家であり、自らもたいそう優れた演奏家であるばかりか、並々ならぬ力量の作曲家でもあった。その午後、彼はずっと平土間の席に座り、この上ない幸福に包まれ、長く細い指を音楽に合わせて静かに動かしていた。穏やかな微笑を浮かべた顔と、けだるく夢見るような目は、猟犬のホームズ――容赦なく、頭脳鋭く、すぐさま行動に移る犯罪捜査の専門家――とは、想像もつかぬほどかけ離れていた。その独特の性格の中では、二つの性質が交互に前面へ出た。極端な正確さや抜け目なさは、ときに彼を支配する詩的で瞑想的な気分への反動なのではないかと、私はしばしば思った。彼の気質は、極度の無気力から、すべてをのみ込むような活力へと振れた。そして私はよく知っていた。何日も肘掛け椅子に寝そべり、即興演奏や古いゴシック活字の本に浸っているときほど、彼が恐ろしいことはない。そんなとき、追跡への渇望が不意に襲い、その鮮やかな推理力は直感の域にまで高まった。彼の方法を知らぬ者は、並の人間にはない知を持つ人物を見るように、怪訝な目を向けることになる。その午後、セント・ジェームズ・ホールで音楽にすっかり聞き入る姿を見た私は、彼に追われる者たちには、つらい時が迫っているのかもしれないと感じた。
「先生、君はもう帰りたいだろうね」と、外へ出ると彼が言った。
「そうしたほうがよさそうだ。」
「僕には数時間かかる用事がある。コバーグ・スクエアの件は重大だ。」
「なぜ重大なんだ?」
「かなり大きな犯罪が計画されている。阻止するのに間に合うと考えるだけの、十分な根拠がある。ただ、今日が土曜日なのが、いささか事を面倒にしている。今夜、君の助けが必要だ。」
「何時に?」
「十時で十分間に合う。」
「十時にベーカー街へ行こう。」
「よろしい。それから、先生、少々危険があるかもしれない。軍用の拳銃をポケットに入れてきてくれたまえ。」
彼は手を振り、くるりと踵を返すと、たちまち人混みに姿を消した。

「午後じゅう、彼は平土間の席に座っていた。」
私は、自分が人並み以上に鈍いとは思っていない。それでもシャーロック・ホームズと接していると、いつも自分の愚鈍さを思い知らされ、気が重くなった。今回も、彼の聞いたことを聞き、見たことを見た。それなのに、彼の言葉からすると、すでに起こったことだけでなく、これから起こることまで、はっきり見通している。一方、私には依然として、何もかもが混沌とした奇怪な出来事にしか思えなかった。ケンジントンの自宅へ馬車を走らせながら、私は一件を振り返った。赤毛の男が『百科事典』を書き写したという奇妙な話から、サックス=コバーグ・スクエアへの訪問、そして別れ際の不吉な言葉まで。夜の遠征とは何なのか。なぜ武器が要るのか。どこへ行き、何をするのか。ホームズの言葉から、あのひげのない質屋の店員が、侮れない男――深い策を弄するかもしれない男――であることはうかがえた。何とか謎を解こうとしたが、ついには途方に暮れて諦め、夜が答えをもたらすまで、この問題を脇へ置くことにした。
九時十五分に家を出て、公園を横切り、オックスフォード・ストリートを通ってベーカー街へ向かった。玄関前には二台の二輪辻馬車が止まり、廊下へ入ると、上から話し声が聞こえた。部屋では、ホームズが二人の男と熱心に話していた。一人は警察の捜査官、ピーター・ジョーンズとすぐにわかった。もう一人は、背が高く痩せた、陰気な顔の男で、ぴかぴかの帽子と、息の詰まりそうなほど堅苦しく立派なフロックコートを身につけていた。
「ああ、これで全員そろった」とホームズは言い、厚手の短い上着のボタンを留め、掛け台から重い狩猟鞭を取った。「ワトソン、スコットランドヤードのジョーンズさんは知っているね。こちらはメリーウェザーさんだ。今夜の冒険に同行してくださる。」
「また二人一組で狩りというわけですな、博士」とジョーンズはもったいぶった口調で言った。「こちらの友人は、獲物を見つけて追い立てるのが実にうまい。あとは、追い詰めるのを手伝う老犬が一匹いればよいのです。」
「骨折り損の追いかけっこで終わらぬことを祈りますよ」とメリーウェザー氏は陰気に言った。
「ホームズさんは、十分に信頼してよろしいですよ」と、捜査官は尊大に言った。「この人には独自の方法がありましてね。失礼ながら、少々理屈に寄りすぎ、奇抜でもありますが、探偵の素質はあります。一度や二度、たとえばショルトー殺害とアグラの財宝の一件などでは、警察よりも正解に近かったと言っても、言い過ぎではありません。」
「ジョーンズさんがそうおっしゃるなら、安心です」と、その紳士は敬意を払って答えた。「それでも、いつものカード勝負ができないのは残念です。二十七年間、土曜の晩に一勝負もしないなど、初めてのことです。」
「今夜は」とシャーロック・ホームズは言った。「これまでになく大きなものを賭け、もっと胸の躍る勝負をなさることになるでしょう。メリーウェザーさん、あなたの賭け金はおよそ三万ポンド。ジョーンズさん、あなたの賭け金は、捕まえたいと思っている、あの男です。」
「ジョン・クレイ。人殺し、泥棒、偽金使い、偽造犯です。メリーウェザーさん、まだ若い男ですが、その道の第一人者です。ロンドンのどんな犯罪者よりも、あいつに私の腕輪をはめてやりたい。若いジョン・クレイは、実に大した男ですよ。祖父は王族の公爵で、本人はイートンとオックスフォードで学んでいる。頭の働きも指先に劣らず巧みで、いたるところに足跡はあるのに、本人の居場所はつかめない。ある週にはスコットランドで押し込みを働き、次の週にはコーンウォールで孤児院建設の募金をしている。何年も追っていますが、まだ顔を見たことがありません。」
「今夜、ご紹介できれば幸いです。私もジョン・クレイ氏とは、一、二度ちょっとした手合わせをしました。その道の第一人者という点では、同感です。しかし、もう十時を過ぎました。出発する時刻です。お二人は先の馬車へ。ワトソンと私は、二台目であとに続きます。」
長い道中、シャーロック・ホームズはあまり口をきかず、馬車に身をもたせ、午後に聞いた曲を口ずさんでいた。ガス灯に照らされた果てしない迷路のような通りを、がたがたと走り抜け、やがてファリンドン街へ出た。
「もう近い」と友人が言った。「メリーウェザーという人は銀行の重役で、この件に直接利害がある。ジョーンズも連れてきたほうがよいと考えた。仕事にかけてはまるで能なしだが、悪い男じゃない。はっきりした長所が一つある。ブルドッグのように勇敢で、いったん誰かに食らいつくと、エビの鋏のように放さない。着いた。二人が待っている。」
着いたのは、朝にも歩いた、あのにぎやかな大通りだった。馬車を帰し、メリーウェザー氏の案内で細い通路を進み、開けてもらった脇の扉をくぐった。中には短い廊下があり、突き当たりに、ひどく頑丈な鉄の門があった。それも開けると、石の螺旋階段が下へ続き、その先にはまた堅固な門があった。メリーウェザー氏は立ち止まってランタンに火を入れ、土の匂いのする暗い通路へ私たちを導いた。三つ目の扉を開けた先は、巨大な地下金庫室とも、地下倉庫ともつかぬ場所で、周囲には木枠箱や大きな箱が山積みになっていた。
「上からは、そう簡単に侵入できませんね」とホームズは言い、ランタンを掲げて見回した。
「下からも同じです」とメリーウェザー氏は答え、床に敷かれた石を杖で突いた。「おや、これは。ずいぶん空洞めいた音がしますな!」驚いて顔を上げた。
「もう少し静かにしていただかなくては困ります」と、ホームズは厳しく言った。「今ので、今夜の行動全体が危うくなるところでした。どうか、その箱の一つにお掛けになり、手を出さずにいていただけませんか。」
重々しいメリーウェザー氏は、ひどく傷ついた顔で木枠箱に腰を掛けた。その間にホームズは床へ膝をつき、ランタンと拡大鏡を使って、石と石の隙間を丹念に調べ始めた。数秒で納得したらしく、すぐに立ち上がり、レンズをポケットへ戻した。
「少なくとも一時間はあります」と彼は言った。「善良な質屋の主人が、無事に床へ入るまでは、向こうも動けないでしょう。その後は一分も無駄にはしないはずです。仕事を早く済ませるほど、逃げる時間が長く取れますから。先生、もう察しがついているだろうが、僕たちがいるのは、ロンドン有数の銀行の、シティにある支店の地下室だ。メリーウェザーさんは取締役会長で、今この地下室が、ロンドンでも大胆な犯罪者たちに強い関心を持たれる理由を、説明してくださるだろう。」
「フランスの金貨です」と重役はささやいた。「これが狙われるかもしれないと、何度も警告を受けています。」
「フランスの金貨ですか?」
「ええ。数か月前、資金を充実させる必要が生じ、そのためにフランス銀行から三万枚のナポレオン金貨を借りました。[訳注:ナポレオン金貨は、フランスの二十フラン金貨。]結局、開梱する必要もなく、今も地下室に置かれたままだということが、世間に知れてしまいました。私が座っている箱には、鉛箔を重ねて、その間に二千枚の金貨が詰めてあります。現在の金の準備高は、一支店に通常置く量をはるかに上回っており、重役たちも不安を抱いていたのです。」
「そのご懸念は、まったく正しかったわけです」とホームズは言った。「さて、こちらも手はずを整えましょう。一時間以内に、事は山場を迎えると思います。それまで、メリーウェザーさん、その遮光式ランタンの覆いを閉じなくてはなりません。」
「暗闇で座っているのですか?」
「残念ながら、そうです。実はトランプを一組、ポケットに入れてきました。ちょうど四人組なので、結局はいつもの一勝負ができるかと考えたのですがね。しかし、敵の準備はそこまで進んでいます。明かりをつけておく危険は冒せません。まず、持ち場を決めましょう。大胆な連中です。不意を突くとはいえ、用心しないとこちらが傷を負います。私はこの箱の後ろに立ちますから、皆さんはあちらの陰へ。私が光を当てたら、素早く取り囲んでください。ワトソン、向こうが撃ったら、ためらわず撃ち倒してくれ。」
私は身をかがめた木箱の上に、撃鉄を起こした拳銃を置いた。ホームズがランタンの前面の覆いを滑らせると、私たちは真っ暗闇に包まれた。これほど完全な闇は、かつて経験したことがなかった。熱くなった金属の匂いだけが、明かりはまだそこにあり、いつでも瞬時に照らし出せるのだと教えてくれた。期待に神経を張り詰めていた私には、突然の暗闇と、地下室の冷たく湿った空気に、気持ちを押し沈められるようなものが感じられた。
「逃げ道は一つしかない」とホームズがささやいた。「家を抜けて、サックス=コバーグ・スクエアへ戻る道です。ジョーンズさん、お願いした手配はしていただけましたね?」
「玄関に警部一人と警官二人を待たせてあります。」
「では、穴はすべて塞ぎました。あとは黙って待ちましょう。」
なんと長く感じられたことか! あとで確かめ合うと、一時間十五分にすぎなかった。だが私には、夜はほとんど明け、地上では朝の光が差し始めているのではないかと思えた。姿勢を変えるのが怖くて、手足は疲れ、こわばっていた。それでも神経は極限まで張り詰め、聴覚はひどく鋭くなっていた。仲間たちの静かな息づかいばかりか、太ったジョーンズの深く重い吸気と、銀行重役の細いため息のような呼吸まで、聞き分けられた。私の位置からは、箱の上越しに床のほうを見渡せた。ふいに、小さな光が目に入った。
初めは、石の床に不気味な火花が一つ灯っただけだった。それが長く伸びて黄色い線になり、次には、何の前触れも音もなく裂け目が開いたように見え、そこから手が現れた。白い、ほとんど女のような手が、小さな光の中を探っていた。一分以上も、くねくねと指を動かすその手が、床から突き出していた。やがて現れたときと同じほど突然、引っ込んだ。石の隙間を示す不気味な光の点だけを残し、また闇に戻った。
だが、それも一瞬だった。裂け、引きはがされる音とともに、幅広い白い石の一枚が横へ起き上がり、四角い穴がぽっかり開いた。そこからランタンの光があふれた。穴の縁に、少年のように整った顔がのぞき、あたりを鋭く見回した。それから両手を穴の両側に掛け、肩まで、腰までと体を引き上げ、片膝を縁に載せた。次の瞬間には穴の脇に立ち、自分と同じく小柄でしなやかな仲間を引き上げていた。その男は青白い顔をし、ひどく赤い髪を逆立てていた。
「誰もいない」とささやいた。「たがねと袋は持ったか。しまった! 飛び込め、アーチー、飛び込め! 俺は縛り首だ!」
シャーロック・ホームズが飛び出し、侵入者の襟首をつかんだ。もう一人は穴へ飛び込み、ジョーンズが上着の裾をつかむと、布の裂ける音がした。拳銃の銃身が光ったが、ホームズの狩猟鞭が男の手首へ振り下ろされ、拳銃は石の床に硬い音を立てて落ちた。
「無駄だよ、ジョン・クレイ」とホームズは穏やかに言った。「君に見込みはない。」
「そのようだ」と相手は、きわめて冷静に答えた。「だが、相棒は無事だろう。上着の裾は、そちらに残ったようだがね。」
「玄関で三人が待っている」とホームズは言った。
「ほう、そうか! 実にぬかりなく手を打ったものだ。お見事と言わなくては。」
「こちらこそ」とホームズは答えた。「赤毛の趣向は、実に斬新で効果的だった。」
「じきに相棒にも会えるさ」とジョーンズが言った。「穴を下りるのは、わしより速いがね。さあ、手を出せ。腕輪をはめてやる。」
「その汚い手で触れないでもらおう」と、捕虜は手錠を鳴らされながら言った。「知らぬかもしれんが、私には王家の血が流れている。それに、私に話しかけるときは、必ず敬称をつけ、『どうぞ』と言いたまえ。」
「承知しましたよ」とジョーンズは目を丸くし、鼻で笑った。「では、どうぞ上へお進みくださいますか、閣下。馬車をつかまえて、殿下を警察署までお運びいたしましょう。」
「それでよい」とジョン・クレイは悠然と言った。私たち三人に大きく一礼し、刑事に連れられて、静かに歩き去った。
「いやはや、ホームズさん」と、あとを追って地下室を出ながら、メリーウェザー氏は言った。「銀行として、どう感謝し、どうお礼をすればよいのかわかりません。私が経験したなかでも、最も周到な銀行強盗の計画の一つを、あなたは完全に見抜き、見事に阻止してくださったのです。」
「私にも、ジョン・クレイ氏と清算したい、ちょっとした貸しが一つ二つありました」とホームズは言った。「この件で少々の出費がありましたから、それは銀行にご負担いただきたいと思います。しかしそれ以外は、多くの点で類のない経験をし、赤髪組合という実に珍しい話を聞けたことで、十分に報われています。」
「いいかい、ワトソン」と彼は説明した。夜が明ける前、私たちはベーカー街で、ウイスキーのソーダ割りを飲みながら座っていた。「組合の広告や『百科事典』の筆写という、あの奇抜な仕掛けの目的は、最初から明白だった。あまり頭の回らない質屋の主人を、毎日何時間か家から遠ざける。それ以外に考えられない。変わったやり方ではあったが、もっとよい方法を考えろと言われても、なかなか難しいだろう。クレイの巧みな頭にその手を思いつかせたのは、間違いなく共犯者の髪の色だ。週四ポンドは、必ず食いつく餌だった。何千ポンドも狙っている連中にとって、その程度は何でもない。広告を出し、一方の悪党が臨時の事務所を構え、もう一方が男に応募をけしかける。そうして二人がかりで、毎日午前中、確実に男を家から出す。店員が半分の給金で来たと聞いた瞬間から、その勤め口を手に入れたい強い動機があることは、僕には明らかだった。」
「だが、その動機が何か、どうしてわかったんだ?」
「家に女性がいたら、ありふれた色恋沙汰を疑っただろう。だが、それは問題外だった。主人の商売は小さく、あれほど手の込んだ準備と出費に見合うものは、家の中に何もない。となれば、狙いは家の外の何かだ。それは何か? 僕は店員の写真好きと、地下室へ姿を消す癖を思い出した。地下室! そこが、もつれた糸の端だった。それから謎の店員について尋ねると、相手がロンドンでも指折りの冷静で大胆な犯罪者だとわかった。男は地下室で何かをしている。何か、何か月にもわたり、毎日何時間もかかることを。それは何か、と改めて考えた。ほかの建物へトンネルを掘っている以外に、思いつかなかった。
「現場へ行ったときには、そこまで考えていた。僕が杖で歩道を突いたので、君は驚いたね。地下室が前へ延びているか、後ろへ延びているかを確かめていたのだ。前ではなかった。それから呼び鈴を鳴らすと、思ったとおり店員が出てきた。僕たちは何度か小競り合いをしていたが、互いに顔を見たことはなかった。僕は顔など、ほとんど見なかった。見たかったのは膝だ。君も、あれほど擦り切れ、しわが寄り、汚れていたのに気づいたはずだ。それが、何時間もの穴掘りを物語っていた。残るのは、何のために掘っているかという点だけだった。角を回り、都市・郊外銀行が依頼人の家に隣接しているとわかったとき、問題は解けたと感じた。演奏会のあと、君が馬車で帰ってから、僕はスコットランドヤードと銀行の取締役会長を訪ねた。その結果は、君が見たとおりだ。」
「では、今夜決行すると、どうしてわかったんだ?」
私は尋ねた。
「組合の事務所を閉めたのは、ジェイベズ・ウィルソン氏が家にいても、もう構わないという合図だった。つまり、トンネルが完成したのだ。だが、早く使う必要がある。発見されるかもしれないし、金貨が移されるかもしれない。土曜日なら、逃亡に二日間使えるので、ほかの日より好都合だ。そうした理由から、今夜来ると予想した。」
「見事な推理だ」と私は、心から感嘆して言った。「これほど長い鎖なのに、どの輪も確かにつながっている。」
「退屈から救ってくれた」と彼はあくびをしながら答えた。「ああ、もう退屈が忍び寄ってくるのを感じる。僕の人生は、日々のありきたりな現実から逃れようとする、長い努力の連続だ。こうした小さな謎が、その助けになる。」
「しかも君は、人類の恩人でもある」と私は言った。
彼は肩をすくめた。「まあ、結局のところ、少しは役に立っているのかもしれない」と言った。「『L’homme c’est rien――l’oeuvre c’est tout』――人間は無に等しい、仕事こそがすべてだ。ギュスターヴ・フローベールがジョルジュ・サンドに書き送ったとおりさ。」
第三の冒険 花婿失踪事件
「ワトソン、現実の人生は、人の頭で考え出せるどんなものよりも、はるかに奇妙だよ」ベーカー街の下宿で、暖炉を挟んで腰を下ろしていたとき、シャーロック・ホームズが言った。「実際にはありふれた出来事でさえ、想像するとなると、あまりの途方もなさにためらってしまう。もし二人で手をつないであの窓から飛び立ち、この大都会の上に浮かんで、そっと屋根を取り払い、そこで起きている奇妙な出来事をのぞけたらどうだろう。不思議な偶然、さまざまな企み、思惑のすれ違い、何世代にもわたって続き、実に奇想天外な結末へと至る、驚くべき事件の連鎖。それを目にしたら、型にはまった筋立てと先の読める結末を備えた小説など、どれもひどく陳腐で、つまらないものに思えるはずだ。」
「だが、どうも納得がいかないな」と私は答えた。「新聞に出る事件は、たいてい味気ないし、俗っぽい。警察記事には、極限まで突き詰めた写実がある。ところが、その結果は、認めざるを得ないが、魅力的でもなければ芸術的でもない。」
「写実の効果を出すには、ある程度の取捨選択と判断が必要なんだ」とホームズは言った。「警察記事には、それがない。観察者の目には事件全体の核心を宿している細部より、判事のありきたりな言葉のほうに重きを置いているのかもしれない。断言するが、ありふれたものほど不自然なものはないよ。」
私は笑って首を振った。「君がそう考えるのは、よくわかる。何しろ三つの大陸にわたって、途方に暮れたあらゆる人間の私的な相談役、助っ人を務めているんだ。奇妙なこと、風変わりなことばかりに出会うのも当然だろう。だが、ここで――」私は床から朝刊を取り上げた。「実際に試してみよう。最初に目についた見出しはこれだ。『妻を虐待する夫』。半段ほどの記事だが、読まなくても、何もかもおなじみの話だとわかる。むろん浮気相手がいて、酒を飲み、突き飛ばし、殴り、あざを作る。同情する姉妹か下宿の女主人も出てくる。どんな三文作家でも、これ以上の駄作は書けないよ。」
「残念ながら、その例は君の主張には不向きだね」ホームズは新聞を受け取り、ざっと目を通して言った。「これはダンダス家の別居訴訟だ。たまたま僕も関係していて、いくつか小さな疑問点を解き明かした。夫は酒を一滴も飲まず、浮気相手もいなかった。訴えられた行為というのは、食事が済むたびに入れ歯を外して妻に投げつける癖がついた、ということなんだ。これはさすがに、並の小説家には思いつかない仕業だろう。さあ、ワトソン、嗅ぎ煙草をひとつまみやって、君自身の挙げた例で僕に一本取られたと認めたまえ。」
彼は古びた金の嗅ぎ煙草入れを差し出した。蓋の中央には大きな紫水晶がはめ込まれている。その豪華さが、気取りのない態度や質素な暮らしぶりとあまりにも不釣り合いだったので、私は思わずそれについて尋ねた。
「ああ」と彼は言った。「何週間も君に会っていなかったのを忘れていたよ。アイリーン・アドラーの書類の事件で力を貸したお礼に、ボヘミア国王がくださった、ちょっとした記念品だ。」
「では、その指輪は?」
指でひときわまばゆく光るダイヤモンドに目をやりながら、私は尋ねた。
「オランダ王家からだ。ただ、こちらの仕事はひどく微妙な性質のものだったのでね。僕のささやかな事件を一つ二つ、親切にも記録してくれた君にさえ、打ち明けられない。」
「今も何か手がけているのかい?」
私は興味を覚えて尋ねた。
「十か十二ほどあるが、面白い特徴のあるものはない。重大ではあっても、面白くはないんだ。実際、観察力を働かせ、調査の醍醐味である因果関係の素早い分析を行う余地は、たいてい、ささいな事件にこそある。大きな犯罪ほど単純なことが多い。犯罪が大きければ大きいほど、一般に動機も明白になるからね。今の事件も、マルセイユから持ち込まれた少々込み入った一件を除けば、興味を引かれる点はない。もっとも、あと数分もすれば、もっと面白い仕事が来るかもしれないよ。よほど僕の見込み違いでなければ、あれは依頼人だ。」
彼は椅子から立ち、開けたブラインドの間に立って、くすんだ色に沈むロンドンの街路を見下ろしていた。肩越しにのぞくと、向かいの歩道に大柄な女が立っていた。首には厚い毛皮の襟巻き、つばの広い帽子には大きく反り返った赤い羽根を飾り、その帽子をデヴォンシャー公爵夫人風[訳注:肖像画で知られる、つばの広い帽子を斜めにかぶる装い]に、気取って片耳へ傾けている。その大仰ないでたちの下から、不安そうにためらいながらこちらの窓を見上げ、体を前後に揺すり、手袋のボタンを指でいじっていた。やがて、岸から水へ飛び込む泳ぎ手のように、突然思い切って道路を渡ってきた。鋭いベルの音が響いた。
「前にも見たことのある症状だ」ホームズは紙巻き煙草を火に投げ込んだ。「歩道で前後に揺れるのは、決まって恋の悩みだよ。相談はしたいが、あまりにデリケートな話で、他人に打ち明けてよいものか迷っている。もっとも、ここでも区別はできる。男からひどい仕打ちを受けた女なら、もう揺れてなどいない。その場合の典型的な症状は、ベルの針金が切れることだ。今度も恋愛問題だろうが、この娘は怒っているというより、困惑しているか、悲しんでいる。おや、ご本人が疑問を解きに来たようだ。」
そう言ううちに扉が軽くたたかれ、金ボタンの制服を着た給仕の少年が入ってきて、ミス・メアリー・サザーランドの来訪を告げた。本人はその小さな黒い姿の背後にそびえ、まるで小さな水先案内船に続く、帆をいっぱいに張った商船のようだった。シャーロック・ホームズは、持ち前のさりげない丁重さで迎え、扉を閉めると、一礼して肘掛け椅子へ案内した。そして、彼独特の、どこか上の空に見えながら細部を見逃さない目で、客を眺めた。
「その近眼では、あれほどタイプを打つのは、少々おつらくありませんか?」と彼は尋ねた。
「初めはそうでした」と娘は答えた。「でも今は、見なくても文字の位置がわかりますから。」
その瞬間、彼の言葉の意味を悟った娘は、びくりと大きく身を震わせて顔を上げた。丸く人のよさそうな顔に、恐れと驚きが浮かんでいた。「ホームズさん、私のことをお聞きになったんですね。そうでなければ、どうしてそんなことまでおわかりになるんです?」
「お気になさらずに」とホームズは笑った。「物事を知るのが僕の商売です。ほかの人が見過ごすものを見るよう、訓練してきたのかもしれません。それができなければ、わざわざ相談においでにはならないでしょう?」
「こちらへ来たのは、イーサリッジ夫人からお話をうかがったからです。警察も皆も、ご主人はもう亡くなったと諦めていたのに、あなたはあっさり見つけてくださったそうですね。ああ、ホームズさん、私にもどうか同じようにしていただきたいんです。私はお金持ちではありません。でも、タイプのわずかな稼ぎのほかに、自分のものとして年に百ポンドあります。ホズマー・エンジェルさんがどうなったのか、わかるものなら、みんな差し上げてもかまいません。」
「どうして、そんなに急いで家を出て、相談にいらしたのです?」シャーロック・ホームズは指先を合わせ、天井へ目を向けて尋ねた。
どこかぼんやりしたメアリー・サザーランドの顔に、また驚きの色が浮かんだ。「ええ、家を飛び出してきたんです。ウィンディバンクさん――父のことですけど――何もかも平気でいるのを見たら、腹が立って。警察へも行こうとしないし、あなたのところへも来ようとしない。何一つせず、何も困ったことはないと言い続けるので、とうとう我慢できなくなって、身支度をして、そのままここへ来ました。」
「お父さんというのは、継父でしょうね」とホームズは言った。「お名前が違いますから。」
「ええ、継父です。父とは呼んでいますけど、何だか変ですよね。私よりたった五歳と二か月しか年上じゃないんですから。」
「お母さんはご健在ですか?」
「ええ、元気です。ホームズさん、父が亡くなってすぐ、母が十五歳近くも年下の人と再婚したときは、私、とても喜ぶ気にはなれませんでした。父はトッテナム・コート・ロードで配管業をしていて、なかなか繁盛している店を残したんです。母は職長のハーディさんと一緒に続けていましたが、ウィンディバンクさんが来ると、売らせてしまいました。ワインの外回りの仕事をしているので、自分はずっと上等な人間だと思っていたんです。営業権も何もかも四千七百ポンドで売りましたけど、父が生きていたら、もっとずっと高く売れたはずです。」
私は、この取り留めのない、要領を得ない話に、シャーロック・ホームズがいらだつだろうと思っていた。ところが彼は、反対に、ひどく熱心に耳を傾けていた。
「あなたご自身の収入というのは」と彼は尋ねた。「その事業から出るのですか?」
「いいえ、全然別です。オークランドにいたネッド叔父が残してくれました。ニュージーランドの証券で、利息が四分五厘つきます。元は二千五百ポンドですが、私が使えるのは利息だけなんです。」
「実に興味深いお話です」とホームズは言った。「年に百ポンドという大金が入り、そのうえ仕事の収入もあるのですから、時には旅行をしたり、いろいろお楽しみになったりするのでしょう。独身の女性なら、年に六十ポンドもあれば、かなり楽に暮らせると思いますが。」

「シャーロック・ホームズは彼女を迎えた。」
「私はもっと少なくても暮らせます、ホームズさん。でも、家にいる間は、二人の負担になりたくありませんから、一緒に住んでいる間だけ、そのお金を使ってもらっているんです。もちろん、今の間だけですよ。ウィンディバンクさんが三か月ごとに利息を受け取って、母に渡します。私はタイプの稼ぎで、十分やっていけますから。一枚につき二ペンスで、一日に十五枚から二十枚くらい打てることもよくあります。」
「ご事情はよくわかりました」とホームズは言った。「こちらは友人のワトソン博士です。僕に話すのと同じように、遠慮なくお話しください。では、ホズマー・エンジェルさんとのことを、初めから全部うかがいましょう。」
サザーランド嬢の顔がほのかに赤らみ、落ち着かない指で上着の房飾りをいじり始めた。「初めて会ったのは、ガス工事業者の舞踏会でした。父が生きていたころは、いつも招待券が来ていたんです。その後も私たちのことを忘れず、母に送ってくれました。ウィンディバンクさんは行くなと言いました。あの人は、どこへだって私たちを行かせたがらないんです。日曜学校の遠足に行きたいと言っただけでも、かんかんになります。でも、今度ばかりは何が何でも行くつもりでしたし、そうしたんです。だって、どんな権利があって止めるんでしょう? 付き合うにふさわしくない連中だと言うんですけど、父のお友達がみんな来るのに。それに、着ていくものがないじゃないかとも言いました。でも、まだ引き出しから出したこともない、紫のビロードの服があったんです。何を言っても駄目だとわかると、とうとう会社の用事でフランスへ行ってしまいました。でも母と私は、前に職長をしていたハーディさんに連れていってもらいました。そこで、ホズマー・エンジェルさんに会ったんです。」
「では」とホームズは言った。「ウィンディバンクさんはフランスから帰ると、舞踏会へ出かけたことを、ひどく怒ったのでしょうね。」
「いいえ、それが、たいして何も言わなかったんです。覚えているのは、笑って肩をすくめ、女には何を駄目だと言っても無駄だ、どうせ自分の思いどおりにするんだから、と言ったことくらいです。」
「なるほど。それで、そのガス工事業者の舞踏会で、ホズマー・エンジェルさんという方に会われたわけですね。」
「ええ。その晩に知り合って、翌日には無事に帰れたかと、訪ねてきてくれました。それから何度か会って――つまり、ホームズさん、私、一緒に二度散歩したんです。でも、父が帰ってきたので、ホズマー・エンジェルさんはもう家には来られなくなりました。」
「来られなくなった?」
「父はそういうことが嫌いなんです。できるものなら、お客は誰も入れたくないくらいで、女は自分の家族の中で幸せに暮らせばいい、といつも言っていました。でも、私、母にも言っていたんですけど、そのためには、まず自分の家庭がなくてはいけませんよね。私には、まだなかったんですから。」
「それで、ホズマー・エンジェルさんは? 会おうとはしなかったのですか?」
「父は一週間後に、またフランスへ行く予定でした。だからホズマーは、それまで会わないほうが安全だし、いいだろうと、手紙をくれました。その間は手紙のやり取りをすればいいと言って、毎日書いてくれたんです。朝、私が手紙を受け取っていたので、父に知られずに済みました。」
「そのころには、もう婚約していたのですか?」
「ええ、ホームズさん。初めて一緒に散歩したあとで、婚約しました。ホズマーは――エンジェルさんは――リーデンホール街の会社で出納係をしていて、それで――」
「何という会社です?」
「それが、いちばん困るんです、ホームズさん。知らないんです。」
「では、どこに住んでいたのです?」
「会社に寝泊まりしていました。」
「住所もご存じない?」
「ええ。リーデンホール街ということしか。」
「では、手紙はどこへ?」
「リーデンホール街の郵便局留めです。女の人から手紙が来ると、ほかの社員たちにからかわれるから、会社には送らないでくれと言われました。それなら、あの人と同じように私もタイプで打ちましょうかと言ったんです。でも、それはいけないって。私が手で書けば、私から来たという気がするけれど、タイプだと、二人の間に機械が割り込んだような気がするって言うんです。ねえ、ホームズさん、どんなに私を大事に思ってくれたか、そんな小さなことにまで気を配ってくれたか、おわかりでしょう。」
「実に示唆に富んでいます」とホームズは言った。「小さなことこそ、何にも増して大切だというのが、長年の僕の信条です。エンジェルさんについて、ほかに何か、小さなことを覚えていませんか?」
「とても恥ずかしがり屋でした、ホームズさん。目立つのは嫌だと言って、散歩も昼間より夕方を好んでいました。とても控えめな、礼儀正しい方でした。声まで優しくて。若いころ、喉にうみがたまり、腺が腫れたことがあって、それ以来喉が弱くなり、つかえながら、ささやくようにしか話せなくなったそうです。身なりはいつもきちんとしていて、清潔で地味でした。でも、私と同じように目が弱くて、まぶしさを避けるために色眼鏡をかけていました。」
「さて、継父のウィンディバンクさんが再びフランスへ行ってから、どうなりました?」
「ホズマー・エンジェルさんがまた家に来て、父が帰る前に結婚しようと言いました。恐ろしいほど真剣で、新約聖書に手を置かせて、何があっても、ずっと操を守ると誓わせたんです。母は、そう誓わせるのは当然だ、それほど情熱がある証拠だと言いました。母は初めからすっかりあの人の味方で、私以上に気に入っていたくらいです。それで、その週のうちに結婚しようという話になったので、父はどうするのかと聞きました。でも二人とも、父のことは気にせず、あとで知らせればいいと言い、母は自分がうまく話をつけるからと言いました。私はそれが少し嫌だったんです、ホームズさん。たった数歳しか違わないのに許しを求めるのも変ですけど、隠れて何かをするのは嫌でしたから。そこで、会社のフランス支店があるボルドーの父に手紙を書いたんです。でも、その手紙が、結婚式の朝に戻ってきてしまいました。」
「行き違いになったのですね?」
「ええ。届く少し前に、父はイギリスへ出発していました。」
「ほう、それは残念でしたね。では、結婚式は金曜日に決まっていた。教会で挙げるはずだったのですか?」
「ええ、でも、ほんの内輪で。キングズ・クロスの近くの聖セイヴィア教会で式を挙げ、そのあとセント・パンクラス・ホテルで朝食を取る予定でした。ホズマーは二輪辻馬車で迎えに来ました。でも、こちらは二人だったので、母と私をそれに乗せ、自分は四輪馬車に乗りました。ちょうど通りには、ほかにその一台しかなかったんです。私たちが先に教会へ着いて、四輪馬車が来ると、あの人が降りてくるのを待ちました。ところが、いつまでたっても降りてきません。御者が御者台から下りて中をのぞくと、誰もいなかったんです! 御者は、乗るところはこの目で見たのに、いったいどうなったのか見当もつかないと言っていました。それが先週の金曜日です、ホームズさん。それから、あの人がどうなったのか、手掛かりになるものは、何一つ見ても聞いてもいません。」
「ずいぶんひどい仕打ちを受けたように思えますが」とホームズは言った。
「いいえ、違います! あんなに立派で優しい人が、私を捨てたりするはずありません。だって、その朝もずっと、何があっても心を変えないでくれと言っていました。思いもかけないことが起きて二人が引き離されても、自分に誓いを立てたことを忘れないでくれ、遅かれ早かれ、その誓いを果たしてもらいに戻るからって。結婚式の朝に変な話だとは思いましたけど、あんなことが起きた今では、意味があったんだとわかります。」
「確かに、意味はあります。では、何か思いもかけない災難に遭われたとお考えなのですね?」
「ええ。何か危険を予感していたんだと思います。そうでなければ、あんなことは言いませんもの。そして、予感したことが、本当に起きてしまったんです。」
「でも、それが何なのか、見当はつかない?」
「全然。」
「もう一つ。お母さんは、このことをどう受け止めました?」
「怒って、もう二度とその話はするなと言いました。」
「お父さんは? お話ししましたか?」
「ええ。父も私と同じで、何かが起きたのだろう、そのうちホズマーから知らせがあるはずだと思っているようでした。父の言うとおり、私を教会の入り口まで連れていって置き去りにしたところで、誰に何の得があるでしょう? 私からお金を借りていたとか、結婚して財産を自分の名義にさせたとかいうのなら、わけもあるでしょうけど、ホズマーはお金のことではとても誇りが高くて、私の一シリングだって欲しがりませんでした。それなのに、いったい何があったんでしょう? どうして手紙も書けないんでしょう? ああ、考えると気が狂いそうです! 夜も一睡もできません。」
彼女はマフから小さなハンカチを取り出し、顔を埋めて激しくすすり泣いた。
「調べてみましょう」とホームズは立ち上がった。「何かはっきりした結論に達することは間違いありません。あとは僕にお任せになって、もうくよくよ考えないことです。何よりも、ホズマー・エンジェルさんがあなたの人生から消えたように、記憶からも消してしまうよう努めてください。」
「では、もう会えないとお思いなんですか?」
「残念ながら、そう思います。」
「それなら、あの人はどうなったんです?」
「その問題は僕にお任せください。詳しい人相と、お預かりしてもよい手紙をいただきたいのですが。」
「先週の土曜日の『クロニクル』に尋ね人の広告を出しました」と彼女は言った。「これがその切り抜きです。それから、手紙も四通持ってきました。」
「ありがとう。あなたのご住所は?」
「キャンバーウェル、ライオン・プレイス三十一番地です。」
「エンジェルさんの住所はご存じなかったわけですね。お父さんのお勤め先は?」
「フェンチャーチ街の、大きなクラレット輸入商、ウェストハウス・アンド・マーバンク商会で、外回りをしています。」
「ありがとう。とてもわかりやすくお話しくださいました。書類はここへ置いていってください。それから、僕の忠告を忘れずに。この一件は、もう閉じた本だと思って、これからの人生に影響させないことです。」
「ご親切にありがとうございます、ホームズさん。でも、それはできません。私はホズマーに操を守ります。あの人が帰ってきたら、いつでも迎えられるようにしておきます。」
あの途方もない帽子と、どこか愚鈍に見える顔にもかかわらず、客のひたむきな信頼には、敬意を抱かずにいられない気高さがあった。彼女は書類の小さな束をテーブルに置き、呼ばれればいつでも来ると約束して、帰っていった。
シャーロック・ホームズは数分間、黙って座っていた。指先を合わせたまま、脚を前へ投げ出し、天井を見つめていた。それから棚の掛け具から、長年の油で黒ずんだ陶製のパイプを取った。彼にとっては相談相手のような品だった。火をつけ、椅子の背にもたれると、濃い青い煙が渦を巻いて立ち上り、その顔には限りないけだるさが浮かんだ。
「なかなか興味深い研究対象だ、あの娘は」と彼は言った。「僕は事件そのものより、娘のほうが面白かった。ちなみに事件のほうは、かなりありふれたものだ。僕の索引を調べれば、七七年のアンドーヴァーに似た例があるし、去年もハーグで同じようなことがあった。もっとも、発想は古くても、一つ二つ、僕にとって新しい細部はあったがね。それにしても、娘自身からは、実に多くを学べたよ。」
「僕にはまるで見えなかったことを、君はいろいろ読み取ったようだね」と私は言った。
「見えなかったんじゃない。気づかなかったんだ、ワトソン。見る場所を知らなかったから、大事なものを全部見逃した。袖の重要性、親指の爪が語ること、靴ひも一本にかかっているかもしれない重大な問題。どうしても君にはわかってもらえない。さて、あの女性の外見から何がわかった? 説明してみたまえ。」
「そうだな。帽子はつばの広い石板色の麦わら帽子で、れんが色がかった赤い羽根がついていた。上着は黒で、黒いビーズが縫いつけてあり、小さな黒玉の飾りが房になっていた。ドレスはコーヒー色より少し濃い茶色で、襟と袖に紫のビロードが少しあしらってあった。手袋は灰色がかっていて、右の人差し指に穴が開いていた。靴は見なかった。小さな丸い金の耳飾りを下げ、全体としては、やや俗っぽいが、暮らしにゆとりがあり、のんびりしていて、苦労のなさそうな印象だった。」
シャーロック・ホームズは軽く手をたたき、くすくす笑った。
「いやはや、ワトソン、見事な進歩だ。本当によくできた。重要な点を一つ残らず見逃したのは確かだが、方法はつかんでいるし、色を見る目も鋭い。いいかい、全体の印象を頼りにしてはいけない。細部に集中するんだ。僕は女性なら、まず袖を見る。男性の場合は、ズボンの膝から始めるほうがいいだろう。君も言ったように、あの女性の袖にはビロードがあった。跡を残すには、実に便利な生地だ。手首の少し上に、タイプを打つ人が机に押しつけてできる二本の線が、見事にはっきり残っていた。手回しのミシンでも似た跡はつくが、そちらは左腕だけで、親指と反対側の側面につく。あのように、いちばん幅の広い部分を横切ることはない。次に顔を見ると、鼻の両脇に鼻眼鏡のくぼみがあった。そこで近眼とタイプのことを言ってみたら、驚いたようだったね。」
「僕も驚いたよ。」
「だが、実にはっきりしていたじゃないか。そのあと足元を見て、僕はひどく驚き、興味を引かれた。履いている靴は、よく似てはいたが、左右別のものだったんだ。一方はつま先に少し飾りがあり、もう一方にはなかった。ボタンも、一方は五つのうち下の二つしか留めておらず、もう一方は一つ目、三つ目、五つ目だった。それ以外はきちんと身なりを整えた若い女性が、ちぐはぐな靴を半分しか留めずに家を出た。急いで出てきたと言い当てても、大した推理ではないだろう。」
「ほかには?」
友人の鋭い推理にはいつものことながら強く心を引かれ、私は尋ねた。
「ついでに、身支度をすっかり済ませてから、家を出る前に短い手紙を書いたこともわかった。君は右の手袋の人差し指が破れているのに気づいたが、手袋も指も紫のインクで汚れていたのは、見えなかったらしい。急いで書いて、ペンを深く浸しすぎたんだ。今朝のことに違いない。そうでなければ、指にあれほど鮮明に残ってはいない。こんなことも面白いが、ごく初歩的なものだ。そろそろ仕事に戻ろう、ワトソン。広告にあるエンジェル氏の人相を、読んでくれないか。」
私は小さな切り抜きを明かりにかざした。「尋ね人」とそこにはあった。「十四日朝、ホズマー・エンジェルという紳士が失踪。身長約五フィート七インチ。体格頑丈、顔色は黄ばんでおり、黒髪、頭頂部やや薄し。黒く濃い頬ひげと口ひげ、色眼鏡を着用し、話し方に軽い障害あり。最後に目撃された際の服装は、絹の折り返しのついた黒いフロックコート、黒い胴着、金のアルバート型時計鎖、灰色のハリス・ツイードのズボン。脇にゴムの入った短靴に、茶色のゲートルを着用。リーデンホール街の会社に勤務していたと見られる。情報を寄せられた方には――以下略。」
「それでいい」とホームズは言った。「手紙のほうは」と、目を走らせながら続けた。「ごく平凡だ。バルザックを一度引用している以外、エンジェル氏につながる手掛かりは何もない。ただ、一つ目立った点がある。君もきっと気づくだろう。」
「タイプで打ってある」と私は言った。
「それだけじゃない。署名までタイプなんだ。下の、こぢんまりと整った『ホズマー・エンジェル』を見たまえ。日付はあるが、差出人の住所はリーデンホール街だけ。ずいぶん漠然としている。署名の点は、実に意味深い――いや、決定的と言ってもいい。」
「何が決定的なんだ?」
「ワトソン、これが事件にどれほど深く関わるか、まさか、わからないのかい?」
「わかったとは言えないね。婚約不履行で訴えられたとき、自分の署名ではないと言い逃れたかった、というのでなければ。」
「いや、そこじゃない。ともかく、二通手紙を書こう。それで片がつくはずだ。一通はシティの商会へ。もう一通は娘の継父、ウィンディバンク氏へ、明日の夕方六時にここで会えないか、と。こういうことは、男性の身内と話すのがいい。さて、ワトソン、返事が来るまでは何もできない。この小さな問題は、それまで棚に上げておこう。」
友人の精妙な推理力と、行動に移したときの驚くべき活力を信じる理由は、これまでに十分すぎるほどあった。だから、持ち込まれた奇妙な謎を、自信に満ちた気楽な態度で扱っているのも、確かな根拠があってのことだろうと思った。彼が失敗するのを知ったのは、ボヘミア国王とアイリーン・アドラーの写真の件で、ただ一度だけだった。しかし、『四つの署名』の異様な事件や、『緋色の研究』にまつわる尋常ならぬ事情を思い返すと、彼にもほどけないもつれなど、よほどのものに違いないと思えた。
私は、黒い陶製のパイプをくゆらせる友人を残して帰った。翌晩また訪ねるころには、メアリー・サザーランド嬢の消えた花婿の正体へとつながる手掛かりを、すべて手中に収めているだろうと確信していた。
そのころ私は、非常に重い症状の患者を抱えており、翌日は一日中、その枕元につききりだった。ようやく手が空いたのは六時近くで、私は二輪辻馬車に飛び乗ってベーカー街へ向かった。小さな謎の大詰めに立ち会うには、もう遅いのではないかと、半ば案じながら。ところが、シャーロック・ホームズは一人だった。長く痩せた体を肘掛け椅子の奥へ丸め、半ば眠っていた。おびただしい瓶と試験管の列、鼻を刺す清潔な塩酸のにおいが、大好きな化学実験に一日を費やしたことを物語っていた。
「どうだい、解けたかい?」
私は入るなり尋ねた。
「ああ。重硫酸バリウムだった。」
「違う、違う、謎のほうだよ!」
私は叫んだ。
「ああ、そっちか! 調べていた塩のことだと思ったよ。あの件には、初めから謎などなかった。もっとも、昨日も言ったように、いくつかの細部は面白い。唯一困るのは、あの悪党を罰する法律が、おそらくないことだ。」
「いったい誰なんだ? 何のためにサザーランド嬢を捨てたんだ?」
私の質問が終わるか終わらないかのうちに、ホームズが答えようと口を開くより先に、廊下で重い足音がし、扉をたたく音が聞こえた。
「娘の継父、ジェームズ・ウィンディバンク氏だ」とホームズは言った。「六時に来ると手紙をくれた。どうぞ!」
入ってきたのは、三十歳ほどの、中背でがっしりした男だった。ひげはきれいに剃り、顔色は黄ばんでいた。物腰は柔らかく、取り入るようだったが、灰色の目は恐ろしく鋭く、人を射抜くようだった。私たちを一人ずつ探るように見て、光沢のあるシルクハットをサイドボードに置き、軽く会釈して、手近な椅子へ身を滑らせた。
「こんばんは、ジェームズ・ウィンディバンクさん」とホームズは言った。「六時にお会いする約束をした、このタイプ打ちの手紙は、あなたからですね?」
「ええ。少し遅れたようで、申し訳ありません。何しろ、自分の時間を自由にはできない身でして。サザーランドがこんな小さなことでお手数をおかけして、残念です。こういう家庭の恥は、外へ持ち出さないほうが、ずっとよいと思うのですが。私の意に反して来たのです。お気づきでしょうが、あれはひどく興奮しやすく、衝動的な娘で、一度思い込むと、なかなか抑えられません。もちろん、あなたは警察の方ではないので、それほど気にはしませんでしたが、こういう家庭の不幸を世間に触れ回られるのは、気持ちのよいものではありません。それに、無駄な出費でしょう。ホズマー・エンジェルを、どうして見つけられるというのです?」
「いや、そうとも限りません」とホームズは静かに言った。「僕には、ホズマー・エンジェル氏を見つけられると信じる十分な理由があります。」
ウィンディバンク氏は激しく身を震わせ、手袋を落とした。「それは、うれしいお話です」と彼は言った。
「面白いものですね」とホームズは言った。「タイプライターにも、人の筆跡と同じくらい個性がある。まったくの新品でなければ、二台が全く同じ文字を打つことはありません。文字によって摩耗の度合いが違い、片側だけすり減るものもある。このお手紙では、ウィンディバンクさん、『e』がどれも少しつぶれ、『r』の末尾がわずかに欠けています。ほかにも十四の特徴がありますが、この二つが特に目立ちます。」
「会社の手紙は、すべてその機械で打っていますから、少しすり減っているのでしょう」客は、小さく光る目でホームズを鋭く見ながら答えた。
「では、実に興味深い研究をお見せしましょう、ウィンディバンクさん」とホームズは続けた。「そのうち、タイプライターと犯罪との関係について、また小さな論文を書こうと思っています。多少は研究してきた題材です。ここに、失踪した人物が書いたとされる手紙が四通あります。すべてタイプ打ちです。どの手紙も『e』がつぶれ、『r』の末尾が欠けているばかりか、この拡大鏡をお使いになれば、先ほど述べた残り十四の特徴も、そろっていることがおわかりでしょう。」
ウィンディバンク氏は椅子から飛び上がり、帽子を取った。「そんな突飛な話に付き合っている暇はありません、ホームズさん。あの男を捕まえられるなら、捕まえてください。捕まえたら、知らせていただきましょう。」
「承知しました」ホームズは扉へ歩み寄り、鍵を回した。「では、お知らせします。もう捕まえました!」
「何だって! どこに?」ウィンディバンク氏は唇まで白くし、罠にかかった鼠のように辺りを見回して叫んだ。
「いや、無駄です。本当に無駄ですよ」とホームズは穏やかに言った。「逃げ道はありません、ウィンディバンクさん。あまりにも見え透いている。こんな簡単な問題も僕には解けないとおっしゃったのは、ずいぶん失礼でしたね。そう、そのまま腰を下ろして、話し合いましょう。」
客は死人のような顔で椅子に崩れ落ち、額に汗を光らせた。「こ、これは、訴えられるようなことじゃない」と、どもった。
「残念ながら、そのようです。だが、ウィンディバンク、率直に言って、規模は小さくとも、これほど残酷で身勝手で無情な企みは、僕が扱った中でも滅多にない。さて、一連の出来事を簡単にたどってみましょう。間違っていたら、訂正してください。」
男は打ちのめされたように、頭を胸へ垂れ、椅子の中で縮こまっていた。ホームズは暖炉の棚の角へ両足を載せ、両手をポケットに入れてのけぞると、私たちに向かってというより、独り言のように話し始めた。
「その男は、金目当てに、自分よりずっと年上の女と結婚した」と彼は言った。「娘が同居している間は、その娘の金も自由に使えた。彼らの身分では相当な額で、それを失えば暮らしにも大きく響く。守るためにひと働きする価値はあった。娘は気立てがよく、優しい性質だったが、愛情も深く、情に厚い。そのうえ、容姿も悪くなく、いくらか収入もあるとなれば、いつまでも独身ではいないことは明らかだった。だが、結婚すれば、年に百ポンドが失われる。そこで継父は、どうしたか? まずは単純に、娘を家に閉じ込め、同じ年ごろの人々との交際を禁じた。だが、いつまでもそれでは済まないと、間もなくわかった。娘は反発し、自分の権利を主張し、ついには、ある舞踏会へどうしても行くと言い出した。さて、利口な継父はどうしたか? 頭のよさは褒められても、心根は褒められない案を思いついた。妻の黙認と協力を得て変装し、その鋭い目を色眼鏡で覆い、口ひげと濃い頬ひげで顔を隠し、よく通る声を甘いささやきに変えた。娘の近眼がさらに安全を保証した。そうしてホズマー・エンジェルとして現れ、自分が言い寄ることで、ほかの求婚者を遠ざけたのだ。」

「罠にかかった鼠のように辺りを見回した。」
「初めは、ほんの冗談だったんだ」と客はうめいた。「あの子があれほど夢中になるとは、思ってもみなかった。」
「そうでしょうね。ともあれ、娘はすっかり夢中になった。継父はフランスにいると信じ込んでいたから、欺かれているなど、一瞬たりとも考えなかった。その紳士に大切にされて、うれしかった。母親が声を大にして褒めそやすので、その気持ちはなおさら強まった。そこでエンジェル氏は家へ通い始めた。本当の効果を得るには、行けるところまで進める必要があったからだ。二人は会い、婚約した。それで、娘の心がほかへ向かう心配はなくなった。だが、いつまでも芝居は続けられない。フランス出張を装うのも面倒だ。そこで、娘の心に消えない印象を残し、当分ほかの求婚者に目を向けさせないよう、劇的な形で幕を引くことにした。聖書にかけて操を誓わせたのもそのためだし、結婚式の朝にさえ、何かが起こるかもしれないとほのめかしたのも、そのためだ。ジェームズ・ウィンディバンクは、サザーランド嬢をホズマー・エンジェルに縛りつけ、その消息をわからなくして、少なくとも今後十年は、ほかの男の話に耳を貸させまいとした。教会の入り口までは連れていったが、それより先へは進めない。そこで、四輪馬車の片方の扉から乗り、もう片方から降りるという古い手を使って、都合よく姿を消した。これが事の次第ではありませんか、ウィンディバンクさん!」
ホームズが話すうちに、客はいくらか落ち着きを取り戻していた。そして今、青白い顔に冷笑を浮かべて、椅子から立ち上がった。
「そうかもしれませんし、違うかもしれません、ホームズさん」と彼は言った。「だが、それほど頭が切れるなら、今、法律を破っているのは私ではなく、あなただとわかるはずです。私は初めから、訴えられるようなことは何もしていません。しかし、あなたがあの扉に鍵をかけている限り、暴行と不法監禁で訴えられるのは、あなたのほうです。」
「言うとおり、法律は君を罰せない」ホームズは鍵を開け、扉を大きく開いた。「だが、君ほど罰に値する男もいない。娘に兄弟か男友達がいるなら、その肩へ鞭を打ち下ろすべきだ。まったく!」男の顔に浮かぶ悪意に満ちた薄笑いを見て、彼は顔を赤らめた。「依頼人への務めではないが、ちょうどここに狩猟用の鞭がある。僕自身のために、ひとつ――」素早く二歩、鞭へ近づいた。しかし、それをつかむ前に、階段でけたたましい足音がし、重い玄関扉がばたんと閉まった。窓から見ると、ジェームズ・ウィンディバンク氏が、通りを全速力で逃げていった。
「冷血な悪党め!」ホームズは笑いながら、再び椅子に身を投げた。「あいつは次々に悪事を重ね、いずれ大罪を犯して、絞首台で終わるだろう。この事件も、ある意味では、まるで面白くなかったわけじゃない。」
「まだ、君の推理の筋道が全部わかったわけじゃないんだが」と私は言った。
「まず、ホズマー・エンジェルの妙な振る舞いには、よほどの目的があるはずだと、初めから明らかだった。そして、わかっている範囲で、この事件から本当に利益を得るのは、継父だけだった。二人が同時に現れず、一方が留守になると他方が現れるのも、意味深い。色眼鏡と妙な声、それに濃いひげも、変装を示唆していた。署名までタイプで打つという異様な行動が、疑いをすべて裏づけた。つまり、娘は彼の筆跡をよく知っていて、ほんのわずかでも目にすればわかるということだ。こうしたばらばらの事実が、ほかの多くの細かな点とともに、同じ方向を指していたんだ。」
「それを、どうやって確かめた?」
「相手の見当がつけば、裏づけを取るのは簡単だった。勤め先はわかっていたからね。印刷された人相書きから、ひげ、眼鏡、声といった、変装で変えられるものを全部取り除いて会社へ送り、外回りの社員に当てはまる人物がいるか、尋ねた。タイプライターの癖には、すでに気づいていたので、本人にも会社宛てに、ここへ来てくれないかと手紙を書いた。思ったとおり、返事はタイプ打ちで、同じ、ささいだが特徴的な欠陥が現れていた。同じ便で、フェンチャーチ街のウェストハウス・アンド・マーバンク商会からも返事が来た。その人相は、社員のジェームズ・ウィンディバンクと、あらゆる点で一致する、と。ただ、それだけさ!。」
「サザーランド嬢は?」
「話しても信じないだろう。ペルシャの古いことわざを覚えているかい。『虎の子を奪う者には危険があり、女から迷妄を奪う者にも危険がある』。ハーフィズにはホラティウスに劣らぬ知恵があり、世の中を知る目もあるんだ。」
第四の冒険 ボスコム渓谷の謎
ある朝、妻と私が朝食の席についていると、女中が電報を持ってきた。シャーロック・ホームズからで、文面はこうだった。
「二日ほど空けられるか。ボスコム渓谷の惨事について、イングランド西部から電報で呼ばれた。同行してくれればうれしい。空気、景色とも申し分なし。パディントン発十一時十五分に乗る。」
「どうなさる、あなた?」妻は向かいから私を見て言った。「いらっしゃるの?」
「どうしたものかな。今は患者がかなり多いんだ。」
「アンスラザー先生に代わっていただけばいいわ。近ごろ少し顔色が悪いし、転地すれば、きっと元気になるわ。それに、シャーロック・ホームズさんの事件には、いつも夢中じゃありませんか。」
「あの事件の一つで、何を得たか考えれば、興味を持たないほうが恩知らずだよ」と私は答えた。「だが、行くなら、すぐ荷造りをしなくては。あと三十分しかない。」
アフガニスタンでの野営生活も、少なくとも、旅支度を素早く済ませられるようになるという効用はあった。必要なものは少なく、簡単にまとまったので、三十分もたたないうちに、私は旅行鞄を携えて辻馬車に乗り、パディントン駅へと揺られていた。シャーロック・ホームズはホームを行き来していた。長い灰色の旅行用外套と、頭にぴったりした布の帽子が、その背の高い痩せた姿を、いっそう細長く見せていた。
「来てくれて、本当にありがたいよ、ワトソン」と彼は言った。「心から頼れる人間が一緒だと、大いに違う。現地の協力者は、役に立たないか、偏見があるかの、どちらかだからね。隅の席を二つ取っておいてくれ。僕は切符を買ってくる。」
客室には私たち二人きりだった。ただし、ホームズが持ち込んだ大量の新聞が、そこら中に散らばっていた。彼はその山をかき回して読み、時折メモを取り、考え込んだ。レディングを過ぎるまでそうしていたが、突然、新聞を全部ひとつの巨大な塊に丸め、網棚へ放り上げた。
「事件のことは何か聞いているかい?」と彼は尋ねた。
「一言も。ここ数日、新聞を見ていないんだ。」
「ロンドンの新聞には、あまり詳しく出ていない。事情をつかむために、最近の新聞を片端から読んでいたところだ。わかった限りでは、これは、単純だからこそひどく難しい事件の一つらしい。」
「少し逆説めいているね。」
「だが、まったくそのとおりなんだ。変わった点は、ほとんど必ず手掛かりになる。特徴のない、ありふれた犯罪ほど、犯人を突き止めるのは難しい。もっとも、今度は殺された男の息子に対し、非常に不利な材料がそろっている。」
「では、殺人なのか?」
「そう推測されている。自分の目で調べる機会を得るまでは、何一つ決めつけるつもりはない。僕にわかった限りの事情を、手短に説明しよう。
「ボスコム渓谷は、ヘレフォードシャーのロスからさほど遠くない田園地帯だ。あの辺りでいちばん大きな地主は、ジョン・ターナーという人物で、オーストラリアで財をなし、数年前に本国へ戻ってきた。その所有する農場の一つ、ハザリー農場を借りていたのが、やはりオーストラリア帰りのチャールズ・マッカーシー氏だ。二人は植民地時代からの知り合いだったので、落ち着く際に、できるだけ近くを選んだのも不自然ではない。ターナーのほうが金持ちだったらしく、マッカーシーはその借地人になったが、二人はしばしば一緒にいて、まったく対等な付き合いをしていたようだ。マッカーシーには十八歳の息子が一人、ターナーには同い年の一人娘がいた。どちらも妻には先立たれている。近隣のイギリス人の家々とは交際せず、隠遁生活を送っていたらしい。ただ、マッカーシー父子は二人とも競技が好きで、近所の競馬場ではよく姿を見られていた。マッカーシーは男と娘、二人の使用人を雇っていた。ターナーの家には相当数いて、少なくとも六人ほど。家族についてわかったのは、それくらいだ。さて、事件の事実に移ろう。
「六月三日、つまりこの前の月曜日、マッカーシーは午後三時ごろハザリーの家を出て、ボスコム池へ歩いていった。ボスコム渓谷を流れる小川が広がってできた、小さな湖だ。その朝は、男の使用人を連れてロスへ出かけていた。三時に大切な約束があるから急がなくては、とその男に言っていたそうだ。その約束から、生きて戻ることはなかった。
「ハザリー農場の家からボスコム池までは四分の一マイルで、その間を歩く姿を二人が見ている。一人は名前の出ていない老女。もう一人は、ターナー氏に雇われている猟場番のウィリアム・クラウダーだ。二人とも、マッカーシー氏は一人で歩いていたと証言している。猟場番はさらに、その姿を見てから数分もしないうちに、息子のジェームズ・マッカーシー氏が、銃を脇に抱えて同じ方向へ歩いていくのを見たという。記憶では、そのとき父親はまだ見えるところにいて、息子はあとを追っていた。夕方、惨事を聞くまでは、そのことを気にも留めなかった。
「猟場番ウィリアム・クラウダーが見失ったあとも、マッカーシー父子は目撃されている。ボスコム池は深い森に囲まれ、水際だけに草と葦が帯のように生えている。ボスコム渓谷の屋敷の門番の娘、十四歳のペイシェンス・モランが、その森の一つで花を摘んでいた。娘の話では、森の端、湖のすぐそばでマッカーシー氏と息子を見かけたが、ひどく言い争っているようだった。父親が息子を激しい言葉でののしるのを聞き、息子が父親を殴るように手を上げるのを見た。その激しさに怖くなって逃げ、家に帰ると母親に、マッカーシー父子がボスコム池のそばで口論していた、殴り合いになるのではないかと話した。言い終わるか終わらないかのうちに、若いマッカーシー氏が門番の家へ駆け込んできて、父親が森で死んでいるのを見つけたから、助けてほしいと言った。ひどく興奮し、銃も帽子もなく、右手と袖には生々しい血がついていた。ついていくと、池のそばの草の上に死体が横たわっていた。何か重い鈍器で何度も殴られ、頭が砕けていた。傷は息子の銃床でも十分につけられるものだった。その銃は、死体から数歩離れた草の上に落ちていた。こうした事情から、青年はただちに逮捕され、火曜日の検死審問で『故意の殺人』という評決が下った。水曜日にはロスの判事たちの前へ引き出され、次の巡回裁判へ送られることになった。検死官と予審法廷の前で明らかになった主な事実は、以上だ。」
「これほど不利な事件も、ちょっと想像できないね」と私は言った。「状況証拠が犯人を指し示すというなら、まさにこれだ。」
「状況証拠は、実に厄介なものだよ」ホームズは考え深げに答えた。「一つの事柄をまっすぐ指しているようでも、こちらの視点を少しずらせば、同じくらいはっきり、まったく別のものを指すことがある。もっとも、青年にとって、ひどく不利に見えることは認めなくてはならない。本当に犯人である可能性も十分ある。ただ、近所には無実を信じる人々も何人かいる。その中には、隣の地主の娘、ターナー嬢もいて、青年のために調べてくれとレストレードに頼んだ。『緋色の研究』の一件で覚えているだろう。レストレードも少々困って、僕に持ち込んできた。そういうわけで、中年の紳士二人が、自宅で静かに朝食を消化する代わりに、時速五十マイルで西へ飛んでいるんだ。」
「これほど事実が明白では」と私は言った。「君が名を上げる余地は、あまりなさそうだね。」
「明白な事実ほど、人を欺くものはない」と彼は笑って答えた。「それに、レストレード氏にはちっとも明白でなかった、別の明白な事実に出会うかもしれない。僕のことはよく知っている君だから、これを自慢とは取るまい。僕は、彼には用いることも、理解することさえできない方法で、その説を裏づけるか、打ち砕くかするつもりだ。手近な例を挙げれば、君の寝室の窓が右側にあることが、僕にははっきりわかる。だが、これほど自明なことさえ、レストレード氏が気づくかどうか、怪しいものだ。」
「いったい、どうして――」
「ワトソン、僕は君をよく知っている。軍人らしい几帳面さもね。君は毎朝ひげを剃る。この季節なら、日の光で剃るはずだ。ところが左側は、後ろへ行くほど剃り方が甘くなり、顎の角に至っては、はっきり剃り残している。つまり、そちら側は反対側ほど明るくない。君のような人間が、左右均等な明かりで鏡を見て、あれで満足するとは思えない。これは、観察と推理の、ごくささいな一例だ。そこが僕の腕の見せどころであり、これから取りかかる調査にも、いくらか役立つかもしれない。検死審問で明らかになった点に、もう一つ二つ、考えておく価値のあるものがある。」

「彼らは死体を見つけた。」
「どんなことだい?」
「逮捕されたのは、その場ではなく、ハザリー農場へ帰ったあとらしい。警部から逮捕を告げられたとき、青年は、驚きはしない、そうなっても仕方がない、と言った。この言葉で、検死陪審員の心に残っていたかもしれない疑いが、すっかり消えたのも当然だろう。」
「自白じゃないか」と私は思わず言った。
「いや、そのあとで無実を訴えている。」
「これほど不利な事実が重なったうえでは、少なくとも、ひどく疑わしい発言だ。」
「反対だよ」とホームズは言った。「現時点では、雲間に見える最も明るい光だ。いくら無実でも、状況が自分にひどく不利だとわからないほどの大ばか者ではあるまい。逮捕に驚いたり、怒ったふりをしたりしたなら、僕はむしろ大いに疑っただろう。あの状況では、驚きも怒りも不自然だ。だが、策を弄する人間には、それが得策に見えるかもしれない。率直に事態を受け入れたことは、無実の証しか、さもなければ、相当な自制心と胆力の持ち主である証しだ。報いは当然だという発言も、父親の死体のそばに立ち、その当日に親への務めを忘れて口論し、重要な証人である少女によれば、殴るように手まで上げたことを考えれば、不自然ではない。あの言葉に表れている自責と悔恨は、僕には罪ある心より、健全な心の徴候に見える。」
私は首を振った。「もっとずっと乏しい証拠で、絞首刑になった者は大勢いるよ。」
「そのとおり。そして、無実なのに絞首刑になった者も大勢いる。」
「青年自身は、何と説明しているんだ?」
「残念ながら、味方の人々をあまり勇気づけるものではない。もっとも、一つ二つ、意味深い点はある。ここにあるから、自分で読んでみたまえ。」
彼は新聞の束からヘレフォードシャーの地方紙を一部抜き出し、紙面を折って、不運な青年が事件について供述した欄を指さした。私は客室の隅に落ち着き、注意深く読んだ。次のような内容だった。
「続いて故人の一人息子、ジェームズ・マッカーシー氏が呼ばれ、以下のとおり証言した。『私は三日間ブリストルに滞在しており、先週月曜日、三日の朝、帰宅したばかりでした。帰ったとき父は留守で、女中から、馬丁のジョン・コブを連れて馬車でロスへ出かけたと聞きました。帰宅して間もなく、庭で馬車の車輪の音がしたので、窓から見ると、父が降りて、急ぎ足で庭を出ていくところでした。どちらへ向かったのかは知りません。そのあと私は銃を取り、向こう岸のウサギの繁殖地へ行こうと思って、ボスコム池のほうへぶらぶら歩き出しました。途中で猟場番のウィリアム・クラウダーに会ったのは、彼の証言どおりです。ただ、父のあとを追っていたと思ったのは間違いです。父が前にいるとは、知りませんでした。池から百ヤードほどのところで、「クーイー!」という叫びを聞きました。父と私が普段使っている合図です。急いで行くと、父は池のそばに立っていました。私を見てひどく驚いた様子で、ここで何をしているのかと、かなり乱暴に尋ねました。話をするうちに言い争いとなり、殴り合い寸前にまでなりました。父は非常に気性の激しい人でした。怒りが抑えられなくなってきたのを見て、私はその場を離れ、ハザリー農場へ戻りかけました。ところが、百五十ヤードも行かないうちに、背後で恐ろしい叫び声がしたので、駆け戻りました。父は頭にひどい傷を負い、地面に倒れて息絶えようとしていました。私は銃を落とし、父を抱き起こしましたが、ほとんどすぐに息を引き取りました。数分間そばにひざまずいてから、いちばん近いターナー氏の門番の家へ、助けを求めに行きました。戻ったとき、父のそばには誰もいませんでした。どうして傷を負ったのか、まったくわかりません。父は態度がやや冷たく、とっつきにくかったため、人好きはされませんでしたが、私の知る限り、敵と呼ぶほどの相手はいませんでした。これ以上、この件について知っていることはありません。』
「検死官――お父さんは亡くなる前に、何かあなたに言いましたか?
「証人――何か二言三言つぶやきましたが、鼠という言葉しか聞き取れませんでした。
「検死官――それをどういう意味だと思いましたか?
「証人――意味はわかりませんでした。うわごとだと思いました。
「検死官――最後の口論は、何についてだったのですか?
「証人――お答えしたくありません。
「検死官――残念ですが、ぜひ答えてもらわなくてはなりません。
「証人――本当にお話しできません。そのあと起きた悲しい事件とは、何の関係もないと断言できます。
「検死官――それを判断するのは法廷です。答えを拒めば、今後の裁判で、あなたに非常に不利になることは、言うまでもありませんね。
「証人――それでも、お断りしなければなりません。
「検死官――『クーイー』という叫びは、お父さんとあなたの間で、普段使っていた合図なのですね?
「証人――そうです。
「検死官――では、どうしてお父さんは、あなたを見る前に、ブリストルから帰ったことさえ知らないうちに、その合図をしたのでしょう?
「証人(ひどく当惑して)――わかりません。
「陪審員――叫びを聞いて戻り、瀕死のお父さんを見つけたとき、何か不審に思うものは見ませんでしたか?
「証人――はっきりとは、何も。
「検死官――どういう意味ですか?
「証人――森から開けた場所へ飛び出したとき、私はひどく動揺していて、父のこと以外、何も考えられませんでした。ただ、走っていく途中、左手の地面に何かあったような、ぼんやりした記憶があります。灰色のもの、何かの上着か、格子縞の肩掛けのように思いました。父のそばから立ち上がったとき、見回して捜しましたが、もうありませんでした。
「『助けを呼びに行く前に、なくなっていたということですか?』
「『はい、なくなっていました。』
「『何だったかは、言えませんか?』
「『ええ。何かあったという気がするだけです。』
「『死体から、どのくらい離れていましたか?』
「『十二ヤードくらいです。』
「『森の端からは?』
「『同じくらいです。』
「『では、誰かが持ち去ったとすれば、あなたが十二ヤード以内にいる間に、ということですね?』
「『はい。ただ、私は背を向けていました。』
「以上で証人尋問は終了した。」
「ここを見ると」と私は記事をたどりながら言った。「検死官は結びの言葉で、若いマッカーシーにかなり厳しいね。姿を見る前に父親が合図をしたという矛盾、父親との会話の詳細を明かそうとしないこと、そして臨終の言葉についての奇妙な説明を指摘している。もっともだと思う。検死官の言うとおり、どれも息子には非常に不利だ。」
ホームズは低く笑い、クッションのきいた座席に体を伸ばした。「君も検死官も、わざわざ苦労して、青年にとって最も有利な点ばかり拾い出しているね。君たちは、彼の想像力を、あるときは乏しすぎるとし、あるときは豊かすぎるとしている。それがわからないかい? 陪審員の同情を得られるような口論の原因をでっち上げられなかったなら、想像力が乏しすぎる。一方、死に際の鼠への言及や、消えた布の話など、あんな奇想天外なことを頭の中からひねり出したなら、豊かすぎる。いや、僕はこの青年の言うことが真実だという立場から、この事件に取り組もう。その仮説が、どこへ導くか見てみるんだ。さて、ここに携帯版のペトラルカがある。現場へ着くまで、もう事件の話は一言もしないよ。昼食はスウィンドンだ。あと二十分で着くようだね。」
美しいストラウド渓谷を抜け、広く輝くセヴァーン川を渡り、ようやく愛らしい田舎町ロスへ着いたのは、四時近くだった。ホームでは、フェレットに似た痩せた男が待っていた。こそこそして、抜け目のなさそうな顔だった。田園の環境に合わせ、薄茶色の防塵コートと革の脚絆をつけていたが、スコットランドヤードのレストレードだと、すぐにわかった。私たちは彼と一緒に、すでに部屋を取ってあるヘレフォード・アームズへ向かった。
「馬車を頼んでおきました」と、お茶を飲みながらレストレードが言った。「あなたの精力的な性分は知っていますからね。犯罪現場を見ないことには、落ち着かないでしょう。」
「親切なことだ。買いかぶってくれて、ありがとう」とホームズは答えた。「すべては気圧次第だがね。」
レストレードは驚いた顔をした。「どういう意味です?」
「気圧計はどうだろう。二十九だね。風もなく、空には雲一つない。ここには吸ってやらなければならない紙巻き煙草が一ケースあるし、このソファは、田舎の宿でよく見るひどい代物とは比べものにならない。今夜、馬車を使うことは、たぶんないだろう。」
レストレードは大目に見るように笑った。「新聞だけで、もう結論をお出しになったのでしょうね。事件は実にはっきりしているし、調べれば調べるほど、はっきりするんです。しかし、女性の頼みは断れません。まして、あれほど強く言われては。あなたの評判を聞いていて、ぜひ意見をうかがいたいと言うんです。あなたにできることで、私がまだしていないことは何もないと、何度も言ったのですが。おや、これは! ちょうど、その人の馬車が玄関に来ましたよ。」
言い終わるか終わらないかのうちに、一人の若い女性が部屋へ駆け込んできた。私が生涯で見た中でも、指折りの美人だった。すみれ色の目を輝かせ、唇を少し開き、頬をばら色に染めている。強い興奮と不安に駆られ、生来の慎み深さも忘れていた。
「ああ、シャーロック・ホームズさん!」彼女は私たちを順に見て、最後に、女の鋭い直感で私の友人に目を定めた。「来てくださって、本当にうれしいです。それを申し上げたくて、馬車で参りました。ジェームズがやったのではありません。私にはわかっています。あなたにも、まずそれを信じて、調べ始めていただきたいんです。その点だけは、決して疑わないでください。私たちは小さいころからの知り合いで、あの人の欠点も、誰よりよく知っています。でも、蠅一匹傷つけられないほど優しい人なんです。本当のあの人を知っていれば、そんな容疑は馬鹿げています。」
「疑いを晴らせればと思っています、ターナーさん」とシャーロック・ホームズは言った。「できる限りのことをするのは、お約束します。」
「でも、証言はお読みになったのでしょう。何かお考えはありませんか? どこか抜け道や、ほころびは? あなたご自身も、無実だと思っていらっしゃいませんか?」
「その可能性は、非常に高いと思います。」
「ほら、ごらんなさい!」彼女は顔を上げ、挑むようにレストレードを見た。「お聞きになったでしょう! 希望をくださるわ。」
レストレードは肩をすくめた。「どうも、同業者は、少し結論を急ぎすぎたようですね。」
「でも、正しいんです。ええ、正しいとわかります。ジェームズはやっていません。それに、お父様との口論のことですけど、検死官に理由を話さなかったのは、私に関わることだったからだと、きっとそう思います。」
「どう関わっていたのです?」とホームズは尋ねた。
「今は、何も隠している場合ではありませんね。ジェームズとお父様は、私のことで、何度も意見が合いませんでした。マッカーシーさんは、私たちをぜひ結婚させたがっていたんです。ジェームズと私は、ずっと兄妹のように愛し合ってきました。でも、もちろん、あの人はまだ若くて、世の中のことも、あまり知らなくて、それに――その――まだ、そういうことをしたくなかったのも、当然です。だから口論になりました。あのときも、きっとそれだったんです。」
「あなたのお父さんは?」とホームズは尋ねた。「その結婚に賛成でしたか?」
「いいえ、父も反対でした。賛成していたのは、マッカーシーさんだけです。」
ホームズが鋭く問いかけるような視線を向けると、みずみずしい若い顔が、さっと赤らんだ。
「教えてくださって、ありがとう」と彼は言った。「明日お訪ねすれば、お父さんにお会いできますか?」
「お医者様がお許しにならないと思います。」
「お医者さん?」
「ええ、お聞きになっていませんか? 父は何年も前から体が丈夫ではなかったのですが、このことで、すっかり参ってしまったんです。寝込んでいて、ウィローズ先生は、体がひどく弱り、神経もぼろぼろだとおっしゃっています。マッカーシーさんは、父の昔のヴィクトリア時代を知る、たった一人の生きた知り合いでしたから。」
「ほう、ヴィクトリア! それは重要だ。」
「ええ、鉱山にいたころです。」
「なるほど、金鉱ですね。ターナー氏はそこで財をなしたと聞いています。」
「ええ、そのとおりです。」
「ありがとう、ターナーさん。とても役に立つお話でした。」
「明日、何かわかったら知らせてください。きっと、刑務所へジェームズに会いにいらっしゃるのでしょう。ああ、ホームズさん、そうでしたら、どうか、私は無実を信じていると伝えてください。」
「必ず伝えます、ターナーさん。」
「もう帰らなくては。父の病状が悪くて、私がそばを離れると、とても寂しがるんです。さようなら。どうか、お仕事に神様のご加護がありますように。」
彼女は入ってきたときと同じ勢いで部屋を出ていった。馬車の車輪が通りを遠ざかる音が聞こえた。
「ホームズ、あなたには失望しましたよ」数分の沈黙のあと、レストレードは重々しく言った。「どうせ裏切ることになる希望を、なぜ持たせるんです? 私はさほど情にもろくはありませんが、あれは残酷です。」
「僕には、ジェームズ・マッカーシーの疑いを晴らす道が見えてきたと思う」とホームズは言った。「刑務所で会う許可証はあるかい?」
「ええ、ただし、あなたと私の二人だけです。」
「では、外出しないという決心は変えよう。今から列車でヘレフォードへ行って、今夜のうちに会えるかな?」
「十分間に合います。」
「では、そうしよう。ワトソン、退屈させてすまないが、二時間ほどで戻るよ。」
私は二人と駅まで歩き、そのあと小さな町の通りをぶらついた。やがて宿へ戻り、ソファに横になって、黄色い表紙の通俗小説を読もうとした。しかし、私たちが手探りしている深い謎に比べると、その貧弱な筋立てはあまりに薄っぺらだった。気持ちは絶えず作り話から現実へそれ、ついには本を部屋の向こうへ投げ出して、その日の出来事を考えることに没頭した。あの不幸な青年の話がすべて本当だとしたら、父親と別れてから、悲鳴に呼び戻されて森の空き地へ駆け込むまでの間に、どんな恐ろしいことが、どんな思いもかけない異常な災難が起きたのだろう? 恐ろしく、命を奪う何かだ。いったい何だろう? 傷の状態が、医師としての勘に何かを教えてはくれないか。私はベルを鳴らし、検死審問の逐語記録を載せた地元の週刊新聞を持ってこさせた。医師の証言によれば、左頭頂骨の後方三分の一と、後頭骨の左半分が、鈍器による強打で粉砕されていた。私は自分の頭で、その位置を確かめた。明らかに、背後からの一撃だ。口論を目撃されたとき、青年は父親と向かい合っていたのだから、ある程度は被告に有利だった。もっとも、大した意味はない。殴られる前に、父親が背を向けたかもしれないからだ。それでも、ホームズに指摘する価値はあるだろう。それから、死に際の鼠という奇妙な言葉。あれは何を意味するのか? うわごとではあるまい。突然の一撃で死ぬ者が、普通うわごとを言うものではない。むしろ、何に命を奪われたか、説明しようとしたのだろう。だが、何を指すのか? 私はあり得る説明を求めて、頭を絞った。そして、若いマッカーシーが見た灰色の布。あれが本当なら、犯人は逃げる際に衣服の一部、おそらく外套を落とし、息子が十二歩も離れていないところで、背を向けてひざまずいている間に、大胆にも戻って拾ったことになる。何という謎と不可解のもつれだろう! レストレードの意見も、無理はなかった。それでも私は、シャーロック・ホームズの洞察力を深く信じていた。新しい事実が出るたびに、青年の無実への確信を強めているように見える限り、希望を失うことはできなかった。
シャーロック・ホームズが戻ったのは遅かった。レストレードは町に下宿していたので、一人で帰ってきた。
「気圧計は、まだかなり高いね」と彼は腰を下ろして言った。「地面を調べる前に雨が降らないことが大切なんだ。一方で、ああいう細かな仕事には、心身ともに最良の、最も鋭敏な状態で臨むべきだ。長旅で疲れたまま取りかかりたくなかった。若いマッカーシーには会ってきたよ。」
「何かわかったかい?」
「何も。」
「手掛かりは得られなかった?」
「まったく。一時は、誰がやったか知っていて、男か女か、その人をかばっているのかと思った。だが今は、彼もほかの誰とも同じように、途方に暮れていると確信している。顔立ちはいいが、あまり頭の回る青年ではない。根は善良だと思う。」
「趣味には感心できないね」と私は言った。「あのターナー嬢ほど魅力的な女性との結婚を嫌がっていたのが、本当なら。」
「ああ、それには、少々つらい事情がある。彼女に夢中なんだ。正気を失うほど愛している。だが二年ほど前、まだほんの子供で、彼女のことも本当に知る前――彼女は寄宿学校へ五年間行っていたんだ――あのばかは、ブリストルの酒場の女給につかまり、登記所で結婚してしまった。誰も何も知らない。目玉と引き換えにでもしたいことを、絶対にできないとわかっているのに、なぜしないと責められる。どれほど気がおかしくなる思いだったか、想像できるだろう。最後に父親と会ったとき、ターナー嬢に求婚しろとしつこく迫られて両手を振り上げたのも、その激情のためだ。一方、自活する道はなく、誰に聞いても冷酷な男だった父親は、真実を知れば、完全に勘当しただろう。ブリストルでの三日間は、その女給の妻と過ごしていた。父親は居場所を知らなかった。この点を覚えておいてくれ。重要だ。ただ、災い転じて福となることもある。女給は新聞で、彼が重大な嫌疑を受け、絞首刑になりそうだと知ると、あっさり見捨てた。そして、実はバミューダの造船所に夫がいるから、二人の間には本当の夫婦の縁はないと、手紙をよこした。その知らせは、若いマッカーシーにとって、これまでの苦しみを埋め合わせる慰めになったようだ。」
「だが、無実なら、誰がやったんだ?」
「ああ、誰だろうね。特に二つの点に注目してほしい。一つは、殺された男が池で誰かと会う約束をしていたこと。そして、その誰かは息子ではあり得ない。息子は留守で、いつ帰るか知らなかったからだ。もう一つは、息子が帰ったと知る前に、男が『クーイー!』と叫んだこと。この二つが、事件を左右する核心だ。さて、よければ、ジョージ・メレディスの話でもしよう。ほかのつまらないことは、明日までお預けだ。」
ホームズの予想どおり雨は降らず、朝は明るく、雲一つなかった。九時にレストレードが馬車で迎えに来て、私たちはハザリー農場とボスコム池へ出発した。
「今朝、重大な知らせがありました」とレストレードは言った。「屋敷のターナー氏は、もう命が危ないほど、病状が悪いそうです。」
「かなりの年なのだろう?」とホームズが言った。
「六十くらいです。ただ、外国暮らしで体を壊し、以前から健康が衰えていました。今回のことで、ひどくこたえたのでしょう。マッカーシーとは旧友でしたし、つけ加えれば、大恩人でもありました。ハザリー農場を、地代なしで使わせていたとわかったんです。」
「ほう! それは興味深い」とホームズは言った。
「ええ。それ以外にも、あらゆることで面倒を見てやっていました。この辺りでは、誰もが、その親切ぶりを話しています。」
「そうか。それなら、少し妙だと思わないかい? マッカーシーには、どうやらほとんど財産がなく、ターナーにそれほど世話になっていた。それなのに、自分の息子を、おそらく全財産の相続人であるターナーの娘と結婚させようとする。しかも、求婚さえすれば、あとは当然まとまるというような、自信満々の態度だ。ターナー自身が反対していたとわかっているだけに、なおさら不思議だ。娘がそう言ったからね。そこから何か導き出せないかい?」
「出ましたね、演繹と推論が」とレストレードは私に目配せした。「ホームズ、私は理論や空想を追って飛び回らなくても、事実を扱うだけで手いっぱいです。」
「そのとおり」とホームズは澄ました顔で言った。「君は事実を扱うのに、ずいぶん苦労している。」
「ともかく、あなたにはなかなかつかめないらしい事実を、一つつかんでいますよ」とレストレードは、少しむっとして答えた。
「それは?」
「父マッカーシーが、息子マッカーシーに殺されたことです。それに反する説は、どれも月光のようにつかみどころのない、たわごとにすぎません。」
「それでも、月明かりは霧より明るいさ」とホームズは笑った。「おや、僕の大きな見当違いでなければ、左に見えるのがハザリー農場だろう。」
「ええ、そうです。」
それは横に広い、住み心地のよさそうな二階建てで、石板葺きの屋根を載せ、灰色の壁には黄色い地衣類が大きな斑点を作っていた。しかし、下ろされたブラインドと、煙の出ない煙突が、この恐ろしい出来事の重みをなお背負っているかのように、打ちひしがれた印象を与えた。私たちが戸口を訪ねると、女中はホームズに頼まれ、主人が死んだときに履いていた靴と、息子の靴を一足見せてくれた。ただし、息子のものは当日履いていた靴ではなかった。ホームズは七、八か所を念入りに測り、中庭へ案内してくれるよう頼んだ。そこから私たちは、ボスコム池へ続く曲がりくねった小道を進んだ。

「女中は靴を見せてくれた。」
こうして手掛かりを追うとき、シャーロック・ホームズは別人になった。ベーカー街の静かな思想家、論理家としてしか知らない者なら、同じ男とは気づかなかっただろう。顔は赤く、どす黒くなり、眉は二本の硬い黒線となって寄り、その下で目が鋼のように光った。顔を下へ向け、肩をかがめ、唇を固く結び、長く筋張った首には、血管が鞭の綱のように浮き出た。追跡を求める獣そのものの欲望に、鼻孔が膨らむようだった。目の前のことに心をすっかり集中し、質問や言葉は耳に入らない。せいぜい、短くいらだったうなり声が返るだけだった。素早く、無言で牧草地の小道を進み、森を抜けてボスコム池へ向かった。この地方一帯と同じく、湿った沼地で、小道にも、その両側の短い草にも、多くの足跡が残っていた。ホームズは時には急ぎ、時にはぴたりと止まり、一度は牧草地へ少し回り道をした。レストレードと私はあとに続いた。警部は無関心で、軽蔑した様子だったが、私は、友人の動作には一つ残らず明確な目的があると確信し、興味深く見守った。
幅五十ヤードほどの、葦に囲まれた小さな水面であるボスコム池は、ハザリー農場と、富裕なターナー氏の私有園地の境にあった。対岸の森の上には、富豪の住まいを示す赤い尖塔が突き出していた。ハザリー側には木々が密生し、森の端と水際の葦との間に、幅二十歩ほどの、水を含んだ草地が細長く続いていた。レストレードは死体の発見場所を正確に示した。実際、地面がひどく湿っていたので、打ち倒された男が残した跡は、私にもはっきり見えた。ホームズには、踏み荒らされた草から、さらに多くが読み取れるらしかった。熱のこもった顔と、凝らされた目が、それを物語っていた。においを拾う犬のように辺りを駆け回ると、彼は警部に向き直った。
「どうして池へ入ったんだ?」と尋ねた。
「熊手で探ったんです。凶器か、ほかの手掛かりでもあるかと思って。しかし、どうして――」
「ああ、説明している暇はない! 内側へねじれた君の左足の跡が、そこら中にある。モグラにだって追えるよ。そして、あそこで葦の中へ消えている。まったく、皆が水牛の群れのように来て、そこら中を踏み荒らす前に僕が来ていれば、どれほど簡単だったか。ここは門番と一緒に来た連中の跡だ。死体の周囲六、八フィートにある足跡を、すっかり覆ってしまった。だが、ここには同じ足による三筋の跡がある。」
彼は拡大鏡を取り出し、よく見るために防水外套の上へ腹ばいになった。その間も、私たちにというより、独り言のように話し続けた。「これは若いマッカーシーの足だ。二度は歩き、一度は全速力で走っている。だから前の足裏は深く、かかとはほとんど見えない。話の裏づけになる。父親が倒れているのを見て走ったんだ。こちらは、行ったり来たりした父親の足。では、これは何だ? 息子が立って話を聞いていたときの銃床だ。こっちは? ははあ! 何がある? 爪先立ちだ! 爪先立ち! しかも角張っている。ずいぶん変わった靴だ! 来て、去って、また戻っている――もちろん、外套を取りに来たんだ。さて、どこから来た?」
彼は行きつ戻りつし、足跡を見失ったり、また見つけたりした。やがて私たちは森へかなり入り、この辺りでいちばん大きなブナの木の陰へ来た。ホームズはその向こう側まで跡をたどり、満足げに小さく声を上げて、再びうつぶせになった。長い間そこにとどまり、葉や枯れ枝をひっくり返し、私にはただのちりにしか見えないものを封筒へ集め、地面だけでなく、手の届く限りの樹皮まで拡大鏡で調べた。苔の間に角張った石が落ちていて、それも丹念に調べて拾い上げた。それから森の小道をたどり、街道へ出た。そこで、すべての跡が途絶えた。
「ずいぶん興味深い事件だった」と、普段の調子へ戻って言った。「右にある灰色の家が、門番の家だろう。中へ入ってモランと少し話し、ひと言書きつけたい。そうしたら、昼食に戻ろう。君たちは先に馬車へ行っていてくれ。すぐ追いつく。」
十分ほどして、私たちは馬車に戻り、ロスへ引き返した。ホームズは、森で拾った石をまだ持っていた。
「これは、君にも面白いだろう、レストレード」彼は石を差し出した。「これで殺したんだ。」
「何の跡もありませんが。」
「ないよ。」
「では、どうしてわかるんです?」
「下に草が生えていた。あそこにあったのは、ほんの数日だ。近くには、その石が取られた場所もない。傷にも一致する。ほかの凶器の形跡もない。」
「犯人は?」
「背が高く、左利きで、右脚を引きずる。底の厚い猟靴と灰色の外套を着用し、インド葉巻をホルダーで吸い、ポケットには切れ味の悪い小型ナイフを持っている。ほかにもいくつか特徴はあるが、捜すには、これくらいで十分だろう。」
レストレードは笑った。「どうも、まだ信じられませんね。理論は結構ですが、相手にするのは、現実主義のイギリスの陪審員ですから。」
「いずれ、わかるさ」とホームズは静かに答えた。「君は君の方法で、僕は僕の方法でやろう。午後は忙しくなる。たぶん、夕方の列車でロンドンへ戻る。」
「事件を未解決のままにして?」
「いや、解決して。」
「しかし、謎は?」
「解けた。」
「では、犯人は誰です?」
「今、説明した紳士だ。」
「だから、誰なんです?」
「突き止めるのは難しくないだろう。この辺りは、それほど人が多くない。」
レストレードは肩をすくめた。「私は実務家です。脚の悪い左利きの紳士を捜して、田舎を歩き回るわけにはいきません。スコットランドヤードの笑いものになりますよ。」
「わかった」とホームズは静かに言った。「機会は与えたよ。君の下宿だ。では、また。出発前に、ひと言知らせる。」
レストレードを下宿で降ろして宿へ戻ると、昼食が用意されていた。ホームズは黙り込み、困った立場に置かれた人のような苦しげな顔で、深く考えていた。
「ねえ、ワトソン」と、食卓が片づけられると彼は言った。「その椅子に座って、少し僕の講釈を聞いてくれ。どうしたものか迷っている。君の助言がほしいんだ。葉巻に火をつけたまえ。説明しよう。」
「どうぞ。」
「さて、この事件を考えるにあたり、若いマッカーシーの話の二つの点が、すぐに二人の注意を引いた。僕には有利に、君には不利に映った点だ。一つは、父親が姿を見る前に『クーイー!』と叫んだということ。もう一つは、死に際に鼠に触れたという妙な話だ。何か二言三言つぶやいたが、息子にはそれしか聞き取れなかった。この二点から調査を始める。まず、青年の言うことは、すべて真実だと仮定するんだ。」
「では、『クーイー!』は?」
「息子に向けたものではないのは、明らかだ。父親の知る限り、息子はブリストルにいた。聞こえるところにいたのは、偶然にすぎない。『クーイー!』は、約束の相手の注意を引くためだった。ところが『クーイー』は、はっきりオーストラリア特有の叫びで、オーストラリア人同士が使うものだ。ボスコム池でマッカーシーが会おうとしていたのは、オーストラリアにいたことのある人物だと、強く推測できる。」
「では、鼠は?」
シャーロック・ホームズはポケットから折り畳んだ紙を出し、テーブルに広げた。「ヴィクトリア植民地の地図だ」と彼は言った。「昨夜、ブリストルへ電報を打って取り寄せた。」
彼は地図の一部を手で隠した。「何と読める?」
「アラット」と私は読んだ。
「では、今は?」
彼は手を上げた。
「バララット。」
「そのとおり。男が口にしたのは、その言葉だ。息子には最後の二音節しか聞こえなかった。[訳注:英語の rat〈鼠〉と地名 Ballarat の末尾の音をかけている。]犯人の名を言おうとしたんだ。バララットの誰それ、と。」
「見事だ!」
私は叫んだ。
「明らかなことさ。これで、範囲はずいぶん狭まった。灰色の衣服を持っていたことは、息子の証言が正しければ確実な、第三の点だ。漠然とした状態から、灰色の外套を着た、バララット出身のオーストラリア人という、はっきりした姿が現れた。」
「確かに。」
「しかも、土地に詳しい人物だ。池へは農場か屋敷の敷地を通るしかなく、よそ者がうろつける場所ではない。」
「そのとおりだ。」
「そこで、今日の調査になる。地面を調べ、あの間抜けなレストレードに教えた、犯人のささいな特徴をつかんだ。」
「だが、どうやって?」
「僕の方法は知っているだろう。細かなことの観察が土台だ。」
「身長は歩幅から、おおよそ判断できるだろうね。靴も足跡からわかる。」
「ああ、特徴のある靴だった。」
「だが、脚が悪いことは?」
「右足の跡は、いつも左より薄かった。右にかける体重が少ない。なぜか? 引きずっていたからだ。脚が悪かった。」
「左利きなのは?」
「君自身も、検死審問で医師が述べた傷の状態に注目した。真後ろからの一撃なのに、左側を打たれている。左利きでなければ、どうしてそうなる? 犯人は父子が話している間、あの木の陰に立っていた。そこで煙草まで吸っている。葉巻の灰が見つかり、煙草の灰についての専門知識から、インド葉巻だと判断できた。知ってのとおり、僕はこれを少し研究して、パイプ煙草、葉巻、紙巻き煙草、百四十種の灰について、小さな論文を書いている。灰が見つかったので、辺りを捜すと、苔の中に捨てた吸い殻があった。ロッテルダムで巻かれる種類の、インド葉巻だった。」
「ホルダーは?」
「端に口をつけた跡がなかった。だから、ホルダーを使っていた。吸い口は、噛み切ったのではなく、切り落としてあった。だが、切り口がきれいではなかったので、切れ味の悪い小型ナイフだと推理した。」
「ホームズ」と私は言った。「君はこの男に、逃れられない網をかけた。そして、首にかかった縄を切ったのと同じくらい確実に、無実の人間の命を救った。すべてがどこを指しているか、僕にもわかった。犯人は――」
「ジョン・ターナー様です」宿の給仕が居間の扉を開き、客を通しながら告げた。
入ってきた男は、異様なほど印象的な姿だった。脚を引きずる遅い歩みと、丸まった肩は、老衰を思わせた。しかし、深いしわの刻まれた、岩のように厳しい顔立ちと、巨大な手足は、肉体にも気性にも、並外れた強さがあることを示していた。乱れたひげ、白髪交じりの髪、濃く突き出して垂れた眉が、威厳と力を添えていたが、顔は灰のように白く、唇と鼻孔の端には青みがさしていた。致命的な慢性病に冒されていることが、私には一目でわかった。
「どうぞ、ソファへ」とホームズは優しく言った。「手紙は届きましたか?」
「ええ、門番が持ってきました。醜聞を避けるため、ここで会いたいとありましたが。」
「僕が屋敷へ行けば、人がうわさをすると思ったのです。」
「なぜ、私に会いたかったのです?」
疲れた目に絶望を浮かべ、男は友人を見た。すでに答えを知っているかのようだった。
「ええ」とホームズは、言葉よりも、その目に答えた。「そのとおりです。マッカーシーのことは、すべてわかっています。」
老人は顔を両手に埋めた。「神よ、お助けを!」と叫んだ。「だが、あの青年を不幸にするつもりはなかった。誓って言うが、巡回裁判で不利になれば、必ず名乗り出るつもりだった。」
「それを聞いて、安心しました」とホームズは厳粛に言った。
「大事な娘さえいなければ、今すぐにも話した。娘の心を砕いてしまう――私が逮捕されたと聞けば、あの子は耐えられない。」
「そうなるとは限りません」とホームズは言った。
「何ですって!」
「僕は官憲ではありません。ここへ来るよう求めたのは、お嬢さんだと承知していますし、その利益のために働いています。ただ、若いマッカーシーは、救わなくてはなりません。」
「私は死にかけている人間だ」と老ターナーは言った。「長年、糖尿病を患っている。医者は、一か月生きられるかどうかと言っている。それでも、牢屋よりは、自分の家で死にたい。」
ホームズは立ってテーブルにつき、紙の束を前に置いてペンを取った。「真実を話してください。事実を書き留めます。それに署名をしていただき、ワトソンが証人になります。いざというときには、この告白を提出して、若いマッカーシーを救えます。どうしても必要な場合以外には使わないと、お約束します。」
「それがよかろう」と老人は言った。「巡回裁判まで生きているかもわからない。私には大した違いはないが、アリスに衝撃を与えたくはない。では、すべて話そう。長い年月をかけて起きたことだが、話すのに、そう時間はかからない。
「あなた方は、死んだマッカーシーを知らない。あれは悪魔の化身だった。断言する。神が、ああいう男の魔手から、あなた方を守ってくださるように。あいつは二十年間、私をつかんで離さず、人生を台無しにした。まず、どうしてあいつに握られたかを話そう。
「六〇年代の初め、金鉱でのことだ。私は若く、血の気が多く、向こう見ずで、どんなことにも手を出した。悪い仲間に入り、酒に溺れ、自分の鉱区では運に恵まれず、奥地へ逃げ込んだ。ひと言で言えば、こちらでいう追い剝ぎになったのだ。仲間は六人。時折牧場を襲ったり、金鉱へ向かう荷馬車を止めたりして、荒々しく自由な暮らしをした。私はバララットのブラック・ジャックと名乗り、我々は今も植民地では、バララット一味として覚えられている。
「ある日、バララットからメルボルンへ金の輸送隊が下りてきた。我々は待ち伏せし、襲った。護衛の騎兵は六人、こちらも六人で、危ない勝負だったが、最初の一斉射撃で四人を鞍から落とした。しかし、獲物を手に入れるまでに、こちらも三人死んだ。私は荷馬車の御者の頭に拳銃を突きつけた。その男こそ、マッカーシーだった。あのとき撃っておけばよかったと、今では心から思う。だが、命を助けた。邪悪な小さな目が、顔の特徴を一つ残らず覚え込むように、じっと私を見ていたのに。我々は金を持って逃げ、金持ちになり、疑われることなくイギリスへ渡った。そこで昔の仲間と別れ、静かに、まっとうな暮らしをしようと決めた。たまたま売りに出ていたこの土地を買い、悪い方法で得た金の埋め合わせに、少しでも人のためになることをしようと努めた。結婚もした。妻は若くして死んだが、いとしいアリスを残してくれた。ほんの赤ん坊のころから、その小さな手は、何にもできなかったほど、私を正しい道へ導いてくれた。要するに、私は心を入れ替え、過去を償おうと、精いっぱい努力した。すべて順調だった。マッカーシーに捕まるまでは。
「投資の用事でロンドンへ出たとき、リージェント・ストリートであいつに会った。まともな上着も靴もない、みすぼらしい姿だった。
「『ここにいたか、ジャック』と、あいつは私の腕に触れて言った。『これからは家族同然に付き合おうじゃないか。俺と息子の二人だ。面倒を見てもらおう。嫌だというなら――イギリスは立派な法治国だからな。声をかければ、どこにでも警官がいる。』
「こうして二人は西部へやって来た。振り払うことはできず、それ以来、私の最上の土地で、地代も払わず暮らしてきた。私には休息も、平安も、忘却もなかった。どちらを向いても、すぐそばに、あのずる賢い、にやついた顔があった。アリスが育つにつれ、ますますひどくなった。私が警察よりも、娘に過去を知られることを恐れていると、すぐ見抜いたからだ。欲しがれば、何でも与えねばならなかった。土地、金、家、何であれ、文句も言わずに与えた。ところが、とうとう、与えられないものを要求した。アリスをよこせと言ったのだ。
「息子も、私の娘も、成長していた。私が病弱なのは知れていたので、息子に全財産を継がせるのは、うまい手だと思ったのだろう。だが、そこでは譲らなかった。あいつの呪われた血を、私の血に混ぜたくはなかった。青年が嫌いだったのではない。だが、あいつの血が流れている。それだけで十分だった。私は断固として拒んだ。マッカーシーは脅した。私は、やれるものならやってみろと突っぱねた。それで、両家の中間にある池で会い、話し合うことになった。
「行ってみると、あいつは息子と話していた。そこで葉巻を吸い、木の陰で、一人になるのを待った。だが、話を聞いているうちに、私の中の暗く苦いものが、すべて湧き上がってくるようだった。あいつは息子に、私の娘と結婚しろと迫っていた。娘の気持ちなど、まるで街娼でも相手にするように、少しも顧みなかった。私も、何より大切なものも、こんな男の手中にあると思うと、気が狂いそうになった。この鎖を断ち切れないのか? 私はすでに死にかけ、捨て身の人間だった。頭ははっきりし、手足にもまだ力はあったが、自分の運命は決まっていると知っていた。だが、残される私の名誉と、娘は! あの汚らしい舌を黙らせさえすれば、どちらも救える。私がやったのです、ホームズさん。もう一度でもやるでしょう。深い罪を犯したが、それを償うため、殉教者のような人生を送ってきた。だが、私を縛ったのと同じ網に、娘まで絡め取られることには、耐えられなかった。汚らしい毒獣を殺すほどのためらいもなく、あいつを打ち倒した。叫び声で息子が戻ってきたが、私は森へ逃げ込んでいた。ただ、逃げるとき落とした外套を取りに、戻らねばならなかった。皆さん、これが、起きたことの真実です。」
「あなたを裁くのは、僕の役目ではありません」老人が書き上げられた供述書に署名する間、ホームズは言った。「僕たちが、そんな誘惑にさらされることのないよう祈ります。」
「そうであってほしい。では、どうするおつもりですか?」
「ご病状を考え、何もしません。巡回裁判より高い法廷で、間もなく自分の行為を問われることは、ご自身でも承知しているでしょう。この告白は預かります。マッカーシーが有罪となれば、使わざるを得ません。そうならなければ、決して人目に触れさせません。あなたが生きていても、亡くなっていても、その秘密は、私たちが守ります。」
「では、さらばです」と老人は厳粛に言った。「いつかあなた方が死の床に就くとき、私の最期に安らぎを与えたという思いが、その床を穏やかなものにしてくれるでしょう。」
大きな体全体を震わせ、よろめきながら、老人はゆっくり部屋を出ていった。
「神よ、我々をお救いください!」長い沈黙のあと、ホームズは言った。「運命はなぜ、哀れな、力のない虫けらに、こんな仕打ちをするのだろう? こういう事件を聞くたび、僕はバクスターの言葉を思い出し、こう言わずにいられない。『神の恵みがなければ、あそこを行くのは、シャーロック・ホームズだった』。」
ジェームズ・マッカーシーは、ホームズがまとめて弁護人に渡した、数々の反論によって、巡回裁判で無罪となった。老ターナーは、私たちと会ってから七か月生きたが、今は亡い。そして、その息子と娘は、二人の過去に垂れこめる黒い雲を知らぬまま、やがて幸せに結ばれる見込みである。
第五の冒険 オレンジの種五つ
八二年から九〇年までの、シャーロック・ホームズの事件に関するメモや記録を見返すと、奇妙で興味深い特徴を持つものがあまりに多く、どれを選び、どれを省くか、容易には決められない。ただ、すでに新聞で世に知られたものもあれば、友人が比類なく備えていた独特の資質――この一連の記録で明らかにしようとしているもの――を発揮する余地のなかった事件もある。また、彼の分析力をもってしても解けず、物語にすれば、始まりはあっても終わりのないものになる事件もある。一部しか明らかにならず、彼が重んじた厳密な論理的証明よりも、憶測や推測に基づいて説明されるものもある。しかし、その最後の種類に属する一件は、細部があまりに異様で、結末もあまりに驚くべきものだったので、決して解明されず、おそらく今後も完全には解明されない点があるにもかかわらず、いくらか書き残しておきたいと思う。
八七年には、大小さまざまに興味を引く事件が相次ぎ、私はその記録を保管している。この一年だけの見出しにも、パラドルの部屋の事件、家具倉庫の地下室に豪華なクラブを構えた素人乞食協会の事件、イギリスのバーク船[訳注:帆の組み合わせで分類される帆船の一種]ソフィー・アンダーソン号の遭難にまつわる一件、ウッファ島でのグライス・パタソン一家の奇妙な冒険、そしてキャンバーウェル毒殺事件がある。最後の事件では、ご記憶の方もあろうが、シャーロック・ホームズは死者の時計を巻くことによって、その二時間前にも巻かれていたこと、したがって死者はその二時間以内に床へ入ったことを証明した。この推論は、事件解決にきわめて重要だった。これらはいつか書くかもしれないが、今、筆を取って記そうとしている奇妙な出来事の連鎖ほど、異様な特徴を持つものは、一つもない。
九月も末のころで、秋分の嵐が、ことのほか激しく吹き始めていた。一日中、風が叫び、雨が窓を打ちつけた。人の手になる大都市ロンドンの中心にいてさえ、私たちは一瞬、日々の習慣から心を引き離され、自然の巨大な力の存在を意識せざるを得なかった。それは、檻の中の野獣のように、文明の格子越しに人間へほえかかっていた。夕闇が深まるにつれて、嵐はますます強く、騒がしくなり、煙突の中で風が子供のように泣き、すすり泣いた。シャーロック・ホームズは暖炉の片側に不機嫌そうに座り、犯罪記録の相互参照索引を作っていた。私は反対側で、クラーク・ラッセルの優れた海洋小説の一つに読みふけっていた。やがて外の暴風のうなりが物語に溶け込み、雨のはねる音は、海の波が長く砕ける音へ変わるようだった。妻は母親の家へ出かけており、私は数日間、再びベーカー街の懐かしい部屋の住人となっていた。
「おや」と私は友人へ目を上げた。「今のは確かにベルだ。こんな晩に誰だろう? 君の友達かな?」
「君のほかに友達はいないよ」と彼は答えた。「訪問者を歓迎するほうでもない。」
「では、依頼人?」
「そうなら重大な事件だ。この天気で、この時刻に外へ出るのは、よほどのことだよ。だが、大家の女将さんの、なじみの誰かだろうと思う。」
しかし、シャーロック・ホームズの推測は外れた。廊下で足音がし、扉がたたかれたからだ。彼は長い腕を伸ばし、ランプの向きを自分からそらして、新来の客が座るはずの空いた椅子へ向けた。「どうぞ!」と言った。
入ってきたのは若い男で、多く見ても二十二歳ほどだった。身だしなみがよく、服もきちんと着こなし、物腰にはどこか上品で繊細なところがあった。手に持つ傘から立つ湯気と、長く光る防水外套が、どれほど荒れた天候の中を来たかを物語っていた。ランプの強い光の中、不安げに辺りを見回した。顔は青白く、目は重苦しかった。深い心配に押しつぶされている人の目だった。
「おわびしなければなりません」と、金の鼻眼鏡を目に当てながら言った。「お邪魔でなければよいのですが。せっかくの居心地のよいお部屋へ、嵐と雨を持ち込んでしまいました。」
「外套と傘をお渡しください」とホームズは言った。「この掛け釘に掛けておけば、すぐ乾きます。南西からいらしたようですね。」
「ええ、ホーシャムからです。」
「靴のつま先についている粘土と白亜の混じった土は、あの辺り特有のものです。」
「助言をお願いに参りました。」
「それなら、たやすいことです。」
「それから、お力添えも。」
「そちらは、いつもたやすいとは限りません。」
「ご評判はうかがっています、ホームズさん。プレンダーガスト少佐から、タンカーヴィル・クラブの醜聞で救っていただいたと聞きました。」
「ああ、そうでしたね。カードでいかさまをしたと、無実の罪を着せられた。」
「あなたには解けないことはない、と言っていました。」
「それは言いすぎです。」
「決して負けることがない、とも。」
「四度負けています。男に三度、女に一度。」
「でも、成功した数に比べれば、何ほどのことでしょう?」
「たいてい成功しているのは、確かです。」
「では、私の場合も、そうなるかもしれません。」
「どうぞ、椅子を火のそばへ寄せて、ご事情をお聞かせください。」
「普通の事件ではありません。」
「僕のところへ来るものは、どれもそうです。最後の頼みの綱ですから。」
「それでも、これまでのご経験の中で、私の家に起きたことほど、不可解で説明のつかない一連の出来事を、お聞きになったことがあるでしょうか。」
「大いに興味を引かれます」とホームズは言った。「肝心な事実を、初めからお話しください。そのあとで、特に重要と思われる細部について、お尋ねしましょう。」
青年は椅子を寄せ、濡れた両足を炎へ差し出した。
「私の名は」と彼は言った。「ジョン・オープンショーです。ただ、私自身の事情は、わかる限りでは、この恐ろしい事件に、ほとんど関係ありません。代々受け継がれてきた問題なのです。ですから、事実をご理解いただくには、事の始まりまで、さかのぼらなくてはなりません。
「祖父には二人の息子がいました。伯父のイライアスと、父のジョゼフです。父はコヴェントリーに小さな工場を持ち、自転車が発明されたころ、事業を拡張しました。オープンショー式の破損しないタイヤの特許を取り、大いに成功したので、事業を売り、十分な資産を得て引退できました。
「伯父のイライアスは、若いころアメリカへ移住し、フロリダで農園主になりました。かなりうまくいっていたと聞いています。戦争[訳注:アメリカ南北戦争]ではジャクソンの軍に入り、その後はフッドの下で戦い、大佐にまで昇進しました。リーが降伏すると農園へ戻り、三、四年そこにいました。ヨーロッパへ帰ったのは、一八六九年か七〇年ごろです。サセックスのホーシャム近くに、小さな地所を買いました。アメリカでは相当な財産を築いたのですが、黒人を嫌い、彼らに選挙権を与えようとする共和党の政策も気に入らず、国を出たのです。変わった人で、気性が荒く、短気で、怒るとひどく口汚くなりましたが、人付き合いは徹底して避けました。ホーシャムにいた長い年月、町へ一度でも足を踏み入れたかどうか、疑わしいほどです。家の周囲には庭と畑が二、三枚あり、そこで運動をしていましたが、何週間も部屋から出ないことが、よくありました。ブランデーを大量に飲み、煙草もひどく吸いました。それでも誰とも会おうとせず、友人も、実の弟さえ求めませんでした。
「私だけは嫌がらず、むしろ気に入ってくれました。初めて会ったとき、私は十二歳くらいの子供だったからでしょう。それは一八七八年、伯父がイギリスへ来て八、九年たったころです。父に頼んで私を引き取り、伯父なりに、とても親切にしてくれました。しらふのときは、私とバックギャモンやチェッカーをするのが好きで、使用人や出入りの商人に対しては、私を代理にしていました。十六歳になるころには、私はすっかり家の主人でした。鍵は全部預かっていて、伯父の一人の時間を邪魔しさえしなければ、どこへ行こうと、何をしようと自由でした。ただ、一つだけ、奇妙な例外がありました。屋根裏の物置部屋が一室、いつも鍵をかけてあり、私も、ほかの誰も、決して入れてもらえなかったのです。子供の好奇心で鍵穴からのぞきましたが、古いトランクや包みが、物置にふさわしく積んである以上のことは、わかりませんでした。
「ある日――一八八三年三月のことです――外国の切手を貼った手紙が、食卓の大佐の皿の前に置いてありました。伯父に手紙が来るのは珍しいことでした。代金はすべて現金払いでしたし、友人は一人もいませんでしたから。『インドからだ!』と、手に取って言いました。『ポンディシェリの消印だ! いったい何だ?』急いで開けると、小さな乾いたオレンジの種が五つ飛び出し、皿にぱらぱら落ちました。私は笑いかけましたが、伯父の顔を見た途端、笑いが凍りつきました。唇は垂れ、目は飛び出し、皮膚はパテのような色になって、震える手の封筒をにらんでいたのです。『K・K・K!』と金切り声を上げ、それから、『神よ、神よ、罪の報いが追いついてきた!』
「『どうしたんです、伯父さん?』と私は叫びました。
「『死だ』と答え、食卓から立ち上がると、自分の部屋へ引き揚げました。私は恐怖に胸を高鳴らせたまま取り残されました。封筒を取ってみると、封じ蓋の内側、糊のすぐ上に、赤インクでKの字が三つ、乱暴に書いてありました。ほかには、乾いた種五つだけでした。なぜ、あれほど恐れたのでしょう? 朝食の席を離れ、階段を上がると、伯父が下りてくるところでした。片手には、屋根裏のものらしい古びてさびた鍵、もう片方には、金庫のような小さな真鍮の箱を持っていました。
「『奴らが何をしようと、こっちが最後に王手をかけてやる』と、伯父は悪態をつきながら言いました。『今日は部屋に火を入れるよう、メアリーに言え。それから、ホーシャムの弁護士、フォーダムを呼んでこさせろ。』
「言われたとおりにし、弁護士が到着すると、私も部屋へ呼ばれました。暖炉は明るく燃え、火格子には、紙を焼いたような黒くふわふわした灰の塊がありました。そばには、空になった真鍮の箱が、開いたまま置いてありました。箱へ目をやると、今朝、封筒で見たKの三文字が、蓋に記されているのに気づき、はっとしました。
「『ジョン』と伯父は言いました。『遺言の証人になってほしい。この財産を、得なことも損なことも、すべて一緒に弟、お前の父親へ残す。いずれ、お前が継ぐことになるだろう。平穏に楽しめるなら、それでよし。そうできないとわかったら、忠告しておくが、いちばん憎い敵にくれてやれ。こんな両刃のものを渡すのは、すまないと思う。だが、事がどう転ぶか、わからないのだ。フォーダムさんが示すところに、署名してくれ。』
「私は言われた場所に署名し、弁護士は書類を持って帰りました。お察しのとおり、この奇妙な出来事は、私に深い印象を残しました。何度も思い返し、あらゆる角度から考えてみましたが、何一つわかりませんでした。それでも、あとに残った漠然とした恐怖は振り払えませんでした。ただ、何週間も、日々の暮らしを乱すことが起きなかったので、その感覚は薄れていきました。しかし、伯父の変化は見て取れました。酒量はいっそう増え、人付き合いはますます嫌うようになりました。ほとんどの時間を、内側から鍵をかけた部屋で過ごしましたが、ときどき酔って狂ったようになり、拳銃を手に家を飛び出して、庭を駆け回りました。誰も怖くはない、人間だろうが悪魔だろうが、羊のように囲いに閉じ込められてたまるものか、と叫ぶのです。ところが、その激しい発作が収まると、魂の底に潜む恐怖に、もう強がって抗えなくなった人のように、あわてふためいて家へ駆け込み、扉に鍵をかけ、かんぬきを下ろしました。そんなときには、寒い日でさえ、洗面器から顔を上げたばかりのように、汗で光っているのを見ました。
「さて、ホームズさん、あまり長くなってもいけませんから、結末を申しましょう。ある晩、伯父はいつものように酔って飛び出し、そのまま帰りませんでした。捜しに出ると、庭の奥にある、緑色の浮きかすに覆われた小さな池で、うつぶせになっていました。暴力を受けた形跡はなく、水深もわずか二フィートでした。そこで陪審は、よく知られた伯父の奇行を考慮して、自殺という評決を下しました。しかし、死を考えただけでも伯父がどれほどおびえたか知っていた私は、わざわざ自ら死を求めたとは、なかなか信じられませんでした。それでも事は済んで、父が地所と、銀行にあった約一万四千ポンドを相続しました。」
「ちょっと待ってください」とホームズが口を挟んだ。「これは、僕が聞いた中でも、最も異様な話の一つになりそうです。伯父さんが手紙を受け取った日と、自殺したとされる日を、教えてください。」
「手紙が届いたのは、一八八三年三月十日です。亡くなったのは七週間後、五月二日の夜でした。」
「ありがとう。続けてください。」
「父がホーシャムの財産を受け継ぐと、私の頼みで、いつも閉ざされていた屋根裏を、詳しく調べました。真鍮の箱はそこにありましたが、中身は処分されていました。蓋の内側には紙のラベルが貼ってあり、そこにもK・K・Kと、その下に『手紙、覚書、領収書、名簿』と書いてありました。オープンショー大佐が焼いた書類の種類を示しているのだろうと、私たちは考えました。そのほか、屋根裏には、伯父のアメリカ時代に関する書類や手帳が、大量に散らばっている以外、重要なものはありませんでした。戦時中のものもあり、務めをよく果たし、勇敢な軍人と評判だったことがわかりました。別のものは南部再建期のもので、大半は政治に関することでした。北部から送られてきた、いわゆるカーペットバガー[訳注:南北戦争後、南部へ移り、政治や経済に進出した北部人への蔑称]の政治家に対抗して、盛んに活動していたのは明らかでした。
「父がホーシャムに移ったのは八四年の初めで、八五年一月までは、何もかも順調でした。新年の四日、一緒に朝食を取っていると、父が鋭い驚きの声を上げました。見ると、片手に開けたばかりの封筒を持ち、もう片方の開いた手のひらに、乾いたオレンジの種が五つ載っていました。父は、私が話す大佐の件を、いつも荒唐無稽な話だと笑っていたのですが、同じことが自分の身に起きると、ひどくおびえ、当惑していました。
「『ジョン、いったい、これはどういうことだ?』と、どもりました。
「私の心は鉛のように重くなりました。『K・K・Kです』と言いました。
「父は封筒の中を見ました。『そのとおりだ! ここに、その字がある。だが、その上には何と書いてあるんだ?』
「『書類を日時計の上へ置け』と、私は肩越しにのぞいて読みました。
「『何の書類だ? どの日時計だ?』と父は尋ねました。
「『庭の日時計でしょう。ほかにはありませんから。でも、書類は、焼かれてしまったものに違いありません。』
「『ふん!』と父は、必死に気を強く持とうとして言いました。『ここは文明国だ。こんなばかげたことが、通用してたまるか。どこから来たんだ?』
「『ダンディーです』と、消印を見て答えました。
「『けしからん悪ふざけだ。私が日時計や書類に、何の関係がある? こんなたわごと、相手にしないぞ。』
「『警察に話したほうがいいと思います』と私は言いました。
「『わざわざ笑われに行くのか。まっぴらだ。』
「『では、私が行っても?』
「『駄目だ。許さん。こんなくだらないことで、騒ぎを起こしてほしくない。』
「非常に頑固な人でしたから、言い争っても無駄でした。しかし私は、不吉な予感に胸を満たされながら、日々を過ごしました。
「手紙が来て三日目、父は旧友のフリーボディ少佐を訪ねに出かけました。ポーツダウン・ヒルにある砦の一つを指揮している人です。私は、出かけてくれてよかったと思いました。家を離れれば、それだけ危険から遠ざかる気がしたからです。しかし、それは間違いでした。出発の翌日、少佐から、すぐ来てほしいという切迫した電報が届きました。父が、あの辺りに多い深い白亜の採掘穴の一つへ転落し、頭蓋骨を砕かれて、意識を失っていたのです。急いで駆けつけましたが、父は一度も意識を取り戻さず、亡くなりました。どうやら夕暮れにフェアラムから戻る途中だったらしく、土地にも不案内で、採掘穴に柵もなかったので、陪審はためらうことなく『事故死』と評決しました。死に関する事実を、一つ残らず注意深く調べましたが、殺人を示唆するものは、何一つ見つかりませんでした。暴力の跡も、足跡も、盗難もなく、道で見知らぬ人間が目撃されたという話もありませんでした。それでも、私の心が到底安らかでなく、父に何か邪悪な陰謀が仕掛けられたと、ほとんど確信していたことは、申すまでもないでしょう。
「こうした不吉な経緯で、私は財産を継ぎました。なぜ手放さなかったのかと、お尋ねでしょう。お答えします。災難は、何らかの形で伯父の過去の出来事に結びついており、どの家に住もうと、危険は変わらないと、固く信じていたからです。
「父が亡くなったのは八五年一月で、それから二年八か月たちました。その間、私はホーシャムで幸せに暮らし、この呪いは家族から去り、前の代で終わったのではないかと、期待し始めていました。しかし、安心するのは早すぎました。昨日の朝、父を襲ったのと、まったく同じ形で、災いが降りかかったのです。」
青年は胴着から、しわくちゃの封筒を取り出し、テーブルへ向き直ると、小さな乾いたオレンジの種を五つ、振り出した。
「これが封筒です」と続けた。「消印はロンドン東部地区。中には、父に来た最後の通知と同じ文句があります。『K・K・K』、それから『書類を日時計の上へ置け』。」
「何をしましたか?」とホームズは尋ねた。
「何も。」
「何も?」
「正直に申しますと」青年は細い白い両手に顔を埋めた。「どうすることもできない気がしたのです。蛇が身をくねらせて迫ってくるのを前にした、哀れなウサギのように。どんな先見も用心も役に立たない、抗うすべのない、無慈悲な悪に捕らえられているようなのです。」
「何を言っているんです!」シャーロック・ホームズは叫んだ。「行動しなくては、命を失いますよ。あなたを救えるのは、行動力だけです。絶望している場合ではない。」
「警察には行きました。」
「ほう!」
「でも、笑いながら聞いていました。警部は、手紙はみな悪ふざけで、親族の死も、陪審の言うとおり事故にすぎず、警告とは関係ないと決めてしまったようです。」
ホームズは握り拳を宙で振った。「信じられない愚かさだ!」
「それでも、警官を一人つけてくれました。家に一緒にいてくれるそうです。」
「今夜、同行してきましたか?」
「いいえ。家にいるよう命じられています。」
ホームズは、また宙へ向かって憤った。
「なぜ僕のところへ?」と彼は言った。「何より、なぜ、すぐ来なかったのです?」
「知らなかったのです。今日になって、プレンダーガスト少佐に悩みを打ち明け、こちらへ来るよう勧められました。」
「手紙を受け取って、もう実質二日です。もっと早く動くべきだった。今お話しになった以上の証拠はないのですね。役立ちそうな、意味深い細部も?」
「一つあります」とジョン・オープンショーは言った。上着のポケットを探り、変色した青い紙切れを出して、テーブルに広げた。「伯父が書類を焼いた日、灰の中に残った、焼けていない紙の縁が、ちょうどこの色だったように覚えています。この一枚は、伯父の部屋の床で見つけました。ほかの書類の間から舞い落ちて、焼かれずに済んだものかもしれないと思っています。種のことが出ている以外には、あまり役立つとも思えませんが。私には、個人的な日記の一ページに見えます。筆跡は、間違いなく伯父のものです。」
ホームズはランプを動かし、私たちは二人で紙にかがみ込んだ。ぎざぎざの縁から、確かに本から破り取られたものとわかった。見出しは「一八六九年三月」で、その下に、次の謎めいた記載があった。
「四日。ハドソン来る。いつもの主張。
「七日。セント・オーガスティンのマコーリー、パラモア、ジョン・スウェインに種を送る。
「九日。マコーリー退去。
「十日。ジョン・スウェイン退去。
「十二日。パラモア訪問。すべてよし。」
「ありがとう!」ホームズは紙を折り、客へ返した。「さて、もう一瞬も無駄にはできません。今のお話を論じている時間さえない。すぐに帰宅して、行動してください。」
「何をすればよいのです?」
「することは一つです。しかも、すぐに。今見せてくださった紙を、お話にあった真鍮の箱へ入れてください。それから、ほかの書類はすべて伯父さんが焼き、残っているのはこれ一枚だけだと書いた手紙も入れる。相手が納得するよう、はっきり断言してください。そうしたら、指示どおり、ただちに箱を日時計の上へ出す。わかりましたか?」
「よくわかりました。」
「今は、復讐などは考えないことです。それは法律の力で果たせると思います。だが、こちらはこれから網を織るのに、相手の網は、もうできている。第一は、あなたに迫る差し迫った危険を取り除くこと。第二が、謎を解き、犯人を罰することです。」
「ありがとうございます」青年は立ち上がり、外套を着ながら言った。「新たな命と希望をいただきました。必ず、おっしゃるとおりにします。」
「一瞬も無駄にしないように。何より、それまでの間、身を守ってください。現実の、目前の危険が迫っていることは、疑いようがありません。どうやってお帰りに?」
「ウォータールーから列車で。」
「まだ九時前です。通りは混んでいるから、無事に行けると思います。しかし、用心しすぎることはありません。」
「武器は持っています。」
「それはよかった。明日、この事件に取りかかります。」
「では、ホーシャムでお会いするのですね?」
「いいえ、秘密はロンドンにあります。ここで捜します。」
「それでは、一日か二日したら、箱と書類のことをご報告にうかがいます。何から何まで、ご忠告どおりにします。」
彼は私たちと握手し、帰っていった。外では風がなお叫び、雨が窓をたたき、はねていた。この奇妙で荒々しい話は、狂い立つ自然のただ中から、嵐に飛ばされた海藻の一片のように、私たちのもとへ吹き込まれ、そしてまた、そこへ吸い戻されたように思えた。
シャーロック・ホームズはしばらく黙って座り、頭を前へ垂れ、赤く燃える火を見つめていた。やがてパイプに火をつけ、椅子の背にもたれると、青い煙の輪が、互いを追いながら天井へ上るのを眺めた。
「ワトソン」と、とうとう口を開いた。「これまでの事件の中でも、これほど奇怪なものは、なかったと思う。」
「『四つの署名』は、別かもしれないね。」
「うん、あれは別かもしれない。だが、このジョン・オープンショーは、ショルトー兄弟より、さらに大きな危険の中を歩いているように思える。」
「その危険が何なのか」と私は尋ねた。「もう、はっきりした見当はついているのかい?」
「その性質には、疑いの余地がない」と彼は答えた。
「では、何なんだ? このK・K・Kとは誰で、なぜ不幸な一家を追う?」
シャーロック・ホームズは目を閉じ、椅子の肘掛けに両肘を置いて、指先を合わせた。「理想的な推理家なら」と彼は言った。「一つの事実を、そのあらゆる関係とともに示されれば、そこへ至った出来事の連鎖だけでなく、そのあとに続く結果も、すべて導き出せるはずだ。キュヴィエが骨一本を見て、動物全体を正確に描き出せたように、一連の出来事の一つの環を完全に理解した観察者は、その前後の環も、すべて正確に述べられるはずなんだ。理性だけで何ができるか、僕たちはまだ十分つかんでいない。感覚を頼りに答えを求めた人間が、ことごとく失敗した問題を、書斎で解くこともできる。ただ、その技を最高の域へ高めるには、推理家は知り得たあらゆる事実を活用できなくてはならない。これは、すぐわかるだろうが、あらゆる知識を持つことを意味する。教育が無償で、百科事典もある今の世でさえ、それは、なかなか得難い資質だ。だが、自分の仕事に役立ちそうな知識をすべて持つことなら、それほど不可能ではない。僕は、そうしようと努めてきた。記憶が正しければ、付き合い始めのころ、君は一度、僕の知識の限界を、実に正確にまとめたことがあったね。」
「ああ」と私は笑って答えた。「妙な記録だった。哲学、天文学、政治学はゼロとつけたのを覚えている。植物学はまちまち。地質学は、ロンドンから五十マイル以内の泥汚れに関しては深遠。化学は風変わり、解剖学は体系なし。扇情文学と犯罪記録は比類なし。ヴァイオリン奏者、ボクサー、剣士、法律家、それからコカインと煙草で自分を毒する者。主なところは、そんな分析だったと思う。」
ホームズは最後の項目に、にやりとした。「今も、あのときと同じことを言うよ。小さな頭脳の屋根裏には、使いそうな家具を全部そろえておき、それ以外は図書室という物置へ片づけ、必要になれば取り出せばいい。さて、今夜持ち込まれたような事件では、持てる力を総動員しなくてはならない。君のそばの棚にある『アメリカ百科事典』のKの巻を取ってくれたまえ。ありがとう。では、状況を考え、何が推理できるか見てみよう。まず、オープンショー大佐には、アメリカを離れる強い理由があったと推定できる。あの年の男が、すべての習慣を変え、フロリダの快適な気候を捨てて、イギリスの地方町で孤独に暮らすことを、進んで選ぶものではない。イギリスでの極端な孤独好きは、誰か、あるいは何かを恐れていたことを示唆する。したがって、何者かへの恐怖が、アメリカから追い立てたという仮説を立てられる。何を恐れたかは、本人と相続人たちが受け取った、あの恐ろしい手紙から考えるしかない。消印には注意したかい?」
「最初がポンディシェリ、二番目がダンディー、三番目がロンドン。」
「東ロンドンだ。何がわかる?」
「どれも港だ。差出人は船に乗っていた。」
「すばらしい。早くも手掛かりができた。差出人が船に乗っていた可能性は、きわめて高い。まず間違いないだろう。次に別の点を考えよう。ポンディシェリの場合、脅迫から実行まで七週間かかった。ダンディーでは、わずか三、四日だ。何か思いつくかい?」
「移動距離が長かった。」
「だが、手紙が届く距離も長かったはずだ。」
「では、わからないな。」
「少なくとも、その男、あるいは男たちの船は、帆船だと推定できる。どうやら任務に出かけるとき、いつもあの奇妙な警告、あるいは印を先に送るらしい。ダンディーから来たときは、印のあと、どれほどすぐ犯行が起きたか、わかるだろう。ポンディシェリから汽船で来たなら、手紙とほぼ同時に着いたはずだ。だが、実際には七週間かかった。その七週間は、手紙を運んだ郵便船と、差出人を運んだ帆船との、所要時間の差だと思う。」
「あり得るね。」
「それ以上だ。可能性が高い。そして、今度の件が、どれほど切迫した命の危険を伴うか、なぜ若いオープンショーに用心を強く勧めたか、わかるだろう。災いは、差出人がその距離を移動するのに必要な時間がたつと、必ず降りかかった。ところが、今度はロンドンから来た。だから、猶予は期待できない。」
「何ということだ!」
私は叫んだ。「こんな容赦のない追跡には、いったいどんな意味があるんだ?」
「オープンショーが持ち出した書類は、帆船に乗る一人、あるいは数人にとって、死活に関わるものなのだろう。相手が複数だということも、ほぼ明らかだと思う。一人で、検死陪審を欺くような二つの死を仕組むのは無理だ。何人かいて、知恵も決断力も備えていたに違いない。誰が持っていようと、書類は必ず取り戻すつもりなんだ。こう考えると、K・K・Kは個人の頭文字ではなくなり、団体の印になる。」
「だが、何の団体だ?」
「聞いたことはないかい――」シャーロック・ホームズは身を乗り出し、声を落とした。「クー・クラックス・クランという名を?」
「一度もない。」
ホームズは膝の上の本を繰った。「あった」と、やがて言った。「『クー・クラックス・クラン。その名称は、小銃の撃鉄を起こす音に似せたものとされる。南北戦争後、南部諸州で元南軍兵士の一部が結成した恐るべき秘密結社で、たちまち各地、とりわけテネシー、ルイジアナ、南北カロライナ、ジョージア、フロリダに地方支部を設けた。その力は政治目的に用いられ、主として黒人有権者を威嚇し、主張に反対する者を殺害、あるいは国外へ追放した。暴虐に先立ち、標的へ警告を送るのが通例であり、その形は奇抜ながら広く知られていた。ある地方ではオークの葉のついた小枝、ほかではメロンの種やオレンジの種であった。受け取った者は、公然と従来の行動を捨てるか、国外へ逃れるかを選べた。無視して踏みとどまれば、必ず死が訪れ、しかも普通は、奇妙で予想もつかない形を取った。組織はきわめて完全で、手段も徹底して体系化されていたため、逆らって無事に済んだ例も、暴虐の犯人が突き止められた例も、記録上ほとんどない。合衆国政府や、南部社会の良識ある層の努力にもかかわらず、数年間にわたって隆盛を誇った。しかし、一八六九年、運動はかなり突然に崩壊した。その後も、同様の動きは散発的に見られる。』
「気づくだろう」とホームズは本を置いた。「結社の急な崩壊は、オープンショーが書類を持ってアメリカから姿を消した時期と一致する。因果関係があったのかもしれない。特に執念深い連中が、本人と家族を追うのも不思議ではない。あの名簿や日記は、南部の有力者を何人も巻き込む可能性がある。取り戻すまで、夜も安眠できない者が大勢いるのだろう。」
「では、さっきの一ページは――」
「予想どおりのものだ。覚えているところでは、『A、B、Cに種を送る』とあった。つまり、結社の警告を送ったのだ。次にAとBが退去、すなわち国外へ去ったと順に記され、最後にCを訪問したとある。恐らく、Cにとっては不吉な結果になったのだろう。さて、ワトソン、この暗がりにも、少しは光を入れられそうだ。さしあたり、若いオープンショーが助かる唯一の道は、僕の言ったとおりにすることだと思う。今夜は、もう話すことも、することもない。ヴァイオリンを取ってくれたまえ。このひどい天気と、それ以上にひどい人間の所業を、半時間ほど忘れよう。」
朝には天気が回復し、大都会を覆う薄暗い帳を通して、日が淡く差していた。私が下りると、シャーロック・ホームズはすでに朝食を取っていた。
「待たずに始めて、すまない」と彼は言った。「今日は、若いオープンショーの件で、ずいぶん忙しくなりそうなんだ。」
「どう動くつもりだい?」
私は尋ねた。
「最初の調査の結果に、大きく左右される。結局、ホーシャムへ行かなくてはならないかもしれない。」
「最初には行かないのか?」
「うん。市内から始める。ベルを鳴らしたまえ。女中がコーヒーを持ってくる。」
待つ間、私はテーブルから、まだ開いていない新聞を取り、目を走らせた。ある見出しに目が止まり、心が凍った。
「ホームズ」と私は叫んだ。「遅すぎたよ。」
「ああ!」彼はカップを置いた。「そうなるのを恐れていた。どうやられた?」
声は落ち着いていたが、深く動揺しているのがわかった。
「オープンショーという名と、『ウォータールー橋付近の悲劇』という見出しが目に入った。記事はこうだ。『昨夜九時から十時の間、ウォータールー橋付近で勤務中のH管区のクック巡査が、助けを求める声と、水に落ちる音を聞いた。しかし、夜はきわめて暗く、暴風雨も激しかったため、数人の通行人が協力したにもかかわらず、救助は不可能だった。ただちに通報し、水上警察の助力を得て、ついに遺体を収容した。若い紳士の遺体で、ポケットにあった封筒から、ホーシャム近郊在住のジョン・オープンショー氏と判明した。ウォータールー駅の終列車に乗ろうと急ぐうち、焦りと深い闇のために道を誤り、川蒸気船用の小さな船着き場の端から、足を踏み外したものと推測される。遺体に暴行の痕跡はなく、不幸な事故の犠牲者であることに疑いはない。この出来事を機に、当局は川沿いの船着き場の状態に注意を払うべきである』。」
私たちは数分間、黙って座っていた。ホームズが、これほど打ちひしがれ、動揺しているのを、私は見たことがなかった。
「僕の誇りが傷ついたよ、ワトソン」と、とうとう彼は言った。「ささいな感情だろうが、誇りが傷ついた。今や、僕個人の問題だ。神が健康を与えてくださる限り、あの一味を必ず捕まえる。助けを求めて来た青年を、僕が死へ送り出したとは――!」
椅子から跳ね上がり、抑えきれない興奮に駆られて部屋を歩き回った。黄ばんだ頬は赤くなり、細長い両手を、神経質に握ったり開いたりしていた。
「よほど狡猾な悪魔たちだ」と、やがて叫んだ。「どうやって、あそこへ誘い込んだ? 河岸通りは駅への近道ではない。橋の上は、あんな晩でも人が多すぎて、目的を果たせなかったのだろう。さて、ワトソン、最後にどちらが勝つか、見ていよう。僕は出かける!」

「『ホームズ』と私は叫んだ。『遅すぎたよ』。」
「警察へ?」
「いや、自分が警察になる。僕が網を張ったら、蠅を取るのは任せてもいい。それまでは駄目だ。」
私は一日中診療に追われ、ベーカー街へ戻ったのは、夜も遅くなってからだった。シャーロック・ホームズはまだ帰っていなかった。十時近くになって、青白く疲れ切った顔で入ってきた。サイドボードへ歩み寄り、パンをちぎると、むさぼるように食べ、水を長々と飲んで流し込んだ。
「腹が減っているんだね」と私は言った。
「飢え死にしそうだ。すっかり忘れていた。朝食以来、何も食べていない。」
「何も?」
「一口も。考える暇がなかった。」
「首尾はどうだった?」
「上々だ。」
「手掛かりがつかめた?」
「奴らは、もうこの手の中だ。若いオープンショーの仇は、じきに取れる。そうだ、ワトソン、奴ら自身の悪魔の印を、送りつけてやろう。名案だ!」
「どういうことだい?」
彼は戸棚からオレンジを一つ取り、ばらばらに裂くと、テーブルへ種を絞り出した。その中から五つ選び、封筒へ押し込んだ。封じ蓋の内側に、「J・Oに代わり、S・H」と書いた。
それから封をし、宛名を「ジョージア州サヴァンナ、バーク船ローン・スター号、ジェームズ・カルフーン船長」とした。
「入港したときには、これが待っている」と、くすくす笑った。「眠れぬ夜を過ごすかもしれないね。オープンショーの場合と同じく、確実な運命の前触れだと知るだろう。」
「そのカルフーン船長とは、誰だ?」
「一味の首領だ。ほかの連中も捕まえるが、まずはこいつだ。」
「どうやって突き止めたんだ?」
彼はポケットから、日付と船名で埋め尽くされた、大きな紙を取り出した。
「一日中」と彼は言った。「ロイズの船舶記録と古い新聞を調べ、八三年一月と二月にポンディシェリへ寄港した、すべての船の、その後の動きを追っていた。その二か月に報告された、相当な大きさの船は三十六隻。その中で、ローン・スター号が、すぐに目を引いた。ロンドン出港とあったが、その名は合衆国の州の一つにつけられたものだからね。」
「テキサスだと思う。」
「どの州かは、あのときも今も確かではない。ただ、船がアメリカに由来することはわかった。」
「それから?」
「ダンディーの記録を調べ、八五年一月に、バーク船ローン・スター号がそこにいたとわかったとき、疑いは確信に変わった。次に、今ロンドン港にいる船を調べた。」
「それで?」
「ローン・スター号は、先週入港していた。アルバート・ドックへ行くと、今朝早くの潮に乗って川を下り、母港サヴァンナへ向かったとわかった。グレーヴズエンドへ電報を打つと、すでに通過していた。東風だから、今ごろはグッドウィン砂州を過ぎ、ワイト島から、さほど遠くないところだろう。」
「では、どうする?」
「もう逃がさないよ。調べたところ、船でアメリカ生まれなのは、船長と二人の航海士だけだ。ほかはフィンランド人とドイツ人。それに、その三人が昨夜、みな船を離れていたこともわかっている。荷を積んでいた沖仲仕から聞いた。帆船がサヴァンナへ着くまでに、郵便船がこの手紙を運ぶ。そして海底電信で、あちらの警察には、この三人の紳士が、殺人容疑でこちらから強く求められていると知らせておく。」
しかし、人間のどれほど周到な計画にも、ほころびはある。ジョン・オープンショーを殺した者たちは、自分たちに劣らず狡猾で、決意の固い追跡者がいると告げる、オレンジの種を受け取ることはなかった。その年、秋分の嵐は、ひどく長く、激しく続いた。私たちはサヴァンナのローン・スター号の消息を長く待ったが、知らせはついに来なかった。やがて、大西洋のはるか沖で、「L・S」の文字を刻んだ、砕けた船尾材が、波の谷間に揺れているのを見たという話だけが届いた。ローン・スター号の運命について、私たちが知り得るのは、それがすべてである。
第六話 唇のねじれた男
聖ジョージ神学校の校長を務めた故イライアス・ホイットニー神学博士の弟、アイザ・ホイットニーは、ひどいアヘン中毒に陥っていた。聞くところでは、大学時代の愚かな気まぐれが、その習慣の始まりだったという。ド・クインシーが書いた夢や感覚の描写を読み、同じ気分を味わおうと、タバコをアヘンチンキに浸して吸ったのだ。そして、ほかの大勢の人々と同様、身につけるのはたやすくても、断ち切るのは難しい習慣だと思い知った。それから何年ものあいだ薬の奴隷となり、友人や親族から、恐れと憐れみの入り交じった目を向けられていた。今もその姿が目に浮かぶ。黄色くむくんだ顔、垂れたまぶた、針の先ほどに縮んだ瞳孔。椅子の上で小さく身を縮めているのは、立派だった男の見る影もない成れの果てだった。
ある晩――一八八九年六月のことだ――そろそろ最初のあくびをして時計に目をやるような時刻に、玄関のベルが鳴った。私は椅子の上で身を起こし、妻は針仕事を膝に置いて、ちょっと残念そうな顔をした。
「患者さんね」と妻は言った。「また出かけなきゃならないわ。」
私はうめいた。くたくたになる一日を終えて、ようやく帰ってきたばかりだったのだ。
玄関の開く音がし、慌ただしい言葉のやり取りに続いて、リノリウムの床を踏むせわしない足音が聞こえた。私たちの部屋の扉が勢いよく開き、暗い色の服を着て黒いヴェールをかぶった女性が入ってきた。
「こんな夜分に伺って、お許しください」と言いかけたが、たちまちこらえきれなくなり、駆け寄って妻の首に両腕を回すと、その肩に顔を埋めて泣きだした。「ああ、どうしたらいいの!」と叫んだ。「少しでいいから、力を貸してほしいの。」
「まあ」と妻は相手のヴェールを上げて言った。「ケイト・ホイットニーじゃないの。びっくりしたわ、ケイト! 入ってきたときは、誰だかまるでわからなかったのよ。」
「どうしていいかわからなくなって、まっすぐあなたのところへ来たの。」
いつもそうだった。悲しみに暮れる人は、灯台の光に吸い寄せられる鳥のように、妻のもとにやってきた。
「来てくれてよかったわ。さあ、ワインの水割りを少し飲んで、ここに楽に掛けて、何があったか聞かせてちょうだい。それとも、ジェームズには先に休んでもらいましょうか?」
「いいえ、とんでもない! 先生にも相談して、お力を借りたいの。アイザのことなのよ。二日も家に帰ってこないの。心配でたまらなくて!」
夫の問題について彼女から相談を受けるのは、初めてではなかった。私は医師として、妻は古くからの友人であり学友として、これまでも話を聞いていた。私たちは思いつくかぎりの言葉でなだめ、慰めた。夫の居場所に心当たりはあるのか。連れ帰ってあげることはできそうか。
どうやら、それは可能らしかった。確かな情報によれば、近ごろ夫は発作が起きると、市の東の果てにあるアヘン窟に入り浸っていたという。これまではどれほどふけっても一日だけで、夕方には震えながら、ぼろぼろの姿で帰ってきた。ところが今度は、その魔力に取りつかれたまま四十八時間が過ぎている。きっと今も波止場のならず者たちに交じって横たわり、毒を吸い込むか、その酔いに眠り込むかしているのだろう。アッパー・スワンダム街の「黄金のバー」に行けば見つかる。そこにいるに違いない。だが、彼女に何ができるだろう。若く気の弱い女が、どうしてそんな場所へ踏み込んで、夫を取り囲む荒くれ者たちの手から連れ出せるというのか。
事情はそれだけで、もちろん取るべき道は一つしかなかった。私が付き添って行けばよいのではないか。いや、考えてみれば、彼女が行く必要などあるだろうか。私はアイザ・ホイットニーの主治医であり、それなりに言うことを聞かせられる。一人のほうが、むしろうまく運べるはずだ。教えてもらった場所に本当にいるなら、二時間以内に馬車に乗せて家へ帰すと、私は固く約束した。そうして十分後には、安楽椅子と居心地のよい居間をあとに、二輪辻馬車で東へ急いでいた。そのときも妙な用向きだとは思ったが、どれほど奇妙なものになるかは、その後の成り行きを待たねば知りようがなかった。
とはいえ、冒険の最初の段階に大きな困難はなかった。アッパー・スワンダム街は、ロンドン橋の東、川の北岸に並ぶ高い埠頭の裏にひそむ、いかがわしい路地である。安物の衣料品店とジン酒場のあいだに、洞窟の口のような黒い穴へと下りる急な階段があり、その先に目指す巣窟があった。御者に待つよう言いつけ、絶え間なく踏みつける酔客の足で中央がくぼんだ階段を下りた。戸口の上で揺らめく石油ランプの光を頼りに掛け金を探り当て、中へ入ると、そこは天井の低い細長い部屋だった。褐色のアヘンの煙が重く濃く立ち込め、移民船の船首船室のように、木の寝棚が段々に並んでいた。
薄闇のなかに、奇怪な姿勢で横たわる人影がぼんやりと見えた。丸めた肩、折り曲げた膝、のけぞらせた頭、上を向いた顎。あちこちから、光のない黒い目が新来の客へ向けられた。黒い影の奥では、小さな赤い光の輪が、明るくなったり薄れたりしていた。金属のパイプの皿で毒が燃え、火勢が強まったり弱まったりしているのだ。大半は黙っていたが、独り言をつぶやく者もいれば、奇妙に低い一本調子の声で話し合う者もいた。言葉がどっとあふれたかと思うと、急に尻すぼみになって静まり返る。それぞれが自分の思いをぶつぶつ口にするばかりで、隣の言葉などほとんど聞いていなかった。部屋の奥には炭火の入った小さな火鉢があり、その脇の三本脚の木の腰掛けに、背の高い痩せた老人が座っていた。膝に肘をつき、両の拳に顎を載せ、じっと火を見つめていた。
私が入ると、土気色の顔をしたマレー人の給仕が、パイプと薬を手に急いで寄ってきて、空いている寝棚へ手招きした。
「いや、長居をしに来たのではない」と私は言った。「ここにアイザ・ホイットニーという友人がいるはずだ。話をしたい。」
右手で人の動く気配がし、驚きの声が上がった。薄闇に目を凝らすと、青白くやつれ、身なりも乱れたホイットニーが、こちらを見つめていた。
「おや、ワトソンじゃないか」と彼は言った。薬の反動に苦しんでいるのか、全身の神経が震えているようで、見るも哀れな状態だった。「なあ、ワトソン、今何時だ?」
「もうじき十一時だ。」
「何曜日の?」
「六月十九日、金曜日だよ。」
「まさか! 水曜だと思っていたのに。水曜に決まってる。どうして人を脅かすんだ?」
腕に顔を埋め、高い声を上げて泣きだした。
「金曜だと言ってるじゃないか。奥さんは二日も君の帰りを待っているんだぞ。恥ずかしいと思いたまえ!」
「思っているさ。だが、君のほうが勘違いしてるんだ、ワトソン。ここへ来てまだ数時間だよ。三服か、四服か――何服吸ったかは忘れた。でも、君と帰るよ。ケイトを怖がらせたくない――かわいそうなケイトを。手を貸してくれ。馬車はあるかい?」
「ああ、外に待たせてある。」
「じゃあ、それで帰ろう。だが、勘定が残っているはずだ。いくらか聞いてきてくれ、ワトソン。すっかり参ってしまってね。自分では何もできないんだ。」
私は、両側に眠る者たちが並ぶ狭い通路を進んだ。頭をしびれさせる不快な薬の煙を吸い込むまいと息を止め、主人を探してあたりを見回した。火鉢の脇の背の高い男を通り過ぎようとしたとき、不意に上着の裾を引かれ、低い声がささやいた。「そのまま通り過ぎてから、振り返ってくれ。」
言葉ははっきり耳に届いた。私はちらりと目を落とした。声の主はすぐ横の老人以外にありえなかったが、老人は相変わらず火に見入っている。ひどく痩せ、しわだらけで、老齢のために腰は曲がり、膝のあいだにはアヘンのパイプが垂れ下がっていた。力尽きた指から、今にも滑り落ちそうに見える。私は二歩進んで振り返った。驚きの叫びを抑えるのに、ありったけの自制心が必要だった。老人は、私以外には顔が見えないよう背を向けていた。その体は肉づきを取り戻し、しわは消え、どんよりしていた目には光が戻っていた。火のそばに座り、驚く私を見てにやりと笑っているのは、ほかならぬシャーロック・ホームズだった。近づけと小さく合図すると、また周囲の人々へ半ば顔を向け、その途端、口元も締まりのない、よぼよぼの老人に戻った。
「ホームズ!」
私はささやいた。「こんな巣窟で、いったい何をしているんだ?」
「できるだけ小声で頼む」と彼は答えた。「耳はいいんだ。あの薬におぼれたお友達を片づけてくれるとありがたいね。君と少し話がしたい。」
「外に馬車を待たせてある。」
「それなら、それに乗せて帰したまえ。任せておいて大丈夫だ。あれだけぐったりしていれば、悪さをする元気もないだろう。君は僕と行動を共にすることになったと、奥さんへ一筆書いて御者に託しておくといい。外で待っていてくれれば、五分で行く。」
シャーロック・ホームズの頼みを断るのは難しかった。いつもきわめて具体的で、静かながらも有無を言わせぬ調子で持ち出すからだ。もっとも、ホイットニーを馬車に押し込みさえすれば、私の用事はほぼ果たせる。その先は、友人にとって日常そのものである奇妙な冒険の一つに加われるなら、願ってもないことだった。数分で手紙を書き、ホイットニーの勘定を払い、馬車まで連れていって、闇のなかへ走り去るのを見送った。間もなく、老いさらばえた人影がアヘン窟から現れ、私はシャーロック・ホームズと肩を並べて通りを歩いていた。通りを二つ過ぎるまで、彼は背を丸め、危なっかしい足取りで足を引きずっていた。それから素早くあたりを見回し、すっと背を伸ばすと、豪快に笑いだした。
「きっと君は、ワトソン」と彼は言った。「僕がコカイン注射に加えて、アヘンまで吸い始めたと思っただろう。君が医者の立場から、いつもご親切に意見を聞かせてくれる、あのささやかな悪癖の数々にね。」
「そこで君を見るとは、たしかに驚いたよ。」
「だが、僕が君を見たときほどじゃない。」
「僕は友人を探しに来たんだ。」
「僕は敵を探しに来た。」
「敵?」
「ああ。僕の天敵の一人――いや、僕が狩るべき獲物、と言ったほうがいいかな。要するに、ワトソン、僕は今、非常に風変わりな事件を調べている。あの連中の取り留めのないたわ言のなかに、手掛かりがつかめないかと思ってね。以前にも、そういうことがあったんだ。もしあの巣窟で正体を見破られていたら、一時間と命はなかったろう。前にも捜査のためにあそこを利用したことがあって、店を切り回すラスカー[訳注:インドなど南アジア出身の船員の呼称]の悪党が、僕への復讐を誓っているんだ。あの建物の裏、ポールズ埠頭の角近くには落とし戸がある。もし口がきけたら、月のない夜に何がそこを通り抜けたか、ずいぶん奇怪な話を聞かせてくれるだろうよ。」
「何だって! まさか、死体かい?」
「そう、死体だよ、ワトソン。あの巣窟で殺された哀れな人間一人につき千ポンドもらえたら、僕らは大金持ちだ。川沿いでいちばん忌まわしい、人殺しの罠なんだよ。ネヴィル・セント・クレアも、そこへ足を踏み入れたきり、二度と出てこられなくなったのではないかと恐れている。だが、僕らの迎えは、このあたりにいるはずだ。」
彼は両手の人差し指を歯のあいだに差し込み、鋭い口笛を吹いた。遠くから同じ口笛が応じ、やがて車輪の音と、馬のひづめの響きが近づいてきた。
「さて、ワトソン」とホームズは言った。車高の高い二輪馬車が闇を縫って走ってきた。両脇のランタンから、金色の光が二本のトンネルとなって伸びていた。「一緒に来てくれるね?」
「役に立つなら。」
「信頼できる仲間はいつだって役に立つ。記録者なら、なおさらだ。『ザ・シーダーズ』で借りている部屋には、ベッドが二つある。」
「『ザ・シーダーズ』?」
「ああ、セント・クレア氏の家だ。調査のあいだ、そこに泊めてもらっている。」
「どこにあるんだい?」
「ケント州のリーの近くだ。ここから七マイルほど馬車で走る。」
「だが、僕には何もわからないんだが。」
「もちろんさ。すぐに全部わかる。さあ、乗りたまえ。よし、ジョン、君はもう帰っていい。半クラウンだ[訳注:二シリング六ペンスに相当する貨幣]。明日の十一時ごろ、また頼むよ。馬の頭を放してくれ。では、おやすみ!」
彼が鞭を軽く当てると、馬車は陰気で人影のない街路を、果てしなく走り抜けた。道は少しずつ広くなり、やがて欄干のある大きな橋の上を飛ぶように渡った。下では、黒ずんだ川がよどむように流れていた。その先にも、煉瓦と漆喰の陰気な荒野が広がっていた。静寂を破るのは、巡査の重く規則正しい足音か、夜更けまで遊び歩く一団の歌や叫びだけだった。くすんだ雲が空をゆっくり流れ、その切れ目から、星が一つ二つ、かすかにまたたいていた。ホームズは顎を胸に落とし、考えに沈んだ様子で黙って手綱を取っていた。私は隣に座り、この友人の力をこれほどまでに試す新たな事件がどんなものなのか知りたくてたまらなかったが、思索の流れを断つのもはばかられた。数マイルを進み、郊外の邸宅が並ぶ一帯の外れにかかったころ、彼は身を震わせ、肩をすくめ、これでよいのだと自ら納得したような顔でパイプに火をつけた。
「君には黙っていられるという、すばらしい才能があるね、ワトソン」と彼は言った。「おかげで、連れとしてはまったく得がたい存在だ。それに、話し相手がいるのは本当にありがたい。僕の頭のなかは、あまり愉快じゃないからね。今夜、あの奥さんが玄関で出迎えてくれたとき、何と言えばいいか考えていたんだ。」
「僕には何もわかっていないのを忘れてるよ。」
「リーに着くまでに、ちょうど事件のあらましを話せるだろう。ばかばかしいほど単純に見えるのに、どういうわけか足掛かりがつかめない。糸はいくらでもあるんだが、その端が手に入らないんだ。わかりやすく手短に話そう、ワトソン。僕には真っ暗闇でも、君には一筋の光が見えるかもしれない。」
「それじゃ、聞かせてくれ。」
「数年前――正確には一八八四年の五月――ネヴィル・セント・クレアという紳士がリーへ移り住んできた。かなり裕福に見えたそうだ。大きな邸宅を借り、庭を美しく整え、何かにつけてゆとりある暮らしをしていた。しだいに近所にも友人ができ、一八八七年には地元の醸造業者の娘と結婚した。今は二人の子供がいる。決まった職業はなかったが、いくつかの会社に利害関係があり、たいてい朝は都心へ出て、毎夕キャノン・ストリート発五時十四分の列車で帰っていた。セント・クレア氏は現在三十七歳。節度ある生活を送り、よき夫であり、子煩悩な父親で、知り合いの誰からも好かれている。付け加えるなら、調べられた範囲で、現時点の負債総額は八十八ポンド十シリング。一方、キャピタル・アンド・カウンティーズ銀行には二百二十ポンドの預金がある。したがって、金銭上の悩みが心に重くのしかかっていたとは考えにくい。
「この前の月曜日、ネヴィル・セント・クレア氏は、いつもより少し早く都心へ出かけた。出る前に、大切な用事が二つあることと、幼い息子に積み木を一箱買ってくることを言い残した。さて、まったくの偶然だが、同じ月曜日、夫が出てまもなく、奥さんに電報が届いた。到着を待っていた小さな高価な包みが、アバディーン汽船会社の事務所に届いているという知らせだ。ロンドンに詳しければ知っているだろうが、その会社の事務所はフレズノ街にある。今夜君が僕を見つけたアッパー・スワンダム街から枝分かれした通りだ。セント・クレア夫人は昼食を済ませて市内へ出かけ、買い物をしてから会社の事務所へ行き、包みを受け取った。そして駅への帰り道、ちょうど四時三十五分にスワンダム街を歩いていた。ここまではいいかい?」
「よくわかる。」
「覚えているだろうが、月曜日はひどく暑かった。あたりの様子も気に入らず、セント・クレア夫人は馬車が来ないかと見回しながら、ゆっくり歩いていた。そうしてスワンダム街を進んでいると、突然、何やら叫び声が聞こえた。見上げた夫人は、凍りついた。三階の窓から夫が見下ろし、自分に手招きしているように見えたんだ。窓は開いていて、顔もはっきり見えた。夫人の言うところでは、ひどく取り乱していたそうだ。必死に両手を振ったかと思うと、いきなり窓から姿が消えた。あまりにも突然だったので、背後から抗いようもない力で引きずり戻されたように見えたという。女性ならではの鋭い目に留まった、不思議な点が一つあった。出かけたときと同じような暗い色の上着は着ていたのに、襟もネクタイもつけていなかったんだ。

「階段の下で、あのラスカーの悪党が立ちはだかった。」
「夫に何か異変が起きたと確信して、夫人は階段を駆け下りた。というのも、その家こそ、今夜君が僕を見つけたアヘン窟だったからだ。入口の部屋を走り抜け、二階へ上がる階段に向かった。ところが、その下で、さっき話したラスカーの悪党が立ちはだかった。夫人を押し戻し、手下として働いているデンマーク人と一緒になって、通りへ追い出してしまった。疑いと恐怖で気も狂わんばかりになり、夫人は路地を走っていった。すると、まことに運よく、フレズノ街で、受持区域へ向かう警部と数人の巡査に出会った。警部と巡査二人が付き添って戻り、なおも抵抗する主人を押し切って、セント・クレア氏が最後に目撃された部屋へ踏み込んだ。しかし、姿はどこにもなかった。それどころか、その階全体で見つかったのは、そこを住まいにしているらしい、醜い容貌の足の不自由な男だけだった。この男もラスカーも、その午後、表の部屋にはほかに誰もいなかったと言い張った。あまりに断固とした否定ぶりに、警部もぐらつき、夫人の思い違いではないかと考えかけた。そのとき、夫人は声を上げ、テーブルにあった小さな白木の箱に飛びついて、蓋を引きはがした。中から子供用の積み木が、ざらざらとこぼれ落ちた。夫が買って帰ると約束したおもちゃだったんだ。
「この発見と、足の不自由な男が明らかにうろたえたことから、警部は重大な事態だと悟った。部屋を念入りに調べると、出てくるものはすべて、恐ろしい犯罪を示していた。表の部屋は簡素な居間で、その奥に小さな寝室があり、窓は埠頭の一つの裏側に面していた。埠頭と寝室の窓のあいだには細長い土地があり、干潮には干上がるが、満潮には少なくとも四・五フィートの深さの水に覆われる。寝室の窓は幅が広く、下から押し上げる仕組みだった。調べてみると、窓台に血の跡があり、寝室の板床にも数滴の血が散っていた。表の部屋のカーテンの陰には、上着を除くネヴィル・セント・クレア氏の衣服が、すべて押し込まれていた。靴も、靴下も、帽子も、時計も――何もかもあった。衣服に争った跡はなく、氏の行方を示すほかの痕跡もなかった。ほかに出口は見つからないから、どうやら窓から出たとしか考えられない。しかも窓台の不吉な血痕からして、泳いで助かった望みは薄かった。悲劇が起きた時刻は、ちょうど満潮の頂点だったんだ。
「さて、この件に直接関わっていると思われる悪党たちについて話そう。ラスカーは、きわめて悪い前歴の持ち主として知られている。しかし夫人の話によれば、夫が窓に現れてからほんの数秒後には階段の下にいた。だから、せいぜい共犯以上の役割は果たせなかっただろう。本人はまったく知らぬ存ぜぬで押し通し、間借り人のヒュー・ブーンが何をしていたかなど知らないし、失踪した紳士の服があったわけも、さっぱりわからないと言い張っている。
「ラスカーの主人については、そんなところだ。次はアヘン窟の三階に住む、不気味な足の不自由な男だ。ネヴィル・セント・クレアを最後に見た人間であることは、まず間違いない。名はヒュー・ブーン。あの醜い顔は、都心へよく出る人なら誰でも知っている。物乞いを職業にしているが、警察の取り締まりを逃れるため、蝋マッチを細々と売っているふりをしているんだ。君も気づいたことがあるかもしれないが、スレッドニードル街を少し進んだ左手に、壁が小さく引っ込んだ角がある。男は毎日そこにあぐらをかき、わずかなマッチを膝に載せて座っている。見るからに哀れなので、脇の舗道に置かれた脂じみた革の帽子には、施しの小銭が雨のように降る。仕事で関わることになろうなどと思う前から、僕は何度かあの男を観察していた。そして、短時間に上げる収穫の多さに驚いたものだ。とにかく、姿が並外れている。気づかずに通り過ぎる者はいないだろう。ぼさぼさのオレンジ色の髪、ひどい傷痕でゆがんだ青白い顔。その傷の引きつれで、上唇の片端がめくれ上がっている。ブルドッグのような顎に、髪の色と奇妙な対照をなす、ひどく鋭い黒い目。そうした特徴が、ありふれた物乞いの群れから男を際立たせている。それに機転も利く。通行人がどんなからかいを投げかけても、たちまち気の利いた答えが返ってくる。今度わかったのは、この男があのアヘン窟の間借り人で、僕らが探す紳士を最後に見た人間だったということなんだ。」
「だが、足が不自由なんだろう!」と私は言った。「男盛りの人間を相手に、一人で何ができる?」
「歩くと片足を引きずるというだけで、そのほかは体力もあり、栄養も十分な男に見える。君の医者としての経験からもわかるだろう、ワトソン。手足の一本が弱いぶん、ほかが並外れて強くなることは、よくあるじゃないか。」
「続きを聞かせてくれ。」
「セント・クレア夫人は窓の血を見て気を失った。そこにいても捜査の役には立たないので、警察が馬車で家まで送り届けた。事件を担当するバートン警部は建物を念入りに調べたが、真相を照らすものは何も見つからなかった。一つの失策は、ブーンをすぐに逮捕しなかったことだ。数分の余裕を与えてしまい、そのあいだに仲間のラスカーと連絡を取れたかもしれない。もっとも、この手落ちはすぐに改められ、男は取り押さえられて身体を捜索された。しかし、有罪の証拠になるものは出なかった。たしかにシャツの右袖には血の染みがあったが、男は爪のそばを切った薬指を見せ、そこから出た血だと説明した。さらに、少し前に窓のところへ行ったので、そこにあった血痕も、きっと同じ傷からついたのだと付け加えた。ネヴィル・セント・クレア氏など一度も見たことがないと強く否定し、自分の部屋に服があったことは、警察にとってと同じくらい自分にも不可解だと誓った。夫人が窓に夫を見たと言っている件については、気が変になっていたか、夢でも見たのだろうと言った。男は大声で抗議しながら署へ連行された。一方、警部は、潮が引けば新たな手掛かりが得られるかもしれないと考え、現場に残った。
「そして、そのとおりになった。もっとも、泥の岸に現れたのは、彼らが恐れていたものそのものではなかった。潮が引いて姿を現したのは、ネヴィル・セント・クレア本人ではなく、その上着だったんだ。ポケットから何が見つかったと思う?」
「見当もつかない。」
「そうだろうね。どのポケットも、一ペニーと半ペニーの銅貨でぎっしりだった。一ペニーが四百二十一枚、半ペニーが二百七十枚。潮に流されなかったのも当然だ。だが、人間の体となると話は別だ。埠頭と家のあいだには激しい渦がある。重しを詰めた上着だけが残り、裸にされた体は川へ吸い出されたと考えても、十分に筋は通る。」
「だが、ほかの服は全部、部屋で見つかったんだろう。死体は上着だけを着ていたことになるのか?」
「いや、そうじゃない。しかし、もっともらしい説明はつけられる。ブーンがネヴィル・セント・クレアを窓から突き落としたとしよう。その現場を目撃できる者はいない。そのあと、どうする? 当然、証拠になる衣服を始末しなければと、すぐに気づく。上着をつかんで投げ捨てようとするが、浮いてしまって沈まないと考える。時間はない。奥さんが階段を上がろうとして、下でもみ合った音は聞こえているし、共犯のラスカーから、警察が通りを駆けつけてくると知らされていたかもしれない。一瞬も無駄にはできない。そこで、物乞いで稼いだ金をためてある隠し場所へ走り、上着を確実に沈めようと、つかめるだけの硬貨をポケットに詰め込む。そして窓から投げた。ほかの衣服も同じようにするつもりだったが、階下から駆け上がる足音が聞こえ、警察が入ってくるまでに、ようやく窓を閉めるだけの時間しかなかった。」
「たしかに、ありそうな話だ。」
「ほかによい考えもないから、ひとまず作業仮説としておこう。言ったとおり、ブーンは逮捕されて署へ連れていかれたが、これまで犯罪に関わった形跡は何も見つからなかった。長年、職業的な物乞いとして知られてはいたが、暮らしぶりはきわめておとなしく、害のないものだったらしい。現在の状況はそこまでだ。解かなければならない疑問――ネヴィル・セント・クレアがアヘン窟で何をしていたのか、そこで何が起きたのか、今どこにいるのか、失踪にヒュー・ブーンがどう関わったのか――そのすべてが、相変わらず解決から遠い。正直に言って、一見これほど単純なのに、これほど難しい事件は、これまでの経験にも思い当たらない。」
シャーロック・ホームズがこの奇怪な一連の出来事を詳しく語るあいだ、私たちは大都会の外縁を疾走していた。やがて、まばらに残る最後の家々も後ろへ去り、両側に田舎の生垣が続く道を、馬車はがたがたと進んだ。話が終わるころ、点在する二つの村を通り抜けた。窓にはまだ、いくつか灯がともっていた。
「リーの外れまで来た」と友人は言った。「この短い道中で、イングランドの三つの州を通ったことになる。ミドルセックスを出て、サリーの隅を横切り、最後はケントだ。木々のあいだの灯が見えるかい? あれが『ザ・シーダーズ』だ。あのランプのそばには、不安に耳を澄ませる女性が座っている。きっと、もう僕らの馬のひづめの音を聞きつけているよ。」
「だが、どうしてベーカー街を拠点に捜査しないんだい?」
私は尋ねた。
「こちらで調べなければならないことが多いからさ。セント・クレア夫人はたいへん親切に、二部屋を自由に使わせてくれている。僕の友人で協力者でもある君なら、喜んで迎えてくれることは間違いない。夫の知らせを何も持たずに顔を合わせるのはつらいよ、ワトソン。さあ、着いた。どう、どう!」
馬車は、広い敷地に立つ大きな邸宅の前で止まった。厩番の少年が馬の頭へ駆け寄ってきた。私は飛び降り、ホームズに続いて、家へと曲がりながら伸びる小さな砂利道を上がった。近づくと玄関の扉がさっと開き、小柄な金髪の女性が姿を見せた。薄い絹モスリンの服をまとい、首元と手首には、ふわりとした桃色のシフォンがあしらわれていた。背後からあふれる光に、その姿がくっきり浮かんだ。片手を扉に掛け、もう一方の手を思わず半ば持ち上げ、体を少し前に傾け、首を伸ばしていた。目は切実な期待に見開かれ、唇はわずかに開いている。全身が、そのまま一つの問いだった。
「どうでした?」と夫人は叫んだ。「何かわかりました?」
私たちが二人いるのを見て、希望に満ちた声を上げたが、ホームズが首を振って肩をすくめると、それはうめきに変わった。
「よい知らせは、ないのですか?」
「残念ながら。」
「悪い知らせも?」
「ありません。」
「それだけでも、神様に感謝しなくては。さあ、お入りください。一日中お骨折りくださって、お疲れでしょう。」
「こちらは友人のワトソン博士です。いくつもの事件で、たいへん重要な助力をしてくれました。幸運な偶然から、ここへ連れてきて、この捜査にも加わってもらえることになったのです。」
「お目にかかれてうれしく存じます」と夫人は言い、私の手を温かく握った。「何のおもてなしもできないかもしれませんが、突然こんなことになってしまいましたので、どうかお許しください。」
「奥様」と私は答えた。「私は軍隊暮らしを経験した人間です。それを別にしても、お詫びなど少しも必要ないことは、よくわかっております。奥様にも、こちらの友人にも、何かお役に立てるなら、これほどうれしいことはありません。」
「さて、シャーロック・ホームズさん」と夫人は言った。私たちは明るい食堂へ入り、テーブルには火を使わない夕食が用意されていた。「一つ二つ、率直にお尋ねしたいことがあります。どうか、率直にお答えください。」
「承知しました、奥様。」
「私の気持ちを気遣う必要はありません。取り乱したり、すぐ気を失ったりする女ではありませんから。ただ、本当に、本当のところを伺いたいのです。」
「どの点についてでしょう?」
「心の底では、ネヴィルが生きているとお考えですか?」
シャーロック・ホームズは、答えに窮したようだった。「どうか、正直に!」と夫人は重ねて言った。敷物の上に立ち、籐椅子にもたれた彼を、鋭く見下ろしていた。
「では、率直に申し上げます。そうは思っておりません。」
「死んだとお考えなのですね?」
「はい。」
「殺されたと?」
「そこまでは言えません。可能性はあります。」
「では、いつ死んだのですか?」
「月曜日です。」
「それなら、ホームズさん、今日、夫から手紙が届いたのはどういうわけか、ご説明いただけませんか。」
シャーロック・ホームズは、電撃に打たれたように椅子から跳び上がった。
「何ですって!」と大声を上げた。
「ええ、今日です。」
夫人は微笑を浮かべ、小さな紙片を掲げて立っていた。
「拝見できますか?」
「もちろんです。」
彼ははやるあまり、ひったくるように手紙を受け取った。テーブルの上に広げてしわを伸ばし、ランプを引き寄せ、食い入るように調べ始めた。私も椅子を離れ、その肩越しにのぞき込んだ。封筒はひどく粗末なもので、グレーヴズエンドの消印があり、日付はその日――いや、もう真夜中をかなり過ぎていたから、前日というべきだった。
「粗雑な字だ」とホームズはつぶやいた。「これはご主人の筆跡ではありませんね、奥様。」
「ええ、でも中の手紙は夫の字です。」
「それに、宛名を書いた人物は、途中で住所を尋ねに行かなければならなかったようです。」
「どうしておわかりになるのですか?」
「お名前の部分をご覧ください。インクが真っ黒です。自然に乾いたのです。残りは灰色がかっていますから、吸取紙を使っています。一気に全部を書いてから吸い取ったなら、一部だけがこんな濃い黒にはなりません。この人物は名前を書いたあと、間を置いて住所を書いた。つまり、住所をよく知らなかったということです。もちろん、ささいな点ではあります。しかし、ささいなことほど重要なものはありません。では、手紙を見ましょう。おや! 何か同封されていましたね。」
「ええ、指輪が。夫の印章指輪です。」
「それで、これがご主人の筆跡であることは、間違いありませんか?」
「夫の書き方の一つです。」
「一つ?」
「急いで書くときの字なのです。ふだんの字とはずいぶん違いますが、私にはよくわかります。」
「『愛する妻よ、怖がらないでくれ。すべてうまくいく。大きな手違いがあり、正すには少し時間がかかるかもしれない。辛抱して待っていてほしい。――ネヴィル』。八つ折り判の本の見返しに、鉛筆で書いてある。透かしはない。ふむ。今日、親指の汚れた男がグレーヴズエンドで投函した。おや、封の糊を湿らせたのは、私の見立てが大きく外れていなければ、噛みタバコをやっていた人物です。それでも、ご主人の筆跡だということに疑いはありませんね、奥様?」
「まったくありません。これはネヴィルが書いたものです。」
「そして、今日グレーヴズエンドで投函された。なるほど、セント・クレア夫人、雲は少し薄れてきました。ただ、危険が去ったとまでは申し上げられません。」
「でも、夫は生きているはずです、ホームズさん。」
「我々を誤った方向へ導くための、巧妙な偽造でないかぎりは。指輪だけでは、何の証明にもなりません。ご主人から奪ったものかもしれない。」
「いいえ、違います。これは、これは、間違いなく夫の字です!」
「承知しました。ですが、月曜日に書かれ、今日になって投函された可能性はあります。」
「それは、ありえます。」
「だとすれば、そのあいだに何が起きたかわかりません。」
「ああ、望みを奪わないでください、ホームズさん。夫は無事だと、私にはわかるのです。私たちは心が強く通い合っています。何かよくないことが起きれば、きっとわかります。最後に夫を見たあの日も、寝室で怪我をしたとき、私は食堂にいたのに、何かあったと確信して、すぐ二階へ駆け上がりました。そんな小さなことにも気づく私が、夫の死だけはわからないと思われますか?」
「私も多くのことを見てきましたから、女性の直感が、分析家の理詰めの結論より価値を持つ場合があることは承知しています。そして、この手紙は、奥様の考えを裏づけるたいへん有力な証拠です。ですが、ご主人が生きていて、手紙を書けるのなら、どうして帰ってこないのでしょう?」
「見当もつきません。考えられないことです。」
「月曜日、お出かけになる前に、何か気になることはおっしゃいませんでしたか?」
「いいえ。」
「では、スワンダム街で姿を見て驚かれた?」
「ええ、とても。」
「窓は開いていましたね?」
「はい。」
「なら、奥様に呼びかけることもできたはずですね?」
「できたと思います。」
「ですが、はっきりした言葉ではなく、ただ声を上げただけだったのですね?」
「はい。」
「助けを呼ぶ声だと思われた?」
「はい。両手を振っていましたから。」
「しかし、驚きの声だったかもしれない。思いがけず奥様を見つけて、びっくりして両手を上げたとも考えられますね?」
「それは、ありえます。」
「そして、後ろへ引っ張られたと思った?」
「あまりに急に姿が消えたものですから。」
「自分から飛びのいたのかもしれません。部屋にほかの誰かは見えませんでしたか?」
「いいえ。でも、あの恐ろしい男は、そこにいたと認めていますし、ラスカーも階段の下にいました。」
「そのとおりです。見えた範囲では、ご主人はいつもの服を着ていた?」
「でも、襟もネクタイもありませんでした。むき出しの喉元がはっきり見えました。」
「スワンダム街の話をされたことは?」
「一度もありません。」
「アヘンを吸ったような様子を見せたことは?」
「一度もありません。」
「ありがとうございます、セント・クレア夫人。確かめておきたかった主な点は、それで全部です。では、少し夕食をいただいてから休みましょう。明日は、たいへん忙しい一日になるかもしれません。」
広く快適な、ベッドが二つある部屋が用意されていた。私は夜の冒険ですっかり疲れていたので、すぐに寝床へ入った。だが、シャーロック・ホームズという男は、未解決の問題を抱えると、何日でも、ときには一週間でも休まず考え続ける。事実を並べ替え、あらゆる角度から眺め、底まで見通すか、資料が足りないと確信するまでやめないのだ。今夜も徹夜の構えであることは、すぐにわかった。上着とチョッキを脱いでゆったりした青いガウンを着ると、部屋を歩き回り、ベッドから枕を、ソファや肘掛け椅子からクッションを集め始めた。それで東洋風の長椅子めいたものを築き、その上にあぐらをかいた。目の前には一オンスの刻みタバコとマッチ箱が置かれた。薄暗いランプの光のなか、古いブライヤーのパイプをくわえ、天井の隅にうつろな目を据えていた。青い煙が立ち上り、沈黙したまま身じろぎもせず、鷲鼻の際立つ引き締まった顔に光が当たっていた。私が眠りに落ちるときも、その姿だった。そして、不意の声に目を覚ましたときも、まったく同じ姿だった。部屋には夏の朝日が差し込んでいた。唇にはまだパイプがあり、煙はまだ立ち上り、室内には濃いタバコのもやが満ちていた。だが、前の晩に見た刻みタバコの山は、すっかり消えていた。
「起きたかい、ワトソン?」と彼は尋ねた。
「ああ。」
「朝の馬車遊びに付き合う気はあるかい?」
「もちろん。」
「じゃあ、着替えたまえ。まだ誰も起きていないが、厩番の少年がどこで寝ているかはわかっている。すぐ馬車を出せるよ。」
そう言いながら一人でくつくつ笑い、目をきらめかせていた。昨夜の陰気な思索家とは、まるで別人だった。
着替えながら時計を見ると、四時二十五分だった。誰も起きていないのも無理はない。私が着替え終わるか終わらないかのうちに、ホームズが戻り、少年が馬をつないでいると告げた。
「ちょっとした仮説を試したくてね」と、靴を履きながら彼は言った。「ワトソン、今君の目の前にいるのは、ヨーロッパでも指折りの大ばか者らしい。ここからチャリング・クロスまで、蹴飛ばされて当然だ。だが、今は事件の鍵をつかんだと思う。」
「それで、その鍵はどこにあるんだい?」
私は笑って尋ねた。
「浴室さ」と彼は答えた。私が信じかねる顔をすると、続けた。「いや、本当に冗談じゃない。さっき行って取り出してきた。このグラッドストン鞄[訳注:口が大きく開く、堅牢な旅行用の革鞄]に入っている。さあ、行こう、ワトソン。鍵穴に合うかどうか、試してみようじゃないか。」
私たちはできるだけ静かに階下へ下り、明るい朝の日差しのなかへ出た。道には馬と馬車が待ち、着替えも半ばの厩番の少年が馬の頭のところに立っていた。二人とも飛び乗ると、ロンドンへ通じる道を勢いよく走りだした。大都会へ野菜を運ぶ田舎の荷車が、わずかに動き始めていたが、両側に並ぶ邸宅は、夢のなかの町のように、物音も人の気配もなかった。
「いくつかの点では、珍しい事件だった」とホームズは言い、馬に鞭を当てて駆けさせた。「正直、僕はモグラ同然に何も見えていなかったよ。だが、遅くても知恵がつくほうが、一生つかないよりはましだ。」
ロンドンに入り、サリー側の街路を走るころ、早起きの人々がようやく眠そうな顔を窓からのぞかせ始めていた。ウォータールー・ブリッジ・ロードを進んで川を渡り、ウェリントン街を駆け上がって鋭く右へ折れると、ボウ・ストリートに出た。シャーロック・ホームズは警察によく知られており、入口の巡査二人が敬礼した。一人が馬の頭を押さえ、もう一人が中へ案内した。
「当直は誰だい?」とホームズは尋ねた。
「ブラッドストリート警部です。」
「やあ、ブラッドストリート、お元気ですか?」
石畳の廊下を、長身でがっしりした警官がやってきた。ひさしのある制帽をかぶり、組紐飾りのついた上着を着ていた。「ブラッドストリート、内々に少しお話ししたいのですが。」
「もちろんです、ホームズさん。こちらの部屋へどうぞ。」
そこは小さな事務室のような部屋で、テーブルには大きな帳簿があり、壁から電話機が突き出していた。警部は机の前に腰を下ろした。
「どんなご用でしょう、ホームズさん?」
「例の物乞い、ブーンの件で来ました。リーのネヴィル・セント・クレア氏の失踪に関わったとして、逮捕された男です。」
「ええ。法廷へ出されましたが、さらに取り調べるため、勾留が続いています。」
「そう聞きました。ここにいますか?」
「留置房に。」
「おとなしくしていますか?」
「ええ、手は掛かりません。ただ、汚い奴でね。」
「汚い?」
「そうです。手を洗わせるだけで、ひと苦労です。顔ときたら、鋳掛け屋のように真っ黒ですよ。まあ、事件に決着がつけば、刑務所でたっぷり風呂に入れられるでしょう。ご覧になれば、あれには必要だと、あなたも思われますよ。」
「ぜひ見たいですね。」
「そうですか。お安いご用です。こちらへ。鞄は置いていってかまいません。」
「いや、持っていくことにします。」
「わかりました。では、こちらへどうぞ。」
警部は私たちを廊下へ案内し、格子戸を開け、曲がった階段を下りて、両側に扉の並ぶ白塗りの廊下へ連れていった。
「右の三つ目が奴の房です」と警部は言った。「ここです。」
扉の上部にある板を静かに引き、のぞき込んだ。
「眠っています」と言った。「よく見えますよ。」
私たちは二人とも格子に目を寄せた。囚人はこちらに顔を向け、ゆっくりと重い息をしながら、深く眠っていた。体格は中くらいで、稼業にふさわしく粗末な身なりをしており、ぼろぼろの上着の裂け目から色柄のシャツがのぞいていた。警部の言うとおり、ひどく汚れていたが、顔を覆う垢でも、その不快な醜さは隠せなかった。古傷の太く盛り上がった痕が、目から顎へ顔を横切っており、その引きつれで上唇の片側がめくれ上がり、三本の歯が絶えずむき出しになっていた。目と額の上へ、ひどく鮮やかな赤毛がぼさぼさと垂れかかっていた。
「いい男でしょう?」と警部は言った。
「たしかに、顔を洗う必要がありますね」とホームズは答えた。「そうではないかと思いまして、勝手ながら道具を持ってきました。」
そう言ってグラッドストン鞄を開き、驚いたことに、とても大きな風呂用の海綿を取り出した。
「へえ、へえ! 面白いことをなさる」と警部は笑った。
「では、できるだけ静かに、この扉を開けていただけますか。すぐに、もう少しましな姿にして差し上げましょう。」
「まあ、差し支えはないでしょう」と警部は言った。「あんな顔では、ボウ・ストリートの留置房の面目にもかかわりますからね。」
警部が鍵を差し込み、私たちは皆、ひっそりと房へ入った。眠る男は半ば寝返りを打ち、また深い眠りに沈んだ。ホームズは水差しに身をかがめ、海綿を濡らすと、囚人の顔を横から縦へ、二度、勢いよくこすった。
「ご紹介しましょう!」と彼は声を張り上げた。「ケント州リーの、ネヴィル・セント・クレア氏です。」
あのような光景は、生まれてこのかた見たことがない。海綿の下で、男の顔が木の皮のようにはがれ落ちた。汚らしい褐色が消えた。顔を横切る恐ろしい傷痕も、忌まわしい薄笑いを浮かべさせていた、ねじれた唇も消えた。一引きすると、もつれた赤毛も取れた。そして寝台の上には、黒髪で肌のなめらかな、上品な顔立ちの男が起き上がっていた。青白く悲しげな顔をし、目をこすりながら、寝ぼけた困惑のまなざしであたりを見回していた。だが突然、正体を暴かれたと悟ると、悲鳴を上げ、枕に顔を伏せて身を投げ出した。
「何ということだ!」と警部が叫んだ。「本当に、行方不明の本人じゃないか。写真で覚えています。」
囚人は、運命に身を委ねた人間の、やけになったような顔でこちらを向いた。「こうなったら仕方がない」と言った。「それで、私の罪状は何です?」
「ネヴィル・セント――氏の殺害です。いや、待った。それでは訴えられませんな。自殺未遂にでもしないかぎりは」と警部はにやりとした。「いやはや、警察勤め二十七年ですが、こいつは文句なしに一番です。」
「私がネヴィル・セント・クレアなら、犯罪など起きていないのは明らかです。したがって、私の拘禁は不法ということになります。」
「犯罪ではなくとも、大きな過ちはありました」とホームズは言った。「奥様を信頼なさるべきでしたね。」
「妻ではない。子供たちのためなんです」と囚人はうめいた。「どうか、わかってください。父親を恥じるような思いを、子供たちにはさせたくなかった。ああ、こんなふうに暴かれてしまうとは! 私はどうすればいいんだ?」
シャーロック・ホームズは寝台の隣に腰を下ろし、優しく肩をたたいた。
「裁判所で事情を明らかにすることになれば」と彼は言った。「もちろん、公になるのはまず避けられません。しかし、あなたを訴える根拠がまったくないと警察を納得させられれば、詳細を新聞に載せなければならない理由も、私には思い当たりません。ブラッドストリート警部なら、あなたのお話を記録し、しかるべき上司へ報告してくださるでしょう。そうすれば、この件が法廷に持ち込まれることもありません。」
「何とありがたい!」と囚人は激しく叫んだ。「この惨めな秘密を、一家の汚点として子供たちに残すくらいなら、投獄にも耐えるつもりでした。ええ、死刑にさえ。
「この話を聞くのは、あなた方が初めてです。父はチェスターフィールドの教師で、私はそこで十分な教育を受けました。若いころは旅をし、舞台に立つようになり、最後にはロンドンの夕刊紙の記者になりました。ある日、編集長が大都会の物乞いについて連載記事を載せたいと言い、私は自分から執筆を引き受けました。すべてはそこから始まったのです。記事の根拠となる事実をつかむには、自分で試しに物乞いをしてみるしかありませんでした。役者時代、もちろん化粧の秘訣はひととおり身につけており、楽屋でも腕のよさを知られていました。そこで、その技を生かしたのです。顔に色を塗り、できるだけ哀れに見えるよう、見事な傷痕をこしらえ、肌色の絆創膏を細く切って、唇の片側をねじれた形に留めました。それから赤毛のかつらをつけ、それらしい服を着て、都心でいちばん人通りの多い場所に陣取りました。表向きはマッチ売り、実際は物乞いです。七時間続けて、夕方家へ帰ってみると、驚いたことに二十六シリング四ペンスも手にしていました。
「記事を書き終えると、それきりそのことはあまり考えませんでした。ところが、しばらくして友人の手形の保証人になり、二十五ポンドの支払いを求める訴状を突きつけられたのです。金の工面に途方に暮れていたとき、ふと思いつきました。債権者に二週間の猶予を願い、勤め先には休暇を申し出て、そのあいだ、変装して都心で物乞いをしました。十日で金がそろい、借金を返せました。
「さて、そのあと週二ポンドのつらい仕事に腰を落ち着けるのが、どれほど難しかったか、おわかりでしょう。顔に少し絵の具を塗り、地面に帽子を置いて座っていれば、一日で同じ額が稼げると知ってしまったのです。誇りと金との戦いは長く続きましたが、最後には金が勝ちました。私は記者を辞め、最初に選んだ角に、来る日も来る日も座りました。恐ろしい顔で同情を誘い、ポケットを銅貨で満たしたのです。秘密を知っているのは、たった一人でした。スワンダム街で私が部屋を借りていた、いかがわしい店の主人です。毎朝そこから薄汚い物乞いとなって出かけ、夕方には身なりのよい都会の紳士に戻ることができました。そのラスカーには、部屋代としてたっぷり支払っていたので、秘密を漏らされる心配はないとわかっていました。
「まもなく、かなりの額を蓄えられるようになりました。ロンドンの路上の物乞いなら誰でも、年に七百ポンド稼げるなどと言うつもりはありません――私の平均収入は、それを上回っていましたが。私には化粧の腕という格別の強みがあり、切り返しの機転も利きました。これは場数を踏むほど磨かれて、私は都心でちょっとした名物になったのです。一日中、ペニー銅貨が流れ込み、ときには銀貨も交じりました。二ポンドに届かないのは、よほど不入りの日でした。
「裕福になるにつれ、望みも大きくなりました。郊外に家を構え、やがて結婚しましたが、本当の職業を疑う者は一人もいませんでした。愛する妻は、私が都心で仕事をしていることは知っていました。しかし、その仕事が何かは、夢にも知らなかったのです。
「この前の月曜日、一日の稼ぎを終え、アヘン窟の上の自分の部屋で着替えていました。ふと窓の外を見ると、何と、妻が通りに立ち、まっすぐ私を見つめていたのです。恐ろしさと驚きに声を上げ、顔を隠そうと両腕を上げました。そして、秘密を知るラスカーのところへ駆け寄り、誰も上へ通さないでくれと頼み込みました。階下で妻の声が聞こえましたが、上がってはこられないとわかっていました。私は急いで服を脱ぎ、物乞いの服に着替え、絵の具を塗ってかつらをかぶりました。これほど完璧な変装なら、妻の目にも見破れません。ですが、部屋を捜されれば、服から正体が割れるかもしれないと思いついたのです。勢いよく窓を開けた拍子に、その朝、寝室でつけた小さな切り傷がまた開きました。それから上着をつかみました。稼ぎを入れる革袋から銅貨を移したばかりで、上着はずっしり重くなっていました。それを窓から投げると、テムズ川へ沈みました。ほかの衣服もあとに続くはずでしたが、その瞬間、巡査たちが階段を駆け上がってきたのです。数分後には、正直なところ、私はむしろほっとしていました。ネヴィル・セント・クレアと見破られるかわりに、その殺害犯として逮捕されたのですから。
「ほかにご説明することは、もうないと思います。できるだけ長く変装を保とうと決めていましたから、顔が汚れたままのほうがよかったのです。妻がひどく心配しているのはわかっていたので、巡査が見ていない隙に指輪を外してラスカーに託しました。心配はいらないと、急いで書いた手紙も添えて。」
「その手紙が届いたのは、昨日のことです」とホームズは言った。
「何ということだ! どんな一週間を過ごさせてしまったんだ!」
「あのラスカーには、警察が見張りをつけていました」とブラッドストリート警部が言った。「見つからずに手紙を出すのは、難しかったのでしょう。おそらく客の船員か誰かに頼んで、その男が数日すっかり忘れていたんですな。」
「そういうことです」とホームズは、うなずいて同意した。「間違いないでしょう。ところで、物乞いで訴えられたことはないのですか?」
「何度もあります。でも、私にとって罰金など何ほどのものでしょう?」
「しかし、これで終わりにしていただきます」とブラッドストリートは言った。「警察がこの件を伏せておく以上、ヒュー・ブーンには二度と現れてもらっては困ります。」
「人にできるかぎりの、最も厳粛な誓いを立てました。」
「それなら、これ以上の措置は取らずに済むかもしれません。ただし、また見つかれば、すべて公にせざるをえません。ホームズさん、この件を解決してくださって、本当に感謝します。いったい、どうすればそんな結論にたどり着けるのか、知りたいものです。」
「今回は」と友人は答えた。「五つの枕の上に座り、一オンスの刻みタバコを吸って、たどり着きました。さて、ワトソン、ベーカー街へ馬車を走らせれば、ちょうど朝食に間に合いそうだ。」
第七話 青い紅玉
クリスマスから二日目の朝、私は季節の挨拶をしようと、友人のシャーロック・ホームズを訪ねた。紫のガウンを着てソファにくつろいでおり、右手の届くところにはパイプ掛けが、そのそばには、今しがた読み終えたらしい、しわくちゃの朝刊が山積みになっていた。ソファの横に木の椅子があり、背もたれの角には、ひどくみすぼらしく品のない硬いフェルト帽が掛かっていた。使い古され、あちこちにひびが入っている。座面に置かれた拡大鏡とピンセットからすると、調べるためにそうして掛けてあるらしかった。
「仕事中だね」と私は言った。「邪魔をしたかな。」
「とんでもない。調べた結果について話し合える友人が来てくれて、うれしいよ。まったく取るに足りない話なんだがね」――彼は古帽子のほうへ親指をしゃくった――「それでも、いくつか面白い点がある。教訓になるところさえあるんだ。」
私は肘掛け椅子に腰を下ろし、ぱちぱち燃える暖炉に手をかざした。厳しい霜が降り、窓は厚い氷の結晶に覆われていた。「察するに」と私は言った。「見た目はありふれていても、何か恐ろしい話が絡んでいるんだろう。この帽子を手掛かりに、謎を解き、犯罪を暴くというわけだね。」
「いや、いや。犯罪じゃない」とシャーロック・ホームズは笑った。「わずか数平方マイルのなかで四百万人が押し合いへし合い暮らしていれば、自然に起きる、風変わりな小事件の一つにすぎない。これほど密集した人間の群れが互いに働きかけ、反応し合うなかでは、およそ考えられるあらゆる出来事の組み合わせが生じる。犯罪ではなくても、人目を引く奇妙な謎が、いくらでも現れるんだ。僕らも、すでに経験しているじゃないか。」
「たしかに」と私は答えた。「最近、記録に加えた六つの事件のうち、三つには法律上の犯罪がまるでなかった。」
「そのとおり。アイリーン・アドラーの書類を取り戻そうとした一件、ミス・メアリー・サザーランドの奇妙な事件、それから唇のねじれた男の冒険だね。さて、この小さな一件も、同じ無害な部類に入るだろうと思う。運び屋のピータースンを知っているね?」
「ああ。」
「この戦利品は、彼のものなんだ。」
「彼の帽子なのか。」
「いや、違う。拾ったんだ。持ち主はわからない。ぼろぼろの山高帽としてではなく、頭を働かせる問題として見てほしい。まず、どうしてここへ来たかを話そう。クリスマスの朝、よく太ったガチョウと一緒に届いたんだ。そのガチョウは今ごろ、ピータースンの暖炉の前で焼かれているに違いない。事情はこうだ。クリスマスの朝四時ごろ、君も知るとおり、たいへん正直な男であるピータースンは、ちょっとした酒盛りの帰りで、トテナム・コート・ロードを家へ向かっていた。前方のガス灯の明かりのなかに、やや背の高い男が、少しふらつきながら歩いているのが見えた。肩には白いガチョウを担いでいた。その男がグッジ街の角まで来ると、数人のならず者とのあいだにいざこざが起きた。一人が男の帽子をたたき落としたので、男は身を守ろうと杖を振り上げた。ところが頭上で振り回した拍子に、背後の店の窓を割ってしまった。ピータースンは男を助けようと駆け寄ったが、当人は窓を割って動転していたうえ、役人めいた制服姿の人物が向かってくるのを見て、ガチョウを落とし、脱兎のごとく逃げ出した。そしてトテナム・コート・ロードの裏手にある、迷路のような細い通りのなかへ消えてしまった。ならず者たちも、ピータースンの姿を見ると逃げた。こうして彼は戦場の主となり、このぼろ帽子と、申し分のないクリスマスのガチョウを、勝利の分捕り品として手に入れたわけだ。」
「それで、もちろん持ち主に返したんだろう?」
「君、問題はそこにあるんだ。たしかに、鳥の左脚に結びつけられた小さな札には、『ヘンリー・ベーカー夫人へ』と活字体で書いてあったし、帽子の裏にも『H・B』という頭文字が読める。だが、このロンドンにはベーカーが何千人も、ヘンリー・ベーカーだけでも何百人もいる。落とし物をそのうちの一人に返すのは、そう簡単じゃない。」
「それで、ピータースンはどうした?」
「どんな小さな問題でも僕が興味を持つと知っているから、クリスマスの朝、帽子もガチョウも持ってきた。ガチョウは今朝まで置いてあったが、多少霜が降りているとはいえ、もうむやみに延ばさず食べたほうがよさそうな気配を見せた。そこで拾い主が持ち帰り、ガチョウとしての最後の務めを果たさせることになった。クリスマスのごちそうを失った名も知らぬ紳士の帽子だけは、引き続き僕が預かっている。」
「広告は出さなかったのかい?」
「出していない。」
「じゃあ、持ち主を知る手掛かりは何がある?」
「推理できるものだけさ。」
「帽子から?」
「そのとおり。」
「冗談だろう。この古ぼけたフェルト帽から、何がわかる?」
「ここに拡大鏡がある。僕のやり方は知っているね。これをかぶっていた人間について、君ならどんなことがわかる?」
私はそのぼろ帽子を手に取り、少々情けない気分でひっくり返した。形はごく普通の丸型で、硬い黒の帽子だった。ひどく使い古されていた。裏地は赤い絹だったが、かなり色が変わっている。製造元の名はなかったが、ホームズの言ったとおり、片側に「H・B」という頭文字が走り書きされていた。つばには風飛び防止の留め紐を通す穴があったが、ゴム紐は失われていた。ほかには、ひび割れがあり、ひどく埃をかぶり、何か所か染みがあった。ただし、変色した部分にはインクを塗って隠そうとした形跡があった。
「何もわからない」と私は言い、友人に返した。
「いや、ワトソン、君には全部見えている。ただ、見たものから推理しないんだ。結論を引き出すのに、遠慮しすぎるんだよ。」
「それなら、この帽子から何を推理できるのか、聞かせてもらおう。」
彼は帽子を取り上げ、いつもの、内面へ目を向けるような独特のまなざしで見つめた。「もっと多くを語ってくれる帽子もあるだろうね」と言った。「それでも、かなりはっきり断定できることがいくつかあるし、ほかにも、少なくとも可能性が非常に高いといえることがある。この男がたいへん知的な人物であることは、見ただけで明らかだ。それから、この三年以内にはかなり暮らし向きがよかったが、今は落ちぶれている。先を見越す性質があったのに、今は以前ほどではない。これは精神的な後退を示している。暮らし向きの悪化と合わせれば、何か悪い影響、おそらく酒が働いているらしい。そのせいで、奥さんの愛情も冷めてしまったのだろう。これも明白な事実だ。」
「おい、ホームズ!」
「しかし、自尊心はいくらか残っている」と彼は、私の抗議を無視して続けた。「座って暮らすことが多く、外出は少ない。すっかり運動不足だ。中年で、白髪交じりの髪はここ数日のうちに切っており、ライム・クリーム[訳注:石灰水と油を用いた当時の整髪料]を塗っている。以上が、帽子から推理できる、比較的明白な事実だ。ついでに言えば、家にガスを引いている可能性は、きわめて低い。」
「やっぱり冗談を言ってるんだろう、ホームズ。」
「少しも。こうして結論を示した今でも、どうしてそこへたどり着けるのか、見当がつかないのかい?」
「僕がひどく鈍いのは間違いないんだろうが、正直、ついていけない。たとえば、どうしてこの男が知的だとわかる?」
答えるかわりに、ホームズは帽子を自分の頭に載せた。帽子は額をすっぽり覆い、鼻の付け根まで落ちてきた。「容積の問題さ」と彼は言った。「これほど大きな脳を持つ男なら、中身もそれなりにあるはずだ。」
「じゃあ、暮らし向きの悪化は?」
「この帽子は三年前のものだ。平らなつばの縁が反り上がった形は、そのころ流行し始めた。品物は最上等だよ。この畝織りの絹のリボンと、見事な裏地を見たまえ。三年前にはこれほど高価な帽子が買えたのに、それ以来新しい帽子を買っていないなら、間違いなく落ちぶれたんだ。」
「なるほど、それはたしかにわかりやすい。だが、先を見越す性質と、精神的な後退は?」
シャーロック・ホームズは笑った。「先を見越す性質は、これだ」と言い、帽子留めの小さな円盤と輪に指を当てた。「売るときから帽子についているものじゃない。わざわざ取りつけさせたのなら、ある程度の用心深さの証拠だ。風への備えを怠らなかったわけだからね。ところが、ゴム紐が切れたのに、取り替える手間を惜しんでいる。以前ほど先のことを考えなくなっているのは明らかだし、これは気力が衰えているはっきりした証拠だ。一方、フェルトの染みにインクを塗って隠そうとしているのは、自尊心までは失っていないしるしだね。」
「たしかに、もっともらしい推理だ。」
「さらに、中年であること、髪に白いものが交じっていること、最近散髪したこと、ライム・クリームを使うことは、裏地の下のほうをよく調べれば全部わかる。拡大鏡で見ると、床屋の鋏できれいに切られた毛先がたくさんある。どれも粘りついているようだし、ライム・クリームのにおいもはっきりする。この埃も、よく見れば、通りのざらざらした灰色の埃ではなく、家のなかの、ふわふわした茶色の埃だ。つまり、たいていは室内に掛けられていたということだね。それに、内側の湿った跡は、持ち主がひどく汗をかくことを示す動かぬ証拠で、したがって、十分に体を鍛えているとはまず考えられない。」
「だが、奥さんのことは? 愛情が冷めたと言ったね。」
「この帽子は何週間もブラシをかけられていない。君の帽子に一週間分の埃がたまり、奥さんがそのまま外出させるようになったら、ワトソン、僕は君も不幸にして奥さんの愛を失ったのではないかと心配するよ。」
「独身かもしれないじゃないか。」
「いや、妻への仲直りの贈り物として、ガチョウを持って帰っていたんだ。鳥の脚についた札を思い出したまえ。」
「何にでも答えがあるんだな。だが、家にガスを引いていないとは、いったいどうしてわかる?」
「獣脂の染みが一つや二つなら、偶然かもしれない。しかし五つもあれば、この人物は火をともした獣脂蝋燭に、しょっちゅう近づいていると考えて、まず間違いない。おそらく夜、片手に帽子、もう片手に蝋の垂れる蝋燭を持って、階段を上がるんだろう。いずれにせよ、ガス灯から獣脂の染みはつかない。納得したかい?」
「いや、実に巧妙だ」と私は笑った。「だが、さっき君が言ったとおり、犯罪はなく、ガチョウ一羽を失ったほかに被害もないなら、ずいぶん精力の無駄遣いに思えるな。」
シャーロック・ホームズが答えようと口を開いたとき、扉が勢いよく開き、運び屋のピータースンが部屋へ飛び込んできた。頬を紅潮させ、驚きで気もそぞろといった顔だった。
「ガチョウが、ホームズさん! あのガチョウが!」と息を切らして言った。
「何だい? ガチョウがどうした? 生き返って、台所の窓から飛んでいったのかい?」
ホームズは興奮した男の顔をよく見ようと、ソファの上で体をひねった。
「これをご覧ください! うちの女房が、そいつの嗉嚢[訳注:鳥の食道にある、餌を一時的にためる袋状の部分]から見つけたんです!」
男は手を差し出した。手のひらの中央には、まばゆくきらめく青い石があった。大きさは豆粒より少し小さかったが、あまりに澄み切り、輝きが強いため、くぼんだ手のひらの暗がりで、電気の火花のようにまたたいていた。
シャーロック・ホームズは口笛を吹いて身を起こした。「何と、ピータースン!」と言った。「これは本当の掘り出し物だ。何を手に入れたか、わかっているだろうね?」
「ダイヤモンドでしょうか? 宝石ですよね。ガラスがパテみたいに切れるんです。」
「ただの宝石じゃない。あの宝石だ。」
「まさか、モーカー伯爵夫人の青い紅玉じゃないだろうな!」
私は思わず叫んだ。
「そのとおり。最近は毎日『タイムズ』の広告を読んでいるから、大きさも形もよく知っているはずだよ。まったく類のない石で、価値は推し量るしかない。だが、懸賞金の千ポンドは、市価の二十分の一にも到底届かないだろうね。」
「千ポンド! ああ、何というありがたいことだ!」
運び屋はどさりと椅子に腰を落とし、私たち二人を交互に見つめた。
「それは懸賞金だ。それに、伯爵夫人にはこの石に特別な思い入れがあって、取り戻せるなら財産の半分でも手放すだろうと、僕には考える理由がある。」
「記憶に間違いがなければ、なくなったのは『コスモポリタン・ホテル』だったね」と私は言った。
「そのとおり。十二月二十二日、ちょうど五日前だ。配管工のジョン・ホーナーが、夫人の宝石箱から盗んだ罪に問われている。不利な証拠が非常に強かったので、事件は巡回裁判所へ送られた。このあたりに記事があるはずだ。」
彼は新聞の山をかき回し、日付を確かめた。やがて一紙を広げてしわを伸ばし、二つに折ると、次の記事を読み上げた。
「『コスモポリタン・ホテル宝石盗難事件。配管工ジョン・ホーナー、二十六歳は、今月二十二日、モーカー伯爵夫人の宝石箱から、青い紅玉として知られる貴重な宝石を盗んだ容疑で出廷した。同ホテルの主任給仕ジェームズ・ライダーは、盗難当日、暖炉の火格子の二本目が緩んでいたため、はんだづけの修理をさせるべく、ホーナーを伯爵夫人の化粧室へ案内したと証言した。しばらくはホーナーと一緒にいたが、やがて用事で呼び出された。戻ってみるとホーナーの姿はなく、抽斗はこじ開けられ、化粧台の上には空の小さなモロッコ革の箱があった。のちに判明したところでは、伯爵夫人は常々、その箱に宝石を収めていたという。ライダーは直ちに騒ぎを知らせ、同日夕方、ホーナーは逮捕された。しかし、本人の所持品からも住居からも、石は発見されなかった。伯爵夫人の侍女キャサリン・キューザックは、盗難を発見したライダーの驚きの叫びを聞いて部屋へ駆けつけたところ、前の証人が述べたとおりの状況だったと証言した。B分署のブラッドストリート警部は、ホーナー逮捕の状況について証言した。ホーナーは激しく抵抗し、強い言葉で無実を訴えたという。被告には窃盗の前科があることが示され、治安判事は略式手続きを取らず、事件を巡回裁判所へ送致した。審理中、激しい動揺を見せていたホーナーは、最後に失神し、法廷から運び出された。』
「ふむ。予審法廷の話は、これで全部だ」とホームズは考え深げに言い、新聞を脇へ放った。「僕らが今解かなければならないのは、一方の端にある荒らされた宝石箱と、もう一方の端にあるトテナム・コート・ロードのガチョウの嗉嚢をつなぐ、一連の出来事だ。わかるだろう、ワトソン。僕らの小さな推理は、突然、ずっと重大で、無害ともいえない様相を帯びてきた。この石はここにある。石はガチョウから出てきた。ガチョウはヘンリー・ベーカー氏のものだった。あのみすぼらしい帽子を持ち、僕が退屈させた、もろもろの特徴を備えた紳士だ。だから今度は、本腰を入れてこの紳士を捜し、この小さな謎でどんな役割を果たしたのか確かめなければならない。まずは、いちばん簡単な手段を試すべきだ。それは間違いなく、すべての夕刊紙に広告を出すことだね。だめなら、別の方法に頼るまでだ。」
「何と書くんだい?」
「鉛筆と、その紙をくれたまえ。さて――『グッジ街の角にて、ガチョウ一羽および黒のフェルト帽を拾得。ヘンリー・ベーカー氏は本日午後六時半、ベーカー街二二一B番地へお越しになれば、お返しいたします』。明快で簡潔だ。」
「実にね。だが、読むだろうか?」
「新聞にはきっと目を光らせているよ。貧しい人には、大きな損失だからね。窓を割った不運と、ピータースンが近づいてきたことに、よほどおびえて、逃げることしか頭になかったのは明らかだ。だがその後は、鳥を放り出した自分の衝動を、ひどく悔やんでいるに違いない。それに、名前を載せれば目に留まる。知り合いなら誰でも教えてくれるからね。さあ、ピータースン、広告取次所までひと走りして、これを夕刊に載せてもらってくれ。」
「どの新聞にですか?」
「そうだな、『グローブ』『スター』『ポール・モール』『セント・ジェームズ』、『イブニング・ニュース』、『スタンダード』『エコー』、ほかにも思いつくものがあれば全部だ。」
「かしこまりました。それで、この石は?」
「ああ、そうだった。石は僕が預かる。ありがとう。それから、ピータースン、帰りにガチョウを一羽買って、ここへ届けてくれないか。君の家族が今、平らげているガチョウのかわりに、その紳士へ渡すものが必要だからね。」
運び屋が出ていくと、ホームズは石を取り上げ、光にかざした。「美しいものだ」と言った。「このきらめき、輝きを見たまえ。もちろん、犯罪の核となり、あらゆる悪事を引き寄せる。すぐれた宝石は、どれもそうだ。悪魔が好んで使う餌なんだよ。大きく古い宝石では、一つ一つの切子面が、それぞれ血なまぐさい行為を表しているのかもしれない。この石が見つかってからは、まだ二十年もたっていない。中国南部の厦門川の岸で発見された。ルビーの赤ではなく青い色をしているほかは、紅玉の特徴をすべて備えている点で珍しい。まだ若い石なのに、すでに忌まわしい歴史を持っている。この四十グレーンの、結晶になった炭のために、二件の殺人、硫酸を浴びせる事件、自殺、それにいくつもの強盗が起きた。こんな美しい玩具が、絞首台や牢獄へ人を送り込むとは、誰が思うだろう。さあ、金庫にしまって、伯爵夫人に、こちらで確保していると一筆知らせよう。」
「ホーナーという男は無実だと思うかい?」
「まだ何とも言えない。」
「では、もう一人のヘンリー・ベーカーは、何か関係していると思う?」
「ヘンリー・ベーカーはまったく無実で、担いでいた鳥が、純金でできていたとしても比べものにならないほど高価だとは、夢にも知らなかった可能性のほうが、ずっと高いと思う。ただ、それは広告に応じてくれれば、ごく簡単な試験で確かめられる。」
「それまでは何もできないのかい?」
「何もね。」
「それなら、僕は往診を続けるよ。だが、夕方、君の言った時刻にまた来よう。これほど入り組んだ話がどう解けるのか、見てみたいからね。」
「大歓迎だ。夕食は七時にする。たしか、ヤマシギがあるはずだ。そういえば、最近の出来事を考えると、ハドソン夫人に嗉嚢を調べてもらったほうがいいかもしれないな。」
患者の診察で手間取り、ベーカー街へ戻ったときには六時半を少し過ぎていた。家に近づくと、玄関の欄間から漏れる明るい半円の光のなかに、背の高い男が待っていた。スコットランド帽をかぶり、顎の下まで上着のボタンを留めていた。ちょうど私が着いたところで扉が開き、二人一緒にホームズの部屋へ案内された。
「ヘンリー・ベーカーさんですね」と彼は言い、肘掛け椅子から立ち上がった。いつでも自在に見せられる、くつろいだ愛想のよさで訪問者を迎えた。「どうぞ、暖炉のそばのこちらへ、ベーカーさん。寒い晩です。お見受けするところ、あなたの血の巡りは、冬より夏向きのようですね。ああ、ワトソン、ちょうどいいところへ来た。これは、あなたの帽子ですか、ベーカーさん?」
「はい、間違いなく私の帽子です。」
大柄で、肩が丸く、大きな頭を持つ男だった。広い知的な顔は、白いものの交じる褐色の尖った顎ひげへと、次第に細くなっていた。鼻と頬にさした赤みと、差し出す手のかすかな震えは、生活習慣についてのホームズの推測を思い出させた。黒のフロックコートは色があせ、襟を立て、前のボタンを上まできっちり留めていた。袖口からは痩せた手首が突き出し、カフスもシャツも見えなかった。言葉を慎重に選び、ゆっくりと区切って話す。全体として、運に見放された、学問と文学に親しむ人物という印象を与えた。
「数日間、こちらでお預かりしていました」とホームズは言った。「ご住所を載せた広告をお出しになるものと、待っていたのです。なぜ広告を出されなかったのか、少し不思議に思っております。」
訪問者は、やや恥ずかしそうに笑った。「以前ほど、懐にシリングが潤沢ではなくなりましてね」と言った。「襲ってきたならず者どもが、帽子も鳥も持ち去ったに違いないと思っていました。取り戻せる見込みのないものに、さらに金を使う気にはなれなかったのです。」
「ごもっともです。ところで、鳥のことですが、やむをえず食べてしまいました。」
「食べたのですか!」
訪問者は興奮して、椅子から半ば腰を浮かせた。
「ええ、そうしなければ、誰の役にも立たなくなるところでしたので。ただ、あのサイドボードの上の別のガチョウで、同じようにご満足いただけるのではないでしょうか。重さもほぼ同じで、鮮度は申し分ありません。」
「ああ、もちろんです、もちろん」とベーカー氏は、安堵のため息をついて答えた。
「むろん、ご自身の鳥の羽根や脚、嗉嚢などは残してあります。お望みでしたら――」
男は心から愉快そうに笑いだした。「冒険の記念品としてなら、役に立つかもしれません」と言った。「しかし、それ以外には、亡き知己のディスイェクタ・メンブラ[訳注:ラテン語で「ばらばらになった手足」。文献の断片などにも用いる表現]を頂戴しても、使い道は思いつきませんね。いえ、お許しいただけるなら、サイドボードにある、あの立派な鳥だけにしておきましょう。」
シャーロック・ホームズは、こちらへ鋭く目をやり、軽く肩をすくめた。
「では、こちらが帽子、あちらが鳥です」と彼は言った。「ところで、前のガチョウをどこで手に入れられたか、伺ってもよろしいでしょうか。私は少々、家禽に興味がありまして、あれほどよく育ったガチョウは、めったに見ないものですから。」
「ええ、喜んで」とベーカーは答えた。立ち上がり、新たに手に入れた品を小脇に抱えていた。「私たちは何人かで、博物館の近くの『アルファ・イン』へよく通うのです。昼間は、博物館そのものにいる連中でしてね。今年、ウィンディゲートという親切な主人が、ガチョウ倶楽部を作りました。毎週数ペンスずつ納めると、クリスマスに一人一羽ずつもらえるという仕組みです。私はきちんと納めました。そのあとのことは、ご存じのとおりです。本当にありがとうございました。このスコットランド帽は、私の年齢にも威厳にも、ふさわしくありませんから。」
彼は、どこか滑稽なほどもったいぶった態度で、私たち二人に重々しく一礼し、大股で帰っていった。
「ヘンリー・ベーカー氏は、これで片づいた」と、扉を閉めたホームズは言った。「事件について何も知らないことは、間違いない。腹は減っているかい、ワトソン?」
「それほどでもない。」
「それなら夕食を夜食に繰り下げて、まだ温かいうちに、この手掛かりを追おうじゃないか。」
「ぜひそうしよう。」
凍てつく晩だったので、私たちは厚手の長外套を着込み、首に襟巻きを巻いた。外では、雲一つない空に星が冷たく輝き、通行人の吐く息は、いくつもの拳銃の発射のように、白い煙となって噴き出していた。医師たちの住む界隈、ウィンポール街、ハーリー街を足早に抜け、ウィグモア街を通ってオックスフォード街へ出ると、私たちの足音が鋭く高く響いた。十五分後には、ブルームズベリーの「アルファ・イン」に着いていた。ホルボーンへ下る通りの一つ、その角にある小さな酒場だった。ホームズは奥のバーの扉を押し開け、赤ら顔で白い前掛けをした主人に、ビールを二杯注文した。
「ここのビールは、きっと上等でしょうね。ガチョウに劣らないものなら」と彼は言った。
「うちのガチョウですって!」
主人は驚いたようだった。
「ええ。つい半時間前、あなたのガチョウ倶楽部に入っているヘンリー・ベーカーさんと話していたのです。」
「ああ、なるほど。しかしね、お客さん、あれはうちで育てたガチョウじゃないんですよ。」
「そうですか。では、どこのものです?」
「コヴェント・ガーデンの仲買人から、二ダース仕入れたんです。」
「ほう。あそこには何人か知り合いがいます。どなたです?」
「ブレッキンリッジという男です。」
「ああ、その人は知りません。では、ご主人、あなたの健康と、この店の繁盛に乾杯。おやすみなさい。」
「次はブレッキンリッジ氏だ」と、凍るような外気へ出て、コートのボタンを留めながらホームズは続けた。「忘れるなよ、ワトソン。この鎖の一方の端には、ガチョウというありふれたものがあるが、もう一方には、僕らが無実を立証できなければ、まず七年の懲役を食らう男がいる。調べた結果、かえって有罪を裏づけることになるかもしれない。それでも、警察が見落とした捜査の道筋が、奇妙な偶然によって僕らの手に渡ったんだ。とことん追ってみよう。では、南へ向け、速歩前進!」
私たちはホルボーンを横切り、エンデル街を下り、貧民街を曲がりくねって抜け、コヴェント・ガーデン市場へ着いた。ひときわ大きな店の一つに、ブレッキンリッジの名が掲げてあった。主人は競馬好きらしい風貌の男で、顔はとがり、もみあげをきれいに整えていた。少年と一緒に、店の戸締まりをしていた。
「こんばんは。寒い晩ですね」とホームズは言った。
仲買人はうなずき、何の用かという目を友人へ向けた。
「ガチョウは売り切れのようですね」とホームズは、空になった大理石の台を指して続けた。
「明日の朝なら、五百羽だって渡せますよ。」
「それでは困るんです。」
「なら、あそこのガス灯の明るい店にありますよ。」
「いや、あなたの店を勧められたものですから。」
「誰に?」
「『アルファ』の主人です。」
「ああ、あそこには二ダースほど送りました。」
「しかも、実に立派な鳥でした。どこから仕入れたのですか?」
驚いたことに、その質問を聞くなり、仲買人はかっと怒りだした。
「おい、旦那」と、首を傾け、両手を腰に当てて言った。「何を探ってるんだ? 腹のなかを、はっきり言ってもらおうじゃないか。」
「十分はっきり申し上げています。『アルファ』へ納めたガチョウを、誰から買ったのか知りたいのです。」
「じゃあ、教えねえよ。それでおしまいだ!」
「別に大したことではありません。ただ、そんな小さなことで、なぜそれほど腹を立てるのかわからない。」
「腹を立てるだと! 俺みたいにしつこくつきまとわれりゃ、あんただって腹を立てるさ。いい品にまともな金を払ったら、そこで商売は終わりのはずだろう。ところが、『ガチョウはどこだ』『誰に売った』『いくらなら譲る』ときやがる。あれほど騒ぎ立てられると、世界中にあのガチョウしかいないような気になるぜ。」
「ほかに質問している方々とは、何の関係もありませんよ」とホームズは、何でもないように言った。「教えていただけないなら、賭けはお流れ。それだけです。ただ、鳥のことなら、私はいつでも自分の意見に金を賭けます。私が食べたあの鳥は田舎育ちだと、五ポンド賭けているんです。」
「じゃあ、その五ポンドは負けだな。町育ちだ」と仲買人は突っけんどんに言った。
「そんなはずはありません。」
「そうだと言ってるんだ。」
「信じられませんね。」
「小僧のころから鳥を扱ってきた俺より、あんたのほうが詳しいつもりか? 『アルファ』へ行った鳥は、全部町育ちなんだよ。」
「何と言われても、信じられません。」
「じゃあ、賭けるか?」
「あなたのお金をいただくだけですよ。私のほうが正しいとわかっていますからね。でも、そんなに意地を張らないほうがよいと教えるために、一ソヴリン[訳注:一ポンドに相当する金貨]だけ賭けましょう。」
仲買人は、不敵に笑った。「帳簿を持ってこい、ビル」と言った。
少年は薄い小冊子と、背が脂じみた大きな帳簿を持ってきて、吊りランプの下に並べた。
「さて、自信たっぷりの旦那」と仲買人は言った。「ガチョウは売り切れたと思っていたが、終わるころには、うちにまだ一羽、とんまなカモが残ってたとわかるだろうよ。この小さい帳面が見えるか?」
「ええ。」
「仕入れ先の名簿だ。わかったな? このページが田舎の連中で、名前のあとの数字が、大帳簿の取引をつけたページだ。さて、赤インクのこっちのページが見えるな? これが町の仕入れ先だ。三番目の名前を見てくれ。声に出して読んでみな。」
「オークショット夫人、ブリクストン・ロード一一七番地――二四九」とホームズは読んだ。
「そのとおり。じゃあ、大帳簿のそこを開いてくれ。」
ホームズは示されたページを開いた。「ありました。『オークショット夫人、ブリクストン・ロード一一七番地、鶏卵・家禽卸』。」
「さて、最後の記入は何だ?」
「『十二月二十二日。ガチョウ二十四羽、一羽七シリング六ペンス』。」
「そのとおり。どうだ。その下は?」
「『「アルファ」のウィンディゲート氏へ、一羽十二シリングで売却』。」
「今度は何と言うね?」
シャーロック・ホームズは、心底悔しそうな顔をした。ポケットから一ソヴリン金貨を取り出し、大理石の台へ投げると、口もきけないほど不愉快だという様子で背を向けた。数ヤード離れた街灯の下で立ち止まり、彼独特の、声を出さずに腹の底から笑う笑い方をした。
「ああいう形にもみあげを整え、ポケットから『ピンク・アン』[訳注:桃色の紙に印刷された競馬・スポーツ紙の通称]をのぞかせている男なら、賭けを持ち出せば、まず乗ってくる」と彼は言った。「目の前に百ポンド積んでも、賭けで僕からふんだくれると思って教えてくれたほど、詳しく話しはしなかっただろうね。さて、ワトソン、捜索は終わりに近づいていると思う。残る問題は、今夜このままオークショット夫人のところへ行くか、明日に回すか、それだけだ。あの無愛想な男の言葉からして、僕ら以外にも、この件を気にしている者がいるのは明らかだ。だから僕は――」
言葉は、たった今あとにした店から起きた大きな騒ぎに、突然さえぎられた。振り返ると、揺れるランプの黄色い光の輪の真ん中に、ネズミのような顔をした小男が立っていた。店先の戸口には仲買人のブレッキンリッジが仁王立ちになり、すくみ上がるその男に、激しく拳を振りかざしていた。
「お前にも、お前のガチョウにもうんざりだ!」と怒鳴っていた。「まとめて地獄へ行っちまえ! またくだらねえ話でしつこくまとわりついたら、犬をけしかけるぞ。オークショットのおかみを連れてこい。あの人になら答えてやる。だが、お前に何の関係があるんだ? 俺がお前からガチョウを買ったか?」
「いいえ。でも、あのなかの一羽は、やっぱり私のものなんです」と小男は泣きつくように言った。
「だったら、オークショットのおかみに言え。」
「あの人が、あなたに聞けと言ったんです。」
「プロイセンの王様にでも聞けばいいだろう。俺の知ったことか。もうたくさんだ。とっとと失せろ!」
男が猛然と前へ出ると、問いかけていた小男は、ひらりと闇へ逃げ込んだ。
「ほう、ブリクストン・ロードへ行く手間が省けるかもしれないぞ」とホームズはささやいた。「来たまえ。あの男から、何を引き出せるか試そう。」
明るい店々のまわりでたむろする人の群れを縫い、友人は大股で進んだ。たちまち小男に追いつき、肩に手を置いた。男は跳ねるように振り向いた。ガス灯の明かりのなか、その顔から血の気がすっかり失せているのが見えた。
「誰です? 何の用です?」と震える声で尋ねた。
「失礼」とホームズは穏やかに言った。「今しがた、仲買人に尋ねておられたことが、つい耳に入りましてね。お力になれるかもしれないと思ったのです。」
「あなたが? いったい、どなたです? この件について何をご存じだというんです?」
「シャーロック・ホームズと申します。ほかの人が知らないことを知るのが、私の仕事です。」
「でも、このことは何もご存じないでしょう?」
「失礼ながら、すべて知っています。あなたは、ブリクストン・ロードのオークショット夫人がブレッキンリッジという仲買人に売り、仲買人が『アルファ』のウィンディゲート氏へ売り、さらに氏がヘンリー・ベーカーさんの入っている倶楽部へ渡したガチョウの行方を、お探しですね。」
「ああ、あなたこそ、私が会いたかった方です!」と小男は叫び、震える指を広げて両手を差し出した。「このことがどれほど気になっているか、とても申し上げられません。」
シャーロック・ホームズは、通りかかった四輪辻馬車を呼び止めた。「それなら、風の吹き抜ける市場より、暖かい部屋で話したほうがよさそうですね」と言った。「ただ、その前に、私がお手伝いする方のお名前を、ぜひ伺いたいのですが。」
男は一瞬ためらった。「ジョン・ロビンソンです」と、横目を使って答えた。
「いや、いや。本当のお名前を」とホームズは優しく言った。「偽名の方を相手に仕事をするのは、どうもやりにくいものですから。」
見知らぬ男の白い頬に、赤みがさした。「では」と言った。「本名はジェームズ・ライダーです。」
「そうでしょうね。『コスモポリタン・ホテル』の主任給仕さんだ。どうぞ馬車へ。お知りになりたいことは、まもなく全部お話しできます。」
小男は、半ばおびえ、半ば望みを抱いた目で、私たち二人を見比べていた。思いがけない幸運の瀬戸際にいるのか、破滅の瀬戸際にいるのか、判断できずにいるようだった。やがて馬車に乗り込み、三十分後、私たちはベーカー街の居間へ戻っていた。道中、誰も口をきかなかったが、新たな同行者の高く浅い息遣いと、握ったり開いたりする両手が、内心の緊張を物語っていた。
「さあ、着きました!」と、皆で部屋に入ると、ホームズは陽気に言った。「この天気には、暖炉の火が何よりですね。寒そうですよ、ライダーさん。どうぞ、籐椅子へ。あなたのちょっとした問題を片づける前に、スリッパに履き替えさせてください。さて、あのガチョウたちがどうなったか、お知りになりたいのですね?」
「はい、そうです。」
「というより、あの一羽、と言うべきでしょう。気にかけておられるのは、たぶん一羽だけだ。白くて、尾に黒い横縞のある鳥ですね。」
ライダーは感情を抑えきれず、身を震わせた。「ああ」と叫んだ。「どこへ行ったか、おわかりになるのですか?」
「ここへ来ました。」
「ここへ?」
「ええ。しかも、まったく驚くべき鳥でした。あなたが気にするのも無理はない。死んでから卵を産んだのです。これまで見たこともないほど美しく、輝く、小さな青い卵をね。私の博物館に、今も置いてあります。」
訪問者はよろめきながら立ち上がり、右手で暖炉棚をつかんだ。ホームズは金庫の鍵を開け、青い紅玉を掲げた。星のように輝き、冷たくまばゆい光を、四方八方へ放った。ライダーはこわばった顔で凝視し、自分のものだと言うべきか、知らぬふりをすべきか、決めかねているようだった。
「もうおしまいだ、ライダー」とホームズは静かに言った。「しっかりしたまえ。火のなかへ倒れ込むぞ! ワトソン、腕を貸して椅子へ戻してやってくれ。重罪を犯して平然としていられるほど、肝が据わっていないらしい。ブランデーを少し。そうだ。それで、少しは人間らしい顔になった。まったく、肝っ玉の小さな男だ!」
一瞬、よろめいて倒れかけたが、ブランデーで頬に薄い血の色が戻った。男は座ったまま、おびえた目で、自分を告発する相手を見つめていた。
「つながりはほぼ全部つかんでいるし、必要な証拠も十分そろっている。だから、君に話してもらうことは、あまりない。それでも、事件を完全な形にするため、残りもはっきりさせておこう。ライダー、君はモーカー伯爵夫人の、この青い石のことを聞いていたね?」
「キャサリン・キューザックが教えてくれたんです」と、ひび割れた声で男は言った。
「なるほど、伯爵夫人の侍女だね。手軽に一攫千金を得られる誘惑に、君は勝てなかった。君よりましな人間でも、これまで同じことはあった。だが、君は手段にあまり頓着しなかったね。ライダー、君にはなかなか見事な悪党になる素質があるようだ。配管工のホーナーが、以前にも似た事件に関わっていたのを知っていた。だから、いっそう疑いを向けやすい。さて、何をした? 共犯のキューザックと組んで、伯爵夫人の部屋にちょっとした修理仕事を作り、ホーナーが呼ばれるように仕向けた。そして男が帰ると、宝石箱を荒らして騒ぎを起こし、気の毒な男を逮捕させた。そのあと君は――」
ライダーは突然、敷物の上へ身を投げ出し、友人の膝にしがみついた。「どうか、お慈悲を!」と甲高い声で叫んだ。「父のことを! 母のことを考えてください! 二人とも悲しみで死んでしまいます。これまで悪いことなど、一度もしていません! もう二度としません。誓います。聖書にかけて誓います。ああ、裁判にしないでください! どうか、キリスト様に免じて!」
「椅子へ戻りたまえ!」とホームズは厳しく言った。「今になって卑屈に這いつくばるのは勝手だが、何も知らない罪で法廷に立たされた、あの気の毒なホーナーのことは、少しも考えなかったじゃないか。」
「逃げます、ホームズさん。国を出ます。そうすれば、あの人への訴えは成り立たなくなります。」
「ふむ、その話はあとだ。今は、次に何が起きたのか、真実を聞かせてもらおう。どうして石がガチョウに入り、そのガチョウが市場へ出たのか。正直に話したまえ。助かる望みがあるとすれば、それだけだ。」

「『お慈悲を!』と男は甲高く叫んだ。」
ライダーは乾いた唇を舌で湿らせた。「起きたとおりにお話しします」と言った。「ホーナーが逮捕されると、私はすぐに石を持って外へ出たほうがいいと思いました。いつ警察が、私や私の部屋も調べようと言いだすかわからなかったからです。ホテルには、安全に隠せる場所がありませんでした。用事があるふりをして出かけ、姉の家へ向かいました。姉はオークショットという男と結婚して、ブリクストン・ロードに住み、市場へ出す鳥を太らせていたんです。そこへ行くあいだ、出会う男がみんな、巡査か刑事に見えました。寒い晩なのに、ブリクストン・ロードへ着くころには、顔から汗が流れていました。姉は、どうしたの、なぜそんなに青い顔をしているのと聞きました。私は、ホテルの宝石盗難で気が動転しているんだと答えました。それから裏庭へ出てパイプを吸い、どうするのがいちばんいいか考えたんです。
「昔、モーズリーという友人がいましたが、悪の道に入って、最近までペントンヴィル刑務所で服役していました。ある日、会ったとき、泥棒のやり方や、盗品をどう始末するかという話をしたんです。あの男について、一つ二つ、私の知っていることがあったので、裏切られる心配はないと思いました。そこで、住まいのあるキルバーンへまっすぐ行き、打ち明けようと決めたんです。石を金に換える方法を教えてくれるはずでした。でも、どうすれば無事に行けるでしょう? ホテルから来るあいだの苦しさを思い出しました。いつ捕まって身体を調べられるかわからない。そうなれば、チョッキのポケットに石があるんです。そのとき私は壁にもたれ、足元をよちよち歩くガチョウたちを眺めていました。すると突然、どんな名探偵の目もくらませる考えが、頭に浮かんだんです。
「姉は数週間前、クリスマスの贈り物に、好きなガチョウを一羽あげると言っていました。姉が約束を守る人間なのはわかっていました。今、そのガチョウをもらい、石を中に入れてキルバーンへ運ぼうと思ったんです。庭には小さな物置があったので、その裏へ一羽を追い込みました。大きくて立派な白い鳥で、尾に横縞がありました。そいつを捕まえ、くちばしをこじ開け、指の届くかぎり奥まで石を押し込みました。鳥がごくりとのみ込み、石が喉を通って嗉嚢へ落ちるのがわかりました。でも、そいつが羽ばたいて暴れたので、姉がどうしたのかと出てきました。話そうと振り向いた隙に、鳥は逃げ出し、ほかの群れへ飛び込んでしまったんです。
「『その鳥に、いったい何をしていたの、ジェム?』と姉が言いました。
「『ほら、クリスマスに一羽くれると言っただろう』と私は答えました。『どれがいちばん太っているか、触っていたんだ。』
「『あら』と姉は言いました。『あなたのは、ちゃんと取ってあるわよ。ジェムの鳥って呼んでるの。向こうにいる、大きな白いのがそう。全部で二十六羽だから、あなたに一羽、うちに一羽、市場へ二ダースというわけ。』
「『ありがとう、マギー。でも、かまわなければ、さっき触っていたやつがいいんだ。』
「『もう一羽のほうが、たっぷり三ポンドは重いのよ』と姉は言いました。『あなたのために、わざわざ太らせたんだから。』
「『かまわないよ。あっちをもらう。それで、今すぐ持っていく』と私は言いました。
「『ああ、好きにすればいいわ』と、姉は少しむっとして言いました。『じゃあ、どれがいいの?』
「『あの白い、尾に横縞のあるやつだ。群れの真ん中にいる。』
「『いいわよ。締めて持っていきなさい。』
「それで、言われたとおりにしたんです、ホームズさん。その鳥を、はるばるキルバーンまで運びました。仲間には、何をしたか話しました。ああいうことを打ち明けやすい男でしたからね。男は息もできないほど笑い、それから二人でナイフを取り、ガチョウを開きました。私は肝がつぶれる思いでした。石が影も形もないんです。何か、とんでもない間違いが起きたとわかりました。鳥を置いたまま姉の家へ駆け戻り、裏庭へ飛び込みました。そこには、一羽もいませんでした。
「『みんなどこへ行ったんだ、マギー?』と私は叫びました。
「『仲買人のところよ、ジェム。』
「『どの仲買人?』
「『コヴェント・ガーデンのブレッキンリッジ。』
「『でも、尾に横縞のあるのが、もう一羽いたかい?』と私は聞きました。『僕が選んだのと、同じようなやつが?』
「『ええ、ジェム。尾に縞のあるのは二羽いてね、私には、どうしても見分けがつかなかったわ。』
「それで、もちろん、すべてわかりました。私は足の続くかぎり走って、このブレッキンリッジのところへ行きました。でも、男は全部すぐに売ってしまっていて、どこへ行ったか、一言も教えてくれませんでした。今夜の様子は、ご自分たちでお聞きになったでしょう。いつも、ああいう返事なんです。姉は、私が気でも狂いかけていると思っています。自分でも、そう思うことがあります。そして今は――今は、私は盗人の烙印を押された人間です。自分の名誉を売ってまで手に入れようとした富には、一度も触れないまま。ああ、神様! どうか、お助けください!」
男は両手に顔を埋め、体をひきつらせて泣きだした。
長い沈黙が続いた。それを破るのは、男の荒い息遣いと、シャーロック・ホームズの指先がテーブルの縁を規則正しくたたく音だけだった。やがて友人は立ち上がり、扉を大きく開けた。
「出ていきたまえ!」と言った。
「何ですって! ああ、ありがとうございます!」
「もう何も言うな。出ていきたまえ!」
それ以上の言葉は必要なかった。男が駆け出し、階段で足音が鳴り、扉がばたんと閉まり、通りから、走り去る靴音が高く響いてきた。
「結局のところ、ワトソン」とホームズは、陶製のパイプに手を伸ばして言った。「僕は警察の不手際を埋め合わせるために雇われているわけじゃない。ホーナーが危ないなら話は別だが、あの男が証人として出てこなければ、訴えは崩れる。重罪を見逃すことになるのだろうが、ひょっとすると、一人の魂を救っているのかもしれない。あの男は、もう悪事を働くまい。あまりにも怖い思いをしたからね。今、刑務所へ送れば、一生出入りを繰り返す人間にしてしまう。それに、今は赦しの季節だ。偶然が、実に風変わりで奇妙な問題を僕らの前へ運んできた。そして、それを解いたこと自体が報酬なんだ。博士、よければベルを鳴らしてくれたまえ。もう一つの捜査を始めよう。そちらも、主役は鳥だ。」
第八話 まだらの紐
この八年間、友人シャーロック・ホームズの手法を研究してきた七十余件の事件記録を読み返すと、悲劇的なもの、滑稽なもの、ただただ奇妙なものと、実にさまざまだが、ありふれた事件は一つもない。富を得ることよりも、自らの技を究めることを愛したホームズは、尋常ならざるところ、さらには奇想天外とさえいえるところのない事件には、いっさい手を出そうとしなかったからである。だが、その多種多様な事件の中でも、サリー州の名家、ストーク・モランのロイロット家にまつわる一件ほど、異様な様相を呈したものは思い当たらない。この事件が起こったのは、私とホームズの交際が始まって間もないころ、まだ独身同士でベーカー街の部屋を分け合っていた時期である。もっと早く記録に残すこともできたはずだが、当時、秘密を守ると約束しており、その誓いから解かれたのは、約束の相手である女性が不幸にも早世した先月のことだった。今こそ事実を明らかにするのも、悪くはあるまい。というのも、グライムズビー・ロイロット博士の死について、真相以上に恐ろしいものに仕立てた噂が広く流布していることを、私は承知しているからだ。
一八八三年四月初めのある朝、目を覚ますと、シャーロック・ホームズがすっかり身支度を整えて、私の枕元に立っていた。彼はふだん朝寝坊である。暖炉の上の時計を見ると、まだ七時十五分だったので、私は驚いて目をしばたたきながら彼を見上げた。多少は不機嫌でもあったかもしれない。私のほうは、規則正しい生活を習慣としていたのだ。
「起こしてすまない、ワトソン」と彼は言った。「だが今朝は、みんな同じ運命なんだ。ハドソン夫人が起こされ、その仕返しに僕を起こし、僕は君を起こしたというわけさ。」
「いったい何事だい――火事か?」
「いや、依頼人だ。若いご婦人がひどく取り乱してやってきて、ぜひ僕に会いたいと言っているらしい。今、居間で待っている。この朝早くから都じゅうを歩き回り、眠っている人間を寝床からたたき起こすほどなら、よほど差し迫った話があるのだろう。面白い事件になれば、君だって最初から立ち会いたいに違いない。ともかく声をかけて、その機会だけは作っておこうと思ったんだ。」
「もちろんだとも。そんな機会を逃すものか。」
ホームズの捜査に同行し、直感のように素早く、しかも必ず論理的な根拠に立つ推理によって、持ち込まれた難問を解きほぐしていくのを見守ることほど、私にとって大きな喜びはなかった。急いで服を着ると、数分後には友人と階下の居間へ向かう支度ができていた。窓辺に座っていた、黒衣に厚いヴェールをまとった女性が、私たちの入室とともに立ち上がった。
「おはようございます」とホームズは快活に言った。「私がシャーロック・ホームズです。こちらは親友で、仕事の協力者でもあるワトソン博士。私に話すのと同じように、遠慮なく何でもお話しください。おや、ハドソン夫人が気を利かせて火をたいてくれたようですね。どうぞ暖炉のそばへ。温かいコーヒーも頼みましょう。震えていらっしゃる。」
「寒くて震えているのではありません」と女性は低い声で答え、勧められるままに席を移した。
「では、何が?」
「恐ろしいのです、ホームズさん。恐怖で震えているのです。」
そう言ってヴェールを上げた顔を見れば、痛ましいほど取り乱しているのは明らかだった。顔はすっかりやつれて灰色になり、怯えた目は、追い詰められた獣のように落ち着きなく動いていた。顔立ちや姿は三十歳ほどの女性のものだったが、髪には年に似合わぬ白いものが交じり、その表情は疲れ果て、憔悴しきっていた。シャーロック・ホームズは、何もかもを見抜くあの素早い一瞥を彼女に向けた。
「怖がることはありません」と彼は優しく言い、身を乗り出して彼女の腕を軽くたたいた。「すぐに事態をよいほうへ向けられると確信しています。今朝は汽車でいらしたのですね。」
「私をご存じなのですか?」
「いいえ。ただ、左手の手袋の中に、往復切符の帰りの半券が見えます。ずいぶん早く家を出られたのでしょう。それに、駅へ着く前には、ぬかるんだ道を二輪馬車でかなり走っていらっしゃる。」
女性はびくりと身を震わせ、当惑した顔で私の友人を見つめた。
「別に不思議なことではありませんよ」と彼は微笑んだ。「上着の左袖に、少なくとも七か所、泥がはねています。どれもついたばかりです。こんなふうに泥をはね上げる乗り物は二輪馬車しかありませんし、それも御者の左側に座っていた場合に限ります。」
「どうお見抜きになったにせよ、まったくそのとおりです」と彼女は言った。「六時前に家を出て、六時二十分にレザーヘッドに着き、始発の汽車でウォータールーへ参りました。ホームズさん、もうこれ以上は耐えられません。このままでは気が狂ってしまいます。頼る人もいないのです――私を気にかけてくれる人は、たった一人だけおりますけれど、その人も気の毒に、ほとんど力にはなれません。あなたのことは伺っております、ホームズさん。ファリントッシュ夫人からです。夫人が本当にお困りだったとき、お力になったそうですね。ご住所も夫人に教えていただきました。ああ、私も助けていただけないでしょうか。せめて、この身を包む深い闇に、わずかでも光を当てていただけないでしょうか。今はお礼を差し上げることもできませんが、ひと月か六週間もすれば結婚し、自分の収入を自由にできるようになります。そのときには、きっとご恩に報います。」
ホームズは机に向き直り、鍵を開けて小さな事件簿を取り出すと、そのページを調べた。
「ファリントッシュ」と彼は言った。「ああ、思い出しました。オパールの宝冠に関する事件でしたね。君と知り合う前だったと思うよ、ワトソン。ご友人のときと同じだけの力を尽くして、喜んでお引き受けします。報酬については、この仕事そのものが私には報酬です。ただ、何か費用がかかりましたら、ご都合のよいときにご負担いただければ結構です。では、事情を判断するうえで役に立ちそうなことを、すべてお聞かせください。」
「ああ」と訪問客は答えた。「私の置かれた立場が恐ろしいのは、まさにその点なのです。恐怖の正体はあまりに漠然としていて、疑いの根拠も、ほかの方には取るに足らないと思われるような、ほんの小さなことばかり。ですから、誰よりも頼りにし、相談できるはずの人さえ、私の話をすべて、神経質な女の思い過ごしだと考えているのです。口には出しません。でも、なだめるような返事や、そらす目を見ればわかります。けれどホームズさん、あなたは人の心に潜むあらゆる悪を深く見抜かれると伺いました。私を取り巻く危険の中で、どう身を処せばよいのか、どうかお教えください。」
「何でもお聞きします。」
「私の名はヘレン・ストーナーと申します。義父と暮らしておりますが、義父はイングランドでも指折りの古いサクソン系の家柄、サリー州の西の境にあるストーク・モランのロイロット家、その最後の生き残りです。」
ホームズはうなずいた。「そのお名前は存じています。」
「かつてはイングランドでも有数の富豪で、領地は州境を越え、北はバークシャー、西はハンプシャーにまで広がっていたそうです。ところが前の世紀に、放蕩で浪費好きな当主が四代も続き、ついには摂政時代の賭博好きの当主によって、家は完全に没落してしまいました。残ったのは数エーカーの土地と、築二百年の屋敷だけで、その屋敷にも重い抵当がついています。先代の当主はそこで、貴族の体面を保ちながら貧者として暮らすという、惨めな一生を送りました。けれど、その一人息子である義父は、新しい境遇に身を合わせなければならないと考え、親戚から金を借りて医師の資格を取り、カルカッタへ渡りました。そして医術の腕と押しの強い性格で、多くの患者を得たのです。ところが、屋敷で何度か盗みが起きたことに激怒し、現地人の執事を殴り殺してしまいました。死刑こそかろうじて免れましたが、長いあいだ獄につながれ、やがて失意に沈む陰気な人間となって、イングランドへ戻ってきたのです。
「ロイロット博士はインドにいたころ、私の母、ストーナー夫人と結婚しました。母はベンガル砲兵隊のストーナー少将に先立たれた、若い未亡人でした。姉のジュリアと私は双子で、母が再婚したときは、まだ二歳でした。母には相当の財産があり、年に千ポンドを下らない収入があったのですが、遺言によって、私たちが義父と暮らしているあいだは、そのすべてをロイロット博士に譲ることにしました。ただし、私たちが結婚した際には、それぞれに毎年一定額を支給するという条件がついていました。イングランドへ帰って間もなく、母は亡くなりました――八年前、クルーの近くで鉄道事故に遭ったのです。するとロイロット博士は、ロンドンで開業しようとしていたのをあきらめ、私たちを連れて、ストーク・モランの古い先祖伝来の屋敷へ移りました。母の遺したお金で暮らしには何一つ不自由がなく、私たちの幸福を妨げるものはないように思えました。
「ところが、このころから義父は恐ろしいほど変わってしまったのです。近隣の方々は初め、ストーク・モランのロイロット家の者が昔の屋敷へ戻ってきたことを、とても喜んでくださいました。それなのに義父は、親しくなって行き来をするどころか、家に閉じ籠もり、たまに外へ出ても、行き会う人ごとにひどい喧嘩を吹っかけるばかりでした。この家の男たちには、狂気すれすれの激しい気性が代々受け継がれており、義父の場合は、熱帯での長い暮らしがそれをいっそう強めたのだと思います。恥ずかしい乱闘騒ぎが相次ぎ、そのうち二度は警察裁判所に持ち込まれました。とうとう村じゅうの恐怖の的となり、姿を見るだけで人々は逃げ出すようになりました。義父は恐ろしく力が強いうえ、怒りだすと、まるで手がつけられないのです。
「先週も村の鍛冶屋を橋の欄干越しに小川へ投げ込み、私がかき集められるだけのお金を払って、ようやくまた世間に醜聞が広がるのを防ぎました。義父には、旅暮らしのジプシーたちのほかに、友人と呼べる人は一人もいません。家の領地として残っている、茨の生い茂る数エーカーの土地に、そうした放浪の人たちが野営するのを許し、その代わりに彼らの天幕でもてなされ、ときには何週間も一緒に旅へ出てしまいます。また、インドの動物にもひどく熱を上げており、文通相手に送らせているのです。今もチーターとヒヒを一頭ずつ飼っていて、敷地を自由に歩き回らせています。村の人々は、飼い主に劣らず、その動物たちも恐れています。
「ここまでお話しすれば、かわいそうな姉のジュリアと私に、暮らしの楽しみなどほとんどなかったことは、おわかりいただけるでしょう。召使いも居つかず、長いあいだ家事はすべて私たち二人でしておりました。姉は亡くなったとき、まだ三十でしたのに、髪はもう白くなり始めていました。今の私と同じように。」
「では、お姉さんは亡くなられたのですね?」
「ちょうど二年前に亡くなりました。その死について、お話ししたいのです。今申し上げたような暮らしですから、同じ年ごろで同じ身分の方々と知り合う機会は、ほとんどありませんでした。ただ、母の未婚の姉で、ホノリア・ウェストフェイルという伯母がハローの近くに住んでおりまして、ときおり短いあいだ、そちらへ遊びに行くことを許されていました。ジュリアは二年前のクリスマスにそこを訪れ、半給で待命中の海兵隊少佐と知り合い、婚約しました。姉が帰宅して、そのことを知った義父は、結婚に反対はしませんでした。けれど式の日まで二週間を切ったころ、あの恐ろしい出来事が起こり、私からただ一人の心の友を奪ってしまったのです。」
シャーロック・ホームズは、椅子にもたれ、クッションに頭を沈めて目を閉じていたが、ここでまぶたを半ば開き、訪問客を見やった。
「細かいところまで、正確にお願いします。」
「それは難しくありません。あの恐ろしいときのことは、一つ残らず記憶に焼きついておりますから。先ほど申し上げたように、屋敷はたいへん古く、今は片方の翼棟にしか住んでおりません。この翼棟の寝室は一階にあり、居間は建物の中央部分にあります。寝室は、最初がロイロット博士の部屋、二番目が姉の部屋、三番目が私の部屋です。部屋同士をつなぐ扉はありませんが、どれも同じ廊下に面しています。ここまではおわかりでしょうか?」
「よくわかります。」
「三つの部屋の窓は、どれも芝生に面しています。あの忌まわしい夜、ロイロット博士は早くから自室に引き取っていましたが、まだ寝てはいないことがわかっていました。いつも吸っている強烈なインド葉巻の匂いに、姉が悩まされていたからです。それで姉は自分の部屋を出て、私の部屋へ来ました。しばらく座って、間近に迫った結婚式のことを話していました。十一時になると帰ろうと立ち上がりましたが、戸口で足を止め、振り返ったのです。
「『ねえ、ヘレン』と姉は言いました。『真夜中に誰かが口笛を吹くのを、聞いたことはない?』
「『一度もないわ』と私は答えました。
「『あなたが寝ながら口笛を吹くなんてことも、あるはずないわよね?』
「『もちろんよ。でも、どうして?』
「『ここ何晩か、決まって午前三時ごろに、小さいけれどはっきりした口笛が聞こえるの。私、眠りが浅いでしょう。それで目が覚めるのよ。どこから聞こえるのかはわからないわ。隣の部屋かもしれないし、芝生のほうかもしれない。あなたにも聞こえたか、ちょっと尋ねてみようと思って。』
「『いいえ、聞いていないわ。きっと植え込みにいる、あの嫌なジプシーたちよ。』
「『たぶんそうね。でも、芝生で吹いているなら、あなたに聞こえないのは変だわ。』
「『だって、私は姉さんより、ずっとぐっすり眠るもの。』
「『まあ、どちらにしても、大したことではないわね』。姉は私に微笑みかけて扉を閉め、その少しあとで、自分の部屋の鍵をかける音が聞こえました。」
「なるほど」とホームズは言った。「夜はいつも、部屋の内側から鍵をかける習慣だったのですか?」
「いつもです。」
「それはなぜ?」
「博士がチーターとヒヒを飼っていることは、申し上げたと思います。鍵をかけなければ、安心できませんでした。」
「もっともです。どうぞ、お続けください。」
「その晩は眠れませんでした。何か不幸が迫っているような、漠然とした予感に胸を押さえつけられていたのです。お話ししたように、姉と私は双子でした。これほど近しい二つの魂を結ぶ絆が、どれほど微妙なものか、おわかりいただけるでしょう。荒れた夜でした。外では風がうなり、雨が窓を激しくたたいていました。すると突然、嵐の騒音を突き破って、恐怖に駆られた女のすさまじい悲鳴が響いたのです。姉の声だと、すぐにわかりました。私は寝床から飛び起き、ショールを羽織って廊下へ走り出ました。扉を開けたとき、姉が話していたような小さな口笛が聞こえた気がしました。そして少しあとに、金属の塊が落ちたような、がちゃんという音も。廊下を駆けていくと、姉の部屋の鍵は開いていて、扉がゆっくりと動いていました。中から何が現れるのかと思うと、恐ろしくて、その扉を見つめるほかありませんでした。廊下のランプに照らされて、戸口に姉の姿が見えました。顔は恐怖で真っ白になり、助けを求めて両手で宙を探り、酔った人のように全身を前後に揺らしていました。私は駆け寄って抱きかかえましたが、その瞬間、姉の膝から力が抜けたようになり、床へ倒れました。ひどい苦痛に襲われているように身をよじり、手足は恐ろしく痙攣していました。初めは私だとわかっていないのかと思いましたが、身をかがめると、姉は突然、今も忘れられない声で叫びました。『ああ、神様! ヘレン! 紐よ! まだらの紐!』。まだ何か言いたげで、博士の部屋の方角を指で突くように示しましたが、また痙攣に襲われ、言葉が途切れてしまいました。私は義父を大声で呼びながら走り出し、寝間着姿で部屋から急いで出てきた義父と行き会いました。義父が姉のそばへ来たときには、もう意識がありませんでした。ブランデーを喉へ流し込み、村の医者も呼びましたが、何をしてもむだでした。姉はしだいに衰弱し、とうとう意識を取り戻さないまま息を引き取ったのです。これが、私の大切な姉の、恐ろしい最期でした。」
「少しお待ちください」とホームズは言った。「その口笛と金属音については、確かですか。宣誓してもそう言えますか?」
「検死審問でも、州の検死官に同じことを尋ねられました。聞いたという強い印象は残っています。でも、嵐の轟音や古い家のきしむ音に紛れて、聞き違えた可能性もあります。」
「お姉さんは服を着ていましたか?」
「いいえ、寝巻き姿でした。右手には燃えさしのマッチが、左手にはマッチ箱が握られていました。」
「つまり、何かに驚いたとき、火をともして周囲を見回したわけですね。それは重要です。それで、検死官はどんな結論を?」
「ロイロット博士の素行は、以前から州内で悪評が高かったので、たいへん念入りに調べていました。それでも、納得のいく死因は突き止められませんでした。私の証言で、扉は内側から施錠されていたことがわかりましたし、窓には幅広い鉄のかんぬきを備えた古風な鎧戸があり、毎晩しっかり閉ざしていました。壁も隅々までたたいて調べましたが、どこも頑丈で、床板も徹底的に調べられ、結果は同じでした。煙突は広いのですが、四本の太い鉄製のかすがいで塞いであります。ですから、姉が最期を迎えたとき、部屋に一人きりだったことは確かなのです。それに、体には暴行を受けた跡もありませんでした。」
「毒物については?」
「医師たちが調べましたが、何も見つかりませんでした。」
「では、お気の毒なお姉さんは、何が原因で亡くなったとお考えですか?」
「恐怖そのものと、神経の激しい衝撃で亡くなったのだと思います。ただ、何がそれほど恐ろしかったのかは、想像もつきません。」
「そのころも、植え込みにはジプシーがいましたか?」
「はい。たいてい、何人かはおります。」
「なるほど。では、お姉さんの言った『バンド』――『まだらのバンド』[訳注:原語のbandには「紐・帯」のほかに「一団」の意味もある]を、どう受け取りましたか?」
「ただ、うわごとを口にしただけかと思うこともありますし、何かの一団、ひょっとすると、植え込みにいたあのジプシーたちを指したのかと思うこともあります。あの人たちの多くは、斑点模様の布を頭に巻いていますから、それを見て、あんな妙な言い方をしたのかもしれません。」
ホームズは、まるで納得できないというように首を振った。
「これは根の深い事件ですね。どうぞ、お話を続けてください。」
「あれから二年がたち、つい最近まで、私の暮らしはいっそう寂しいものでした。けれどひと月前、長年親しくしてきた大切な友人が、ありがたいことに結婚を申し込んでくれたのです。名はアーミテージ――パーシー・アーミテージといい、レディング近くのクレーン・ウォーターに住むアーミテージ氏の次男です。義父はこの結婚にも反対せず、春のうちに式を挙げることになっています。ところが二日前、屋敷の西の翼棟で修理が始まり、私の寝室の壁にも穴が開けられました。そのため、姉の亡くなった部屋に移り、姉の使っていた、あのベッドで寝なければならなくなったのです。ですから昨夜、眠れずに横たわり、姉の恐ろしい運命を思い返していたとき、夜の静寂の中から、あの死を告げた小さな口笛が突然聞こえたときの恐怖を、ご想像ください。私は跳ね起きてランプをつけましたが、部屋には何も見えませんでした。それでも震えが収まらず、もう寝床へ戻ることはできませんでした。服を着て、夜が明けるとすぐにそっと階下へ下り、向かいの『クラウン・イン』で二輪馬車を頼み、レザーヘッドへ向かいました。そして今朝、ただあなたにお会いして、ご助言をいただくためだけに、そこからやって参ったのです。」
「賢明なご判断でした」と友人は言った。「ですが、これですべてお話しになりましたか?」
「はい、すべてです。」
「ロイロットさん、まだありますね。あなたは義父をかばっている。」
「えっ、どういうことでしょう?」
ホームズは返事の代わりに、訪問客が膝に置いていた手を縁取る、黒いレースのひだを押し上げた。白い手首には、小さな青あざが五つ、四本の指と親指の跡がくっきりと残っていた。
「ひどい目に遭わされましたね」とホームズは言った。
女性は真っ赤になり、傷ついた手首を覆い隠した。「気の荒い人なのです」と彼女は言った。「自分の力の強さも、よくわかっていないのでしょう。」
長い沈黙が続いた。そのあいだホームズは両手に顎を載せ、ぱちぱちと燃える火を見つめていた。
「これは非常に根の深い事件です」と、やがて彼は言った。「方針を決める前に、確かめたい細かな点が山ほどあります。ですが、一刻もむだにはできません。今日、私たちがストーク・モランへ伺ったら、義父に知られずに、その部屋を調べることはできますか?」
「折よく、今日はとても大事な用事があって、ロンドンへ行くと申していました。おそらく一日じゅう留守でしょうから、邪魔は入らないと思います。今は家政婦がおりますが、年寄りで気も利きませんので、席を外させるのは簡単です。」
「結構です。ワトソン、出かけるのに異存はないね?」
「もちろんない。」
「では、二人で伺いましょう。あなたはどうなさいますか?」
「せっかくロンドンへ来ましたので、一つ二つ済ませたい用事があります。でも、十二時の汽車で帰りますから、おいでになるころには屋敷に戻っております。」
「私たちは昼過ぎ、早めに伺います。私にも少々片づける用事がありますので。朝食をご一緒しませんか?」
「いいえ、もう参らなければ。こうして悩みを打ち明けただけで、ずいぶん心が軽くなりました。午後にまたお目にかかれるのを、楽しみにしております。」
彼女は厚い黒のヴェールを顔に下ろし、滑るように部屋を出ていった。
「さて、どう思う、ワトソン?」とシャーロック・ホームズは椅子にもたれて尋ねた。
「まったく先の見えない、不吉な事件だと思うね。」
「先が見えず、不吉なことは確かだ。」
「だが、床にも壁にも異常がなく、扉も窓も煙突も通れないという彼女の話が正しければ、姉は間違いなく一人きりで、あの謎めいた最期を迎えたことになる。」
「では、夜中の口笛はどうなる? 死にゆく女性の、あのひどく奇妙な言葉は?」
「見当もつかない。」
「夜中の口笛、あの老医師と親しいジプシーの一団の存在、継娘の結婚を妨げることが博士の利益になると考える十分な理由、死の間際に口にされた『一団』とも取れる言葉、そして最後に、ミス・ヘレン・ストーナーが聞いた金属音――鎧戸を留める鉄のかんぬきが元の位置へ落ちた音かもしれない。これらを組み合わせれば、その線から謎が解けると考える根拠は、十分にあると思う。」
「だが、そうするとジプシーたちは何をしたんだ?」
「そこは想像がつかない。」
「その説には、いくつも難点があるように思えるが。」
「僕もそう思う。だからこそ今日、ストーク・モランへ行くんだ。難点が致命的なのか、それとも説明のつくものなのか、確かめたい。だが、いったい何だ、これは!」
友人が思わず叫んだのは、部屋の扉が突然勢いよく開き、そこへ巨漢が姿を現したからだった。その服装は、専門職の紳士と田舎の地主を奇妙に混ぜ合わせたようで、黒いシルクハットに長いフロックコート、丈の長いゲートルを着け、手には狩猟用の鞭を揺らしていた。背が高く、帽子は実際に戸口の横木をこすり、その幅広い体は入口を端から端まで塞ぐほどに見えた。無数の皺が刻まれ、日に焼けて黄色くなり、あらゆる邪悪な情念の跡をとどめた大きな顔が、私たち二人を交互に見た。深くくぼんだ黄ばんだ目と、高く細い肉のない鼻が、獰猛な老猛禽を思わせた。
「どっちがホームズだ?」と、その怪物じみた男が尋ねた。
「私ですが。あなたのお名前は存じ上げません」と友人は静かに答えた。
「ストーク・モランのグライムズビー・ロイロット博士だ。」
「それはどうも、博士」とホームズは穏やかに言った。「どうぞ、お掛けください。」
「座るつもりなどない。継娘がここへ来ただろう。あとをつけてきたのだ。あれは何を話した?」
「この季節にしては、少し冷えますね」とホームズは言った。
「何を話したと聞いている!」と老人は激怒して怒鳴った。
「ですが、クロッカスはよく咲きそうだと聞きましたよ」と友人は動じることなく続けた。
「ほう、わしをはぐらかすつもりか?」新たな訪問客は一歩踏み込み、狩猟鞭を振った。「貴様のことは知っているぞ、この悪党め! 前から噂は聞いている。おせっかいのホームズだな。」
友人は微笑んだ。
「でしゃばりのホームズ!」
微笑みがいっそう広がった。
「スコットランドヤードの、威張りくさった小役人め!」
ホームズは愉快そうに声を立てて笑った。「実に楽しいお話ですね。お帰りの際は扉を閉めてください。かなり風が入りますので。」
「言うことを言ったら帰ってやる。わしのことに、よけいな首を突っ込むな。ストーナーがここへ来たのはわかっている。あとをつけてきたのだからな! わしを敵に回すと、ただでは済まんぞ! これを見ろ。」
男は素早く前へ出ると、火かき棒をつかみ、巨大な褐色の両手で弓なりに曲げてみせた。
「この手にかからんよう、気をつけることだ」と唸り、曲がった火かき棒を暖炉に放り込むと、大股で部屋を出ていった。
「実に愛想のいい人物らしいね」とホームズは笑って言った。「僕はあれほど大柄じゃないが、もう少しいてくれたら、腕力もそう引けを取らないと、お見せできたんだが。」
そう言いながら鋼鉄の火かき棒を拾い上げ、一気に力を込めて元どおりに伸ばした。
「僕を警察の刑事と一緒くたにするとは、ずいぶん無礼な話じゃないか! おかげで捜査にも張り合いが出たが、あのご婦人が、こんな獣にあとをつけられる不注意をしたために、ひどい目に遭わなければいいがね。さて、ワトソン、朝食を頼もう。そのあと僕はドクターズ・コモンズ[訳注:当時、遺言書などを保管・閲覧できた場所]まで歩いていく。この事件に役立つ資料が手に入るだろう。」
シャーロック・ホームズが外出から戻ったのは、一時近くだった。手には、覚え書きと数字を一面に書きつけた青い紙を持っていた。
「亡くなった妻の遺言書を見てきた」と彼は言った。「正確に意味をつかむには、遺産の投資先が現在どれだけの価値を持つか、計算しなければならなかった。妻が亡くなった当時は千百ポンド近くあった総収入も、農産物価格の下落で、今では七百五十ポンドを超えない。娘は結婚すれば、一人につき年二百五十ポンドを請求できる。つまり二人とも結婚してしまえば、あの立派な人物の手元にはわずかな金しか残らず、一人だけでも、財政上は相当な打撃になるというわけだ。午前中の仕事はむだではなかった。そうした結婚を妨げる、きわめて強い動機があると証明できたからね。さて、ワトソン、のんびりしていられる状況ではない。とくに、あの老人は僕たちが自分のことに関心を持っていると知っている。支度がよければ辻馬車を呼んで、ウォータールー駅へ行こう。回転式拳銃をポケットに入れてきてくれるとありがたい。鋼鉄の火かき棒をねじ曲げる紳士には、イーリー製の二号弾が、実に有力な説得材料になる。必要なのは、それと歯ブラシくらいだろう。」
ウォータールーでは幸い、レザーヘッド行きの汽車に間に合った。着くと駅前の宿で馬車を雇い、サリーの美しい田舎道を四、五マイル走った。申し分のない天気で、明るい日差しのもと、空には綿のような雲がわずかに浮かんでいた。木々や道端の生け垣は、ちょうど最初の緑の芽を吹き始め、湿った土の心地よい匂いが空気に満ちていた。少なくとも私には、甘やかな春の兆しと、私たちが携わる不吉な探索との取り合わせが、奇妙に思えた。友人は馬車の前方に座り、腕を組み、帽子を目深にかぶり、顎を胸に沈めて、深い思索に没頭していた。だが突然、はっと身を起こし、私の肩をたたいて牧草地の向こうを指さした。
「あそこを見たまえ!」と彼は言った。
大木の茂る庭園が緩やかな斜面に沿って広がり、その頂上では木立がいっそう密になっていた。枝々のあいだから、たいそう古い屋敷の灰色の切妻と、高い屋根の棟が突き出していた。
「ストーク・モランかね?」と彼は尋ねた。
「へえ、あれがグライムズビー・ロイロット博士のお屋敷で」と御者は答えた。
「何か工事をしているね」とホームズは言った。「僕たちの行き先は、あそこだ。」
「村はあちらです」と御者は、少し離れた左手の屋根の集まりを指さした。「ですが、お屋敷へ行かれるなら、この踏み越し段を越えて、野原の小道を通るほうが近道ですよ。ほら、あのご婦人が歩いているところです。」
「そして、あのご婦人はストーナーさんのようだ」とホームズは目に手をかざして言った。「そうだね。君の言うとおりにしよう。」
私たちは馬車を降りて料金を払い、馬車はがらがらと音を立ててレザーヘッドへの道を引き返していった。
「あの男には、僕たちを建築家か、何かはっきりした仕事で来た人間だと思わせておくほうがいいと考えたんだ」とホームズは、踏み越し段を越えながら言った。「そうすれば、よけいな噂をせずに済むかもしれない。こんにちは、ストーナーさん。ご覧のとおり、約束どおり参りました。」
朝の依頼人は、喜びを顔いっぱいに浮かべて、急ぎ足で迎えに来た。「お待ちしておりました」と言い、私たちの手を熱心に握った。「何もかもうまくいっています。ロイロット博士はロンドンへ出かけました。夕方までは戻らないと思います。」
「私たちも博士と知り合う光栄に浴しました」とホームズは言い、起きたことを手短に話した。ストーナー嬢は、聞くうちに唇まで白くなった。
「まあ、何ということでしょう!」と彼女は叫んだ。「では、私のあとをつけてきたのですね。」
「そのようです。」
「あの人は本当に抜け目がなくて、いつなら安心していられるのか、私にはわからないのです。帰ってきたら、何と言うでしょう。」
「気をつけなければならないのは、向こうのほうです。自分よりも抜け目のない人間に目をつけられたと、思い知ることになるかもしれません。今夜は部屋に鍵をかけ、義父を入れないようにしてください。暴力に訴えるようなら、ハローの伯母さんのところへお連れします。さて、時間をむだにはできません。さっそく、調べる部屋へご案内いただけますか。」
屋敷は地衣類の斑点に覆われた灰色の石造りで、高い中央棟の両側から、蟹の鋏のように湾曲した二つの翼棟が張り出していた。その一方は窓が割れて板で塞がれ、屋根も一部が陥没しており、見るからに荒れ果てていた。中央棟も似たような状態だったが、右手の棟は比較的新しく、窓にかかった日よけや、煙突から立ちのぼる青い煙から、家族がそこに住んでいるとわかった。端の壁には足場が組まれ、石壁には穴が開けられていたものの、私たちが訪れたときには、職人の姿は見えなかった。ホームズは手入れの悪い芝生をゆっくり往復しながら、窓の外側を念入りに調べた。
「こちらが以前お使いだった寝室の窓、中央がお姉さんの部屋、母屋の隣がロイロット博士の部屋ですね?」
「そのとおりです。ただ、今は私が真ん中の部屋で寝ています。」
「工事が終わるまで、ということでしたね。ところで、あの端の壁には、急いで修理をしなければならないような箇所は見当たりませんが。」
「何もありませんでした。私を部屋から移す口実だったのだと思います。」
「なるほど。それは意味深い。さて、この細長い翼棟の反対側に廊下があって、三つの部屋の扉はそこへ通じている。もちろん、廊下にも窓はありますね?」
「はい。でも、とても小さく、人が通り抜けられる幅はありません。」
「お二人とも夜には扉に鍵をかけていたのですから、そちら側から寝室へ入ることはできなかった。では、ご面倒ですが、部屋に入って鎧戸のかんぬきをかけていただけますか。」
ストーナー嬢は言われたとおりにした。ホームズは開いた窓越しに丹念に調べ、あらゆる方法で鎧戸をこじ開けようとしたが、うまくいかなかった。ナイフを差し込み、かんぬきを持ち上げられるような隙間もない。次に拡大鏡で蝶番を調べたが、頑丈な鉄製で、分厚い石壁にしっかり埋め込まれていた。「ふむ」と彼は、少し困った様子で顎をかいた。「僕の説には、確かに難点がある。かんぬきがかかっていれば、この鎧戸を通れる人間はいない。まあ、内側を調べて何かわかるか、見てみよう。」
小さな脇扉から中へ入ると、白く塗られた廊下に三つの寝室の扉が並んでいた。ホームズは三番目の部屋を調べようとはせず、私たちはすぐ二番目の部屋へ入った。今はストーナー嬢が寝起きし、姉が最期を迎えた部屋である。古い田舎屋敷らしい、天井の低い質素な小部屋で、大きく口を開けた暖炉があった。片隅には茶色の整理箪笥、別の隅には白い上掛けをかけた幅の狭いベッド、窓の左側には化粧台が置かれていた。ほかには小さな籐椅子が二脚と、中央に敷かれた四角いウィルトン絨毯があるだけだった。周囲の床板も壁の羽目板も、虫食いだらけの茶色い樫材で、ひどく古びて変色しており、屋敷が建てられた当初のものかもしれなかった。ホームズは椅子を一脚、隅へ引き寄せて黙って腰を下ろし、部屋の隅々、上下左右へと何度も目を走らせ、細部をくまなく観察した。
「あの呼び鈴は、どこへ通じているのですか?」と、やがて彼は尋ねた。指したのは、ベッドの脇に垂れ下がる太い引き紐で、先端の房飾りが枕の上に載っていた。
「家政婦の部屋です。」
「ほかの物より新しく見えますね?」
「はい。二年ほど前につけたばかりです。」
「お姉さんのご希望でしょうね?」
「いいえ。姉が使ったという話は聞いたことがありません。私たちは、必要な物はいつも自分たちで取りに行っていました。」
「それなら、あんな立派な呼び鈴の紐をつける必要はなかったようですね。少し失礼して、床を確かめさせていただきます。」
彼は拡大鏡を手に腹這いになり、素早く前後に這いながら、床板の隙間を細かく調べた。それから壁を覆う羽目板も同じように調べた。やがてベッドへ歩み寄り、しばらくじっと見つめてから、壁に沿って上下に視線を走らせた。最後に呼び鈴の紐を握り、勢いよく引いた。
「おや、これは見せかけだ」と彼は言った。
「鳴らないのですか?」
「ええ。針金にさえつながっていません。これは実に面白い。ご覧なさい。小さな通風孔の、すぐ上の鉤に結びつけてあるだけです。」
「まあ、何ということでしょう! 今まで気づきませんでした。」
「実に妙だ!」とホームズは、紐を引きながらつぶやいた。「この部屋には、非常に変わった点がいくつかある。同じ手間で外気を取り入れられるのに、隣の部屋へ通風孔を開けるとは、まったく間抜けな建築屋ですね。」
「それも、ごく最近つけたものです」と女性は言った。
「呼び鈴の紐と同じころですか?」とホームズは尋ねた。
「はい。そのころ、小さな改造をいくつかしました。」
「どれも実に興味深い改造ですね。役に立たない呼び鈴の紐と、換気のできない通風孔ですか。ストーナーさん、よろしければ、今度は奥の部屋を調べさせてください。」
グライムズビー・ロイロット博士の寝室は、継娘の部屋より広かったが、調度は同じように質素だった。主なものといえば、折り畳み式のベッド、大半が専門書で占められた小さな木の本棚、ベッド脇の肘掛け椅子、壁際の飾り気のない木の椅子、丸テーブル、そして大きな鉄の金庫だった。ホームズはゆっくりと部屋を巡り、どの品も強い関心を示して調べた。
「この中には何が?」と金庫を軽くたたいて尋ねた。
「義父の仕事の書類です。」
「では、中をご覧になったことがあるのですね?」
「何年か前に、一度だけ。書類がいっぱい入っていたのを覚えています。」
「たとえば、猫が入っているということはありませんか?」
「いいえ。ずいぶん変わったことをおっしゃるのですね。」
「では、これをご覧ください。」
彼は金庫の上にあった、ミルクの入った小さな受け皿を取り上げた。
「いいえ、猫は飼っておりません。でも、チーターとヒヒはいます。」
「ああ、そうでしたね。チーターも、ただの大きな猫といえばそれまでですが、受け皿一杯のミルクでは、とても足りそうにありませんね。もう一点、確かめたいことがあります。」
彼は木の椅子の前にしゃがみ込み、座面をきわめて丹念に調べた。
「ありがとう。これではっきりしました」と言って立ち上がり、拡大鏡をポケットに収めた。「おや、これは面白い!」
彼の目を引いたのは、ベッドの隅に掛けてある、犬用の小さな鞭だった。ただし、その紐は折り返して結ばれ、輪になっていた。
「これをどう思う、ワトソン?」
「ごく普通の鞭だがね。どうして結んであるのかはわからない。」
「そこが、ごく普通とはいかないところじゃないか。まったく、世の中は邪悪なものだ。頭のいい男が、その頭を犯罪に向けると、最悪のことになる。ストーナーさん、もう十分に拝見したと思います。よろしければ、芝生へ出ましょう。」
調査を終えて部屋を出たときほど、友人の顔が険しく、額に暗い影が差しているのを、私は見たことがなかった。私たちは芝生を何度か往復した。ストーナー嬢も私も、彼の思索を妨げる気にはなれずにいたが、やがて彼は物思いから我に返った。
「ストーナーさん」と彼は言った。「これから申し上げることには、何から何まで、必ず従っていただく必要があります。」
「必ずそういたします。」
「ためらっていられる事態ではありません。従っていただけるかどうかに、命がかかっているかもしれないのです。」
「すべて、お任せいたします。」
「まず、今夜は私と友人の二人で、あなたの部屋に泊まらなければなりません。」
ストーナー嬢も私も、驚いて彼を見つめた。
「ええ、そうする必要があります。ご説明しましょう。向こうに見えるのは、村の宿屋ですね?」
「はい。『クラウン』です。」
「結構。あそこから、あなたの部屋の窓は見えますか?」
「よく見えます。」
「義父が戻ったら、頭痛を口実に部屋へ閉じ籠もってください。そして、義父が寝室に引き取る音を聞いたら、鎧戸を開け、窓の留め金を外し、私たちへの合図にランプを置いてください。それから、必要になりそうな物をすべて持って、以前の部屋へ静かに移るのです。修理中でも、一晩ならどうにか過ごせるでしょう。」
「ええ、十分に。」
「残りは私たちに任せてください。」
「でも、どうなさるのですか?」
「あなたの部屋で夜を過ごし、あなたを悩ませた音の正体を調べます。」
「ホームズさん、もう結論は出していらっしゃるのでしょう」とストーナー嬢は、友人の袖に手を置いて言った。
「そうかもしれません。」
「それなら、どうかお願いです。姉は何が原因で亡くなったのか、教えてください。」
「もっと確かな証拠を得てから、お話ししたいのです。」
「せめて、私の考えが正しいかどうかだけでも。姉は、突然の恐怖で死んだのでしょうか。」

「では、さようなら。勇気を持って。」
「いいえ、私はそうは思いません。おそらく、もっと実体のある原因があったのでしょう。さて、ストーナーさん、私たちは失礼しなければなりません。ロイロット博士が帰ってきて姿を見られれば、ここへ来たことがむだになります。では、さようなら。勇気を持って。お伝えしたとおりにしてくだされば、あなたを脅かす危険は、ほどなく私たちが取り除きます。どうかご安心を。」
シャーロック・ホームズと私は、「クラウン・イン」で難なく寝室と居間を借りることができた。
どちらも上階にあり、窓からは並木道の門と、ストーク・モランの屋敷で人の住んでいる翼棟が見渡せた。夕暮れになると、グライムズビー・ロイロット博士の馬車が通り過ぎた。手綱を取る少年の小さな姿の隣に、博士の巨体がそびえていた。重い鉄門を開けるのに少年が少し手間取ると、博士のしわがれた怒号が響き、激怒して握り拳を振り回す姿が見えた。馬車は中へ進み、数分後、居間の一つでランプがともされたらしく、木々のあいだに、ぱっと明かりが浮かんだ。
「実はね、ワトソン」と、深まりゆく闇の中で並んで座りながら、ホームズは言った。「今夜、君を連れていくことには、少し良心が痛むんだ。明らかに危険がある。」
「僕がいて役に立つかい?」
「君の存在が、何ものにも代えがたい助けになるかもしれない。」
「ならば、ぜひ行こう。」
「ありがたいよ。」
「危険だと言ったね。どうやら君には、あの部屋で僕に見えなかったものが見えたらしい。」
「いや、ただ少し余計に推理しただけだと思う。僕の見たものは、君もすべて見ているはずだ。」
「呼び鈴の紐以外には、目立つものはなかった。しかも、あれが何の役に立つのか、正直、想像もつかない。」
「通風孔も見ただろう?」
「ああ。だが、二つの部屋のあいだに小さな穴があいていても、そんなに珍しいこととは思わない。ネズミでも通り抜けられないほど小さかった。」
「僕はストーク・モランへ来る前から、通風孔があるはずだとわかっていた。」
「まさか、ホームズ!」
「いや、本当さ。彼女の話では、姉はロイロット博士の葉巻の匂いをかいでいたね。当然、そこからすぐ、二つの部屋のあいだには何か通じるところがあると考えられる。それも小さなものでなければならない。大きければ、検死審問で取り上げられただろう。そこで通風孔だと推理したんだ。」
「だが、そんなものに何の害がある?」
「少なくとも、時期の一致は奇妙じゃないか。通風孔が開けられ、紐が下げられ、そのベッドで寝る女性が死ぬ。気にならないかい?」
「まだ、つながりが見えない。」
「あのベッドに、ひどく変わった点があるのに気づいたかい?」
「いや。」
「床に固定してあったんだ。あんなふうに留めつけたベッドを、今まで見たことがあるかい?」
「あるとは言えないね。」
「あの女性はベッドを動かせなかった。通風孔や紐との位置関係が、常に変わらないようになっている――紐と呼んでかまわないだろう。呼び鈴を引くためのものではなかったことは、明らかだからね。」
「ホームズ」と私は叫んだ。「君の言おうとしていることが、ぼんやり見えてきた気がする。僕たちは、巧妙で恐ろしい犯罪を防ぐのに、かろうじて間に合ったんだな。」
「実に巧妙で、実に恐ろしい。医師が道を踏み外すと、犯罪者の中でも最悪の部類になる。度胸も知識も備えているからだ。パーマーやプリチャード[訳注:いずれも十九世紀の英国で毒殺事件を起こした医師]は、その道の一流だった。この男はさらに深く食い込んでくるが、ワトソン、僕たちはその上をいけると思う。だが、夜が明けるまでには、恐ろしい思いをたっぷりすることになる。頼むから今は静かにパイプを楽しみ、数時間くらい、もっと愉快なことを考えようじゃないか。」
九時ごろ、木々のあいだの明かりが消え、屋敷の方角はすっかり闇に沈んだ。二時間がのろのろと過ぎ、やがて十一時を打つと同時に、私たちの正面で、ただ一つの明るい光が突然輝いた。
「合図だ」とホームズは跳ね起きた。「真ん中の窓だよ。」
外へ出るとき、彼は宿の主人に二言三言声をかけ、これから遅い訪問で知人の家へ行き、そこで夜を明かすかもしれないと説明した。ほどなく私たちは暗い道に立っていた。冷たい風が顔を吹きつけ、前方の闇の中に黄色い光が一つまたたいて、陰鬱な用向きへと私たちを導いていた。
古い庭園の塀には、崩れたまま修理されていない箇所があったので、敷地へ入るのは容易だった。木立を抜けて芝生へ出て、それを横切り、窓から入ろうとしたそのとき、月桂樹の茂みから、醜く体のゆがんだ子供のようなものが飛び出した。手足をくねらせて草の上へ身を投げると、芝生を素早く駆け抜け、闇へ消えていった。
「何ということだ!」
私はささやいた。「今のを見たか?」
ホームズも一瞬、私と同じほど驚いた。動揺のあまり、その手が万力のように私の手首をつかんだ。だが、すぐ低く笑い、私の耳元に唇を寄せた。
「実にすてきなご家庭だ」と彼はつぶやいた。「あれがヒヒさ。」
博士の好む奇妙なペットのことを、私は忘れていた。チーターもいるのだ。次の瞬間には、肩へ飛びかかってくるかもしれない。ホームズにならって靴を脱ぎ、寝室の中へ入ったとき、ほっとしたのは正直なところだった。友人は音もなく鎧戸を閉め、ランプをテーブルへ移して、部屋を見回した。何もかも、昼間見たままだった。それから私のそばへ忍び寄り、手で口を囲むと、聞き取るのがやっとというほどの小声で、また耳元にささやいた。
「ほんのわずかな物音でも、計画は台なしだ。」
私は聞こえたというしるしにうなずいた。
「明かりは消しておかなければならない。通風孔から見られるからね。」
私はもう一度うなずいた。
「眠るなよ。命にかかわるかもしれない。必要なときのために、拳銃を用意しておきたまえ。僕はベッドの端に座る。君はあの椅子だ。」
私は回転式拳銃を取り出し、テーブルの隅に置いた。
ホームズは細長い杖を持ってきており、それをベッドの自分の横へ置いた。そのそばにマッチ箱と短い蝋燭を並べた。それからランプを消すと、私たちは闇に包まれた。
あの恐ろしい夜の見張りを、どうして忘れることができよう。息づかい一つ聞こえなかったが、数フィート先では友人が目を見開き、私と同じ緊張に神経を張り詰めて座っているとわかっていた。鎧戸は一筋の光さえ遮り、私たちは完全な暗闇の中で待った。外からは、ときおり夜鳥の声が聞こえ、一度は窓のすぐ外で、猫に似た長い鳴き声がした。やはりチーターは放し飼いになっているのだ。遠くでは教区の時計が、十五分ごとに低い音を響かせた。その十五分が、何と長かったことか。十二時が鳴り、一時、二時、三時と時が過ぎても、私たちはなお、何が起きるかと無言で待ち続けた。
突然、頭上の通風孔のあたりに、一瞬だけ光がきらめいた。すぐ消えたが、そのあとから、燃える油と熱せられた金属の強い匂いが漂ってきた。隣の部屋で誰かが遮光板つきの角灯をともしたのだ。かすかに何かの動く音がし、それから再びすべては静まり返ったが、匂いはますます強くなった。私は三十分ものあいだ、耳を澄ませて座っていた。すると突然、別の音が聞こえた。やかんから細く蒸気が噴き出し続けるような、ごくかすかな、穏やかな音だった。それを聞いた瞬間、ホームズはベッドから跳ね起き、マッチをすり、呼び鈴の紐を杖で激しく打ち据えた。
「見えるか、ワトソン!」と彼は叫んだ。「見えるか?」
だが、私には何も見えなかった。ホームズが火をつけた瞬間、小さいがはっきりした口笛が聞こえた。しかし、疲れた目へ突然光が差したため、友人が何をあれほど激しく打っているのか、見分けることができなかった。ただ、彼の顔が死人のように青ざめ、恐怖と嫌悪に満ちているのは見て取れた。
彼が打つのをやめて通風孔を見上げていたとき、不意に夜の静寂を破り、私がこれまで耳にしたこともない、恐ろしい叫び声が響き渡った。声はますます大きくなり、苦痛と恐怖と怒りが、しわがれた一つの絶叫に溶け合っていた。ずっと下の村でも、遠くの牧師館でさえ、その叫びに眠っていた人々が寝床から飛び起きたという。私たちは心臓まで凍りつき、私がホームズを、ホームズが私を見つめたまま、最後の反響が、もとの静寂へ吸い込まれていくまで立ち尽くした。
「いったい、何が起きたんだ?」
私は息を詰まらせて言った。
「すべて終わったということだ」とホームズは答えた。「そして、おそらく、これがいちばんよい結末だったのだろう。拳銃を持ちたまえ。ロイロット博士の部屋へ行こう。」
彼は厳粛な顔でランプをともし、先に立って廊下へ出た。寝室の扉を二度たたいたが、中から返事はなかった。そこで取っ手を回して入り、私は撃鉄を起こした拳銃を手に、そのあとへ続いた。
目の前に広がったのは、異様な光景だった。テーブルの上には遮光板を半ば開いた角灯があり、その強い光が、扉の少し開いた鉄の金庫を照らしていた。そのテーブルの脇、木の椅子に、グライムズビー・ロイロット博士が座っていた。長い灰色の寝間着の裾から裸の足首をのぞかせ、赤い踵のないトルコ風の室内履きに足を突っ込んでいる。膝の上には、昼間見た、柄が短く紐の長い鞭が横たわっていた。顎は上を向き、両目は恐ろしい硬直したまなざしで天井の隅を見据えていた。額には茶色がかった斑点のある、妙な黄色い帯が、きつく巻きついているように見えた。私たちが入っても、声一つ立てず、身じろぎもしなかった。
「紐だ! まだらの紐だ!」とホームズはささやいた。
私は一歩前へ出た。すると突然、その奇妙な頭飾りが動き始め、髪のあいだから、醜悪な蛇の、平たく菱形をした頭と、膨らんだ首がもたげられた。
「沼マムシだ!」とホームズは叫んだ。「インドで最も恐ろしい毒蛇だ。噛まれて十秒もたたないうちに死んだのだろう。暴力は本当に、振るう者自身へ跳ね返る。人を陥れようとする者は、自分の掘った穴に落ちる。この生き物を巣へ戻そう。それからストーナーさんを安全な場所へ移し、州警察に知らせるんだ。」
そう言うと彼は、死者の膝から犬用の鞭を素早く取り上げ、その輪を蛇の首に掛けた。恐ろしい止まり場から引き離し、腕をいっぱいに伸ばして運ぶと、鉄の金庫へ投げ込み、扉を閉めた。
以上が、ストーク・モランのグライムズビー・ロイロット博士の死の真相である。恐れおののく女性にどう悲報を伝え、朝の汽車でハローへ送り届けて、親切な伯母の庇護に委ねたか、また、遅々として進まない正式な捜査が、博士は危険なペットと不用意に戯れて命を落としたという結論に至った経緯などを述べて、すでに長くなりすぎた話を、これ以上引き延ばす必要はあるまい。この事件で、なお私にわからなかったわずかな点は、翌日の帰途、シャーロック・ホームズが話してくれた。
「僕は」と彼は言った。「まったく間違った結論に達していた。ワトソン、これは、資料が足りないまま推理をすることが、いつもどれほど危険かを示している。ジプシーの存在と、あの気の毒な女性が口にした『バンド』という言葉――おそらく、マッチの明かりでちらりと見たものの姿を言い表そうとしたのだろう――それだけで、僕は完全に見当違いの道へ導かれた。ただ一つ、僕の手柄といえるのは、あの部屋の住人を脅かす危険が、窓からも扉からも入り得ないとはっきりした時点で、すぐに考え直したことだ。すでに君に話したとおり、僕の注意はすぐ、通風孔と、ベッドへ垂れ下がる呼び鈴の紐へ向かった。紐が見せかけで、ベッドが床に固定されているとわかると、あの紐は、穴を通ってベッドへ来る何かのための橋ではないか、という疑いがただちに浮かんだ。蛇という考えがすぐ頭にひらめき、博士がインドから動物を取り寄せているという事実と結びつけて、今度こそ正しい道に乗ったと思った。どんな化学検査でも検出できない毒を使うという発想は、東洋で修業を積んだ、頭の切れる冷酷な男なら、いかにも思いつきそうなことだ。その毒がきわめて素早く効くことも、彼にとっては好都合だっただろう。毒牙が働いたことを示す、小さな黒い二つの穴を見つけるには、よほど目の鋭い検死官が必要だ。それから、口笛のことを考えた。もちろん、朝の光で犠牲者に蛇を見つけられる前に、呼び戻さなければならない。おそらく、あのミルクを使って、呼べば戻ってくるように仕込んだのだろう。都合のよい時刻を見計らって通風孔に蛇を入れれば、紐を伝ってベッドへ下りていくのは確実だった。寝ている人間を噛むかどうかはわからない。一週間、毎晩何事もなく済むこともあったかもしれないが、遅かれ早かれ、必ず犠牲になる。
「博士の部屋へ入る前に、僕はここまでの結論に達していた。椅子を調べると、彼がふだんからその上に立っていたことがわかった。もちろん、通風孔へ手を届かせるためには、そうする必要がある。金庫とミルクの受け皿、それに輪に結んだ鞭の紐を見て、残っていた疑いもすべて消えた。ストーナー嬢が聞いた金属音は、義父があの恐ろしい生き物を金庫へ戻し、慌てて扉を閉めた音だったことが明らかだ。結論を出したあと、それを確かめるために何をしたかは、君も知っている。僕は蛇の息を吐く音を聞いた。君にも聞こえたはずだ。それですぐ火をつけて、打ちかかった。」
「その結果、通風孔へ追い返したわけだね。」
「そればかりか、向こう側にいた主人へ襲いかからせる結果にもなった。杖の打撃が何度か当たり、蛇の怒りをかき立てたので、最初に目に入った人間へ飛びかかったのだ。そういう意味では、グライムズビー・ロイロット博士の死には、間接的ながら僕にも責任がある。だが、それが今後、さほど重く良心にのしかかるとは思えないね。」
第九話 技師の親指
友人シャーロック・ホームズと親しく付き合ってきた年月のあいだに、解決を求めて彼のもとへ持ち込まれた数々の事件のうち、私が直接紹介したのは、わずか二件だけだった。ハザリー氏の親指の事件と、ウォーバートン大佐の発狂事件である。このうち後者のほうが、鋭敏で独創的な観察者にとっては、腕を振るう余地が大きかったかもしれない。だが前者は、発端があまりにも奇妙で、細部の展開も実に劇的だった。そのため、友人が目覚ましい成果を上げるあの推理法を披露する機会は少なかったにせよ、記録に残す価値はいっそう高いかもしれない。私の記憶では、この話は新聞にも何度か載った。けれど、この手の話はみなそうだが、半段ほどの記事にひとまとめにされてしまうと、事実が目の前で少しずつ展開し、新しい発見の一つ一つが真相へ至る足掛かりとなって、謎がしだいに晴れていく場合ほどの感銘は与えない。当時、この事件は私に深い印象を残し、二年の歳月を経ても、その印象はいささかも薄れていない。
これからあらましを述べる出来事が起きたのは、私が結婚して間もない、一八八九年の夏だった。私は再び民間の医療に携わるようになり、とうとうホームズをベーカー街の部屋に一人残して出ていた。もっとも、しょっちゅう彼を訪ねていたし、ときには、気ままな独身生活の習慣を曲げさせて、私たち夫婦の家へ来てもらうことさえあった。診療所の患者は着実に増え、たまたま住まいがパディントン駅からさほど遠くなかったため、鉄道職員の患者も何人かいた。その一人は、苦痛の強い長患いを私が治してやって以来、飽きることなく私の腕を宣伝し、自分の勧めを聞きそうな病人を見つけては、送り込もうとしてくれていた。
ある朝、七時少し前、女中が扉をたたく音で目を覚ました。パディントンから男が二人来て、診察室で待っているという。鉄道がらみの患者は、たいてい軽症ではないことを経験から知っていたので、急いで服を着て階下へ向かった。階段を下りると、いつもの味方である車掌が部屋から出てきて、後ろの扉をぴたりと閉めた。
「連れてきましたよ」と、肩越しに親指で示して、彼はささやいた。「ちゃんと、そこにいます。」
「いったい、何を?」
私は尋ねた。その様子では、何か奇妙な生き物を私の部屋へ閉じ込めてきたかのようだった。
「新しい患者さんです」と彼は声をひそめた。「自分でお連れしたほうがいいと思いましてね。そうすれば、途中で逃げられることもありません。ほら、中でおとなしく待ってますよ。じゃ、先生、もう行かなくちゃ。私にも、先生と同じで仕事がありますから。」
そう言うと、この忠実な客引き役は、礼を言う暇さえ与えずに去っていった。
診察室へ入ると、一人の紳士がテーブルのそばに座っていた。落ち着いた色合いのヒース混じりのツイードの服を着て、柔らかい布の帽子を私の本の上に置いていた。片手にはハンカチが巻かれ、一面に血の染みが広がっていた。若く、二十五歳を超えてはいないだろう。力強い男らしい顔立ちだったが、ひどく青ざめており、何か激しい動揺に襲われ、それを全精神力で抑えつけているような印象を受けた。
「こんな朝早くに起こしてしまい、申し訳ありません、先生」と彼は言った。「実は昨夜、とてもひどい災難に遭いまして。今朝の汽車でロンドンへ戻り、パディントンで医者はどこにいるかと尋ねたところ、親切な方が、わざわざこちらへ案内してくださいました。女中さんに名刺を渡したのですが、あの脇机に置いていったようですね。」
私は名刺を取り上げ、目を通した。「ヴィクター・ハザリー、水力技師、ヴィクトリア街十六番地A(三階)。」
それが、朝の訪問客の名前、職業、住所だった。「お待たせして申し訳ありません」と私は書斎用の椅子に腰を下ろして言った。「夜通しの旅を終えたばかりなのですね。夜の旅というのは、それだけでも退屈なものですが。」
「ああ、私の夜は、退屈とはとても言えませんでした」と彼は言い、笑いだした。高く響く声で、椅子の背にもたれ、腹を揺すりながら大笑いした。その笑いに、医師としての私の本能が、ことごとく警鐘を鳴らした。
「やめなさい!」
私は叫んだ。「気をしっかり持つんです!」そして水差しから水を注いだ。
だが、何の役にも立たなかった。強い気性の人間が大きな危機を切り抜けたあとに、ときおり襲われる、あのヒステリーの発作だった。やがて彼は我に返ったが、ひどく疲れ果て、顔を真っ赤にしていた。
「みっともないところをお見せしました」と、息を切らして言った。
「そんなことはありません。これを飲んでください。」
私は水にブランデーを少し加えた。血の気を失っていた頬に、しだいに色が戻り始めた。
「楽になりました」と彼は言った。「それでは先生、親指を診ていただけますか。いや、親指があった場所を、と言うべきでしょうが。」
彼はハンカチをほどき、手を差し出した。見慣れているはずの私でさえ、その光景には身震いした。四本の指が突き出し、親指のあるべき場所には、赤い海綿状の、見るも無残な傷口があった。根元から切り落とされたか、引きちぎられたかしていたのだ。
「何ということだ!」
私は叫んだ。「これはひどい傷です。ずいぶん出血したでしょう。」
「ええ、しました。やられたときに気を失い、かなり長いあいだ、そのままだったと思います。意識が戻っても、まだ血が出ていたので、ハンカチの端を手首にきつく巻き、小枝を差し込んで締め上げました。」
「見事です。外科医になれたでしょうに。」
「水力学の問題ですからね。私の専門の範囲です。」
「これは」と私は傷を調べながら言った。「かなり重く、よく切れる刃物でやられていますね。」
「肉切り包丁のようなものでした。」
「事故ですか?」
「とんでもない。」
「何ですって! 殺されかけたのですか?」
「まさしく、殺されかけたんです。」
「何と恐ろしい。」
私は海綿で傷口をぬぐい、洗浄し、手当てを施してから、脱脂綿と石炭酸を含ませた包帯で覆った。彼はときおり唇を噛んだが、身をすくめることもなく、椅子にもたれていた。
「どうですか?」
手当てを終えて、私は尋ねた。
「すばらしい。ブランデーと包帯のおかげで、生まれ変わった気分です。ひどく弱っていましたが、何しろ、ずいぶんな目に遭ったものですから。」
「その話は、今はしないほうがよいかもしれません。神経には相当こたえるようですから。」
「いいえ、もう大丈夫です。警察には話さなければなりません。ただ、ここだけの話、この傷という動かぬ証拠がなければ、私の話を信じてくれるとは思えません。あまりに途方もない話ですし、裏づける証拠もほとんどないのです。それに、たとえ信じてくれても、私が示せる手掛かりはひどく曖昧ですから、犯人が裁かれるかどうかは疑問です。」
「なるほど!」と私は叫んだ。「もしそれが、解き明かしたい謎という性質のものでしたら、警察へ行く前に、ぜひ友人のシャーロック・ホームズを訪ねることをお勧めします。」
「ああ、その人の噂は聞いています」と訪問客は答えた。「取り上げてもらえるなら、実にありがたいですね。もちろん、警察にも頼まなければなりませんが。ご紹介いただけますか?」
「それ以上のことをしましょう。私が直接お連れします。」
「それは本当にありがたい。」
「辻馬車を呼んで、一緒に行きましょう。ちょうど、彼と朝食を取れる時刻に着くはずです。出かけられそうですか?」
「ええ。話を聞いてもらうまでは、落ち着けそうにありません。」
「では、召使いに馬車を呼ばせます。私もすぐ戻ります。」
私は階上へ駆け上がり、妻に事情を手短に説明した。五分後には、新しい知人と二輪辻馬車に乗り、ベーカー街へ向かっていた。
シャーロック・ホームズは予想どおり、寝間着姿で居間にくつろぎ、『タイムズ』の個人広告欄を読みながら、朝食前のパイプを吸っていた。その中身は、前日に吸い残した煙草の塊や燃えさしを、暖炉棚の隅で丁寧に乾かして集めたものだった。彼はいつもの静かな親しみを込めて私たちを迎え、ベーコンと卵を追加するよう頼み、一緒にたっぷり朝食を取った。食事が済むと、新しい知人をソファに横たわらせ、頭の下に枕を置き、水割りのブランデーを手の届くところへ置いた。
「並大抵ではない経験をなさったことは、一目でわかります、ハザリーさん」と彼は言った。「どうぞ、そのまま横になって、ご自分の家のつもりでくつろいでください。話せるだけお話しください。ただし、お疲れになったらやめて、少しずつ飲んで気力を保つように。」
「ありがとうございます」と私の患者は言った。「でも、先生に包帯を巻いていただいてから、すっかり別人のように元気になりましたし、今の朝食で治療は完了したようです。貴重なお時間をなるべく取らずに済むよう、さっそく、この奇妙な体験をお話しします。」
ホームズは大きな肘掛け椅子に腰を下ろし、鋭く意欲に満ちた本性を覆い隠す、あの物憂げな、まぶたの重そうな表情を浮かべた。私はその向かいに座り、二人で黙って、訪問客の語る不思議な話に耳を傾けた。
「まず申し上げておきますが」と彼は言った。「私は両親を亡くした独身者で、ロンドンの下宿に一人で暮らしています。職業は水力技師で、グリニッジの有名なヴェナー・アンド・マシソン社で七年間見習いを務め、かなりの実務経験を積みました。二年前、年季も明け、亡き父から相当の遺産を受け継いだこともあって、独立を決意し、ヴィクトリア街に事務所を借りました。
「誰でも、独立したてのころは、心細い思いをするのでしょう。私の場合は、とりわけそうでした。二年間で相談が三件、小さな仕事が一件。それが、この職業から得られたすべてです。総収入は二十七ポンド十シリング。毎日、朝九時から午後四時まで、あの狭い巣穴で待ち続けるうち、とうとう気持ちも沈み、仕事など一生来ないのではないかと考えるようになりました。
「ところが昨日、そろそろ事務所を出ようかと思っていたところへ、事務員が入ってきて、仕事のことで会いたいという紳士が待っていると告げたのです。名刺も持ってきました。そこには『ライサンダー・スターク大佐』と印刷してありました。そのすぐあとから、大佐自身が入ってきました。背は中背よりやや高いのですが、極端に痩せていました。これほど痩せた人間を、私は見たことがありません。顔じゅうが鼻と顎へ向かって鋭くとがり、頬の皮膚は突き出した骨の上に、ぴんと張りつめていました。けれど、病気で痩せたのではなく、生来の体つきのようでした。目は輝き、足取りはきびきびし、態度にも自信がありました。服装は地味ですがきちんとしており、年は三十より四十に近いだろうと思いました。
「『ハザリーさんですな?』と、いくらかドイツ訛りのある口調で言いました。『あなたは仕事の腕が優れているだけでなく、慎重で秘密を守れる方だと聞き、紹介されて参りました。』
「若者なら誰でもそうでしょうが、私はこの言葉に気をよくして、一礼しました。『どなたが、それほどお褒めくださったのでしょうか?』
「『それは、今は申し上げないほうがよいでしょう。同じ方から、あなたはご両親を亡くした独身者で、ロンドンにお一人で暮らしておられるとも伺いました。』
「『そのとおりです』と私は答えました。『ですが失礼ながら、それが私の技師としての能力と、どう関係するのかわかりません。仕事のお話でいらしたのではなかったのですか?』
「『まさしくそうです。しかし、今申し上げたことは、すべて本題に関係があります。技師として、お願いしたい仕事があるのです。ただし、絶対に秘密を守っていただかなければならない――絶対にです。おわかりですね。家族に囲まれて暮らす人より、一人暮らしの人のほうが、その点では期待できるのは当然でしょう。』
「『秘密を守ると約束したからには』と私は言いました。『必ず守ります。その点は、全面的に信用していただいて結構です。』
「話しているあいだ、大佐は私をじっと見据えていました。あれほど疑い深く、値踏みするような目は、見たことがないと思いました。
「『では、約束しますな?』と、やがて言いました。
「『ええ、約束します。』
「『仕事の前も、最中も、終わったあとも、完全に口を閉ざす。口頭でも書面でも、いっさいこの件に触れないと?』
「『すでに、お約束しました。』
「『結構』。大佐は突然跳ね起き、稲妻のように部屋を横切ると、勢いよく扉を開けました。外の廊下には、誰もいませんでした。
「『よし、大丈夫だ』と、戻ってきて言いました。『事務員というものは、ときどき主人の仕事を詮索したがるのでね。これで安心して話せます』。大佐は椅子を私のすぐそばへ引き寄せ、また、探るような、何かを考えるような目で私を見つめ始めました。
「この骨と皮ばかりの男の奇妙な振る舞いに、私は嫌悪と、恐怖に似たものを感じ始めていました。依頼人を失うのが怖くても、苛立ちを隠しきれませんでした。
「『どうぞ、ご用件をお話しください』と私は言いました。『私の時間も貴重ですので』。最後の言葉については、どうか神様にお許し願いたい。つい口から出てしまったのです。
「『一晩の仕事に五十ギニー[訳注:一ギニーは一ポンド一シリング]では、いかがですかな?』と大佐は尋ねました。
「『それは願ってもないことです。』
「『一晩と言いましたが、一時間と言うほうが正確でしょう。調子の悪くなった水圧式の圧搾機を見て、ご意見をいただきたいだけです。どこが悪いか教えてくだされば、修理はこちらですぐにできます。こういう依頼は、いかがですかな?』
「『仕事は簡単で、報酬はずいぶん気前がよいようですね。』
「『そのとおりです。今夜、最終列車でおいでいただきたい。』
「『どちらへ?』
「『バークシャーのアイフォードです。オックスフォードシャーとの境に近い小さな町で、レディングから七マイル以内のところです。パディントンから出る列車なら、十一時十五分ごろに着きます。』
「『承知しました。』
「『馬車でお迎えに上がります。』
「『そこから馬車で行くのですか?』
「『ええ。私どもの家は、まったくの田舎にあります。アイフォード駅から、たっぷり七マイルはあります。』
「『それでは、着くのは真夜中になりますね。帰りの列車も、もうないでしょう。一泊しなければならないわけですね。』
「『ええ、寝床くらいは、いくらでもご用意できます。』
「『それは少し困りますね。もっと都合のよい時刻に伺うわけにはいきませんか?』
「『遅い時刻においでいただくのが最善と判断したのです。その不便を償うために、まだ若く、名も知られていないあなたへ、その道の第一人者にも意見を求められるだけの報酬を払おうとしています。もちろん、この仕事をお断りになりたければ、今からでも遅くありません。』
「私は五十ギニーと、その金がどれほど役に立つかを考えました。『とんでもありません』と答えました。『喜んで、ご希望に合わせます。ただ、何をしていただきたいのか、もう少しはっきり伺いたいのですが。』
「『ごもっともです。秘密を守ると約束していただいたのですから、好奇心が湧くのも当然でしょう。すべてを説明せずに、何かに関わらせるつもりはありません。立ち聞きされる心配は、絶対にありませんな?』
「『まったくありません。』
「『では、お話ししましょう。酸性白土[訳注:油脂を吸着し、毛織物の洗浄などに使われる粘土]が高価な産物で、イングランドでは一、二か所でしか採れないことは、ご存じでしょう?』
「『そう聞いています。』
「『少し前、私はレディングから十マイル以内のところに、小さな土地を買いました。本当に小さな土地です。幸い、私の畑の一つに、酸性白土の鉱床があるとわかりました。しかし調べてみると、その鉱床自体は比較的小さく、左右の、はるかに大きな二つの鉱床をつなぐ一部分にすぎませんでした。しかも、その大きな鉱床は、どちらも隣人の土地にあったのです。あの善良な方々は、自分の土地に金鉱に劣らぬ価値のあるものが眠っているとは、夢にも知りませんでした。当然、真の価値を悟られる前に土地を買うのが、私にとっては得策です。ところが不幸なことに、その資金がありませんでした。そこで友人を何人か、秘密に加えたところ、自分たちの小さな鉱床を、誰にも知られぬようひそかに掘り、その利益で隣の畑を買えばよいと提案されました。それで、しばらく前から作業を続けており、効率を上げるため、水圧式の圧搾機も据えつけました。先ほど申したとおり、その機械が故障したので、ご意見を伺いたいわけです。ですが、私たちは秘密を厳重に守っています。水力技師があの小さな家へ出入りしていると知られれば、すぐに詮索が始まるでしょう。真相が明るみに出れば、隣の畑を買い、計画を実現する望みは消えます。今夜アイフォードへ行くことを、誰にも話さないと約束していただいたのは、そのためです。これで、おわかりいただけましたかな?』
「『よくわかりました』と私は答えました。『ただ一つ腑に落ちないのは、酸性白土の採掘に、水圧式の圧搾機をどう使うのかということです。私の知る限り、砂利のように穴から掘り出すもののはずですが。』
「『ああ』と大佐は何でもないことのように言いました。『独自の方法があるのです。土を煉瓦状に押し固めて、何であるかを悟られずに運び出せるようにしています。ですが、そんなことは些細な点です。ハザリーさん、今やすべてを打ち明け、あなたをどれほど信頼しているか、お示ししました』。そう言って立ち上がりました。『では十一時十五分に、アイフォードでお待ちしています。』
「『必ず参ります。』
「『誰にも、一言も漏らさぬように』。最後にもう一度、長々と私を探るように見つめると、冷たく湿った手で私の手を握り、足早に部屋を出ていきました。
「さて、あとになって冷静に考えると、この突然の依頼には、我ながらひどく驚きました。お二人にも、おわかりいただけるでしょう。もちろん、一方では嬉しかったのです。自分で報酬を決めていたら請求したであろう額の、少なくとも十倍でしたし、今回の仕事が次の依頼につながる可能性もありました。しかしその一方で、依頼人の顔つきや態度は不快な印象を残しましたし、酸性白土の説明だけでは、真夜中に呼びつける必要や、用向きを誰かに話すことへの、あれほど極端な心配を十分に説明できるとは思えませんでした。それでも私は、不安をすべて振り払い、夕食をたっぷり取ってからパディントンへ向かい、汽車に乗りました。口を閉ざすという約束は、文字どおり守っていました。

「誰にも、一言も漏らさぬように。」
「レディングでは、列車だけでなく駅まで乗り換えなければなりませんでした。それでもアイフォード行きの最終列車には間に合い、十一時過ぎに、薄暗い小さな駅へ着きました。そこで降りた客は私一人で、ホームには、ランタンを持った眠そうな駅夫が一人いるだけでした。ところが改札の小門を出ると、向こう側の物陰に、その朝の知人が待っていました。大佐は無言で私の腕をつかみ、扉を開けて待っていた馬車へ、せき立てるように乗せました。両側の窓を引き上げ、車体をとんとんとたたくと、馬車は馬の出せる限りの速さで走りだしました。」
「馬は一頭ですか?」とホームズが口を挟んだ。
「ええ、一頭だけです。」
「毛色は見ましたか?」
「はい。乗り込むとき、馬車の脇の灯りで見えました。栗毛でした。」
「疲れているようでしたか、それとも元気でしたか?」
「元気で、毛づやもよかったです。」
「ありがとうございます。お話を遮って、失礼しました。たいへん興味深い。どうぞ、お続けください。」
「そうして走りだし、少なくとも一時間は馬車に揺られました。ライサンダー・スターク大佐は、たった七マイルと言っていましたが、速度と、かかった時間からすると、十二マイルに近かったように思います。そのあいだ、大佐はずっと私の隣で黙っていました。何度かそちらをちらりと見ると、そのたびに、私をじっと見つめているのに気づきました。あのあたりの田舎道は、あまりよくないらしく、馬車はひどく傾いたり、跳ねたりしました。どこにいるのか少しでもわかればと窓の外を見ましたが、曇りガラスなので、ときおり通り過ぎる灯りがぼんやり光るほか、何も見えませんでした。旅の単調さを破ろうと、折に触れて何か話しかけてみましたが、大佐は一言で答えるだけで、会話はすぐ途切れました。やがてようやく、でこぼこ道の揺れが、砂利の上を滑らかに進む、しゃりしゃりした音に変わり、馬車が止まりました。ライサンダー・スターク大佐は飛び降り、続いて降りた私を、目の前に口を開けていた玄関へ素早く引き込みました。いわば馬車からそのまま玄関広間へ入ったようなもので、建物の正面を一瞬たりとも見ることができませんでした。敷居をまたいだ途端、扉が背後で重々しく閉まり、馬車が走り去る車輪の音が、かすかに聞こえました。
「屋敷の中は真っ暗で、大佐は小声で何かつぶやきながら、マッチを手探りしていました。突然、廊下の反対側で扉が開き、細長い金色の光がこちらへ差しました。光が広がり、ランプを手にした女性が現れました。ランプを頭上に掲げ、顔を突き出すようにして、私たちを見つめていました。美しい人だとわかりましたし、濃い色の服が光を受けてつやめく様子から、上等な生地であることも見て取れました。女性は何かを尋ねるような口調で、外国語を二言三言話しました。大佐が一言、ぶっきらぼうに答えると、女性はひどく驚き、危うくランプを取り落としそうになりました。スターク大佐はその人のそばへ行き、耳元に何かささやくと、出てきた部屋へ押し戻し、ランプを手に私のほうへ戻ってきました。
「『この部屋で、少しお待ちいただけますか』と言って、別の扉を開けました。静かな、簡素な家具の置かれた小部屋で、中央の丸テーブルには、ドイツ語の本が数冊、散らばっていました。スターク大佐は、扉のそばの足踏みオルガンの上にランプを置きました。『すぐ戻ります』と言い残し、闇へ姿を消しました。
「私はテーブルの本を眺めました。ドイツ語はわかりませんが、二冊が科学の専門書で、残りが詩集だということは見当がつきました。それから、あたりの景色が少しでも見えないかと窓へ行きましたが、頑丈なかんぬきのかかった樫の鎧戸が、ぴったり閉じていました。驚くほど静かな家でした。廊下のどこかで古時計が大きく時を刻むほかは、死んだように静まり返っていました。漠然とした不安が、胸に忍び込んできました。このドイツ人たちは何者で、こんな奇妙な、人里離れた場所に住み、何をしているのでしょう。そして、ここはいったいどこなのか。アイフォードから十マイルほど離れている。それだけはわかっていましたが、北なのか南なのか、東なのか西なのか、まるで見当がつきませんでした。もっとも、その範囲にはレディングも入りますし、ほかにも大きな町があるかもしれません。案外、そんなに辺鄙な場所ではないのかもしれない。とはいえ、これほど静まり返っているのですから、田舎にいるのは確かでした。私は気を奮い立たせようと、小声で歌を口ずさみながら部屋を行き来し、五十ギニーの報酬に見合う苦労は十分にしていると思いました。
「そのとき突然、物音一つない静寂の中で、何の前触れもなく、部屋の扉がゆっくり開きました。あの女性が戸口に立っていました。背後には暗い玄関広間があり、私のランプの黄色い光が、ひたむきな美しい顔を照らしていました。一目で、恐怖に打ちのめされているとわかり、その姿を見た私の心まで冷えました。震える指を一本立てて、黙っているよう合図すると、怯えた馬のように、背後の闇へ何度も目を走らせながら、片言の英語を早口でささやきました。
「『帰ったほうがいいです』と、懸命に平静を装っているような口ぶりで言いました。『帰るのです。ここには、いないほうがいい。あなたにできる、よいことはありません。』
「『でも、まだ頼まれた仕事をしていません』と私は答えました。『機械を見ないうちに、帰るわけにはいかないのです。』
「『待っても、よいことはありません』と女性は続けました。『あの扉から出られます。誰も止めません』。私が微笑んで首を振るのを見ると、女性は突然、自制を捨て、両手を固く握り合わせて一歩近づきました。『お願いです!』とささやきました。『手遅れにならないうちに、ここから逃げて!』
「けれど私は、生来いくらか強情で、障害があると、かえってその仕事へ取り組みたくなる性分です。五十ギニーの報酬、うんざりするような旅、それに、これから待ち受けていそうな不愉快な夜を思いました。それが全部むだになるのでしょうか。依頼も果たさず、当然もらえるはずの報酬も受け取らず、なぜこそこそ逃げなければならないのか。この女性は、何か一つの妄想に取りつかれているだけかもしれません。ですから、その様子には、自分で認める以上に動揺していたものの、私は強気な態度で再び首を振り、ここにとどまるつもりだと告げました。女性がまた懇願しかけたとき、頭上で扉がばたんと閉まり、階段から数人の足音が聞こえてきました。女性は一瞬耳を澄ませ、絶望したように両手を上げると、現れたときと同じく、突然、音もなく姿を消しました。
「入ってきたのは、ライサンダー・スターク大佐と、背が低く、がっしりした男でした。二重顎の皺から、灰白色のふさふさした髭を生やしており、ファーガソン氏と紹介されました。
「『私の秘書兼支配人です』と大佐は言いました。『ところで、さっき、この扉は閉めていったつもりでしたが。隙間風が入りませんでしたか?』
「『いえ、むしろ逆です』と私は答えました。『少し空気がこもっていたので、自分で開けました。』
「大佐は例の疑い深い目を私に向けました。『では、仕事にかかるとしましょう』と言いました。『ファーガソンと私で、上の機械へご案内します。』
「『帽子をかぶったほうがよさそうですね。』
「『いや、家の中にあります。』
「『何ですって。屋内で酸性白土を掘るのですか?』
「『いやいや、ここでは圧縮するだけです。そんなことは、どうでもいい。機械を調べて、どこが悪いか教えていただきたい。それだけです。』
「私たちは一緒に階段を上りました。ランプを持った大佐が先頭で、太った支配人、私の順です。迷路のような古い家で、廊下や通路、狭い曲がり階段、低い小さな扉が入り組み、その敷居は、何世代もの人々が踏み越えたため、すり減ってくぼんでいました。一階より上には絨毯も家具の気配もなく、壁の漆喰は剥がれ、湿気で病的な緑色の染みが浮いていました。私はできるだけ平気な顔をしていましたが、あの女性の警告を無視したとはいえ、忘れたわけではありません。二人の同行者には、絶えず注意を払っていました。ファーガソンは陰気で無口な男に見えましたが、わずかな言葉から、少なくとも同国人であることはわかりました。
「やがてライサンダー・スターク大佐は、低い扉の前で足を止め、鍵を開けました。中は小さな四角い部屋で、三人が一度に入るのも難しいほどでした。ファーガソンは外に残り、大佐が私を中へ案内しました。
「『今、私たちは』と大佐は言いました。『実際に、水圧式圧搾機の中にいるのです。誰かが動かしたら、実に不愉快なことになります。この小部屋の天井は、下降するピストンの端面で、何トンもの力で、この金属の床へ下りてきます。外側には細い水柱が横にあり、力を受けて、あなたならよくご存じの仕組みで、それを伝え、増幅します。機械は一応動きますが、少し引っかかるようで、力も落ちています。調べて、どう直せばよいか教えていただけますかな。』
「私はランプを受け取り、機械を徹底的に調べました。確かに巨大なもので、途方もない圧力をかけられる機械でした。ところが、外へ出て操作レバーを押し下げると、しゅうという音で、側面のシリンダーの一つにわずかな漏れがあり、水が逆流していると、すぐにわかりました。調べてみると、駆動軸の頭部に巻かれたゴムの輪の一つが縮み、軸の動く受け穴を十分に塞がなくなっていました。これが力の落ちた原因なのは明らかで、私は二人に指摘しました。二人は説明をたいへん注意深く聞き、どう修理すべきか、実際的な質問をいくつかしました。はっきり説明し終えると、私は好奇心を満たすため、機械の主室へ戻り、改めてよく見てみました。酸性白土の話が、まったくのでっち上げであることは、一目瞭然でした。これほど強力な機械を、そんな程度の目的に使うなど、馬鹿げているからです。壁は木製でしたが、床は大きな鉄の受け皿になっており、調べると、その全面に金属の沈着物がこびりついていました。私は身をかがめ、それが何なのか確かめようと、こすり取っていました。そのとき、ドイツ語で低く何か叫ぶ声が聞こえ、見上げると、大佐の死人のような顔が私を見下ろしていました。
「『そこで何をしている?』と尋ねました。
「私は、あれほど手の込んだ話でだまされたことに腹を立てていました。『お宅の酸性白土に感心していたのです』と答えました。『機械を何に使っているのか、正確なところがわかれば、もっと適切な助言ができると思いましてね。』
「口にした瞬間、その軽率さを後悔しました。大佐の顔が険しくこわばり、灰色の目に凶悪な光が浮かびました。
「『よかろう』と言いました。『機械のことは、何もかも教えてやる』。一歩後ろへ下がると、小さな扉を勢いよく閉め、鍵を回しました。私は駆け寄って取っ手を引きましたが、扉はびくともせず、蹴っても押しても、少しも動きませんでした。『おい!』と私は叫びました。『おい、大佐! 出してくれ!』
「すると突然、静けさの中に、心臓が口から飛び出しそうになる音が聞こえました。レバーのがちゃりという音と、水の漏れるシリンダーの、しゅうという音です。機械を動かしたのです。ランプは、鉄の受け皿を調べるために置いた、床の上に残っていました。その明かりで、黒い天井が私へ向かって下りてくるのが見えました。ゆっくり、ぎくしゃくと。けれど、その力が一分もたたないうちに私を原形もとどめぬ肉塊へ押しつぶすことを、誰よりよく知っているのは私自身でした。私は叫びながら扉に体当たりし、錠を爪でかきむしりました。出してくれと大佐に懇願しましたが、容赦なく響くレバーの音に、叫び声はかき消されました。天井はもう頭上一、二フィートに迫り、手を上げると、その硬くざらついた表面に触れました。そのとき、死ぬときの苦痛は、どんな姿勢で死を迎えるかに大きく左右されるという考えが、頭をよぎりました。うつ伏せになれば、重みは背骨にかかる。その恐ろしい骨の折れる音を想像して、身がすくみました。逆向きのほうが、楽かもしれない。だが、死を運ぶ黒い影が揺れながら下りてくるのを、横になって見上げる勇気があるだろうか。もう、まっすぐ立つことさえできなくなっていました。そのとき、あるものが目に入り、胸に希望が一気に湧き返りました。
「床と天井は鉄でも、壁は木だと申し上げました。最後に慌ただしくあたりを見回したとき、二枚の板のあいだに、細い黄色い光が見えたのです。小さな羽目板が押し開かれるにつれ、光はどんどん広がりました。一瞬、ここに本当に死から逃れる扉があるとは信じられませんでした。次の瞬間、私はそこへ身を投げ出し、向こう側に半ば気を失って倒れていました。羽目板は背後でまた閉じましたが、ランプの砕ける音、その少しあとに二枚の金属板がぶつかる音を聞き、どれほど間一髪だったかがわかりました。
「手首を必死に引かれて、我に返りました。私は狭い廊下の石の床に倒れており、女性が身をかがめ、右手に蝋燭を持ちながら、左手で私を引っ張っていました。愚かにも警告を退けてしまった、あの親切な女性でした。
「『早く、早く!』と息を切らして言いました。『すぐに来ます。あなたがいないと、わかってしまう。ああ、大切な時間をむだにしないで。早く!』
「少なくとも、今度は助言を軽んじませんでした。私はよろめきながら立ち上がり、女性と一緒に廊下を走り、曲がり階段を下りました。その先は、別の広い廊下につながっていました。ちょうどそこへ出たとき、私たちのいる階と、その下の階から、走る足音と、互いに呼び交わす二人の声が聞こえました。案内役の女性は立ち止まり、途方に暮れたように周囲を見回しました。それから寝室へ通じる扉を開けました。窓からは、明るい月光が差し込んでいました。
「『もう、ここしかありません』と女性は言いました。『高いけれど、飛び降りられるかもしれません。』
「その言葉と同時に、廊下の向こう端に明かりが現れ、痩せたライサンダー・スターク大佐が、片手に角灯、もう片手に肉屋の包丁のような刃物を持って、駆けてくるのが見えました。私は寝室を横切って走り、窓を開け放って外を見ました。月光の中の庭は、何と静かで美しく、健やかに見えたことか。地面までは、三十フィートもなさそうでした。私は窓台へよじ登りましたが、恩人と追ってきた悪党のやり取りを聞くまでは、飛び降りるのをためらいました。もし彼女がひどい目に遭わされるなら、どんな危険を冒してでも戻って助けるつもりでした。その考えが頭をよぎるかよぎらないかのうちに、大佐は戸口まで来て、女性を押しのけようとしました。けれど女性は両腕を大佐に巻きつけ、引き止めようとしました。
「『フリッツ! フリッツ!』と英語で叫びました。『この前のあとで、約束したことを思い出して。もう二度としないと言ったでしょう。この人は黙っていてくれるわ! ああ、きっと黙っていてくれる!』
「『気でも狂ったか、エリーゼ!』と大佐は、振りほどこうともがきながら怒鳴りました。『お前のせいで、われわれは破滅だ。こいつは見すぎた。通せと言っている!』。女性を脇へ突き飛ばすと、窓へ駆け寄り、重い刃物を私に振り下ろしました。その一撃が来たとき、私はすでに体を落とし、両手で窓台にぶら下がっていました。鈍い痛みを感じ、指の力が抜けて、下の庭へ落ちました。
「落下の衝撃はありましたが、怪我はしませんでした。まだ危険を脱したわけではないとわかっていたので、すぐ起き上がり、茂みのあいだを全速力で走りました。ところが走っているうち、突然、激しいめまいと吐き気に襲われました。ずきずきと痛む手を見下ろし、そのとき初めて、親指が切り落とされ、傷口から血が流れ出していることに気づきました。ハンカチを巻こうとしましたが、突然耳鳴りがして、次の瞬間、薔薇の茂みの中で、完全に気を失って倒れました。
「どれだけ意識を失っていたのか、わかりません。相当長かったに違いありません。気がついたときには月は沈み、明るい朝が始まっていたからです。服は露ですっかり濡れ、上着の袖は親指の傷から流れた血で、ぐっしょりでした。傷の痛みで、夜の出来事の細部が一瞬にしてよみがえり、まだ追手から安全とは限らないと思って、私は跳ね起きました。ところが、あたりを見回して驚きました。家も庭も、どこにもないのです。私は街道脇の生け垣が折れ曲がるところに倒れていました。少し先には細長い建物があり、近づいてみると、前夜に降り立った、あの駅でした。手の無残な傷がなければ、恐ろしい数時間の出来事は、すべて悪夢だったと思ったかもしれません。
「半ばぼんやりしたまま駅へ入り、朝の列車を尋ねました。一時間も待たずに、レディング行きが来るとのことでした。着いたときと同じ駅夫が、まだ勤めていました。ライサンダー・スターク大佐の名を聞いたことがあるかと尋ねましたが、知らないと言います。昨夜、私を待つ馬車を見なかったか。見ていないという答えでした。近くに警察署はないか。三マイルほど先にあるとのことでした。
「弱って気分も悪い私には、遠すぎました。それで、ロンドンへ戻ってから警察に話すことにしました。着いたのは六時を少し過ぎたころで、まず傷の手当てをしてもらいに行くと、先生が親切にも、こちらへ連れてきてくださったのです。この件は、すべてお任せします。どんなご助言にも、必ず従います。」
この驚くべき話を聞き終えて、私たちはしばらく黙って座っていた。やがてシャーロック・ホームズは、新聞の切り抜きを収めた分厚い雑記帳の一冊を、棚から引き出した。
「ご興味を引きそうな広告があります」と彼は言った。「一年ほど前、各紙に載りました。お聞きください。『今月九日、ジェレマイア・ヘイリング氏、二十六歳、水力技師、行方不明。午後十時に下宿を出たまま、その後消息を絶つ。当日の服装は』云々。なるほど、これは大佐が前に機械の点検を必要としたときのことなのでしょうね。」
「何ということだ!」と私の患者は叫んだ。「それで、あの女性の言葉がわかりました。」
「間違いありません。大佐が冷酷で、何でもしかねない人物であり、自分たちの企みを邪魔するものは、絶対に許さないと決めていたことは明らかです。奪った船の乗員を一人も生かしておかない、筋金入りの海賊と同じです。さて、一刻も惜しい。体が持ちそうなら、アイフォードへ向かう準備として、まずすぐにスコットランドヤードへ行きましょう。」
それから三時間ほど後、私たちはレディングから、バークシャーの小さな村へ向かう列車に、そろって乗っていた。シャーロック・ホームズ、水力技師、スコットランドヤードのブラッドストリート警部、私服刑事一人、そして私である。ブラッドストリートは、座席にその州の陸地測量図を広げ、コンパスを使って、アイフォードを中心に円を描いていた。
「さあ、これです」と彼は言った。「村から半径十マイルの円を描きました。探している場所は、この線の近くのどこかにあるはずです。十マイルとおっしゃいましたね?」
「たっぷり一時間は走りました。」
「そして、意識のないあなたを、その道のり全部、連れ戻したとお考えですか?」
「そうに違いありません。持ち上げられて、どこかへ運ばれた、ぼんやりした記憶もあります。」
「私にわからないのは」と私は言った。「庭で気を失っているあなたを見つけたのに、なぜ命を助けたのかということです。あの悪党も、女性の懇願に心を動かされたのでしょうか。」
「それは考えにくいですね。あれほど情け容赦のない顔は、生まれて初めて見ました。」
「まあ、そのへんも、じきにはっきりしますよ」とブラッドストリートは言った。「さて、円は描きましたが、探している連中が、そのどの地点にいるのか、わかればいいのですがね。」
「その場所なら、指で示せると思います」とホームズは静かに言った。
「ほう、これは!」と警部は叫んだ。「もう見当をつけましたか。では、誰の考えがあなたと一致するか、聞いてみましょう。私は南だと思います。あちらは、いっそう人家がまばらですから。」
「私は東です」と患者は言った。
「私は西ですね」と私服刑事が言った。「あちらには、静かな小さな村がいくつもあります。」
「私は北に賛成です」と私は言った。「あちらには丘がありませんし、この方は、馬車が坂を上った覚えはないとおっしゃっていますから。」
「いやはや」と警部は笑った。「見事に意見が分かれましたな。われわれだけで、東西南北がそろってしまった。さて、決め手の一票は、誰に投じますか?」
「全員、間違っています。」
「ですが、全員ということはないでしょう。」
「いえ、あり得ます。私が考えるのは、ここです」ホームズは円の中心に指を置いた。「ここで連中が見つかるでしょう。」
「でも、十二マイルの道のりは?」とハザリーは息をのんだ。
「行きに六マイル、戻りに六マイル。これほど簡単なことはありません。あなた自身、乗るときには馬が元気で、毛づやもよかったとおっしゃいましたね。もし悪路を十二マイルも走ってきたのなら、そうはいかなかったでしょう。」
「なるほど、いかにもありそうな策略です」とブラッドストリートは考え深げに言った。「もちろん、この一味の正体には、疑いの余地はありませんな。」
「まったくありません」とホームズは言った。「大規模な偽金造りです。あの機械で、銀の代わりとなる合金を加工していたのです。」
「腕のいい一味が活動していることは、しばらく前からわかっていました」と警部は言った。「半クラウン銀貨を何千枚も造っていたのです。レディングまでは足取りを追えましたが、その先へは進めませんでした。手慣れた連中らしく、見事に痕跡を消していたのです。しかし今度は、この幸運な偶然のおかげで、間違いなく捕まえられると思います。」
だが警部は間違っていた。あの犯罪者たちは、法の手に落ちる運命ではなかったのだ。アイフォード駅へ入っていくと、近くの小さな木立の向こうから、巨大な煙の柱が立ちのぼり、大きなダチョウの羽根のように、風景の上へたなびいているのが見えた。
「家が火事なのか?」と、列車が再び走り去るのを横に、ブラッドストリートは尋ねた。
「はい、そうです!」と駅長が答えた。
「いつ出火した?」
「夜中だったと聞いておりますが、ますますひどくなって、今では建物全体が燃えています。」
「誰の家だ?」
「ベッヒャー博士の家です。」
「教えてください」と技師が割って入った。「ベッヒャー博士はドイツ人で、ひどく痩せて、鼻が長くとがっていませんか?」
駅長は大声で笑った。「いいえ、ベッヒャー博士はイングランド人ですし、この教区でも、あの方ほど胴着の中身がたっぷり詰まった人はいませんよ。ただ、お泊まりの紳士が一人いて、患者さんだと聞いていますが、その方は外国人です。うまいバークシャーの牛肉を、少し召し上がったほうがよさそうな体つきではありますね。」
駅長が言い終わらないうちに、私たちは火事の方角へ急いでいた。道は低い丘を越え、その先に、白く塗られた大きな横長の建物が現れた。あらゆる隙間や窓から火を噴き、前庭では三台の消防ポンプが、むなしく炎を抑えようとしていた。
「あれです!」とハザリーは激しく興奮して叫んだ。「あそこが砂利道です。あれが、私の倒れていた薔薇の茂みです。二つ目の窓が、私の飛び降りたところです。」
「まあ、少なくとも」とホームズは言った。「仕返しはできたわけですね。あなたの石油ランプが圧搾機で砕かれ、木の壁に火がついたのは間違いありません。連中はあなたを追うのに夢中で、そのときは気づかなかったのでしょう。さあ、この群衆の中に、昨夜のお知り合いがいないか、よく見てください。もっとも、今ごろは百マイルも先に逃げているのではないかと、私は心配していますが。」
そして、ホームズの懸念は的中した。あの日から今日まで、美しい女性も、不吉なドイツ人も、陰気なイングランド人も、消息はまったく知れなかった。その日の早朝、農民が一人、数人の人間と、ひどくかさばる箱をいくつも積んだ荷馬車が、レディングの方角へ急いでいくのを見ていた。だが、逃亡者たちの足取りはそこで途絶え、ホームズの才知をもってしても、その居場所を示す手掛かりは、ついに一つも得られなかった。
消防隊員たちは、屋内の奇妙な設備に大いに当惑し、さらに三階の窓台で、切り落とされたばかりの人間の親指を見つけて、いっそう驚いた。ようやく日没ごろになって、彼らの努力が実り、火は消し止められた。しかし、それまでに屋根は崩れ落ち、建物全体が徹底的に焼け落ちていたため、不運な知人にあれほど高い代償を払わせた機械も、ねじ曲がったシリンダーと鉄管をいくらか残すばかりだった。離れの物置には、大量のニッケルと錫の塊が蓄えられていたが、硬貨は見つからなかった。先に述べた大きな箱の中身は、それだったのかもしれない。
水力技師が庭から、意識を取り戻した場所まで、どうやって運ばれたのかは、柔らかい土が明瞭に事情を物語っていなければ、永遠の謎になっていたかもしれない。明らかに二人がかりで運ばれており、一人の足はきわめて小さく、もう一人の足は並外れて大きかった。おそらく、無口なイングランド人は、仲間ほど大胆でも残忍でもなく、女性を手伝って、意識のない男を危険の及ばない場所へ運び出したのだろう。
「まったく」と、再びロンドンへ戻る列車の席に着くと、技師は情けなさそうに言った。「ひどい仕事になりました。親指を失い、五十ギニーの報酬も失って、いったい何を得たのでしょう?」
「経験ですよ」とホームズは笑った。「間接的には、役に立つかもしれません。言葉にして語るだけで、あなたは一生、実に面白い話し相手だという評判を得られるのですから。」
第十話 独身の貴族
セント・サイモン卿の結婚と、その奇妙な結末も、気の毒な花婿の属する上流社会では、とっくに話題に上らなくなっている。新たな醜聞が次々と影を落とし、そのいっそう刺激的な内情に、噂好きな人々の関心も四年前のこの騒動から離れてしまった。しかし、事件の全容はいまだ世間に知られていないと私は考えているし、わが友シャーロック・ホームズがその解決に大きな役割を果たしたことでもある。この特異な一件に多少なりとも触れなければ、彼の回想録は完全なものとはいえまい。
それは私自身の結婚を数週間後に控え、まだベーカー街でホームズと部屋を分け合っていたころのことだった。午後の散歩から帰った彼を、一通の手紙がテーブルの上で待っていた。その日は急に天候が崩れ、秋の強風とともに雨が降りだしたので、私は一日じゅう家にこもっていた。アフガニスタン従軍の記念に手足のどこかへ持ち帰ったジェザイル銃[訳注:アフガニスタンなどで用いられた長銃身の火縄銃]の弾が、絶え間なく鈍い痛みを訴えていたのである。私は一脚の安楽椅子に体を沈め、もう一脚に脚を投げ出し、新聞の山に埋もれていたが、とうとうその日の報道に食傷して、すべてを脇へ放り出した。そうして気だるく横たわり、テーブルの上の封筒にある大きな紋章と組み合わせ文字を眺めながら、友人に手紙をよこした貴人はいったい誰だろうと、とりとめもなく考えていた。
「ずいぶんしゃれた手紙が来ているよ」と、入ってきた彼に私は言った。「たしか今朝の手紙は、魚屋と税関の船舶監視員からだったね。」
「ああ、僕の文通相手は実に多彩で、それが魅力だよ」と、彼は微笑んだ。「しかも、たいていは身分の低い人からのほうが面白い。これはどうも、退屈するか嘘をつくか、どちらかを強いる、ありがたくない社交のお招きらしいね。」
彼は封を切り、中身に目を走らせた。
「おや、待てよ。案外、面白いことになるかもしれない。」
「では、社交の用ではないのかい?」
「うん、れっきとした仕事の話だ。」
「しかも、貴族の依頼人から?」
「英国でも指折りの名門だ。」
「それはそれは、おめでとう。」
「ワトソン、気取って言うわけではないが、僕にとって依頼人の身分など、事件が面白いかどうかに比べれば大した問題ではない。もっとも、今度の調査には、その面白さも欠けてはいないかもしれないね。君はこのところ、ずいぶん熱心に新聞を読んでいたんじゃないか?」
「どうやら、そのようだね」と、私は部屋の隅の大きな束を指し、苦笑した。「ほかにすることもなかったからね。」
「それは好都合だ。君に事情を教えてもらえそうだな。僕は犯罪記事と消息広告欄[訳注:個人的な呼びかけや尋ね人などを載せる新聞の広告欄]しか読まない。後者はいつも勉強になる。しかし君がそんなに世間の動きを追っていたのなら、セント・サイモン卿の結婚についても読んだはずだね?」
「ああ、それはもう、非常に興味を持ってね。」
「結構。この手紙は、そのセント・サイモン卿からだ。読み上げるから、代わりに君は新聞を調べて、この件に関係する記事を全部そろえてくれ。こう書いてある。
『シャーロック・ホームズ様――バックウォーター卿より、貴殿の判断力と口の堅さは全面的に信頼してよいとうかがいました。つきましては、私の結婚にまつわって生じた、まことに苦痛に満ちた出来事について、貴殿をお訪ねし、ご相談することにいたしました。この件はすでにスコットランドヤードのレストレード氏が担当しておりますが、氏も貴殿の協力に異存はなく、むしろ多少なりとも助けになるのではないかと申しております。本日午後四時にうかがいます。その時刻にほかのお約束がおありでしたら、何とぞお繰り合わせくださるようお願いいたします。本件は何にもまして重大な問題ですので。
敬具 セント・サイモン。』
「差出地はグローヴナー・マンションズ。羽根ペンで書いてある。そして高貴なる卿は、お気の毒にも右手の小指の外側をインクで汚してしまったらしい」と、ホームズは手紙を畳みながら言った。
「四時とあるね。今は三時だ。一時間後には来る。」
「では、君の助けを借りて事情をのみ込むには、ちょうどいい。僕が依頼人の素性を調べるあいだに、君は新聞をめくって、関係記事を日付順に並べてくれ。」
彼は暖炉棚のそばに並ぶ参考書の中から、赤い表紙の一冊を抜き取った。「あったぞ」と言い、腰を下ろして膝の上に本を開いた。「ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴィア・セント・サイモン卿。バルモラル公爵の次男――ふむ。紋章、青地、黒の横帯の上に三個の撒菱。一八四六年生まれ。四十一歳か。結婚するには十分に分別のつく年だな。先の内閣で植民地省次官を務める。父の公爵は、かつて外務大臣。父方にはプランタジネット家の直系の血を引き、母方にはテューダー家の血を引く。ははあ! まあ、どれも大して役には立たないね。もっと実のあることは、君に聞くほかなさそうだ、ワトソン。」
「必要な記事はすぐに見つかるよ」と、私は言った。「ごく最近のことだし、ずいぶん変わった話だと思っていたからね。ただ、君には別の調査があると知っていたし、余計なことに邪魔されるのを嫌うから、話しかけるのをためらっていたんだ。」
「ああ、グローヴナー・スクエアの家具運搬車の小事件か。あれなら、もうすっかり片づいたよ――もっとも、最初から明白だったんだが。さあ、新聞から拾い出した成果を聞かせてくれ。」
「見つかった中では、これが最初の知らせだ。『モーニング・ポスト』の社交欄で、ご覧のとおり数週間前の日付だよ。『バルモラル公爵の次男ロバート・セント・サイモン卿と、米国カリフォルニア州サンフランシスコ在住のアロイシャス・ドーラン氏の一人娘、ハティ・ドーラン嬢との婚約が成立した。噂が正しければ、挙式は近日中に行われる予定である』。これだけだ。」
「簡潔にして要を得ている」と、ホームズは細長い脚を暖炉のほうへ伸ばした。
「同じ週の社交新聞には、これをもっと詳しくした記事がある。ああ、これだ。『結婚市場にも、そろそろ保護政策を求める声が上がりそうである。現行の自由貿易主義は、どうやらわが国産品にすこぶる不利に働いているらしい。英国の名門の家政は、一つまた一つと、大西洋の向こうからやって来た美しい同胞たちの手に移りつつある。この魅惑的な侵入者たちが持ち去った戦利品の一覧に、先週また一つ、大物が加わった。二十年以上ものあいだ愛の神の矢をものともしなかったセント・サイモン卿が、カリフォルニアの百万長者の魅力あふれる令嬢、ハティ・ドーラン嬢との結婚を、いよいよ正式に発表したのである。ウェストベリー邸の宴で、その優雅な姿と目を引く美貌によって注目を集めたドーラン嬢は一人娘であり、持参金は六桁の額を大幅に上回り、将来にはさらに相続の見込みもあるというのが、もっぱらの噂だ。バルモラル公爵がここ数年、所蔵の絵画を売らざるを得なかったことは公然の秘密であり、またセント・サイモン卿には、バーチムアの小さな領地以外に私有財産がない。となれば、共和制の国の一女性から英国貴族の夫人へと、今や珍しくもない容易な転身を遂げるこの縁組で得をするのは、カリフォルニアの相続令嬢ばかりではないことは明らかであろう』。」
「ほかには?」と、ホームズはあくびをしながら尋ねた。
「ああ、まだたくさんある。そのあと『モーニング・ポスト』に、式はごく内輪で行われること、場所はハノーヴァー・スクエアの聖ジョージ教会であること、招待客はごく親しい友人六人ほどに限られること、挙式後は一同で、アロイシャス・ドーラン氏がランカスター・ゲートに借りている家具付きの家へ戻ることが出ている。その二日後、つまり先週の水曜日には、結婚式が行われ、新婚旅行はピーターズフィールド近くのバックウォーター卿の屋敷で過ごすという、短い告知がある。花嫁が失踪する前の記事は、それで全部だ。」
「何をする前だって?」と、ホームズははっとした。
「花嫁が姿を消す前だよ。」
「いつ消えたんだ?」
「婚礼の朝食会の席でさ。」
「ほう。これは思っていた以上に面白い。実に劇的じゃないか。」
「ああ、僕にも、いささか尋常ではないと思えたよ。」
「式の前に姿を消すことはよくあるし、新婚旅行中にも時にはある。しかし、これほど手早い例は思い出せないな。ぜひ詳しく聞かせてくれ。」
「ただし、分からないことだらけだよ。」
「その穴は、僕らで多少埋められるかもしれない。」
「分かっていることは、昨日の朝刊の一つの記事にまとまっている。読んで聞かせよう。見出しは『上流社会の婚礼に起きた怪事件』だ。
「『ロバート・セント・サイモン卿の婚礼にまつわって起きた奇怪かつ痛ましい一連の出来事に、卿の一族は大きな衝撃を受けている。昨日の各紙が簡単に報じたとおり、挙式はその前日の午前に行われたが、執拗に流布していた奇妙な噂の真偽を確認できたのは、ようやく今になってのことである。友人たちは事態の隠蔽に努めたものの、すでに世間の耳目はこの一件に集まっており、誰もが口にする話題を無視するふりをしても、もはや何の益にもならない。
「『ハノーヴァー・スクエアの聖ジョージ教会で執り行われた式は、きわめて内輪のもので、出席者は花嫁の父アロイシャス・ドーラン氏、バルモラル公爵夫人、バックウォーター卿、新郎の弟妹であるユースタス卿とクララ・セント・サイモン令嬢、それにアリシア・ウィティントン令嬢のみであった。挙式後、一同は朝食の用意されたランカスター・ゲートのアロイシャス・ドーラン氏邸へ向かった。そこで、氏名不詳のある女性が、セント・サイモン卿に対して何らかの権利があると主張し、婚礼の一行に続いて屋内へ押し入ろうとして、ひと騒動起こしたらしい。長々と見苦しい騒ぎが続いた末、ようやく執事と従僕がその女性を追い出した。幸い、この不愉快な妨害が起きる前に家に入っていた花嫁は、一同とともに朝食の席に着いていたが、急に気分が悪くなったと訴えて、自室へ引き下がった。あまりに長く戻らないので、人々が不審に思いはじめ、父親が様子を見に行ったところ、侍女の話では、花嫁はほんの一瞬部屋に入っただけで、厚手の長外套とボンネットをつかむと、急いで廊下へ下りていったという。従僕の一人も、そのような服装の女性が家を出るのを見たと証言したが、奥様は客たちと同席中だと思っていたため、本人とは信じられなかったと述べている。娘の失踪を知ったアロイシャス・ドーラン氏は、新郎とともに直ちに警察へ通報した。現在、きわめて精力的な捜査が進められており、この異例の事件も、ほどなく解明されるものと思われる。しかし昨夜遅くに至るまで、失踪した花嫁の行方は、何一つ判明していない。何らかの犯罪があったとの噂もあり、警察は、最初に騒ぎを起こした女性が嫉妬その他の動機から花嫁の奇妙な失踪に関与した疑いがあるとして、その身柄を拘束したと伝えられている』。」
「それで全部かい?」
「別の朝刊にもう一つ、短いが意味のありそうな記事がある。」
「どんな?」
「騒ぎを起こしたフローラ・ミラーという女性が、実際に逮捕されたという記事だ。以前は『アレグロ』の踊り子で、新郎とは数年来の知り合いだったらしい。それ以上の詳しいことはない。これで、新聞で公にされているかぎり、事件のすべては君の手に渡ったわけだ。」
「しかも、すこぶる面白そうな事件だ。何があっても逃したくなかったね。だが、呼び鈴だよ、ワトソン。時計は四時を数分回っているから、高貴な依頼人のお出ましに違いない。席を外そうなどと思わないでくれ。僕の記憶を確かめるためだけにでも、立会人がいてくれるほうが、はるかにありがたい。」
「ロバート・セント・サイモン卿でございます」と、小姓が扉を大きく開けて告げた。入ってきた紳士は、品のよい、感じのいい顔立ちで、鼻が高く、色が白かった。口元には幾分、気難しそうなところがあり、見開かれた落ち着いた目には、命じれば従われるという幸せな境遇に終始してきた男の風格があった。物腰はきびきびしていたが、歩くときに少し前かがみになり、膝もわずかに曲がっていたため、全体として年齢以上に老けた印象を与えた。つばが強く反り返った帽子を脱ぐと、髪は周囲に白いものが交じり、頭頂部は薄くなっていた。服装には気取りすぎと思えるほど気を配っており、高い襟、黒のフロックコート、白のチョッキ、黄色い手袋、エナメル革の靴、淡い色のゲートルといういでたちだった。左右に顔を向け、金縁眼鏡の紐を右手で揺らしながら、ゆっくり部屋の中へ進んできた。
「ようこそ、セント・サイモン卿」と、ホームズは立って一礼した。「どうぞ籐椅子へ。こちらは私の友人で協力者のワトソン博士です。もう少し火のそばへお寄りになって、お話をうかがいましょう。」
「ご想像もつくでしょうが、ホームズさん、私にとってはまことにつらい問題です。深く傷つけられました。あなたは、この種の微妙な事件をすでにいくつも処理なさったとか。もっとも、同じ社会階級の人間が相手だったとは思いませんが。」
「ええ、今回は身分が下がります。」
「何ですって?」
「この種の事件で前に依頼を受けた相手は、国王でした。」
「ほう、それは! 存じませんでした。どこの国王です?」
「スカンディナヴィアの国王です。」
「何と! 王妃が行方不明に?」
「お分かりいただけると思いますが」と、ホームズは穏やかに言った。「あなたにお約束する秘密保持は、ほかの依頼人についても同じように守らねばなりません。」
「もちろんです! そのとおり、まったくそのとおり! 失礼しました。私自身の件については、判断のお役に立つことなら何でもお話しするつもりです。」
「ありがとうございます。新聞に出ていることは、すべて知っております。それ以上は何も。報道は正確と見てよろしいでしょうか――たとえば、この花嫁失踪の記事ですが。」
セント・サイモン卿は記事に目を通した。「ええ、ここに書いてあるかぎりでは正確です。」
「ただ、判断を下すには、ずいぶん補っていただく必要があります。こちらから質問するのが、事実をつかむには最も手っ取り早いでしょう。」
「どうぞ。」
「ハティ・ドーラン嬢と初めてお会いになったのは、いつです?」
「一年前、サンフランシスコでです。」
「アメリカをご旅行中でしたか?」
「そうです。」
「そのとき婚約を?」
「いいえ。」
「しかし、親しくはなった?」
「一緒にいて楽しい人でしたし、彼女も、私が楽しんでいることは分かっていたはずです。」
「お父上は大変な資産家だとか?」
「太平洋岸で一番の金持ちだといわれています。」
「どのようにして財を成したのです?」
「鉱山です。数年前までは無一文でした。ところが金鉱を掘り当て、その金を投資に回して、あれよあれよという間に成り上がったのです。」
「では、お嬢さん――奥様のご性格について、あなたはどのようにお感じですか?」
貴族は眼鏡を揺らす手を少し速め、暖炉の火を見下ろした。「ホームズさん、妻の父が富豪になったとき、妻はすでに二十歳でした。それまでは鉱山の飯場で自由奔放に育ち、森や山を歩き回っていたのです。ですから、教師よりも自然に教育された人間といえます。英国でいうおてんば娘で、気性が強く、野性味があり、自由で、いかなる伝統にも縛られていません。衝動的で――火山のようだ、と言おうとしたほどです。決断は素早く、決めたことは恐れず実行します。一方で、根は気高い女性だと思わなければ、私が誇りを持って受け継いできた姓を与えはしなかったでしょう」――卿は威厳を込めて小さく咳払いをした――「英雄的な自己犠牲もできる人間で、不名誉な行為には強い嫌悪を抱くはずです。」
「写真はお持ちですか?」
「これを持参しました。」
卿はロケットを開き、実に美しい女性の正面像を見せてくれた。写真ではなく、象牙に描かれた細密画だったが、つややかな黒髪、大きな黒い瞳、端正な口元の魅力が、余すところなく表されていた。ホームズは長いあいだ熱心に見つめていたが、やがてロケットを閉じ、セント・サイモン卿に返した。
「それからお嬢さんがロンドンにいらして、お付き合いが再開したのですね?」
「ええ、この前のロンドンの社交期に、父親が連れてきたのです。何度か会い、婚約し、そして今度、結婚したわけです。」
「かなりの持参金があったとうかがいましたが?」
「相応の額です。わが一族で普通とされる額を超えるものではありません。」
「そして、結婚がすでに既成事実である以上、当然、その持参金はあなたの手元に残るわけですね?」
「その点については、まだ何も調べておりません。」
「それはごもっともです。結婚式の前日、ドーラン嬢とはお会いになりましたか?」
「ええ。」
「ご機嫌はいかがでした?」
「あれほど上機嫌なことはありませんでした。これから二人でどんな暮らしをしようかと、話し続けていました。」
「ほう! それは非常に興味深い。では、結婚式の朝は?」
「この上なく晴れやかでした――少なくとも、式が済むまでは。」
「そのあと、何か変化にお気づきでしたか?」
「実を言えば、そのとき初めて、いささか気の短いところがあると気づいたのです。ただ、あまりに些細な出来事で、お話しするほどでもありませんし、この事件には何の関係もないでしょう。」
「それでも、ぜひうかがわせてください。」
「いや、子供じみたことなのです。式のあと祭服室へ向かう途中で、花束を落としましてね。ちょうど最前列の長椅子の横を通りかかったところで、花束はその座席に落ちました。ほんの少し立ち止まりましたが、そこにいた紳士が拾って渡してくれ、花も傷んだ様子はありませんでした。それなのに、そのことを話しかけると、妻はそっけない返事をしたのです。帰りの馬車でも、そんなつまらぬことのためとは思えないほど取り乱していました。」
「なるほど! 長椅子に紳士がいたとおっしゃいましたね。では、一般の人たちも列席していたのですね?」
「もちろんです。教会を開けている以上、締め出すことはできません。」
「その紳士は、奥様のお知り合いでは?」
「違います、違います。紳士と言ったのは言葉の綾で、ごくありふれた風采の男でした。姿など、ほとんど気にも留めませんでした。しかし、どうも話が本筋からそれすぎている気がしますが。」
「つまりセント・サイモン夫人は、式に向かったときよりも晴れない気分で帰ってきた。お父上の家へ戻ると、何をなさいました?」
「侍女と話しているのを見ました。」
「その侍女というのは?」
「アリスという名前です。アメリカ人で、カリフォルニアから妻についてきました。」
「何でも打ち明けられる使用人ですか?」
「少々、親しすぎるくらいです。主人があまりにもなれなれしい口をきかせているように、私には思えました。もっとも、アメリカでは、そういうことへの考え方も違うのでしょうが。」
「そのアリスとは、どれくらい話していましたか?」
「さあ、数分でしょう。私にも別に考えることがありましたので。」
「話の内容は聞こえませんでしたか?」
「『鉱区の横取り』がどうとか、妻が言っていました。ああいう俗語を使う癖があったのです。どういう意味だったのかは、さっぱり分かりません。」
「アメリカの俗語は、ときに実に表現力に富んでいます。それで、侍女との話を終えると、奥様はどうなさいました?」
「朝食の部屋へ入りました。」
「あなたの腕にすがって?」
「いいえ、一人で。そうした細かいことでは、非常に自立した人でしたから。それから、席に着いて十分ほどたったころ、急に立ち上がり、小声で何か詫びを言って、部屋を出ていきました。そのまま戻りませんでした。」
「しかし、侍女のアリスの証言によると、奥様は自室へ行き、婚礼衣装の上に長外套を羽織り、ボンネットをかぶって外出したのですね?」
「そのとおりです。そして後に、フローラ・ミラーと一緒にハイド・パークへ入っていく姿が目撃されています。その女は今、拘留中で、その朝にもドーラン氏の家で騒ぎを起こしたのです。」
「ああ、そうでした。その女性について、また、あなたとのご関係について、もう少し詳しくうかがいたいのですが。」
セント・サイモン卿は肩をすくめ、眉を上げた。「数年来、親しくしていました――非常に親しく、と言ってもいいでしょう。以前は『アレグロ』にいた女です。私もけちけちした扱いをしてはいませんし、正当に私へ不平を言う理由など、あの女にはありません。ですが、ホームズさん、女というものはご存じでしょう。フローラはかわいい女でしたが、ひどく向こう見ずで、私に一途に思いを寄せていました。私が結婚すると聞くと、恐ろしい手紙をよこしたのです。実を言えば、式をあれほど内輪にしたのも、教会で醜態を演じられるのを恐れたからでした。帰宅した直後にドーラン氏の玄関に現れ、妻にひどい罵声を浴びせ、脅しさえしながら、押し入ろうとしました。しかし、そのようなこともあろうかと、私服の警官を二人待機させていたので、すぐに追い出してくれました。騒いでも無駄だと分かると、おとなしくなりました。」
「奥様は、それをお聞きになりましたか?」
「いいえ、幸い耳には入らなかったのです。」
「それなのに、そのあと、その同じ女性と歩いているところを目撃された?」
「ええ。スコットランドヤードのレストレード氏が重大視しているのは、そこなのです。フローラが妻を誘い出し、何か恐ろしい罠にかけたのではないかと考えられています。」
「まあ、あり得る仮説ではあります。」
「あなたもそうお考えですか?」
「ありそうだとは申しませんでした。しかし、ご自身は、その可能性を低いとお考えなのですね?」
「フローラは、蠅一匹殺せない女だと思っています。」
「とはいえ、嫉妬は人の性格を奇妙に変えてしまうものです。では、何が起きたのか、あなたご自身のお考えは?」
「いや、私は説を求めに来たのであって、説を披露しに来たのではありません。事実はすべてお話ししました。ただ、お尋ねなので申しますが、この結婚への興奮と、社会的に途方もない飛躍を遂げたという意識が、妻の神経に何か軽い障害を起こしたのではないか、と考えたことはあります。」
「要するに、突然、正気を失ったと?」
「つまり、私に背を向けた――いや、私自身のことは申しませんが、大勢が望んでも手に入れられない多くのものに背を向けたことを考えると、ほかには説明のしようがないのです。」
「なるほど、確かにそれも、考え得る仮説ではあります」と、ホームズは微笑んだ。「さて、セント・サイモン卿、必要な材料はほぼそろったようです。朝食の席からは、窓の外が見えましたか?」
「道の向こう側と、公園が見えました。」
「分かりました。では、これ以上お引き止めする必要はないでしょう。こちらからご連絡いたします。」
「首尾よく、この謎をお解きになれたらですが」と、依頼人は立ち上がった。
「もう解けています。」
「え? 何とおっしゃいました?」
「謎は、もう解けたと申しました。」
「では、妻はどこにいるのです?」
「その細部は、すぐにお知らせできるでしょう。」
セント・サイモン卿は首を振った。「あなたや私より、もっと知恵のある頭が必要でしょうな」と言い、古風で威厳のある一礼をして、帰っていった。
「僕の頭を、ご自身と同列に置いてくださるとは、セント・サイモン卿も実にご親切だ」と、シャーロック・ホームズは笑った。「あれだけ質問を浴びせたあとだから、ウイスキーのソーダ割りと葉巻でもいただこうかな。依頼人がこの部屋へ入る前に、事件についての結論は出ていたんだ。」
「ホームズ、まさか!」
「似た事件の記録をいくつか持っている。もっとも、さっきも言ったとおり、これほど素早い例はないがね。あの質問はすべて、推測を確信に変えるためのものだった。状況証拠は、ときには実に説得力がある。ソローの例を借りれば、牛乳の中に鱒が見つかった場合などだ[訳注:水増しされた牛乳だと推察できる、という意]。」
「だが、僕も君と同じ話を、全部聞いたんだよ。」
「しかし、僕にこれほど役立っている先例の知識は持っていない。数年前にはアバディーンで同様の事件があり、普仏戦争の翌年にはミュンヘンでも、よく似た事件があった。これは、その手の事件の一つ――おや、レストレードじゃないか! こんにちは、レストレード! サイドボードに空いたグラスがあります。葉巻は箱の中です。」
警部はピーコートにクラヴァットという、いかにも船乗りめいたいでたちで、手には黒い帆布の袋を提げていた。短く挨拶すると腰を下ろし、勧められた葉巻に火をつけた。
「どうしました?」と、ホームズは目をきらめかせた。「不満そうですね。」
「実際、不満なんですよ。あの忌々しいセント・サイモンの結婚事件です。何が何やら、さっぱり分かりません。」
「ほう! それは驚きですね。」
「あんなややこしい話は聞いたことがない。手掛かりという手掛かりが、指の間からすり抜けていく。一日じゅう、かかりきりですよ。」
「おかげで、ずいぶん濡れたようですね」と、ホームズはピーコートの袖に手を置いた。
「ええ、サーペンタイン池をさらっていましたから。」
「いったい、何のために?」
「セント・サイモン夫人の遺体を捜すためです。」
シャーロック・ホームズは椅子の背にもたれ、大声で笑った。
「トラファルガー広場の噴水池も、さらってみましたか?」
「なぜです? どういう意味ですか?」
「その女性を見つける見込みなら、どちらも同じだからです。」
レストレードは、怒りを込めた視線をわが友に投げた。「あなたには、何もかもお分かりのようですな」と、唸るように言った。
「いや、事実を聞いたのはつい先ほどですが、僕の考えは決まっています。」
「ほう、そうですか! では、サーペンタイン池は事件と無関係だと?」
「まず関係はないと思います。」
「それなら、これが池で見つかったわけを、ぜひ説明していただきたいものですな。」
そう言いながら袋を開け、波紋模様の絹の花嫁衣装、白いサテンの靴一足、それに花嫁の花冠とヴェールを床へ放り出した。どれも水を吸い、色が変わっていた。「さあ」と、その山の上に真新しい結婚指輪を置いた。「ホームズ先生、これなら少しは頭を使うでしょう。」
「ほう、なるほど!」と、友人は青い煙の輪を空中へ吹いた。「サーペンタイン池の底から引き上げたのですか?」
「いや。岸辺に浮いているのを、公園の管理人が見つけたのです。夫人の衣類だという確認も取れています。衣類があったのなら、遺体もそう遠くにはないだろうと思いましてね。」
「その見事な論法でいけば、人はみな、衣装戸棚の近くで遺体となって見つかることになりますね。それで、そこから何を突き止めるおつもりでした?」
「失踪にフローラ・ミラーが関与した証拠ですよ。」
「それは難しいでしょうね。」
「ほう、そうですかね!」と、レストレードは苦々しく叫んだ。「ホームズさん、あなたの演繹だの推論だのは、どうも実地には向かないようですな。たった二分間に、二つも間違えた。この衣装こそ、フローラ・ミラーの関与を示しているんです。」
「どういうふうに?」
「衣装にはポケットがある。ポケットには名刺入れがある。名刺入れには書き付けがある。そして、これがその書き付けです。」
警部は目の前のテーブルに、ぴしゃりと紙片を置いた。「聞いてください。『準備ができたら、僕の姿が見えるはずだ。すぐに来てくれ。F・H・M』。さて、私は初めから、セント・サイモン夫人はフローラ・ミラーに誘い出され、その女が、おそらく共犯者とともに、失踪を仕組んだのだと考えていました。ここに、その女の頭文字で署名した書き付けがある。きっと玄関でひそかに手渡し、これを使って夫人を自分たちの手の届くところへおびき寄せたのです。」
「実に結構、レストレード」と、ホームズは笑った。「まったくお見事です。拝見しましょう。」
彼は気のない様子で紙片を取り上げたが、たちまち注意を釘づけにされ、満足げな小さな声を上げた。「これは確かに重要だ。」
「ははあ! そうお思いですか?」
「きわめて重要です。心からお祝いを申し上げます。」
レストレードは得意満面で立ち上がり、身をかがめてのぞき込んだ。「おや!」と、甲高い声を上げた。「裏を見ているじゃありませんか!」
「いや、こちらこそ見るべき面です。」
「見るべき面ですって? どうかしてる! 鉛筆の書き付けは、こっちですよ。」
「そしてこちらには、どうやらホテルの勘定書の切れ端があります。僕はこれに、非常に興味があるのです。」
「そんなものには何もありません。私も見ましたよ」と、レストレードは言った。「『十月四日、室料八シリング、朝食二シリング六ペンス、カクテル一シリング、昼食二シリング六ペンス、シェリー酒一杯八ペンス』。これが何だというんです?」
「あなたには分からないでしょうね。それでも、きわめて重要なのです。書き付けのほうも重要です。少なくとも、頭文字は。ですから、重ねてお祝いを申し上げます。」
「もう十分に時間を無駄にしました」と、レストレードは立ち上がった。「私は地道な捜査を信じるのであって、暖炉のそばでうまい理屈をひねくり回すのは好みません。では、ホームズさん。どちらが先に真相を突き止めるか、見ていましょう。」
警部は衣類を拾い集め、袋に押し込むと、扉へ向かった。
「一つだけ、ヒントをあげましょう、レストレード」と、相手が姿を消す前に、ホームズはゆっくりした口調で言った。「事件の本当の答えを教えます。セント・サイモン夫人など、架空の人物なのです。そんな人間は、今も存在しないし、かつて存在したこともない。」
レストレードは、悲しげにわが友を見つめた。それから私のほうへ向き、額を三度たたき、おごそかに首を振ると、足早に出ていった。
扉が閉まるか閉まらないかのうちに、ホームズは立ち上がり、外套を着た。「外へ出て働けというあの男の言い分にも、一理はある」と、彼は言った。「だからワトソン、しばらくは一人で新聞を読んでいてもらうよ。」
シャーロック・ホームズが出かけたのは五時過ぎだったが、寂しさを感じる暇もなかった。一時間とたたないうちに、菓子商の使いが大きな平たい箱を抱えてやって来たのである。連れてきた若者と二人で箱を開けると、驚いたことに、わが下宿の質素なマホガニーの食卓へ、美食家好みの冷たい料理が並びはじめた。冷製のヤマシギが四羽、キジが一羽、フォアグラのパテ入りのパイ、それに蜘蛛の巣をまとった古い酒瓶が数本。こうしたぜいたくな品々を並べ終えると、二人の使いは『アラビアン・ナイト』の魔神さながらに姿を消した。代金は支払い済みで、この住所へ届けるようにとの注文だった、それ以外に説明は何もなかった。
九時になる少し前、シャーロック・ホームズが足取りも軽く部屋へ入ってきた。顔つきは厳粛だったが、目の輝きからして、自分の結論に裏切られはしなかったらしい。
「食事の用意はできているね」と、彼は両手をこすり合わせた。
「客を呼んでいるらしいね。五人分の席がある。」
「ああ、何人か寄ってくれると思うよ」と、彼は言った。「セント・サイモン卿がまだ来ていないのは意外だな。おや! 今、階段に聞こえるのは、あの人の足音らしい。」
果たして、先ほどの依頼人がせわしなく入ってきた。眼鏡を前にも増して激しく揺らし、貴族らしい顔には、ひどくうろたえた表情を浮かべていた。
「使いは届きましたね?」と、ホームズが尋ねた。
「ええ。正直に申して、手紙の内容には、驚愕せずにはいられませんでした。あなたのおっしゃることには、確かな裏づけがあるのですか?」
「これ以上はないほど確かなものが。」
セント・サイモン卿は椅子に沈み込み、額に手をやった。
「公爵は何と言うだろう」と、卿はつぶやいた。「一族の者が、このような屈辱を受けたと知ったら。」
「まったくの偶然の成り行きです。屈辱だとは、私には思えません。」
「ああ、あなたと私とでは、こうしたことを見る立場が違います。」
「誰に責任があるとも思えません。あの女性に、ほかの行動が取れたとも思えないのです。むろん、あのように唐突な方法を選んだのは残念ですが。お母様がいないので、あのような難局に助言してくれる人もなかったのです。」
「侮辱ですよ。公衆の面前での侮辱だ」と、セント・サイモン卿はテーブルを指でたたいた。
「あんな前例のない立場に置かれた、気の毒な若い女性の事情も、酌んであげるべきです。」
「酌むつもりはありません。私は心底、腹を立てています。恥ずべき扱いを受けたのです。」
「呼び鈴が鳴ったようですね」と、ホームズは言った。「ええ、踊り場に足音がします。セント・サイモン卿、私が寛大なお気持ちになっていただけないのなら、もっと説得のうまい弁護人をお連れしました。」
彼は扉を開け、一組の男女を招き入れた。「セント・サイモン卿、フランシス・ヘイ・モールトン氏と、その奥様をご紹介いたします。奥様のほうは、すでにご面識があると思いますが。」
二人を目にすると、依頼人は椅子から跳ね起きた。そして背筋をまっすぐ伸ばし、目を伏せ、フロックコートの胸に手を差し入れて立った。その姿は、まさしく傷つけられた威厳そのものだった。女性は素早く一歩進み、手を差し出したが、卿は依然として目を上げようとしなかった。決意を守るには、そのほうがよかったのかもしれない。あの訴えかけるような顔を見て、心を動かされずにいるのは難しかったからだ。
「怒っていらっしゃるのね、ロバート」と、彼女は言った。「ええ、怒って当然だと思うわ。」
「どうか、私にお詫びなどなさらずに」と、セント・サイモン卿は苦々しく言った。
「でも、本当にひどいことをしたのは分かっているの。出ていく前に、お話しすべきだったわ。ただ、すっかり取り乱してしまって、このフランクをもう一度見たときから、自分が何をしているのか、何を言っているのか、分からなくなってしまったのよ。祭壇の前で、そのまま気を失って倒れなかったのが不思議なくらい。」
「モールトン夫人、ご事情を説明なさるあいだ、私と友人は席を外したほうがよろしいでしょうか?」
「私の意見を申してよければ」と、見知らぬ紳士が口を挟んだ。「この件では、もう隠し事をしすぎたと思います。私としては、ヨーロッパとアメリカの人々全員に、真相を聞いてもらいたいくらいです。」
小柄だが引き締まった、日に焼けた男だった。髭はきれいに剃られ、顔立ちは鋭く、身のこなしもきびきびしていた。
「それでは、初めからお話しするわ」と、女性は言った。「私とフランクが出会ったのは八四年、ロッキー山脈近くのマクワイア鉱山の飯場でした。父がそこで鉱区を掘っていたの。フランクと私は婚約したのだけれど、そのあとある日、父が豊かな金鉱脈を掘り当てて、大金を手に入れたのよ。それなのに、かわいそうにフランクの鉱区は鉱脈が尽きて、何にもならなかった。父が金持ちになるほど、フランクは貧しくなっていった。とうとう父は婚約を続けることを許さず、私をフリスコ[訳注:サンフランシスコの略称]へ連れていってしまったの。でも、フランクは諦めなかった。追いかけてきて、父に内緒で会ってくれたのよ。知られたら、父は怒るばかりだったでしょう。だから私たちだけで、何もかも決めたの。フランクは、自分も大金を稼ぎに行く、父と同じだけの財産ができるまで、私を迎えには戻らないと言ったわ。私は、いつまでも待つと約束して、フランクが生きているかぎり、ほかの誰とも結婚しないと誓った。すると彼が、『だったら、今すぐ結婚してはどうだろう。そうすれば安心していられるし、帰るまでは夫の権利を求めないから』と言ったの。二人で相談して、フランクが牧師様まで用意して、何もかもうまく整えてくれていたものだから、その場で結婚したわ。それからフランクは一旗揚げに出かけ、私は父のもとへ戻ったの。
「次に便りが来たとき、フランクはモンタナにいたわ。そのあとアリゾナへ金鉱を探しに行き、続いてニューメキシコから便りが来た。それから、鉱山の飯場がアパッチ族に襲われたという長い新聞記事が出て、死者の中に、私のフランクの名前があったの。私は気を失い、そのあと何か月も病気で寝込んだわ。父は肺病だと思って、フリスコじゅうの医者の半分に診せたほどだった。一年以上、何の知らせも来なかったから、フランクが本当に死んだことを、疑いもしなくなった。それからセント・サイモン卿がフリスコにいらして、私たちはロンドンへ来て、結婚が決まったの。父は大喜びだったけれど、私はずっと思っていたわ。かわいそうなフランクに捧げた心の中の場所は、この世のどんな人にも埋められないって。
「それでも、セント・サイモン卿と結婚したのなら、もちろん妻としての務めは果たすつもりだったわ。愛情は思いどおりにはできなくても、行いは自分で決められるでしょう。できるかぎりよい妻になろうと決心して、一緒に祭壇へ進んだの。でも、その前の柵に着いたところで、ふと振り返ると、最前列の長椅子にフランクが立って、私を見つめていた。そのときの気持ちは、想像していただけるでしょう。初めは幽霊かと思ったわ。でも、もう一度見ても、そこにいたの。その目は、僕に会えてうれしいのか、それとも困るのかと、問いかけているようだった。よく倒れなかったものだと思うわ。何もかもぐるぐる回って、牧師様の言葉は、耳元で蜂が鳴っているようにしか聞こえなかった。どうすればいいのか分からなかったの。式を止めて、教会じゅうを大騒ぎにしてしまおうか。もう一度フランクを見ると、私の考えを察したように、唇に指を当てて、黙っているよう合図したわ。それから紙切れに何か走り書きをするのが見えて、私への手紙だと分かった。帰りに彼の席の横を通るとき、私は花束を彼のほうへ落としたの。拾って返してくれたとき、手にその紙を滑り込ませてくれたわ。合図をしたら会いに来てほしいと、それだけの短い文だった。もちろん、そのときはもう、何よりも先に尽くすべき相手はフランクだということに、少しの疑いもなかった。だから、彼の言うとおりにしようと決めたのよ。
「家へ戻ると、侍女に話したわ。あの子はカリフォルニアでフランクを知っていて、いつも彼の味方だったから。何も言わずに、少し荷物をまとめて、長外套を出しておくように頼んだの。セント・サイモン卿にお話しすべきだったことは分かっているわ。でも、お母様や、あんなに身分の高い方々を前にしては、とても切り出せなかった。逃げ出して、あとから説明しようと決めてしまったの。食卓に着いて十分もしないうちに、窓の外、道の向こうにフランクが見えた。手招きして、それから公園のほうへ歩きだしたわ。私はそっと抜け出し、外出の支度をして、あとを追ったの。途中で女の人に話しかけられて、セント・サイモン卿のことで何か言われたわ――少し聞いただけだけれど、どうやら、あの方にも結婚前の秘密があったようね――でも、何とかその人から離れて、すぐにフランクに追いついた。二人で辻馬車に乗って、彼がゴードン・スクエアに借りていた下宿へ行ったの。長い年月を待ち続けて、あれこそが私の本当の結婚だったわ。フランクはアパッチ族の捕虜になっていたのよ。逃げ出してフリスコに戻ると、私が彼を死んだものと思ってイギリスへ行ったと分かった。それで追いかけてきて、とうとう、私の二度目の結婚式の朝に、私を見つけたの。」
「新聞で読んだのです」と、アメリカ人が説明した。「名前と教会は載っていましたが、住まいは書かれていなかったので。」
「それから、どうしたらいいか話し合ったわ。フランクは何もかも明らかにすべきだと言ったけれど、私はすっかり恥ずかしくなってしまって、消えてなくなり、もう誰にも会いたくないと思ったの――せいぜい父に、生きていると短い手紙を出すくらいで。あの貴族の方々が朝食のテーブルを囲んで、私の戻りを待っていると思うと、たまらなかった。そこでフランクは、足取りをたどられないように、婚礼衣装や持ち物をひとまとめにして、誰にも見つからないような場所へ捨ててくれたの。きっと明日にはパリへ行っていたでしょう。でも今晩、このご親切なホームズさんが訪ねてきてくださったのよ。どうやって居場所がお分かりになったのか、私には想像もつかないけれど。そして、間違っているのは私で、フランクが正しいこと、こんなふうに隠れ続ければ、自分たちの立場を悪くするばかりだということを、とても分かりやすく、親切に説いてくださったわ。それから、セント・サイモン卿と内々でお話しする機会を作ってくださるとおっしゃったので、こうしてすぐに、こちらのお部屋へ来たの。さあ、ロバート、これで全部よ。あなたを苦しめてしまったのなら、本当にごめんなさい。どうか私を、あまりひどい女だと思わないでいただきたいわ。」
セント・サイモン卿は少しも姿勢を崩さず、眉間にしわを寄せ、唇を固く結んで、この長い話に耳を傾けていた。
「失礼ですが」と、卿は言った。「私は、自分の最も私的な事情を、このように人前で論じる習慣はありません。」
「では、許してはくださらないの? 帰る前に、握手もしてくださらない?」
「いや、もちろん。それであなたがお喜びになるなら。」
卿は手を差し出し、彼女の手を冷たく握った。
「皆さんで、なごやかに食事をご一緒できればと考えていたのですが」と、ホームズが言った。
「それは少々、求めすぎというものでしょう」と、卿は答えた。「今回の成り行きを受け入れざるを得ないとしても、それを祝って楽しめとまでは、期待していただきたくありません。お許しいただければ、これで皆様に、おやすみを申し上げることにします。」
卿は一同を見渡して大きく一礼し、大股で部屋を出ていった。
「では、せめてお二人には、お付き合い願えるでしょうね」と、シャーロック・ホームズは言った。「モールトンさん、アメリカの方にお会いするのは、いつでもうれしいものです。私は、はるかな昔の一人の国王の愚行や、一人の大臣の失策くらいでは、われわれの子孫が、いつかユニオンジャックと星条旗を組み合わせた旗の下、世界にまたがる一つの国の国民となることを妨げられはしない、と信じている者の一人なのです。」
「面白い事件だった」と、客が帰ったあと、ホームズは言った。「一見すると、ほとんど説明不可能に思える出来事が、実はどれほど単純に説明できるか、鮮やかに示してくれるからね。あの女性の語った一連の出来事ほど自然なものはない。ところが、その結果だけを、たとえばスコットランドヤードのレストレード君の目で見れば、これほど奇怪なものもないんだ。」

「これで皆様に、おやすみを申し上げることにします。」
「では、君自身は、一度も見当を誤らなかったのかい?」
「初めから、二つの事実は明白だった。一つは、彼女が喜んで結婚式に臨んだこと。もう一つは、帰宅後、ほんの数分でそれを悔やんだこと。ならば、その朝のうちに、心変わりをさせる何かが起きたことは明らかだ。その何かとは何だろう? 外にいたあいだ、彼女は花婿と一緒だったから、誰かと話すことはできなかった。では、誰かを見たのか? そうだとすれば、相手はアメリカから来た人物に違いない。この国に滞在した期間は短いから、姿を見ただけで予定をすっかり変えてしまうほど、深い影響力を持つ相手など、ここでできたとは考えにくい。ほら、消去法によって、彼女がアメリカ人を見かけたのではないか、というところまで来た。では、そのアメリカ人は誰で、なぜそれほどの影響力を持つのか。恋人かもしれないし、夫かもしれない。彼女が若い時代を、荒々しい土地の、風変わりな環境で過ごしたことは知っていた。セント・サイモン卿の話を聞く前に、そこまではたどり着いていたんだ。卿が話してくれた、長椅子の男、花嫁の態度の変化、花束を落とすという、いかにも分かりやすい手紙の受け取り方、腹心の侍女への相談、そして『鉱区の横取り』という、きわめて意味深長な言葉――鉱夫の言葉では、他人に先取権のあるものを奪うことをいう――それらを聞いて、全体が完全に明らかになった。彼女は男と逃げた。その男は、恋人か、それ以前に結婚した夫かのどちらかで、後者の可能性のほうが高かったんだ。」
「だが、いったいどうやって二人を見つけたんだい?」
「難しかったかもしれないが、わが友レストレードが、自分でも価値の分からない情報を握っていた。もちろん頭文字は非常に重要だったが、それ以上に価値があったのは、その男が一週間以内に、ロンドンでも指折りの高級ホテルで勘定を払っていたと分かったことだ。」
「高級だとは、どうして推理した?」
「値段が高級だったからさ。寝床に八シリング、シェリー酒一杯に八ペンスなら、最高級のホテルの一つだ。ロンドンでも、そんな料金を取るところは多くない。ノーサンバランド・アヴェニューで訪ねた二軒目のホテルで帳簿を調べたところ、アメリカ人紳士のフランシス・H・モールトンが、前日に出ていったと分かった。その人の勘定の明細を見ると、例の勘定書で見たのと、まったく同じ項目があった。手紙の転送先はゴードン・スクエア二二六番地だったから、そこへ行ってみた。幸い、愛し合う二人は在宅していたので、父親めいた助言を少々させてもらった。世間一般に対しても、特にセント・サイモン卿に対しても、自分たちの立場をもう少しはっきりさせたほうが、あらゆる点でよいだろうとね。そして、ここで卿に会うよう招き、ご覧のとおり、卿にも約束を守っていただいたわけさ。」
「あまり、うまくはいかなかったがね」と、私は言った。「あの態度は、お世辞にも立派とは言えないよ。」
「ああ、ワトソン」と、ホームズは微笑んだ。「苦労して求婚し、結婚した揚げ句、一瞬にして妻と財産を失ったら、君だって、そう立派には振る舞えないかもしれないよ。セント・サイモン卿には、十分に寛大な目を向けていいと思う。僕らが同じ立場に置かれることは、まずありそうにない。その幸運に感謝しようじゃないか。椅子を寄せて、ヴァイオリンを取ってくれたまえ。これから解くべき問題はただ一つ、このうすら寒い秋の夜を、どうして過ごそうかということだけだ。」
第十一話 緑柱石の冠
「ホームズ」と、ある朝、張り出し窓から通りを見下ろしていた私は言った。「正気を失った人が、こっちへ来るよ。身内が一人で外へ出すとは、気の毒な話だね。」
友人は安楽椅子からものうげに立ち上がると、ガウンのポケットに両手を入れ、私の肩越しに外を見た。明るく澄んだ二月の朝で、前日に降った雪がまだ地面を厚く覆い、冬の日差しにまぶしく輝いていた。ベーカー街の中央では、車の往来が雪を掘り返し、褐色のぼろぼろした帯に変えていたが、両側や歩道の縁に積み上げられた雪は、降ったときの白さをそのまま保っていた。灰色の歩道は雪をかき取ってあったものの、危ないほど滑りやすく、通行人はいつもより少なかった。実際、メトロポリタン鉄道の駅の方角からやって来るのは、その奇妙な振る舞いで私の注意を引いた紳士一人だけだった。
年のころは五十ほど。背が高く、恰幅もよく、大きく彫りの深い顔と、威厳のある体つきの男だった。服装は地味ながら上等で、黒いフロックコート、つやのある帽子、きちんとした褐色のゲートル、仕立てのよい真珠色のズボンを身に着けていた。ところが、その動作は、服装や顔立ちの堂々たる印象とは滑稽なほど釣り合わなかった。足を酷使することに慣れない人間が疲れたときに見せるような、小刻みな跳ね方を時折交えながら、懸命に走っていたのである。走りながら両手を上下に振り、頭を揺すり、顔を途方もなく奇妙にゆがめていた。
「あの人は、いったいどうしたんだろう?」
と、私は尋ねた。「家の番地を見上げているよ。」
「ここへ来るようだな」と、ホームズは両手をこすり合わせた。
「ここへ?」
「ああ、どうやら仕事の相談に来るらしい。あの症状には覚えがある。ほら! 僕の言ったとおりだろう?」
そう言うあいだに、男は息を切らして玄関へ駆け寄り、家じゅうに鳴り響くほど激しく呼び鈴を引いた。
しばらくすると男は部屋に通され、まだ息を弾ませ、身振りを続けていた。しかし、その目に深く刻まれた悲嘆と絶望を見て、私たちの笑みは、たちまち恐れと憐れみに変わった。しばらくは言葉も出ず、理性の限界まで追い詰められた人間のように、体を揺すり、髪をかきむしっていた。かと思うと、いきなり跳ね立ち、ものすごい勢いで壁に頭を打ちつけたので、私たちは二人して駆け寄り、部屋の中央へ引き離した。シャーロック・ホームズは男を安楽椅子へ押し戻し、そばに腰を下ろすと、その手を軽くたたきながら、彼が実に巧みに使いこなす、くつろいだ、心をなだめる口調で語りかけた。
「お話をするために、私のところへいらしたのでしょう?」と、彼は言った。「急いでおいでになって、お疲れなのです。どうぞ、落ち着くまでお待ちください。それから、どんな問題でもお聞かせいただければ、喜んで調べましょう。」
男は一分余り、激しく胸を上下させながら、感情を抑えようと座っていた。やがてハンカチで額をぬぐい、唇を引き結ぶと、私たちのほうへ顔を向けた。
「気が違ったと思われたでしょう?」と、男は言った。
「大変な災難に遭われたことは分かります」と、ホームズは答えた。
「まさに、そのとおりです! 正気を失ってもおかしくないほど、突然で、恐ろしい災難なのです。世間に対する不名誉だけなら、耐えられたかもしれません。これまで一度も、評判に傷をつけたことのない人間ではありますが。家庭の不幸も、誰の身にも降りかかるものでしょう。しかし、その二つが同時に、あれほど恐ろしい形で襲ってきたために、魂の根底まで揺さぶられてしまったのです。しかも、私一人ではありません。この恐るべき事態を切り抜ける道が見つからなければ、国内で最も高貴な方にまで災いが及ぶかもしれないのです。」
「どうかお気を静めて」と、ホームズは言った。「まず、どなたで、何が起きたのか、順を追ってお聞かせください。」
「私の名は、おそらくお聞き及びでしょう」と、来訪者は答えた。「スレッドニードル街のホールダー・アンド・スティーヴンソン銀行の、アレグザンダー・ホールダーです。」
その名なら、確かによく知っていた。ロンドンのシティで二番目に大きい個人経営銀行の、首席共同経営者の名だった。ロンドン屈指の名士を、これほど哀れな境遇に突き落とすとは、いったい何が起きたのか。私たちは好奇心を募らせながら待ち、ようやく客は再び力を振り絞って、話しはじめた。
「時間が大切だと思いまして」と、男は言った。「警部から、あなたに協力を求めてはどうかと勧められ、急いで参ったのです。地下鉄でベーカー街まで来て、そこから走ってきました。この雪では馬車も遅いので。普段、ほとんど運動をしないものですから、あんなに息が切れてしまいました。もう気分はよくなりました。できるだけ手短に、しかも明瞭に、事実をお話ししましょう。
「銀行経営を成功させるには、取引先や預金者を増やすのと同じくらい、資金を有利に運用する先を見つけることが重要なのは、むろんご存じでしょう。なかでも、担保が確実な融資は、最も利益の上がる運用法の一つです。ここ数年、わが銀行はこの方面でかなりの取引をしており、絵画や蔵書、銀器などを担保に、多くの貴族の家へ多額の金を貸し付けてきました。
「昨日の午前、銀行の執務室におりますと、行員の一人が名刺を持ってきました。そこにある名を見て、私は驚きました。それは、ほかならぬ――いや、あなたにさえ、これ以上は申し上げぬほうがよいでしょう。世界じゅうで知らぬ者のない名で、英国でも最も高位で、最も高貴で、最も尊いお名前の一つだとだけ申しておきます。私は光栄のあまり圧倒され、お入りになったとき、その気持ちを申し上げようとしました。しかし、その方は、不愉快な用事を早く片づけてしまいたいという様子で、すぐに本題に入られました。
「『ホールダーさん』と、その方はおっしゃいました。『あなたは融資をなさると聞きました。』
「『担保が確かであれば、当行ではお引き受けしております』と、私は答えました。
「『どうしても、今すぐ五万ポンドが必要なのです』と、その方はおっしゃいました。『もちろん、この程度の金なら、その十倍でも友人から借りられます。しかし、これは商取引として、私自身の手で処理したいのです。私の立場では、人に借りを作るのが得策でないことは、お分かりでしょう。』
「『どのくらいの期間、ご入用でしょうか?』と、私は尋ねました。
「『次の月曜日には、大きな金が入ることになっています。そのときには必ず、あなたが適当と思われる利息を添えて返済します。ただ、今すぐ支払っていただくことが、どうしても必要なのです。』
「『私個人の資金で賄えるのでしたら、これ以上のお話もせず、喜んでお貸しいたしますが』と、私は申しました。『あいにく、その額では少々、負担に耐えかねます。一方、銀行の名で融資を行う以上、共同経営者への責任もありますので、たとえあなた様であっても、商取引としてのあらゆる安全措置を取らせていただかねばなりません。』
「『私も、そのほうがよいのです』と、その方はおっしゃり、椅子の脇に置いてあった四角い黒のモロッコ革の箱を取り上げられました。『緑柱石の冠は、ご存じでしょう?』
「『帝国の国有財産の中でも、最も貴重な宝の一つですね』と、私は申しました。
「『そのとおりです』。箱を開けると、柔らかな肌色のビロードに埋もれて、まさにその名のとおりの壮麗な宝冠が収まっていました。『大粒の緑柱石が三十九個あります』と、その方はおっしゃいました。『金の彫金細工の価値は、計り知れません。どんなに低く見積もっても、冠の価値は、私が求めた金額の二倍はあります。これを担保として、お預けする用意があります。』
「私は貴重な箱を手に取り、少し戸惑いながら、箱と高貴な依頼人を交互に見ました。
「『価値をお疑いですか?』と、お尋ねになりました。
「『とんでもございません。ただ、私が気にしておりますのは――』
「『これを預けるのが適切かどうか、ですね。その点は、ご安心ください。四日後には確実に取り戻せると分かっていなければ、私もこんなことは考えません。まったく形式だけのことです。担保としては十分ですか?』
「『十分すぎるほどです。』
「『ホールダーさん、いろいろとうかがっているあなたの評判を信じ、こうして大きな信頼の証しをお示しするのです。慎重に扱い、この件を一切口外なさらないことはもちろんですが、何よりも、この冠の保管には、考え得るかぎりの注意を払っていただきたい。万一のことがあれば、世間を揺るがす大醜聞になるのは、申し上げるまでもありません。少しでも傷がつけば、全部を失うのとほとんど同じ重大事になります。これに匹敵する緑柱石は世界のどこにもなく、代わりを求めることは不可能だからです。しかし、全面的に信頼してお預けしましょう。月曜の朝、私自身で受け取りに来ます。』
「お客様は早く立ち去りたいご様子でしたので、私はそれ以上申し上げず、出納係を呼んで、千ポンド紙幣を五十枚お支払いするよう命じました。しかし、再び一人になり、目の前のテーブルに貴重な箱が置かれているのを見ると、背負い込んだ責任の重大さに、不安を覚えずにはいられませんでした。国の所有物なのですから、何かあれば恐ろしい醜聞になることは疑いありません。引き受けたことを、もう後悔していました。とはいえ、今さらどうにもなりません。そこで、私専用の金庫にしまい、仕事に戻りました。
「夕方になると、これほど貴重な品を事務所に置いて帰るのは、無分別ではないかと思えてきました。銀行の金庫が破られた例はあります。私のだけが安全だと、どうして言えるでしょう? そうなれば、私はどれほど恐ろしい立場に立たされることか! そこで、この数日間は、決して自分の手元から離さぬよう、出勤にも帰宅にも、箱を持ち歩こうと決心したのです。そのつもりで馬車を呼び、宝冠を携えてストリータムの自宅へ帰りました。二階へ運び、更衣室の書き物机に入れて鍵をかけるまで、ほっと息をつけませんでした。
「さて、ホームズさん、事情を十分にご理解いただくために、家の者について少しお話ししておきます。馬丁と小姓は通いですから、まったく考慮に入れる必要はありません。女中が三人おりますが、どれも長年勤めている者で、その誠実さには、いささかの疑いもありません。もう一人、二番手の給仕女中、ルーシー・パーは、雇ってまだ数か月です。しかし、紹介状の評判はたいへんよく、仕事ぶりにもいつも満足しています。とてもかわいらしい娘で、言い寄る男たちが、時折、家の周りをうろついています。それが唯一の欠点ですが、あらゆる点で、まじめなよい娘だと信じています。
「使用人は以上です。家族もごく少人数ですから、説明に時間はかかりません。私は妻に先立たれ、アーサーという一人息子がおります。この息子には、失望させられました、ホームズさん――ひどく失望させられました。私にも責任があるに違いありません。甘やかしすぎたと、人からも言われます。きっと、そのとおりなのでしょう。愛する妻が亡くなったとき、愛情を注ぐ相手は、もうあの子しかいないと思いました。あの顔から、一瞬でも笑みが消えるのに耐えられなかったのです。望むことは何でもかなえてやりました。もっと厳しくしていれば、二人のためによかったのかもしれません。しかし私は、最善を尽くしているつもりだったのです。
「当然、息子には商売を継がせるつもりでしたが、あの子は商売向きの性質ではありませんでした。放縦で気ままで、正直に言えば、大金を任せることはできませんでした。若いうちから上流階級のクラブに入り、人当たりがいいものですから、たちまち、金があり、金遣いも荒い連中と親しくなりました。高額のカード賭博を覚え、競馬に金をつぎ込むようになり、とうとう賭けの借金を清算するために、何度も私のところへ来て、小遣いの前借りをせがむようになったのです。危険な仲間から離れようとしたことも、一度や二度ではありません。ところが、そのたびに、友人のサー・ジョージ・バーンウェルの影響に負け、引き戻されてしまいました。
「実際、サー・ジョージ・バーンウェルのような男に息子が感化されたのも、無理はないのです。息子が何度も家へ連れてきましたが、私自身、その物腰の魅力には、抗しがたいものを感じました。アーサーより年上で、骨の髄まで世間を知り尽くし、どこへでも行き、何でも見てきた男です。話術は見事で、容姿も実に美しい。しかし、その場の魅力から離れて冷静に考えてみると、皮肉な言葉遣いや、時折見せる目つきからして、深く警戒すべき人物だと確信するのです。私もそう思いますし、女性らしい鋭い人物眼を持つ、うちのメアリーも、同じ考えです。
「これで、あとは、その子についてお話しするだけです。私の姪ですが、五年前に兄弟が亡くなり、天涯孤独になったので、引き取って娘同然に育ててきました。家の中を照らす陽光のような子です。優しく、愛情深く、美しく、家計も家政も見事に切り盛りし、そのうえ、これ以上は望めぬほど、情け深く、静かで、穏やかな性格なのです。私の右腕です。あの子なしでは、どうしてよいか分かりません。ただ一つだけ、私の願いに背いたことがあります。息子はあの子を深く愛し、二度、結婚を申し込んだのですが、どちらも断られました。あの子なら、息子を正しい道へ導いてくれたのではないか、結婚によって息子の人生も、すっかり変わったのではないかと思います。しかし、今では、ああ! もう遅い――永久に手遅れです!
「さて、ホームズさん、これで私の家に住む者は、すべてお分かりになったでしょう。痛ましい話の続きをいたします。
「昨夜、夕食後に客間でコーヒーを飲んでいたとき、私はアーサーとメアリーに、依頼人の名前だけは伏せて、その日にあったことと、家に預かっている貴重な宝について話しました。コーヒーを運んできたルーシー・パーは、確かに部屋を出ていました。ただ、扉が閉まっていたかどうかは、断言できません。メアリーもアーサーも大いに興味を持ち、有名な冠を見たがりましたが、私は、しまったままにしておくほうがよいと考えました。
「『どこに置いたんです?』と、アーサーが尋ねました。
「『私の書き物机だ。』
「『いやはや、夜中に泥棒が入らないよう、祈るしかありませんね』と、息子は言いました。
「『鍵はかけてある』と、私は答えました。
「『あの机なら、古い鍵は何でも合いますよ。僕は子供のころ、物置の戸棚の鍵で開けたことがあります。』
「息子はよく無茶な口をきくので、私はその言葉を気にも留めませんでした。ところが、その夜、息子はひどく真剣な顔をして、私の部屋までついてきたのです。
「『父さん、お願いがあるんです』と、息子は目を伏せて言いました。『二百ポンド、いただけませんか?』
「『だめだ、やれん!』と、私は厳しく答えました。『金のことでは、お前を甘やかしすぎた。』
「『ずいぶんよくしていただきました』と、息子は言いました。『でも、この金がどうしても必要なんです。さもないと、二度とクラブへ顔を出せなくなります。』
「『それは大いに結構だ!』と、私は叫びました。
「『ええ、でも、名誉を失って追い出されるのは、父さんだってお望みではないでしょう』と、息子は言いました。『そんな恥には耐えられません。何としても金を工面しなければならないんです。出していただけないのなら、ほかの方法を探すしかありません。』
「その月、金の無心は三度目でしたので、私はひどく腹を立てました。『一ファージング[訳注:四分の一ペニーの小額貨幣]だって渡さんぞ』と叫ぶと、息子は一礼し、それ以上何も言わずに部屋を出ていきました。
「息子が去ったあと、私は机の鍵を開け、宝が無事なのを確かめて、また鍵をかけました。それから、家じゅうの戸締まりを見て回ることにしました。普段はメアリーに任せている役目ですが、その晩は自分でするのがよいと思ったのです。階段を下りると、メアリー自身が玄関広間の脇の窓のところにいて、私が近づくと、窓を閉めて掛け金を掛けました。
「『ねえ、お父様』と、少し落ち着かない様子で、あの子は言いました。『今夜、女中のルーシーに外出を許していらしたの?』
「『いや、そんなことはしていない。』
「『今、裏口から戻ってきたところなの。きっと脇の門まで、誰かに会いに行っただけでしょうけれど、用心が悪いし、やめさせたほうがいいと思うわ。』
「『朝になったら、お前から注意しておくれ。何なら、私が言ってもいい。戸締まりは、全部確かめたかい?』
「『ええ、間違いなく、お父様。』
「『では、おやすみ』。私はあの子に口づけし、寝室へ戻ると、まもなく眠りました。
「ホームズさん、私は事件に関係しそうなことを、一つ残らずお話ししようと努めておりますが、分かりにくい点があれば、どうぞお尋ねください。」
「いえ、お話は、実に明瞭です。」
「ここから先は、特にはっきりお伝えしたいところです。私は普段から、それほど眠りが深くありません。そのうえ、心配事があったため、いつもより眠りが浅くなっていたのでしょう。午前二時ごろ、家の中の何かの物音で目を覚ましました。すっかり目が覚めたときには、もう音はやんでいましたが、どこかで窓がそっと閉まったような印象が残っていました。私は寝たまま、耳を澄ませていました。すると突然、恐ろしいことに、隣の部屋で忍び足がするのを、はっきり聞いたのです。恐怖で胸を高鳴らせながら寝床を抜け出し、更衣室の戸口から、そっと中をのぞきました。
「『アーサー!』と、私は叫びました。『この悪党! 泥棒め! よくもその冠に手を触れたな!』
「ガス灯は、寝る前にしておいたとおり、火を絞ってありました。その灯のそばに、シャツとズボンだけの哀れな息子が立ち、両手で冠を持っていたのです。力いっぱい、ねじるか、曲げるかしているように見えました。私の叫び声で、息子は冠を取り落とし、死人のように青ざめました。私は冠を拾い上げ、調べました。三つの緑柱石をはめ込んだ金の角が、一か所、なくなっていました。
「『このろくでなし!』と、私は怒りで我を忘れて叫びました。『壊したな! 私の名を永久に汚したのだぞ! 盗んだ宝石はどこだ?』
「『盗んだですって!』と、息子は叫びました。
「『そうだ、この泥棒!』と、私は肩を揺さぶりながら怒鳴りました。
「『なくなったものなどありません。なくなっているはずがない』と、息子は言いました。
「『三つなくなっている。どこにあるか、お前は知っているはずだ。泥棒に加えて、嘘つきとまで呼ばせる気か? さらにもう一か所、引きちぎろうとしているのを、この目で見たのだぞ!』
「『もう十分、罵られました』と、息子は言いました。『これ以上は我慢できません。そこまで侮辱なさるのなら、この件については、もうひと言も申しません。朝になったらこの家を出て、自分の力で生きていきます。』
「『出るなら、警官に連れられてだ!』と、私は悲しみと怒りに半ば正気を失って叫びました。『この件は、徹底的に調べさせる。』
「『僕からは何も聞き出せませんよ』と、息子は、あの子にそんな激しさがあったのかと思うほどの剣幕で言いました。『警察を呼びたいのなら、呼べばいい。警察に、調べられるだけ調べてもらいましょう。』
「私が怒って声を張り上げたので、そのころには、家じゅうが起き出していました。真っ先に部屋へ駆け込んできたのはメアリーで、冠とアーサーの顔を見ると、すべてを察し、悲鳴を上げて床へ気を失って倒れました。私は女中を警察へ走らせ、直ちに捜査を任せました。警部と巡査が家に入ると、腕組みをして不機嫌に立っていたアーサーが、私に、自分を窃盗で告発するつもりなのかと尋ねました。私は、壊された冠は国家の所有物なのだから、もはや私事ではなく、公の問題だと答えました。すべて法律どおりに処理させるつもりだったのです。
「『せめて』と、息子は言いました。『今すぐ逮捕させるのは、やめてください。五分だけ外へ出していただければ、僕だけでなく、父さんのためにもなるのです。』
「『逃げるためか。それとも、盗んだ物を隠すためか』と、私は言いました。そして、自分の置かれた恐ろしい立場を思い知り、私の名誉だけでなく、はるかに高位の方の名誉まで危うくなっていること、国じゅうを揺るがす醜聞を引き起こしかねないことを、よく考えてくれと頼みました。なくなった三つの石をどうしたか、それさえ言えば、すべて防げるのだと。
「『現実を認めたらどうだ』と、私は言いました。『お前は現場を押さえられたのだ。今さら白状しても、これ以上罪が重くなることはない。緑柱石のありかを教えて、できるだけの償いをしてくれさえすれば、すべて許して、忘れてやろう。』
「『許しなら、求めている人にやってください』と、息子は冷笑し、私から顔をそむけました。どんな言葉をかけても心を動かせないほど、頑なになっているのが分かりました。もう、手段は一つしかありません。警部を呼び入れ、身柄を引き渡しました。すぐに身体検査が行われ、息子の部屋だけでなく、宝石を隠せそうな家じゅうの場所が捜索されました。しかし、何の痕跡も見つからず、いくら説得しても脅しても、あの情けない息子は口を開こうとしませんでした。今朝、息子は留置場へ移されました。私は警察の手続きをすべて済ませてから、あなたのお力で、この謎を解いていただきたく、急いで参ったのです。警察も、今のところ何も分からないと、公然と認めています。必要と思われる費用は、いくら使っていただいても構いません。すでに千ポンドの懸賞金も出しました。ああ、神よ、私はどうすればいいのでしょう! 一晩で、名誉も、宝石も、息子も失ってしまった。ああ、どうすれば!」
男は頭を両手で抱え、前後に体を揺すった。悲しみが言葉にならなくなった子供のように、低く声を漏らし続けた。
シャーロック・ホームズは、眉をひそめ、火を見つめたまま、数分間、黙って座っていた。
「お客様は、よくいらっしゃいますか?」と、彼は尋ねた。
「共同経営者とその家族、それに時折、アーサーの友人が来るくらいです。最近は、サー・ジョージ・バーンウェルが何度か来ました。ほかには、いないと思います。」
「社交のために、よくお出かけになりますか?」
「アーサーは出かけます。メアリーと私は家におります。二人とも、そういうことは好きではありません。」
「若い女性としては、珍しいですね。」
「静かな性格なのです。それに、それほど若くもありません。二十四歳です。」
「お話では、この件は、お嬢さんにとっても衝撃だったようですね。」
「ひどい衝撃でした! 私以上に、こたえています。」
「お二人とも、息子さんが犯人だということに、疑いはないのですね?」
「この目で、冠を両手に持っているのを見たのです。どうして疑えましょう。」
「私は、それだけで決定的な証拠になるとは思いません。冠の残りの部分には、損傷がありましたか?」
「ええ、ねじれていました。」
「では、それをまっすぐに直そうとしていたとは、考えられませんか?」
「何とありがたい! 息子と私のために、できるだけのことを言ってくださるのですね。しかし、それは無理でしょう。そもそも、あそこで何をしていたのです? やましい目的でなかったなら、なぜそう言わないのでしょう?」
「まさに、そこです。では、やましい目的だったなら、なぜ嘘をつかなかったのでしょう? あの沈黙は、どちらにも取れると私は思います。この事件には、奇妙な点がいくつもあります。あなたの目を覚まさせた物音について、警察はどう考えていますか?」
「アーサーが自分の寝室の扉を閉めた音かもしれない、と言っていました。」
「まったく、もっともらしい話ですね! これから重罪を犯そうという男が、家じゅうを起こすような勢いで扉を閉めるものですか。では、宝石が消えたことについては、何と?」
「見つけようとして、まだ床板をたたいたり、家具を調べたりしています。」
「家の外を捜すことは、考えたのでしょうか?」
「ええ、驚くほど熱心にやってくれています。庭も、すでに隅々まで調べました。」
「さて、ホールダーさん」と、ホームズは言った。「この事件が、あなたや警察が初めに考えたより、はるかに奥深いものであることは、もう明らかではありませんか? あなたには単純な事件に見えた。しかし、私にはきわめて複雑に思えます。あなたの説が何を意味するか、考えてみてください。息子さんは寝床を抜け出し、大きな危険を冒して更衣室へ入り、机を開け、冠を取り出し、力ずくでその一部を折り取った。そして、どこか別の場所へ行き、三十九個のうち三つを、誰にも見つからないほど巧妙に隠した。それから、残りの三十六個を持って、見つかる危険が最も大きい部屋へ戻ってきたことになるのです。お尋ねしますが、そんな説が成り立つでしょうか?」
「しかし、ほかにどんな説があるのです?」と、銀行家は絶望したように両手を広げた。「動機にやましいところがないのなら、なぜ説明しないのでしょう?」
「それを突き止めるのが、われわれの仕事です」と、ホームズは答えた。「では、よろしければホールダーさん、一緒にストリータムへ参りましょう。一時間ほどかけて、細部をもう少し詳しく調べたいと思います。」
友人は私にも同行を強く求めた。聞いた話に好奇心も同情も深くかき立てられていたので、私も大いに乗り気だった。正直に言えば、銀行家の息子が犯人であることは、不幸な父親と同じく、私にも明白に思えた。しかし、ホームズの判断には絶大な信頼を置いていたので、彼が世間で受け入れられた説明に納得しないかぎり、希望を持てる根拠は何かあるに違いないと感じていた。南の郊外へ向かうあいだ、ホームズはほとんどひと言も話さず、顎を胸にうずめ、帽子を目深にかぶって、深い思索に沈んでいた。依頼人は、わずかに見えた希望に気力を取り戻したらしく、自分の商売のことなどを、私と途切れ途切れに話した。短い鉄道の旅を終え、それよりも短い道のりを歩くと、大銀行家の控えめな住まい、フェアバンクに着いた。
フェアバンクは、道から少し奥まったところに建つ、白い石造りの、かなり大きな四角い家だった。雪に覆われた芝生を囲むように二筋の馬車道が前庭を走り、出入口を閉ざす二つの大きな鉄門へと続いていた。右手には小さな木立があり、その先には、きれいに刈り込まれた二列の生け垣に挟まれた細道が、道路から台所口まで延びていた。そこが出入りの商人たちの通路だった。左手には厩へ通じる小道があったが、こちらは敷地内ではなく、あまり使われないとはいえ公道だった。ホームズは私たちを玄関に残し、ゆっくりと家の周囲を歩きはじめた。正面を横切り、商人用の通路を進み、裏庭を回って、厩の小道へ出たのである。あまりに時間がかかるので、ホールダー氏と私は食堂へ入り、暖炉のそばで帰りを待った。黙って座っていると、扉が開き、若い女性が入ってきた。背は中背よりやや高く、ほっそりして、髪も目も黒かった。その黒さは、血の気のまるでない肌に映えて、いっそう際立って見えた。女性の顔に、あれほど死を思わせる青白さを見たことは、それまでなかったと思う。唇にも血の色がなく、目は泣き腫らしていた。音もなく部屋へ入ってきた彼女は、朝の銀行家以上に、深い悲しみを感じさせた。意志が強く、自制心にもすぐれていることが一目で分かる女性だけに、その悲痛さは、なおさら胸に迫った。彼女は私の存在には構わず、まっすぐ伯父のところへ行くと、女性らしい優しい仕草で、その頭をなでた。
「アーサーを釈放するように、言ってくださったのね、お父様?」と、彼女は尋ねた。
「いや、いや、メアリー。この件は、徹底的に調べなければならない。」
「でも、あの人は無実よ。私には、はっきり分かるの。女の勘というものを、ご存じでしょう。アーサーは悪いことなどしていないわ。あんなに厳しくなさったことを、きっと後悔なさるはずよ。」
「無実なら、なぜ黙っているのだ?」
「それは分からないわ。疑われたことが、あまりに腹立たしかったのかもしれない。」
「実際に、冠を手にしているところを見たのだぞ。疑わずにいられるものか。」
「でも、ただ、手に取って見ていただけなのよ。お願いだから、私を信じて。あの人は無実なの。もう、この件はおやめになって、何もおっしゃらないで。大切なアーサーが牢に入っているなんて、考えるだけで恐ろしいわ!」
「宝石が見つかるまでは、決してやめん――決してだ、メアリー! お前はアーサーがかわいいばかりに、私にどれほど恐ろしい結果が及ぶか、見えなくなっている。もみ消すどころか、もっと詳しく調べてもらうために、ロンドンから専門家をお連れしたのだ。」
「こちらの方?」と、彼女は私へ向き直った。
「いや、そのご友人だ。専門家のほうは、一人にしてほしいと言われた。今は厩の小道を回っておられる。」
「厩の小道ですって?」
彼女は黒い眉を上げた。「あんなところで、何が見つかるのでしょう? ああ、きっとこちらの方ね。どうか、私が真実だと信じていることを、証明してくださるようお願いいたします。従兄のアーサーは、この罪を犯していません。」
「私も、まったく同じ意見です。そして、あなたと同じく、それを証明したいと願っています」と、ホームズは答え、靴の雪を落とすために玄関マットへ戻った。「メアリー・ホールダーさんでいらっしゃいますね。二、三、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。この恐ろしい事件の解決に役立つのでしたら。」
「昨夜、ご自身では、何もお聞きになりませんでしたか?」
「何も。伯父が大声を出しはじめるまでは。その声を聞いて、下りてきたのです。」
「前の晩、戸締まりをなさいましたね。窓には、すべて掛け金を掛けましたか?」
「ええ。」
「今朝も、全部、掛かっていましたか?」
「ええ。」
「恋人のいる女中さんがおられますね。昨夜、その女中が恋人に会いに出たことを、伯父様にお話しになったのでしたね?」
「ええ。それに、その女中は客間で給仕をしていましたから、伯父が冠の話をしたのを聞いたかもしれません。」
「なるほど。では、恋人に知らせに行って、二人で盗みを企んだのではないかと、お考えなのですね。」
「しかし、そんな曖昧な憶測に、何の意味があるのです!」と、銀行家はじれったそうに叫んだ。「アーサーが冠を両手に持っているのを見たと、申し上げたではありませんか。」
「少しお待ちください、ホールダーさん。その点には、あとで戻ります。ホールダーさん、その女中のことですが、台所口から戻るのをご覧になったのですね?」
「ええ。裏口の戸締まりを確かめに行ったら、そっと入ってくるところに出会いました。暗がりに、その男の姿も見えました。」
「ご存じの相手ですか?」
「ええ、うちへ野菜を届けに来る八百屋です。フランシス・プロスパーといいます。」
「男は」と、ホームズは言った。「戸口の左側、つまり、戸口へ来るだけなら通り過ぎることになる、通路の奥のほうに立っていましたね?」
「ええ、そうでした。」
「そして、片脚が木の義足ですね?」
若い女性の表情豊かな黒い目に、恐れに似たものが浮かんだ。「まあ、まるで魔法使いのような方ですのね」と、彼女は言った。「どうして、お分かりになるの?」
彼女は微笑んだが、ホームズの細面の、張りつめた顔に、笑みは返らなかった。
「そろそろ、二階を拝見したいのですが」と、彼は言った。「そのあと、もう一度、家の外を調べることになるでしょう。上へ行く前に、一階の窓を見ておいたほうがよさそうですね。」
彼は窓から窓へと素早く見て回り、玄関広間から厩の小道に面した大きな窓のところでだけ立ち止まった。それを開け、強力な拡大鏡で窓台を念入りに調べた。「では、二階へ参りましょう」と、ようやく言った。
銀行家の更衣室は、灰色の絨毯、大きな書き物机、姿見を備えた、簡素な小部屋だった。ホームズは、まず机へ行き、錠前をじっと見た。
「どの鍵で開けたのですか?」と、彼は尋ねた。
「息子自身が話していた鍵です。物置の戸棚のものです。」
「ここにありますか?」
「化粧台の上にあるのが、それです。」
シャーロック・ホームズは鍵を取り、机を開けた。
「音のしない錠前ですね」と、彼は言った。「お目覚めにならなかったのも無理はありません。この箱に、冠が入っているのですね。拝見しなくては。」
彼は箱を開け、冠を取り出して、テーブルの上に置いた。宝飾細工の粋を尽くした見事な品で、三十六個の宝石は、私がこれまで見た中でも、最高のものだった。冠の片側には、三個の宝石をはめ込んだ角が引きちぎられ、裂け目が残っていた。
「さて、ホールダーさん」と、ホームズは言った。「こちらに、不幸にも失われた角に対応する部分があります。どうぞ、これを折り取ってみてください。」
銀行家は恐れおののいて身を引いた。「そんなこと、試そうとも思いません。」
「では、私が。」
ホームズは突然、力いっぱい冠を曲げようとしたが、何も起きなかった。「少し、たわむのは感じます」と、彼は言った。「しかし、私の指の力は並外れて強いのですが、それでも折るには、全力を尽くさねばならないでしょう。普通の人には無理です。では、仮に折れたら、何が起きると思いますか、ホールダーさん? 拳銃を撃ったような音がするはずです。それが寝床から数ヤードのところで起きたのに、何もお聞きにならなかったというのですか?」
「何をどう考えてよいか、分かりません。何もかも、闇の中です。」
「しかし、調べるにつれて、明るくなるかもしれません。ホールダーさん、あなたはどうお考えです?」
「正直に申して、私もまだ、伯父と同じように困惑しております。」
「息子さんをご覧になったとき、靴もスリッパも履いていませんでしたね?」
「ズボンとシャツのほかは、何も身に着けていませんでした。」
「ありがとうございます。今回の調査では、実に並外れた幸運に恵まれています。これで解決できなければ、全面的にわれわれの落ち度でしょう。お許しいただければ、ホールダーさん、外の調査を続けたいと思います。」
余計な足跡がつけば調査が難しくなる、と説明し、ホームズは自ら望んで一人で出ていった。一時間余り調べたあと、足に重く雪をつけて戻ったが、顔つきは相変わらず、何も読み取れなかった。
「見るべきものは、すべて見たと思います、ホールダーさん」と、彼は言った。「ここは自分の部屋へ戻るのが、いちばんお役に立てるでしょう。」
「しかし、宝石は、ホームズさん。どこにあるのです?」
「それは申し上げられません。」
銀行家は両手をもみ絞った。「もう二度と戻らないのだ!」と、叫んだ。「では、息子は? 希望を持ってよいのですか?」
「私の考えは、少しも変わっていません。」
「では、どうか教えてください。昨夜、私の家で演じられた、あの不可解な出来事は、いったい何だったのです?」
「明朝、九時から十時のあいだにベーカー街の私の部屋へおいでいただければ、できるだけ明らかにしましょう。宝石さえ取り戻せば、私に全権を委任してくださり、使う金額にも制限はないと、そう理解してよろしいですね?」
「取り戻せるなら、全財産を差し出しても構いません。」
「結構です。それまでに調べておきます。では、失礼します。夕方までに、もう一度こちらへ来ることがあるかもしれません。」
友人の頭の中では、事件についての考えが固まったことは明らかだった。しかし、それがどんな結論なのか、私には、おぼろげにすら想像できなかった。帰り道で何度か探りを入れてみたが、そのたびに別の話題へ巧みにかわされ、ついには諦めた。部屋へ戻ったのは、まだ三時前だった。ホームズは急いで自室へ入り、数分後には、ありふれたごろつきの姿になって現れた。襟を立て、てかてかした古びた上着を着て、赤い首巻きを締め、擦り切れた靴を履いた姿は、まったくその階級の典型だった。
「これでよさそうだ」と、暖炉の上の鏡を見ながら彼は言った。「君も一緒に来られればいいんだが、ワトソン、残念ながら、それはまずそうだ。僕は真相への跡を追っているのかもしれないし、鬼火に惑わされているのかもしれない。どちらかは、すぐに分かる。数時間で戻れるといいんだがね。」
彼はサイドボードの牛肉の塊から一切れ切り取り、二枚のパンに挟むと、その簡素な食事をポケットへ押し込み、探索へ出発した。
私がちょうどお茶を飲み終えたころ、ホームズは、たいそう上機嫌な様子で戻ってきた。手には、古い脇ゴム式の短靴を一足だけぶら下げていた。それを隅へ放り出し、自分でお茶を一杯注いだ。
「通りがかりに寄っただけさ」と、彼は言った。「すぐまた出かける。」
「どこへ?」
「ウェスト・エンドの向こう側までね。戻るまで、少しかかるかもしれない。遅くなっても、起きて待っていなくていいよ。」
「調子はどうだい?」
「まあまあさ。不満はない。さっき別れてから、ストリータムまで行ってきた。あの家には寄らなかったがね。実に愛らしい小さな難問だ。かなりのものと引き換えでも、見逃したくはなかったな。しかし、ここでおしゃべりしているわけにはいかない。このいかがわしい服を脱いで、品行方正な僕自身に戻らなくては。」
その様子からして、言葉以上に満足する理由があることは、私にも分かった。目はきらきらと輝き、黄味がかった頬に、うっすら血の色さえ差していた。急いで階上へ行き、数分後には玄関の扉が勢いよく閉まる音がして、彼が再び、大好きな追跡に出たことを告げた。
私は真夜中まで待ったが、戻る気配はなく、自室へ引き上げた。獲物の匂いをつかむと、何日も何晩も帰らないことは珍しくなかったから、遅くなっても驚きはしなかった。何時に帰ったのかは分からない。しかし、翌朝、朝食に下りると、片手にコーヒーカップ、もう一方に新聞を持ち、少しの疲れも見せず、身なりもきちんとして座っていた。
「先に始めて、すまないね、ワトソン」と、彼は言った。「でも、今朝は依頼人との約束が早かったのを、覚えているだろう。」
「おや、もう九時を過ぎている」と、私は答えた。「今のは、あの人かもしれないね。呼び鈴が聞こえた気がした。」
果たして、例の銀行家だった。その変わりようには、衝撃を受けた。本来、幅広く堂々とした顔が、今はやつれてくぼみ、髪も少なくとも一段は白くなったように見えた。疲れ切り、気力の失せた様子で入ってきたが、その姿は、前の朝の激しい取り乱し方よりも、いっそう痛ましかった。私が差し出した安楽椅子に、どさりと身を落とした。
「これほど厳しい試練を受けるようなことを、私は何かしたのでしょうか」と、彼は言った。「ほんの二日前には、幸せで、商売も栄え、何の心配もない人間でした。それが今は、孤独で不名誉な老後が残されただけです。一つの悲しみに、次の悲しみが、すぐ追いすがってくる。姪のメアリーまで、私を捨てて出ていってしまいました。」
「出ていったのですか?」
「ええ。今朝、寝床には寝た跡がなく、部屋は空で、玄関広間のテーブルに、私宛ての手紙が置いてありました。昨夜、私はあの子に、怒りではなく悲しみから言ったのです。息子と結婚してくれていたら、あれも、すべてうまくいっていたかもしれないと。そんなことを言ったのは、思慮が足りなかったのでしょう。手紙で触れているのは、その言葉のことです。
『大好きなおじ様――おじ様を苦しめたのは私です。私が違う行動を取っていれば、この恐ろしい不幸は起こらなかったかもしれないと思います。そう考えると、おじ様の家で、もう二度と幸せに暮らすことはできません。永遠にお別れしなければならないと感じています。私の行く末は、もう決まっていますから、心配しないでください。そして何より、私を捜さないでください。無駄なご苦労になるばかりで、私のためにもなりません。生きていても、死んでも、いつまでもおじ様を愛しております。
メアリー。』
「この手紙は、どういう意味なのでしょう、ホームズさん? 自殺をほのめかしていると、お思いですか?」
「いや、いや、そんなことではありません。おそらく、これがいちばんよい決着なのでしょう。ホールダーさん、あなたの苦しみも、終わりに近づいていると願っています。」
「えっ! そうおっしゃるのですか! 何かお聞きになったのですね、ホームズさん。何か分かったのですね! 宝石は、どこに?」
「一個につき千ポンドでも、高すぎるとはお思いになりませんね?」
「一万でも払います。」
「そこまでは必要ありません。三千で済みます。それに、たしか、少しばかりの懸賞金もありましたね。小切手帳はお持ちですか? ペンはここに。四千ポンドでお切りになるのがよいでしょう。」
銀行家は呆然とした顔で、言われた額の小切手を書いた。ホームズは自分の机へ行き、三個の宝石をはめ込んだ小さな三角形の金片を取り出すと、テーブルへ放り出した。
依頼人は歓喜の声を上げ、それをつかんだ。
「取り戻してくださった!」と、息を詰まらせた。「救われた! 私は救われた!」
悲しみから一転した喜びも、同じほど激しかった。彼は取り戻した宝石を、胸にしっかり抱きしめた。
「ホールダーさん、あなたには、もう一つ返すべきものがあります」と、シャーロック・ホームズは、かなり厳しい口調で言った。
「返すべきものですって!」
彼はペンを取り上げた。「金額をおっしゃってください。お支払いします。」
「いいえ、私への借りではありません。あの気高い青年、あなたの息子さんに、心から頭を下げて謝らなければなりません。今回の息子さんの振る舞いは、もし私に息子ができたなら、同じように行動してくれたことを誇りに思う、そういうものでした。」
「では、盗んだのはアーサーではなかったのですか?」
「昨日も申し上げましたし、今日も繰り返します。息子さんではありません。」
「間違いないのですね! では、すぐに会いに行きましょう。真相が分かったと、知らせてやらなくては。」
「もう知っています。すべて解明したあとで、私は息子さんと会いました。ご本人が話そうとしないので、こちらから事情を話したところ、私が正しいと認めざるを得なくなり、まだ完全には分かっていなかった、ごくわずかな細部を補ってくれました。ただ、今朝の知らせを聞けば、口を開くかもしれません。」
「どうか教えてください。では、この途方もない謎は、いったい何だったのです!」
「お話ししましょう。そして、どのように真相へたどり着いたかも、ご説明します。まず、私には最も言いづらく、あなたには最も聞きづらいことを申し上げねばなりません。サー・ジョージ・バーンウェルと姪御さんのメアリーさんは、ひそかに通じ合っていました。今は二人で逃げています。」
「私のメアリーが? あり得ません!」
「残念ながら、あり得るどころではありません。確かな事実です。あなたも息子さんも、この男を家庭に迎え入れたとき、その本性をご存じなかった。英国でも最も危険な男の一人です。身を持ち崩した賭博師で、何をするか分からぬ悪党、心も良心もない男です。姪御さんは、そのような男を知りませんでした。男が、これまで百人もの女にしてきたように、耳元で愛を誓うと、自分一人が彼の心を動かしたのだと、思い込んでしまったのです。何を吹き込んだのかは、悪魔こそよく知っているでしょうが、とにかく姪御さんは男の道具になり、ほとんど毎晩、会うようになっていました。」
「信じられません。信じるものですか!」と、銀行家は顔を灰色にして叫んだ。
「では、あの夜、あなたの家で何が起きたか、お話ししましょう。姪御さんは、あなたが部屋へ戻ったと思い、そっと階下へ下り、厩の小道に面した窓越しに恋人と話しました。男は長いあいだ立っていたので、足跡が雪を深く踏み抜いていました。姪御さんは、冠のことを話しました。それを聞いた男の邪悪な金銭欲に火がつき、彼女を自分の意のままに動かしたのです。姪御さんがあなたを愛していたことは、疑いません。しかし、恋人への愛が、ほかのすべての愛を消してしまう女性もいる。姪御さんも、その一人だったのだと思います。男の指図を聞いたばかりのとき、あなたが階段を下りてくるのが見えたので、急いで窓を閉め、女中の一人が、木の義足をつけた恋人に会いに抜け出したことを話したのです。その話自体は、すべて本当でした。
「息子さんのアーサーは、あなたとの話を終えて床に就きましたが、クラブでの借金が気がかりで、よく眠れませんでした。真夜中、扉の前を静かな足音が通り過ぎるのを聞き、起きてのぞいてみると、従妹が廊下を忍び足で進み、あなたの更衣室へ消えるのが見えました。驚いて息をのみ、急いで服を身に着けると、この奇妙な出来事がどうなるか、暗がりで待っていました。やがて彼女が部屋から出てきました。廊下のランプの光で、貴重な冠を両手に持っているのが見えたのです。彼女は階段を下りていきました。息子さんは恐ろしさに震えながら廊下を走り、あなたの部屋の近くのカーテンの陰へ身を滑り込ませました。そこからは、下の広間の様子が見えます。姪御さんが、そっと窓を開け、暗がりの誰かに冠を渡し、また窓を閉めると、息子さんの隠れたすぐそばを通って、急いで自室へ戻るのを見たのです。
「彼女がその場にいるかぎり、息子さんは動けませんでした。動けば、愛する女性の恐ろしい罪を暴くことになるからです。しかし、彼女が姿を消した途端、これがあなたにとって、どれほど破滅的な不幸になるか、何としても取り戻さねばならないと悟りました。そのまま裸足で階下へ駆け下り、窓を開け、雪の中へ飛び出すと、月明かりに見える黒い人影を追って、小道を走ったのです。サー・ジョージ・バーンウェルは逃げようとしましたが、アーサーが追いつき、もみ合いになりました。息子さんが冠の一方を、相手がもう一方をつかんで、引っ張り合ったのです。その争いの最中に、息子さんがサー・ジョージを殴り、目の上を切りました。すると突然、何かが折れ、冠が自分の手に残りました。息子さんは家へ駆け戻り、窓を閉め、あなたの部屋へ上がりました。そして、争いのために冠がねじれたことに気づき、まっすぐに直そうとしていたところへ、あなたが現れたのです。」
「そんなことが!」と、銀行家は息をのんだ。
「息子さんは、心から感謝されて当然だと思っていました。その瞬間に、あなたが罵ったため、怒りをかき立てられたのです。本当の事情を説明すれば、かばう価値など、ほとんどない相手を裏切ることになる。それでも息子さんは、より騎士道的な道を選び、彼女の秘密を守りました。」
「それで、あの子は冠を見ると、悲鳴を上げて気絶したのか」と、ホールダー氏は叫んだ。「ああ、何ということだ! 私は、何と愚かな節穴だったのだ! 五分だけ外へ出たいと言ったのも! あの優しい息子は、なくなった部分が、争った場所に落ちていないか、見たかったのだ。何と残酷な思い違いをしてしまったことか!」
「お宅に着くと」と、ホームズは続けた。「私はまず、手掛かりになる跡が雪に残っていないか、家の周りを注意深く調べました。前の晩から新たに雪は降っておらず、強い冷え込みで足跡が保存されていることも分かっていました。商人用の通路は、一面に踏み荒らされ、見分けがつきませんでした。しかし、その先、台所口の向こう側には、女が立って男と話した跡がありました。男の片側の足跡は丸く、木の義足だと分かりました。途中で邪魔が入ったことまで分かりました。女が急いで戸口へ駆け戻ったのは、つま先の跡が深く、かかとの跡が浅いことから読み取れました。一方、義足の男は、少し待ってから立ち去っています。そのとき私は、すでにお話しいただいた女中と恋人だろうと思いましたが、尋ねてみると、そのとおりでした。庭を回っても、警察のものと思われる、ばらばらな足跡以外は見つかりませんでした。ところが、厩の小道へ出ると、目の前の雪に、実に長く複雑な物語が書かれていたのです。
「靴を履いた男の往復の足跡があり、それとは別に、もう一組の往復の跡がありました。それが裸足の男のものだと分かったときは、うれしかったですね。あなたのお話から、後者が息子さんだと、すぐに確信しました。靴の男は往きも帰りも歩いていましたが、裸足の男は速く走っていました。そして、ところどころ、靴のくぼみの上に裸足の跡が重なっていましたから、裸足のほうがあとに通ったことは明らかでした。たどっていくと、広間の窓に行き着きました。そこでは靴の男が、待つあいだに雪をすっかり踏み消していました。次に反対側へたどり、小道を百ヤード以上進みました。靴の男が振り向いた場所、争いがあったように雪が乱れた場所、そして最後に、血が数滴落ちた場所が見つかり、私が間違っていないことが分かりました。靴の男は、そのあと小道を走っています。さらに先に小さな血の跡があり、傷ついたのが、その男だと示していました。小道の先の大通りに出ると、歩道は除雪されていました。そこで、その手掛かりは途切れたのです。
「しかし、家に入ってから、ご記憶のとおり、広間の窓台と窓枠を拡大鏡で調べました。そして、誰かがそこから外へ出たことが、すぐに分かりました。戻るときに濡れた足を置いたところに、足の甲の輪郭も見分けられました。そのころには、何が起きたか、考えがまとまりはじめていました。男が窓の外で待ち、誰かが宝冠を持ってきた。その行為を息子さんが目撃し、泥棒を追いかけ、取っ組み合いになった。二人で冠を引っ張り合い、力が合わさったため、一人では到底つけられない損傷を与えた。息子さんは宝を取り戻して帰ったものの、その一部は相手の手に残った。ここまでは、はっきりしました。そこで問題は、その男が誰なのか、冠を持ち出して渡したのは誰なのか、ということでした。
「不可能なものを除き去れば、残ったものが、どれほどありそうになくても、真実に違いない。これは、私の古くからの信条です。さて、あなたが冠を持ち下りたのではないことは分かっていました。残るのは、姪御さんと女中たちです。しかし、女中たちなら、なぜ息子さんが身代わりに疑われるままにしておくのでしょう? 理由など、あり得ません。ところが、息子さんは従妹を愛していました。それなら秘密を守る理由として、十分に説明がつきます。その秘密が不名誉なものであれば、なおさらです。あなたが彼女を、あの窓のところで見かけたこと、冠を再び見て気絶したことを思い合わせると、推測は確信に変わりました。
「では、共犯者は誰でしょう? 恋人であることは明らかです。そうでなければ、あなたへの愛情と恩義を上回る影響を、誰が与えられるでしょう? あなたは外出が少なく、交際範囲もごく限られていました。しかし、その中にサー・ジョージ・バーンウェルがいた。以前から、女性関係で悪名の高い男だと聞いていました。あの靴を履き、なくなった宝石を持っているのは、彼に違いありません。アーサーに正体を見破られたと分かっていても、安全だとうぬぼれていられたでしょう。青年は、自分の家族を窮地に追いやらずには、ひと言も話せないのですから。
「さて、そのあと私が取った手段は、あなたにもご想像がつくでしょう。ごろつきの姿でサー・ジョージの家へ行き、うまく従僕と知り合いになりました。そして、主人が前の晩に頭を切ったと聞き出し、最後に六シリングを払って、履き古した靴を買い取り、すべてを確かめたのです。その靴を持ってストリータムへ行くと、足跡にぴったり合いました。」

「私は男の頭に拳銃を突きつけた。」
「昨日の夕方、あの小道で、みすぼらしい浮浪者を見かけました」と、ホールダー氏が言った。
「そのとおりです。それが私でした。相手が分かったので、家へ戻って着替えました。そこからは、微妙な役回りでした。醜聞を避けるには告訴を控えねばならず、あれほど抜け目のない悪党なら、こちらの手が縛られていることを見抜くと、分かっていたからです。私は男に会いに行きました。初めは、むろん、すべてを否定しました。しかし、起きたことを細大漏らさず突きつけると、今度は威嚇に転じ、壁から護身用の棍棒を取りました。ですが、相手の素性は承知していましたから、殴りかかるより先に、頭へ拳銃を突きつけました。それで、少し話が通じるようになりました。私は、持っている石を一個につき千ポンドで買い取ろうと申し出ました。すると初めて、男は悔しがる様子を見せたのです。『くそっ、何てことだ!』と言いました。『三つで六百で手放しちまった!』。告訴はしないと約束すると、ほどなく、石を買った故買屋の住所を聞き出せました。すぐにその男を訪ね、さんざん値切り合った末、一個につき千ポンドで取り戻しました。それから息子さんに会いに行き、もう心配はないと伝え、ようやく二時ごろ寝床に入りました。まったく、骨の折れる一日だったと言ってよいでしょう。」
「英国を大醜聞から救った一日です」と、銀行家は立ち上がった。「お礼の言葉もありません。しかし、ご恩を忘れるような人間ではないことは、必ずお分かりいただけるでしょう。あなたの手腕は、聞き及んでいた評判を、まことにはるかに上回るものでした。これから、愛する息子のところへ飛んでいき、私のした間違いを詫びなければなりません。かわいそうなメアリーについてのお話は、胸の奥までこたえます。あの子が今どこにいるかは、あなたのお力をもってしても、教えてはいただけないのでしょうね。」
「サー・ジョージ・バーンウェルのいるところにいる。それは、まず間違いなく言えるでしょう」と、ホームズは答えた。「そして、もう一つ同じほど確かなのは、彼女の罪が何であれ、まもなく、十分すぎるほどの報いを受けることになる、ということです。」
第十二の冒険 ぶな屋敷
「技そのものを愛する者にとっては」とシャーロック・ホームズは、『デイリー・テレグラフ』の広告面を脇へ放り出しながら言った。「その技が最もささやかで目立たぬ形で現れるときにこそ、このうえない喜びが得られるものだ。ワトソン、君がこの真理をよく心得ているのは、実にうれしいね。君が親切にも書きまとめてくれた、われわれの事件のあの短い記録――時には脚色もしてくれたと言わざるを得ないが――では、僕の関わった数々の世を騒がせた大事件や耳目を集めた裁判よりも、それ自体は取るに足りなくとも、僕が専門としてきた推理と、論理によって事実を組み立てる能力とを発揮する余地のある出来事に、重きが置かれている。」
「それでも」と私は微笑んで言った。「僕の記録は扇情的だという非難から、すっかり免れたとは思えないんだがね。」
「君の間違いがあるとすれば」とホームズは言い、火ばさみで赤く燃える炭を一つつまみ上げ、それで長い桜材のパイプに火をつけた。思索にふけるよりも議論をしたい気分のときには、いつもの陶製に代わって、このパイプが登場するのだった。「一つひとつの叙述に彩りや生気を添えようとしたことだろうね。本当は、原因から結果へと至る厳密な推論こそが、事件の中で記録に値する唯一のものなのだから、それを書き留めるだけでよかったんだ。」
「その点では、君を十分に正当に評価してきたつもりだが」と私はいくらか冷ややかに答えた。友人の特異な性格の中で、自負心が大きな部分を占めていることには何度も気づいていたが、それがまた鼻についたのだ。
「いや、これは利己心でも、うぬぼれでもない」とホームズは、いつものように私の言葉よりも胸の内に答えた。「僕が自分の技に正当な評価を求めるのは、それが僕個人を離れた、僕自身を超えるものだからだ。犯罪はありふれている。論理はまれだ。だから君が力を注ぐべきなのは、犯罪ではなく論理のほうなんだよ。君は一連の講義となるべきものを、一続きの物語にまで引き下げてしまった。」
早春の、寒い朝だった。朝食を終えた私たちは、ベーカー街の懐かしい部屋で、明るく燃える暖炉を挟んで座っていた。くすんだ褐色の家並みの間を濃い霧が流れ、向かいの窓は、重くたなびく黄色い霧の向こうで、形の定かでない黒い染みのように浮かんでいた。室内にはガス灯がともり、まだ片づけられていない食卓の白い布を照らし、陶器や金属の食器にかすかな光を宿していた。シャーロック・ホームズは朝からずっと黙り込み、次から次へと新聞を取り上げて広告欄を調べていたが、とうとう捜し物を諦めたらしく、あまり上機嫌とはいえぬ様子で現実に戻り、私の文章の欠点について講釈を始めたのである。
「もっとも」とホームズは、長いパイプをくゆらせて暖炉の火を見つめたまま、しばらくして言った。「扇情的だという非難は、君にはほとんど当たらないだろう。君が親切にも関心を寄せてくれた事件のうち、かなりの割合は、法律上の意味では犯罪にすら当たらないのだからね。僕がボヘミア王のお役に立とうとしたあの小さな一件、ミス・メアリー・サザーランドの奇妙な体験、唇のねじれた男にまつわる問題、そして独身貴族の事件。どれも法律の及ぶ領域の外にあった。だが、扇情的なものを避けるあまり、些末なものに近づきすぎた恐れはある。」
「結末はそうだったかもしれない」と私は答えた。「だが、そこへ至る方法は斬新で、興味深かったと思うね。」
「やれやれ、君。織工を歯で見分けることも、植字工を左手の親指で見抜くこともおぼつかない、あの観察力のない世間の人々が、分析や推理の微妙な違いなど気にするものか。とはいえ、君が些末なことを書くとしても、君を責めるわけにはいかない。大事件の時代は終わったのだからね。人間は、少なくとも犯罪者という人種は、進取の気性も独創性もなくしてしまった。僕のささやかな仕事にしても、なくした鉛筆を見つけたり、寄宿学校のお嬢さんに助言したりする相談所に成り下がりつつあるようだ。しかし、とうとう底まで落ちたらしい。今朝届いたこの手紙が、僕の零点を示していると思うね。読んでみたまえ。」
そう言って、くしゃくしゃになった手紙を私のほうへ放ってよこした。
差出地はモンタギュー・プレイス、日付は前夜で、文面は次のとおりだった。
「ホームズ様――家庭教師としてある勤め口を勧められましたが、お引き受けすべきかどうか、ぜひご相談したく存じます。ご迷惑でなければ、明日の十時半にお伺いいたします。
「敬具 ヴァイオレット・ハンター。」
「この若い女性を知っているのかい?」
と私は尋ねた。
「いや、知らない。」
「もう十時半だ。」
「ああ、今の呼び鈴は、きっと彼女だろう。」
「君が思っているより、面白い話になるかもしれないよ。青い紅玉の事件を覚えているだろう。最初はほんの気まぐれで手をつけたのに、本格的な捜査に発展した。今度もそうかもしれない。」
「そう願おう。だが、じきにはっきりするよ。間違いなければ、当人がおいでになったようだからね。」
そう言ううちに扉が開き、若い女性が部屋に入ってきた。地味だがきちんとした身なりをし、明るく聡明そうな顔には、千鳥の卵のようにそばかすが散っていた。そのきびきびした物腰には、自分の力で世間を渡ってきた女性らしさがあった。
「お手を煩わせて申し訳ございません」と、ホームズが立って迎えると、彼女は言った。「でも、とても奇妙なことがございまして。私には相談のできる両親も親類も一人もおりませんので、どうすればよいか、先生ならご親切に教えてくださるのではないかと思ったのです。」
「どうぞお掛けください、ハンターさん。私にできることでしたら、喜んでお力になります。」
この新しい依頼人の物腰と言葉遣いが、ホームズに好印象を与えたことは見て取れた。いつもの鋭い目で彼女を見定めると、まぶたを伏せ、両手の指先を合わせて、静かに話を聞く構えになった。
「私は五年間、スペンス・マンロー大佐のお宅で家庭教師をしておりました」と彼女は話し始めた。「ところが二か月前、大佐がノヴァ・スコシアのハリファックスへ赴任することになり、お子様方も一緒にアメリカへ連れていらしたため、職を失ってしまいました。広告を出したり、求人広告に応募したりしましたが、うまくいきませんでした。そのうち、わずかな蓄えも底をつきかけ、どうしたらよいのか途方に暮れていたのです。
「ウェスト・エンドに、ウェスタウェイという有名な家庭教師の紹介所がございます。私は週に一度ほど、向いた仕事が来ていないか、そこへ尋ねに行っておりました。ウェスタウェイというのは創業者の名前で、実際に切り盛りしているのはストーパーという女性です。その方は小さな事務室に座っていて、仕事を探す女性たちは控えの間で待ち、一人ずつ呼ばれます。すると帳簿を調べて、その人に合いそうな勤め口がないか、見てくださるのです。
「先週伺ったときも、いつものように小さな事務室へ通されました。ところが、その日はストーパーさん一人ではありませんでした。ひどく太った、にこにことした顔の男性が、すぐ隣に座っていたのです。大きな重たい顎の肉が幾重にもたるんで喉を覆い、鼻には眼鏡をかけて、入ってくる女性たちを熱心に見ていました。私が入ると、その方は椅子の上で跳び上がらんばかりになり、さっとストーパーさんのほうを向きました。
「『この人ならいい』とおっしゃいました。『これ以上の人は望めませんな。すばらしい! 実にすばらしい!』よほどお気に召したらしく、いかにも上機嫌に両手をすり合わせていました。とても福々しい方で、見ているだけでこちらまで楽しくなるほどでした。
「『あなたは勤め口をお探しなのですかな?』と尋ねられました。
「『はい、そうです。』
「『家庭教師の?』
「『はい。』
「『で、お給金のご希望は?』
「『前のスペンス・マンロー大佐のお宅では、月に四ポンドいただいておりました。』
「『おやおや、とんでもない! 搾取だ、まったくの搾取だ!』その方は、かんかんに怒ったように太った両手を宙に振り上げて叫びました。『これほどの魅力と教養を備えたご婦人に、どうしてそんな情けない金額を出せるのだろう!』
「『私の教養は、お考えほどではないかもしれません』と私は申しました。『フランス語とドイツ語を少々、それに音楽と絵を――』
「『いやいや!』と遮られました。『そんなことは問題ではありません。肝心なのは、淑女らしい立ち居振る舞いが身についているか、いないか。それに尽きるのです。身についていなければ、いつの日かこの国の歴史に大きな役割を果たすかもしれない子供を育てる資格はない。だが、身についているのなら、いやしくも紳士たる者が、三桁に満たぬ給金で我慢してくれなどと、どうして言えますか。私のところでしたら、お給金は年に百ポンドから始めましょう。』
「ホームズ先生、お金に困り果てていた私には、夢のようなお話でした。ところが、その方は私の顔に信じかねる様子を見て取ったのでしょう、札入れを開いて、紙幣を一枚取り出したのです。
「『それから、私のところでは』と、その方は実に愛想よく笑い、白い顔のしわの間で、目が光る細い線のようになりました。『若い先生方には、半年分のお給金を前払いすることにしています。旅費や、お召し物を整える費用などに、何かとお入り用でしょうからな。』
「これほど感じがよく、思いやりのある方には、いまだかつてお目にかかったことがないと思いました。私はすでに店々への支払いも滞っていましたので、前金はたいへん助かります。それでも、このお話には何か不自然なところがあって、はっきりお引き受けする前に、もう少し詳しく伺いたくなりました。
「『お住まいはどちらでいらっしゃいますか?』と尋ねました。
「『ハンプシャーです。実にいい田舎ですよ。ウィンチェスターから向こうへ五マイル行ったところにある、ぶな屋敷です。美しい土地でね、お嬢さん。それはそれは愛らしい、古い田舎屋敷ですよ。』
「『では、お仕事の内容を教えていただけますか?』
「『子供は一人。六つになったばかりの、かわいいわんぱく坊主です。あれがスリッパでゴキブリをたたき殺すところを、お目にかけたいものだ! ぴしゃり、ぴしゃり、ぴしゃり! まばたきする間に三匹お陀仏ですよ!』そう言って椅子の背にもたれ、また目が顔に埋もれるほど笑いました。
「お子様の遊びの内容には少し驚きましたが、お父様の笑い声を聞いて、冗談なのかもしれないと思いました。
「『それでは、私のお仕事は』と尋ねました。『お子様一人のお世話だけでございますね?』
「『いやいや、それだけではありません、それだけではないのです、お嬢さん』とおっしゃいました。『あなたほど分別のある方ならおわかりでしょうが、妻が何かちょっとしたことを言いつけたら、それにも従っていただくことになります。もちろん、淑女として差し支えなくできることに限りますよ。ご異存はありませんな?』
「『お役に立てることでしたら、喜んでいたします。』
「『そうでしょうとも。たとえば服装です。私どもには少々変わった好みがありましてね。風変わりですが、根は親切なのですよ。こちらからお渡しする服を着てほしいと頼んだ場合、そんなささやかな気まぐれに、反対はなさいませんな?』
「『はい』と答えましたが、その言葉にはかなり驚きました。
「『あるいは、ここに座ってくれ、あそこに座ってくれと言っても、お気を悪くはなさいませんね?』
「『ええ、それは。』
「『では、うちへ来る前に、髪をうんと短く切っていただくことは?』
「私は自分の耳を疑いました。ご覧のとおり、ホームズ先生、私の髪はかなり豊かで、少し珍しい栗色をしております。絵になる髪だと褒めていただいたこともあります。それを、そんな何でもないことのように切り捨てるなど、思いも寄りませんでした。
「『申し訳ございませんが、そればかりはできません』と答えました。その方は小さな目で私をじっと見ていたのですが、私がそう言うと、顔に影が差すのがわかりました。
「『残念ながら、これはどうしても必要なのです』とおっしゃいました。『妻のちょっとした好みでしてね。女性の好みというものは、おわかりでしょう、尊重しなければなりません。では、髪を切るつもりはないのですな?』
「『はい、それだけはどうしてもできません』と、私はきっぱり答えました。
「『ああ、そうですか。それでは、この話はこれまでですな。残念だ。ほかの点では、実に申し分のない方なのに。それではストーパーさん、ほかの方をもう少し見せてもらうとしましょう。』
「所長はその間ずっと書類に向かい、私たちのどちらにも一言も口を挟みませんでしたが、このとき私に向けた顔には、ありありと不機嫌さが出ていました。私がお断りしたために、かなりの紹介料を取り損ねたのではないかと思わずにはいられませんでした。
「『お名前は、このまま登録しておきますか?』と尋ねられました。
「『お願いいたします、ストーパーさん。』
「『でも、これほど好条件のお話を、そんなふうにお断りになるのでは、登録しておいても無駄なようですね』と、とげとげしく言われました。『また同じようなお勤め口を探して、私どもが骨を折るとはお思いにならないでください。では、ハンターさん、これで』そして机の上の銅鑼を鳴らすと、小使いの少年が私を外へ案内しました。
「さて、ホームズ先生。下宿へ戻ってみると、戸棚には食べ物がほとんどなく、机の上には請求書が二、三通載っていました。それを見て、私はひどく愚かなことをしたのではないかと考え始めたのです。あの方たちに妙な好みがあって、どれほど風変わりなことに従うよう求められるにしても、少なくとも、その気まぐれに対するお金は払ってくださるのです。イングランドで年に百ポンドもいただいている家庭教師は、そう多くありません。それに、私の髪が何の役に立つというのでしょう。短くしたほうが似合う人も大勢いますし、私もそうかもしれません。翌日には、断ったのは間違いだったような気がして、その次の日には、間違いだったとはっきり思いました。もう一度紹介所へ行って、まだあの口が空いているか尋ねようと、ほとんど意地を捨てかけたところへ、あの方ご本人から、この手紙が届いたのです。持ってまいりましたので、お読みいたします。
「『ウィンチェスター近郊、ぶな屋敷。
「『ハンター様――ストーパーさんがご親切にあなたのご住所を教えてくださったので、先日のご決心をお変えになったかどうか、お尋ねしたく筆を執りました。妻は、私からあなたの話を聞いて大変心を引かれ、ぜひともおいでいただきたいと申しております。私どもの気まぐれによって多少ご不便をおかけする埋め合わせとして、三か月につき三十ポンド、年に百二十ポンドをお支払いいたします。もっとも、さほど無理なお願いではありません。妻は、鮮やかな青のうちでもある特定の色合いを好んでおり、午前中、家の中ではその色の服を着ていただきたいのです。ただし、新たにお買い求めになる必要はありません。娘のアリス――今はフィラデルフィアにおります――の服が一着あり、あなたにはよく合うと思われます。ここに座るとか、あちらに座るとか、こちらからお願いしたようにお楽しみいただくとか、そのようなことも、ご不便にはなりますまい。髪の件につきましては、短い面談の間にも、その美しさに目を留めずにはいられませんでしたので、確かに惜しいとは存じます。しかし、この点ばかりは譲るわけにはまいりません。増額したお給金が、その埋め合わせとなるよう願うばかりです。子供に関するお仕事は、ごく軽いものです。どうぞ、ぜひおいでください。ウィンチェスターまで二輪馬車でお迎えにまいります。お乗りになる汽車をお知らせください。
敬具 ジェフロー・ルーキャッスル。』
「これが先ほど受け取った手紙です、ホームズ先生。私はもう、お引き受けしようと心を決めました。ただ、最後の一歩を踏み出す前に、すべてをお話しして、ご意見を伺っておきたいと思ったのです。」
「ハンターさん、もうお心が決まっているのでしたら、それで問題は片づいているのではありませんか」とホームズは微笑んだ。
「でも、断るべきだとはおっしゃいませんね?」
「正直なところ、私に姉妹がいたとして、この勤め口に応募してほしいとは思いませんね。」
「いったい、どういうことなのでしょう、ホームズ先生?」
「さて、材料がないので、何とも言えません。ご自分では、何かお考えになりましたか?」
「考えられる説明は一つしかないように思えます。ルーキャッスルさんは、とても親切で気のいい方に見えました。奥様が精神を病んでいらして、病院へ入れられるのを恐れて、それを内緒にしておきたいのではないでしょうか。それで、発作を起こさせないよう、奥様の気まぐれを何でも聞いてあげているのではないかしら。」
「あり得る説明です。現時点では、いちばん可能性が高いでしょう。ですが、いずれにしても、若い女性が暮らすのに好ましい家庭とは思えません。」
「でも、お給金が、ホームズ先生、あのお給金があるのです!」
「ええ、もちろん給料はいい。よすぎます。そこが不安なのです。年に四十ポンドも出せば、いくらでも選べるのに、なぜあなたに百二十ポンドも払うのでしょう。裏には、よほどの理由があるはずです。」
「事情をお話ししておけば、あとでお力をお借りしたくなったとき、おわかりいただけると思ったのです。先生が後ろにいてくださると思えれば、どんなに心強いでしょう。」
「そう思ってお帰りくださって結構です。あなたのこの小さな問題は、ここ数か月のうちに舞い込んだものの中で、最も興味深いものになりそうですよ。いくつかの点には、はっきりと目新しいところがあります。もし迷われたり、危険を感じたりしたら――」
「危険ですって! どんな危険があるとお思いですか?」
ホームズは重々しく首を振った。「どんなものか、はっきりわかれば、もう危険ではなくなるのです」と言った。「ですが、昼でも夜でも、電報を一本くだされば、お助けに駆けつけます。」
「それだけ伺えば十分です。」
彼女はさっと椅子から立ち上がった。顔からは、もう不安がすっかり消えていた。「これで安心してハンプシャーへ行けます。すぐにルーキャッスルさんへお返事を書いて、今夜、かわいそうな髪を切り、明日ウィンチェスターへ発ちます。」
彼女はホームズに二言三言礼を述べ、私たち二人に別れの挨拶をすると、足早に帰っていった。
「少なくとも」と私は、階段を下りていく、きびきびした確かな足音を聞きながら言った。「自分の身は自分で守れる女性のようだね。」
「そうでなければ困るだろう」とホームズは真顔で答えた。「僕の見込みが大きく外れていなければ、そう何日もしないうちに、彼女から知らせが来るよ。」
友人の予言が現実となるまでに、さほど時はかからなかった。二週間が過ぎた。その間、私はたびたび彼女のことを思い浮かべ、この身寄りのない女性が、人の世のどんな奇怪な裏路地へ迷い込んだのだろうと考えた。並外れた給料、奇妙な条件、軽い仕事。そのどれもが、何か尋常でない事情を示していた。しかし、それが気まぐれなのか陰謀なのか、あの男が慈善家なのか悪党なのか、私の力ではまるで判断がつかなかった。ホームズはといえば、眉をひそめ、上の空の様子で、三十分も座り続けていることがたびたびあった。ところが私がこの話を持ち出すと、手を振って追い払ってしまうのだった。「資料だ、資料、資料が要るんだ!」と、じれったそうに言った。「粘土がなくては煉瓦は作れないよ。」
それでも最後には必ず、自分の姉妹なら決してあんな勤め口には行かせなかった、とつぶやくのだった。
ようやく電報が届いたのは、ある夜遅くのことだった。私はそろそろ床に就こうかと思い、ホームズは、しばしばやる徹夜の化学研究に取りかかろうとしていた。こういうときは、夜、蒸留器と試験管に身をかがめている彼を残して寝ると、翌朝、朝食に下りてきても、同じ姿勢のままでいるのだった。ホームズは黄色い封筒を開け、文面をひと目見ると、私のほうへ放ってよこした。
「ブラッドショーの時刻表で汽車を調べてくれ」と言って、また化学の研究に戻った。
助けを求める文面は、短く切迫していた。
「明日正午、ウィンチェスターの『ブラック・スワン』ホテルへおいでください。どうしてもいらしてください! もうどうしたらよいかわかりません。
ハンター。」
「一緒に来てくれるかい?」とホームズは顔を上げて尋ねた。
「ぜひ行きたいね。」
「では、調べてみてくれ。」
「九時半の汽車がある」と私は時刻表に目を走らせて言った。「ウィンチェスター着は十一時半だ。」
「ちょうどいい。それでは、アセトン類の分析は後回しにしたほうがよさそうだ。明朝は、頭をすっきりさせておく必要があるかもしれないからね。」
翌日の十一時には、私たちはイングランドの古都へ向かう旅路をかなり進んでいた。ホームズはずっと朝刊に読みふけっていたが、ハンプシャーの境に入ると新聞を放り出し、景色を眺め始めた。理想的な春の日だった。淡い青空には、綿毛のような小さな白雲が浮かび、西から東へと流れていた。日差しはまばゆいほど明るく、それでいて空気には、人の活力を研ぎ澄ますような、心地よい冷たさがあった。はるかオールダーショット周辺のなだらかな丘陵まで広がる田園のあちこちで、芽吹いたばかりの淡い緑の間から、農家の赤や灰色の小さな屋根がのぞいていた。
「なんてすがすがしくて美しいんだろう!」
私は叫んだ。ベーカー街の霧を抜け出したばかりの人間ならではの、心からの感嘆だった。
だが、ホームズは厳しい顔で首を振った。
「ワトソン、わかるかい」と言った。「僕のような頭の持ち主の不幸の一つは、何を見ても、自分の専門に結びつけずにはいられないことなんだ。君は、点々と立っているあの家々を見て、その美しさに心を動かされる。僕はあれを見ると、どれほど孤立しているか、あそこなら、どれほど罰を免れて犯罪を行えるか、そればかり考えてしまう。」
「おいおい!」
私は叫んだ。「あの愛らしい古い農家を見て、誰が犯罪を思い浮かべるものか。」
「僕はいつも、一種の恐怖を覚えるんだよ。経験に照らして言うがね、ワトソン、ロンドンでいちばん薄汚れた卑しい路地でも、あのほほえむように美しい田園以上に恐ろしい罪の記録はないと、僕は信じている。」
「ぞっとさせることを言うね!」
「だが、その理由はごく明白だ。都会では、法律にできないことを、世間の目の圧力が成し遂げる。どんなにひどい路地でも、虐待される子供の悲鳴や、酔っぱらいが人を殴る鈍い音が聞こえれば、近所の人々の同情や怒りを呼び起こす。そのうえ司法の仕組みがすぐ近くにあって、一言訴えれば動き出し、犯罪から被告席までは、ほんの一歩だ。だが、あのぽつんと立つ家々を見たまえ。それぞれ自分の畑に囲まれ、たいていは法律のことなどほとんど知らない、貧しく無学な人々が暮らしている。ああいう場所では、どんな地獄のような残酷な仕打ちや、隠された悪事が、年ごとに繰り返されても、誰一人気づかないかもしれない。助けを求めてきたあの女性が、ウィンチェスターの町に住み込むのであれば、僕は何も心配しなかっただろう。五マイルの田舎道、それが危険を生むのだ。しかし、彼女自身が直接脅かされているわけではないことは、確かだね。」
「ああ。僕たちに会いにウィンチェスターまで来られるなら、逃げ出すこともできる。」
「そのとおり。行動の自由はある。」
「では、いったい何が起きているんだろう? 何か説明は思いつかないのかい?」
「七通り考えてある。どれも、今わかっている事実には当てはまる。だが、どれが正しいかを決めるには、われわれを待っているはずの、新しい情報が必要だ。さあ、大聖堂の塔が見えてきた。ハンター嬢の話も、もうすぐすべて聞けるだろう。」
「ブラック・スワン」は、駅からさほど離れていないハイ・ストリートにある、評判のよい宿屋だった。そこで、若い女性が私たちを待っていた。居間を一室取ってあり、机の上には私たちの昼食が用意されていた。
「来てくださって、本当にうれしいです」と彼女は心を込めて言った。「お二人とも、なんてご親切なのでしょう。でも、本当に、どうしてよいかわからなくて。先生のご助言が、何よりの頼りです。」
「何があったのか、お聞かせください。」
「はい。急いでお話ししなくてはなりません。三時までに帰るとルーキャッスルさんに約束してありますので。今朝、町へ出る許可をいただいたのですが、何のためかなど、あの方はご存じありません。」
「では、初めから順を追って、すべて伺いましょう。」
ホームズは長く細い脚を暖炉のほうへ伸ばし、落ち着いて耳を傾けた。
「まず申し上げておきたいのは、全体として、ルーキャッスルご夫妻から実際にひどい扱いを受けたわけではない、ということです。公平を期すために、それはお伝えしなくてはなりません。ただ、あの方たちが理解できず、不安でならないのです。」
「何が理解できないのですか?」
「なぜ、ああいうことをなさるのか、その理由です。でも、起きたとおりに、すべてお話しいたします。こちらへ着いたとき、ルーキャッスルさんがこの町まで迎えに来てくださって、二輪馬車でぶな屋敷へ連れていってくださいました。おっしゃっていたとおり、周りの景色は美しいのですが、建物そのものは美しくありません。四角い大きな家で、白く塗った壁の一面に、湿気や風雨による染みや筋ができています。周囲には庭があり、三方は森で、残る一方には畑があって、サウサンプトン街道へ向かって下り坂になっています。街道は玄関から百ヤードほどのところを、曲線を描いて通っています。前の土地は屋敷のものですが、周りの森はすべてサザートン卿の猟獣保護区の一部です。玄関のすぐ前に、赤銅色の葉をつけるぶながひと群れ生えていて、屋敷の名はそこからつけられたのです。

「『来てくださって、本当にうれしいです』。」
「雇い主は、相変わらず愛想よく馬車を走らせてくださり、その晩、奥様とお子様に引き合わせてくださいました。ホームズ先生、ベーカー街のお部屋で、もっともらしく思えた私たちの推測は、まったく違っていました。ルーキャッスル夫人は、精神を病んではいらっしゃいません。口数の少ない、青白い顔の女性で、ご主人よりずっと若く、三十にもなっていないようでした。一方、ご主人は少なくとも四十五にはなっているはずです。お二人の会話から、結婚して七年ほどになること、ご主人は先の奥様に先立たれ、その方との間には、フィラデルフィアへ行っているお嬢様が一人だけいることがわかりました。ルーキャッスルさんは、ほかの人がいないときに、お嬢様が家を出たのは、理由もなく継母を嫌っていたからだとおっしゃいました。お嬢様は少なくとも二十歳にはなっていたはずですから、お父様の若い奥様と暮らすのが、居心地のよいものではなかったろうとは想像できます。
「ルーキャッスル夫人は、顔立ちばかりでなく、心の中にも色というものがない方に思えました。よい印象も悪い印象も受けません。まるで存在感がないのです。ただ、ご主人と幼い息子さんには、ひたすら愛情を注いでいることが、すぐにわかりました。薄い灰色の目は、絶えず一方からもう一方へと動き、ちょっとした望みも見逃さず、できるだけ先回りしてかなえようとしていました。ご主人も、大らかで騒々しいなりに奥様には優しく、全体としては仲のよいご夫婦に見えました。それでも、奥様は何か、人に言えない悲しみを抱えていたのです。このうえなく悲しげな顔で、深い物思いに沈んでいることが、よくありました。思いがけず泣いているところに出くわしたのも、一度や二度ではありません。お子様の性質が心に重くのしかかっているのではないか、と思ったこともあります。あれほど甘やかされ、意地の悪い子供には、一度も会ったことがありませんから。年のわりに体が小さいのに、頭だけが不釣り合いに大きいのです。乱暴にかんしゃくを起こしているか、陰気にふてくされているか、その繰り返しだけで一日を過ごしているようです。自分より弱い生き物を苦しめることが唯一の楽しみらしく、ねずみや小鳥や虫を捕まえる仕掛けを考えることには、驚くほどの才能を見せます。でも、あの子のことは、あまりお話ししたくありません、ホームズ先生。実際、今回のお話には、あまり関係がありませんので。」
「どんな細部でも伺いたいですね」と友人は言った。「あなたには関係があると思えなくてもです。」
「大事なことを落とさないようにいたします。あのお屋敷で、すぐに不快に感じたのは、使用人の身なりと振る舞いでした。使用人は夫婦者が二人いるだけです。夫はトラーという名前で、白髪交じりの髪ともみあげをした、荒っぽく無作法な男です。いつも酒のにおいをさせています。私が来てからも、二度、すっかり酔いつぶれていましたのに、ルーキャッスルさんは気にも留めない様子でした。妻のほうは、たいへん背が高く、がっしりした女で、いつも不機嫌な顔をしています。ルーキャッスル夫人と同じくらい無口ですが、ずっと愛想がありません。実に不愉快な夫婦ですけれど、幸い私は、ほとんどの時間を子供部屋と自分の部屋で過ごしています。この二部屋は、建物の一隅で隣り合っているのです。
「ぶな屋敷に着いてから二日間は、たいへん穏やかに暮らしました。三日目の朝食のあと、ルーキャッスル夫人が下りてきて、ご主人に何かささやきました。
「『ああ、そうだ』と、ご主人は私のほうを向いておっしゃいました。『ハンターさん、私どもの気まぐれに合わせて、髪まで切ってくださって、心から感謝していますよ。お姿の美しさは、ほんの少しも損なわれていません。では、あの鮮やかな青の服がどれほどお似合いになるか、見せていただきましょう。あなたのお部屋のベッドに広げてあります。それに着替えてくだされば、二人とも大変うれしいのですが。』
「部屋に用意されていたのは、独特な色合いの青い服でした。上質の、ベージュ織りという毛織物のような生地でしたが、前に誰かが着た形跡が、はっきり残っていました。私の寸法を測って仕立てても、これ以上はないほどぴったりでした。ルーキャッスルご夫妻は、それを着た私を見ると、二人とも喜びを口にしましたが、あまりの喜びように、大げさすぎると感じたほどです。お二人は客間で待っていました。家の正面いっぱいに広がる、とても大きな部屋で、床まで届く縦長の窓が三つあります。真ん中の窓のすぐそばに、窓を背にして椅子が置かれていました。そこに座るよう言われると、ルーキャッスルさんは部屋の反対側を行き来しながら、今まで聞いたこともないほど面白い話を、次々と語り始めたのです。どれほどおかしかったか、とてもお伝えできません。私はくたびれ果てるほど笑いました。けれども、ユーモアのわからない方らしい奥様は、微笑み一つ浮かべず、膝に両手を置いて、悲しそうな、不安そうな顔で座っていました。一時間ほどすると、ルーキャッスルさんが突然、そろそろ今日の仕事を始める時間だから、着替えて子供部屋のエドワードのところへ行ってよい、とおっしゃいました。
「二日後にも、まったく同じように、同じことが繰り返されました。私はまた着替え、また窓辺に座り、また大いに笑いました。ご主人の面白い話の持ちネタはたいへんな数に上り、話しぶりも絶妙だったのです。それから、黄色い表紙の小説を一冊渡され、私の影がページにかからないよう、椅子の向きを少し斜めに直して、声に出して読んでほしいと頼まれました。ある章の真ん中から読み始めて、十分ほどたつと、文の途中だったのに、突然やめるよう命じられ、着替えに行かされました。
「ホームズ先生、こんな奇妙なことに、いったいどんな意味があるのか、私がどれほど知りたくなったか、おわかりになるでしょう。あの方たちは、私の顔を窓のほうへ向けさせないよう、いつもひどく気を配っていました。それに気づくと、背後で何が起きているのか見たくて、たまらなくなりました。最初は無理だと思いましたが、じきに方法を考えつきました。私の手鏡が割れていたので、いいことを思いつき、そのかけらをハンカチに隠しておいたのです。次に同じことをしたとき、笑っている途中でハンカチを目に当て、少し角度を工夫すると、後ろの様子がすっかり見えました。正直に申しますと、がっかりしました。何もなかったのです。少なくとも、初めはそう思いました。ところが、もう一度見ると、サウサンプトン街道に男の人が立っているのがわかりました。灰色の服を着た、ひげのある小柄な人で、私のほうを見ているようでした。あそこは大きな街道ですから、普段から人通りはあります。でも、その人はうちの畑の柵にもたれ、熱心にこちらを見上げていたのです。ハンカチを下ろし、ルーキャッスル夫人のほうをちらりと見ると、探るような鋭い目で私を見つめていました。何もおっしゃいませんでしたが、私が手に鏡を持ち、背後の様子を見たと、きっと悟ったのだと思います。すぐに立ち上がられました。
「『ジェフロー』とおっしゃいました。『あそこの道に、ハンターさんをじろじろ見上げている、無作法な男がいるわ。』
「『お知り合いではありませんか、ハンターさん?』と、ご主人が尋ねました。
「『いいえ。この辺りには、知っている方は一人もおりません。』
「『おやおや! なんという無礼なやつだ! ちょっと振り向いて、あっちへ行くように合図してもらえませんか。』
「『知らん顔をしていたほうが、よくありませんか?』
「『いやいや、そんなことでは、いつまでもあそこをうろつきますよ。どうぞ振り向いて、こう、手を振って追い払ってください。』
「言われたとおりにすると、それと同時に、奥様が日よけを下ろしました。一週間前のことです。それ以来、窓辺には座っていませんし、青い服も着ていません。道の男の人も見かけませんでした。」
「どうぞ続けてください」とホームズは言った。「たいへん興味深いお話になりそうです。」
「まとまりのない話になってしまいそうで、申し訳ありません。これからお話しする出来事の間には、あまりつながりがないのかもしれません。ぶな屋敷へ着いたその日、ルーキャッスルさんは、台所の戸口近くにある小さな小屋へ、私を連れていきました。近づくと、鎖が鋭く鳴る音と、大きな動物が動き回るような音が聞こえました。
「『ここからのぞいてごらんなさい!』と、ご主人は二枚の板の隙間を示しました。『見事なやつでしょう?』
「のぞくと、二つの目がぎらぎら光り、暗がりにうずくまる姿が、ぼんやりと見えました。
「『怖がることはありません』と、雇い主は私がびくりとしたのを見て笑いました。『うちのマスチフ犬、カルロですよ。うちの犬と言っても、実際に扱えるのは、馬丁のトラー爺さんだけですがね。餌は日に一度、しかも、あまりたっぷりはやりません。ですから、いつもやる気満々です。毎晩トラーが放してやるのですが、忍び込んでこいつの牙にかかった者は、神頼みをするほかありませんな。くれぐれも、夜はどんな事情があっても、敷居の外へ出ないでください。命に関わりますからね。』
「その警告は、決して大げさではありませんでした。二晩後、私は夜中の二時ごろ、たまたま寝室の窓から外を見たのです。美しい月夜で、家の前の芝生は銀色に染まり、昼間も同然に明るく見えました。その静かな美しさに見とれて立っていると、ぶなの木陰で何かが動くのに気づきました。月明かりの中へ出てきて、その正体がわかりました。子牛ほどもある巨大な犬でした。黄褐色の毛に垂れ下がった頬、黒い鼻面をし、大きな骨がごつごつと浮き出ていました。ゆっくりと芝生を横切ると、反対側の影へ姿を消しました。あの恐ろしい無言の番兵を見たときの、心の底まで凍るような思いは、どんな泥棒を見ても味わわなかったでしょう。
「そして、今度は、本当に不思議な体験をお話ししなくてはなりません。ご存じのように、私はロンドンで髪を切り、それを大きく巻いて、トランクの底にしまっておきました。ある晩、子供が寝ついてから、私は暇つぶしに部屋の家具を調べたり、自分のこまごました持ち物を並べ替えたりしていました。部屋には古い引き出し箪笥があり、上の二段は空で、開けられましたが、下の一段には鍵がかかっていました。上の二段には肌着類をしまっていたのですが、まだ片づける物がたくさんあったので、三段目が使えないのが不便でした。うっかり鍵をかけたままにしてあるだけかもしれないと思い、手持ちの鍵束を出して、試してみました。すると、最初の一本がぴったり合って、引き出しが開いたのです。中には、たった一つだけ物が入っていました。でも、それが何だったか、先生にもきっと当てられないでしょう。巻いて束ねた、私の髪だったのです。
「取り出して調べてみました。あの独特な色合いも、量も、そっくり同じでした。けれども、そこで、そんなことがあるはずはないと気づきました。私の髪が、どうして鍵のかかった引き出しに入っているのでしょう。震える手でトランクを開け、中身を取り出し、底から自分の髪を引っ張り出しました。二つの髪束を並べてみましたが、本当に、まったく同じだったのです。奇妙ではありませんか。いくら考えても、どういうことなのか、さっぱりわかりませんでした。見つけた髪は引き出しへ戻し、ルーキャッスルご夫妻には何も言いませんでした。あちらが鍵をかけておいた引き出しを勝手に開けたのですから、自分にも非があると思ったのです。
「もうお気づきかもしれませんが、ホームズ先生、私はもともと物事をよく見ているほうなので、じきに屋敷全体の間取りが、かなりはっきり頭に入りました。ただ、一つの翼棟だけは、まったく使われていないようでした。トラー夫婦の居住区へ入る扉の向かいに、その一続きの部屋へ通じる扉があるのですが、そこには必ず鍵がかかっていました。ところが、ある日、階段を上っていくと、ルーキャッスルさんがそこから出てくるところに出くわしました。手に鍵を持ち、その顔つきは、見慣れた、丸々とした陽気な人とは、まるで別人でした。頬は赤く、額は怒りでしわだらけになり、こめかみには血管が浮き上がっていました。扉に鍵をかけると、こちらを見もせず、一言も言わずに、足早に通り過ぎていきました。
「私は好奇心をかき立てられました。それで、受け持ちの子供を連れて庭へ散歩に出たとき、その棟の窓が見える側へ回ってみたのです。窓は四つ並んでいました。三つはただ汚れているだけでしたが、四つ目は鎧戸が閉ざされていました。どれも、使われていないことは明らかでした。ときどき窓を見上げながら辺りを歩いていると、ルーキャッスルさんが出てきました。もういつもどおり、陽気で機嫌よくしていました。
「『ああ!』とおっしゃいました。『さっきは何も言わずに通り過ぎてしまいましたが、無礼だと思わないでくださいね、お嬢さん。仕事のことで、頭がいっぱいだったのです。』
「私は、気にしておりませんと答えました。『ところで』と尋ねました。『あちらには、空いているお部屋がずいぶんおありのようですね。一つは鎧戸が閉まっていますけれど。』
「ご主人は驚いた顔をし、私には少したじろいだようにも見えました。
「『写真が趣味の一つでしてね』とおっしゃいました。『あそこを暗室にしてあるのです。しかし、いやはや! ずいぶん観察力のある先生に来ていただいたものだ。まったく驚きですな。いや、驚いた!』冗談めかした口調でしたが、私を見る目は少しも笑っていませんでした。そこにあったのは疑いと不快感で、冗談の気配など、かけらもありませんでした。
「さて、ホームズ先生。あの一角に、私に知られてはならない何かがあるとわかったとたん、私は、どうしても中を見てみたくなりました。単なる好奇心ではありません。もちろん、それも人並みには持ち合わせていますが。それよりは義務感に近いもの――そこへ踏み込めば、何かよいことができるのではないかという気持ちでした。女の直感と申しますけれど、そういう気持ちになったのは、そのためだったのかもしれません。ともかく、そう感じたのです。それで、あの禁じられた扉をくぐる機会を、注意深くうかがうようになりました。
「その機会が訪れたのは、ようやく昨日のことです。申し添えますと、ルーキャッスルさんのほかにも、トラー夫婦が二人とも、あの人けのない部屋で何か仕事をしているのです。一度、トラーが大きな黒い麻袋を持って、あの扉を通るのを見ました。このところ、あの男はひどく飲んでいて、昨日の夕方も、すっかり酔っぱらっていました。私が二階へ上がると、扉に鍵が差したままになっていたのです。あの男が抜き忘れたに違いありません。ご夫妻は二人とも階下にいて、子供も一緒でした。これ以上の機会はありません。私はそっと鍵を回し、扉を開けて、中へ忍び込みました。
「目の前には、壁紙も絨毯もない短い廊下があり、突き当たりで直角に折れていました。角を曲がると、扉が三つ並んでいて、最初と三つ目は開いていました。どちらも、ほこりっぽく、寒々とした空き部屋でした。一方には窓が二つ、もう一方には一つあり、どれも汚れが厚くついていて、夕方の光がぼんやりとしか差し込みませんでした。真ん中の扉は閉まっていて、その外側には、鉄製のベッドから外した幅広い棒が、横木代わりに渡してありました。一方の端は壁の輪に南京錠で留め、もう一方は丈夫な紐で縛ってありました。扉自体にも鍵がかかっていて、鍵はありませんでした。厳重に閉ざされたこの扉の先が、外から見た鎧戸の閉まった窓の部屋であることは明らかでした。それなのに、下の隙間から光が漏れていて、中が暗くないことがわかったのです。きっと天窓があって、上から明かりが入っているのでしょう。私は廊下に立ち、あの不気味な扉を見つめ、どんな秘密が隠されているのかと考えていました。すると突然、中で足音がし、扉の下の細い光の帯を、影が行ったり来たりするのが見えたのです。ホームズ先生、その瞬間、理屈も何もない、狂おしいほどの恐怖に襲われました。張り詰めた神経が、ふいに耐えきれなくなったのです。私は身をひるがえして走りました。まるで背後から恐ろしい手が伸びて、服の裾をつかもうとしているかのように、走りました。廊下を駆け抜け、扉から飛び出すと、その外で待ち構えていたルーキャッスルさんの腕に、まともにぶつかってしまいました。
「『ほう』と、ご主人は笑って言いました。『やはり、あなたでしたか。扉が開いているのを見て、そうだろうと思いましたよ。』
「『ああ、怖かった!』と、私は息を切らして言いました。
「『お嬢さん、お嬢さん!』――その優しくなだめるような態度といったら、とてもお伝えできません。『いったい何が、そんなに怖かったのです、お嬢さん?』
「けれども、その声は、いささか甘すぎました。やりすぎだったのです。私は強く警戒しました。
「『馬鹿なことをして、誰もいない棟へ入ってしまいました』と答えました。『でも、薄暗くて、あまりに寂しく不気味だったので、怖くなって逃げてきたのです。ああ、あそこは、ぞっとするほど静かですね!』
「『それだけですか?』と、鋭く私を見つめました。
「『まあ、ほかに何だとお思いになったのですか?』と尋ね返しました。
「『私がなぜこの扉に鍵をかけているか、わかりますか?』
「『いいえ、わかりません。』
「『用もない者を入れないためです。わかりましたか?』そのときも、まだこのうえなく愛想よく笑っていました。
「『存じておりましたら、決して――』
「『では、今はわかりましたな。もう一度でも、あの敷居をまたいでみろ――』その瞬間、笑みは怒りに歯をむく形相へと変わり、悪鬼のような顔で私を見下ろしました。『マスチフの餌にしてやるぞ。』
「恐ろしさのあまり、自分が何をしたか覚えていません。あの人の脇をすり抜け、自分の部屋へ駆け込んだのでしょう。気がつくと、全身を震わせながらベッドに横たわっていました。それまでの記憶がありません。そのとき、先生のことを思い出したのです。どなたかの助言なしに、もうあそこでは暮らせません。家も、男も、女も、使用人も、子供さえも怖くなりました。何もかも恐ろしかったのです。先生に来ていただけさえすれば、すべてうまくいく。もちろん、屋敷から逃げ出すこともできました。でも、好奇心も、恐怖とほとんど同じくらい強かったのです。すぐに決心しました。先生に電報を打とう、と。帽子と外套を身につけ、家から半マイルほどの電信局へ行き、それから、ずっと気持ちを楽にして戻ってきました。戸口へ近づいたとき、犬が放されているのではないかと、ぞっとしました。けれども、その晩、トラーは飲みすぎて意識をなくしていたことを思い出したのです。あの凶暴な生き物を扱えたり、放してやる勇気があったりする者は、あの家ではトラーしかいません。私は無事に中へ入り、先生にお会いできると思うとうれしくて、夜半まで眠れませんでした。今朝、ウィンチェスターへ来る許可は、難なくいただけました。ただ、三時までには戻らなくてはなりません。ご夫妻はよそへ出かけて、夜いっぱい留守にするので、私が子供の世話をしなくてはならないのです。これで、私に起きたことはすべてお話しいたしました、ホームズ先生。いったいこれはどういうことなのか、そして何より、私はどうすればよいのか、教えていただけたら、どんなにありがたいでしょう。」
ホームズも私も、この異様な話に、すっかり心を奪われて聞き入っていた。友人は立ち上がり、両手をポケットに入れ、ひどく厳しい顔をして部屋を歩き始めた。
「トラーは、まだ酔っていますか?」と尋ねた。
「はい。奥さんがルーキャッスル夫人に、どうにもならないと言っているのを聞きました。」
「それはいい。それで、ご夫妻は今夜、お出かけになるのですね?」
「はい。」
「頑丈な錠のついた地下室はありますか?」
「はい。ワインの貯蔵室が。」
「ハンターさん、あなたはこの一件を通じて、実に勇敢に、賢明に行動なさったと思います。もう一つ、難しい役目を果たしていただけるでしょうか。並々ならぬ方だと思えばこそ、お願いするのですが。」
「やってみます。何でしょう?」
「今夜七時までに、友人と私がぶな屋敷へ参ります。そのころには、ご夫妻は出かけている。トラーも、願わくば動けないでしょう。残るのはトラー夫人だけです。あの女は、騒ぎを起こすかもしれません。何か用事を言いつけて地下室へやり、外から鍵をかけていただければ、物事がずっと運びやすくなります。」
「やります。」
「すばらしい! それから、事件を徹底的に調べましょう。もちろん、筋の通る説明は一つしかありません。あなたは誰かの身代わりを務めさせるために呼ばれ、本物はあの部屋に閉じ込められている。それは明らかです。その囚われ人が誰かといえば、娘さんに間違いないでしょう。アメリカへ行ったとされる、確かアリス・ルーキャッスル嬢でしたね。あなたが選ばれたのは、背丈や体つき、髪の色が似ていたからに違いありません。娘さんは、おそらく何かの病気で髪を切られた。それで、あなたの髪も犠牲にする必要があったのです。不思議な偶然で、あなたは娘さんの髪を見つけたわけです。街道の男は、間違いなく娘さんの知り合いでしょう。おそらく婚約者です。あなたが娘さんの服を着ていて、姿もよく似ているので、いつ見ても笑っているあなたの様子と、その後の身振りから、娘さんはすっかり幸せで、もう自分には構ってほしくないのだと、きっと思い込んだのです。夜、犬を放すのは、男が娘さんと連絡を取ろうとするのを防ぐためです。ここまでは、かなりはっきりしています。この事件で最も重大なのは、子供の性質です。」
「いったい、それが何の関係を持つんだい?」
と、私は思わず口を挟んだ。
「ワトソン、君は医者として、両親を調べることで、子供の傾向をたびたび知るだろう。その逆も、同じように成り立つとは思わないかい。僕は子供を調べて、初めて親の性格の核心をつかんだことが、何度もある。この子供の性質は、異常なほど残酷だ。残酷であること自体を楽しんでいる。それが、僕の疑うように、にこにこした父親譲りなのか、それとも母親譲りなのかはともかく、あの二人に運命を握られている気の毒な娘さんにとって、不吉な兆しであることは確かだ。」
「きっと、そのとおりです、ホームズ先生」と依頼人は叫んだ。「思い返してみると、思い当たることが、いくらでもございます。先生のおっしゃるとおりに違いありません。ああ、一刻も早く、あのかわいそうな方を助けてあげましょう。」
「慎重に進めなくてはなりません。相手は非常に狡猾な男です。七時までは、何もできません。その時刻にはお伺いします。それからほどなく、謎は解けるでしょう。」
私たちは約束を違えなかった。途中の街道沿いの居酒屋に馬車を預け、ぶな屋敷へ着いたのは、ちょうど七時だった。ハンター嬢が玄関の段に立って微笑みながら待っていなかったとしても、屋敷はすぐにわかっただろう。ひと群れの木々の暗い葉が、夕日を受けて、磨いた金属のように輝いていたからである。
「うまくいきましたか?」とホームズは尋ねた。
階下のどこかで、どんどんと激しくたたく音がした。「地下室のトラー夫人です」と彼女は言った。「ご主人は台所の敷物の上で、いびきをかいています。これが、その人の鍵です。ルーキャッスルさんの持っているものと同じ、合鍵です。」
「実に見事です!」とホームズは感嘆した。「では、案内してください。この邪悪な企みに、じきに決着がつくでしょう。」
私たちは階段を上がり、扉の鍵を開け、廊下を進んで、ハンター嬢が話していた、厳重に閉ざされた扉の前へ出た。ホームズは紐を切り、横に渡した鉄の棒を外した。それから鍵を一本ずつ試したが、どれも合わなかった。中からは物音一つしなかった。その静けさに、ホームズの顔が曇った。
「手遅れでなければいいが」と言った。「ハンターさん、われわれだけで入ったほうがよさそうです。さあ、ワトソン、肩を当ててくれ。何とか押し破ってみよう。」
古く、がたのきた扉は、二人で力を合わせると、たちまち開いた。私たちは一緒に室内へ飛び込んだ。誰もいなかった。小さな粗末な寝台と、小さな机、それに肌着類を詰めた籠のほかは、家具もなかった。頭上の天窓は開いており、囚われ人は消えていた。
「ここで何か悪事が働かれた」とホームズは言った。「あの結構な御仁は、ハンター嬢の意図を見抜いて、犠牲者を連れ去ったのだ。」
「だが、どうやって?」
「天窓からだ。方法は、すぐにわかる。」
ホームズは身を引き上げ、屋根へ出た。「ああ、なるほど」と声を上げた。「軒に立てかけた、長くて軽い梯子の先が、ここにある。これを使ったのだ。」
「でも、そんなはずはありません」とハンター嬢は言った。「ご夫妻が出かけたとき、梯子はありませんでした。」
「戻ってきて、やったのです。言ったでしょう、頭が切れる、危険な男だと。今、階段から聞こえてくる足音が、あの男のものだとしても、さほど驚きませんよ。ワトソン、拳銃を用意しておいたほうがよさそうだ。」
言い終わるか終わらないかのうちに、戸口に男が現れた。ひどく太った大柄な男で、手には太い杖を持っていた。ハンター嬢は姿を見るなり悲鳴を上げ、壁際に身を縮めたが、シャーロック・ホームズは前へ跳び出し、男と向き合った。
「この悪党め!」と言った。「娘はどこだ?」
太った男は室内を見回し、それから、開いた天窓を見上げた。
「それは、こっちのせりふだ!」と金切り声を上げた。「泥棒どもめ! 間者に泥棒め! とうとう捕まえたぞ。もう逃がさん。目に物を見せてやる!」
男は身をひるがえすと、すさまじい足音を立て、全速力で階段を駆け下りた。
「犬を放しに行ったのよ!」とハンター嬢が叫んだ。
「拳銃がある」と私は言った。
「玄関を閉めたほうがいい!」とホームズが叫び、私たちは一斉に階段を駆け下りた。広間へ着くか着かないかのうちに、犬の吠え声が聞こえた。続いて苦痛の絶叫と、聞くに堪えない、恐ろしく噛み裂く音が響いた。脇の戸口から、赤ら顔の年配の男が、手足を震わせて、よろめき出てきた。
「なんてこった!」と叫んだ。「誰かが犬を放した。二日も餌をやってねえんだ。早く、早くしねえと、手遅れになる!」
ホームズと私は外へ飛び出し、家の角を回った。トラーも大急ぎであとに続いた。そこでは、飢えきった巨犬が、黒い鼻面をルーキャッスルの喉に埋めていた。男は地面の上で、身をよじって悲鳴を上げていた。私は駆け寄って犬の頭を撃ち抜いた。犬は、鋭い白い歯を、男の首の深い肉のひだに食い込ませたまま倒れた。苦労して引き離し、まだ息はあるが、無残に傷ついた男を家へ運び込んだ。客間のソファに寝かせ、酔いのさめたトラーを妻への知らせに走らせると、私はできるかぎりの手当てをして、苦痛を和らげようとした。私たちが皆で男を囲んでいると、扉が開き、背の高い、やせた女が入ってきた。
「トラーさん!」とハンター嬢が叫んだ。
「ええ、お嬢さん。旦那様が戻っていらしたとき、あなた方のところへ上がる前に、出してくださいました。ああ、お嬢さん、何をするおつもりか、言ってくださればよかったのに。そんな骨折りは無駄だと、お教えできたんですよ。」
「ほう!」とホームズは、鋭い目を女に向けた。「どうやらトラー夫人は、この件を誰よりもよくご存じのようだ。」
「はい、存じております。知っていることは、何でもお話しいたしますよ。」
「では、お掛けになって、聞かせてください。まだ私にも、よくわからない点がいくつかあるのです。」
「すぐにはっきりさせて差し上げます」と女は言った。「地下室から出られさえすれば、とっくにお話ししていたんです。もしこれが警察裁判所に持ち込まれるようなことになったら、私が皆さんのお味方をしたことを、覚えていてくださいね。アリスお嬢様の味方でもあったんですから。
「アリスお嬢様は、お父様が再婚してからというもの、家では一度も幸せではありませんでした。ないがしろにされて、何一つ、自分の意見を言わせてもらえなかったんです。でも、本当にひどくなったのは、お友達のお宅でファウラーさんとお知り合いになってからでした。私の聞き及んだところでは、遺言によって、アリスお嬢様ご自身に財産の権利があったそうです。でも、おとなしくて、辛抱強い方でしたから、一言もそのことを言わず、何もかもルーキャッスル様に任せきりにしていました。旦那様も、お嬢様が相手なら安心していられたわけです。ところが、法律上もらえるものをすべて要求する夫が、現れるかもしれないとなったので、お父様は、今のうちに手を打たなければと思ったんです。結婚しようとしまいと、お嬢様のお金を自分で使えるよう、書類に署名をさせようとしました。お嬢様が断ると、しつこく責め続けて、とうとうお嬢様は脳熱[訳注:高熱や意識障害を伴う病状を指した当時の呼称]にかかり、六週間も生死の境をさまよったんです。ようやく回復なさったときには、影のようにやせ細り、美しい髪も切り落とされていました。でも、恋人の気持ちは少しも変わらず、このうえなく誠実に、お嬢様を思い続けていたんですよ。」
「なるほど」とホームズは言った。「ご親切に聞かせていただいた話で、事情はほぼ明らかになりました。あとは推測がつきます。そこでルーキャッスルは、娘さんを閉じ込めるという方法に出たのですね?」
「はい、そのとおりです。」
「そして、厄介なファウラー氏に諦めさせるため、ハンター嬢をロンドンから呼び寄せた。」
「おっしゃるとおりです。」
「しかし、ファウラー氏は、船乗りらしく粘り強い男だったので、屋敷を見張り続けた。そしてあなたと出会い、硬貨を交えた説得やら、ほかの説得やらで、あなたと自分の利害が一致していることを、納得させたわけですね。」
「ファウラーさんは、とても物言いが優しく、気前のよい紳士でございました」とトラー夫人は、平然と答えた。
「それで、あなたのご亭主には酒をたっぷり与え、主人が外出する時刻に合わせて、梯子を用意することができた。」
「そのとおりです、何もかも。」
「どうやら、お詫びを申し上げなくてはなりませんね、トラーさん」とホームズは言った。「あなたのおかげで、疑問がすっかり解けました。さて、町のお医者さんとルーキャッスル夫人がお着きのようだ。ワトソン、われわれはハンター嬢をウィンチェスターまでお送りするのがよさそうだね。もうここにいる正当な立場があるかどうか、かなり怪しくなってきたからね。」
こうして、玄関の前に赤銅色のぶなが茂る、不吉な屋敷の謎は解けた。ルーキャッスル氏は一命を取り留めたが、それきり衰弱した身となり、献身的な妻の看護によってのみ、生きながらえることとなった。今も、以前からの使用人たちと一緒に暮らしている。あの夫婦は、おそらくルーキャッスルの過去を知りすぎているので、手放すのが難しいのだろう。ファウラー氏とルーキャッスル嬢は、逃げ出した翌日、サウサンプトンで特別許可を得て結婚した。夫は現在、モーリシャス島で官職に就いている。ミス・ヴァイオレット・ハンターについては、私にはいささか残念なことに、友人ホームズは、彼女が自分の扱う問題の中心人物でなくなると、それ以上の関心を示さなかった。今ではウォルソールの私立学校で校長を務めており、かなりの成功を収めていると聞いている。
完
W・D・ハウエルズ著
慈悲の本質。長編小説。十二折判、クロス装、1ドル50セント。紙装、75セント。
避けられぬ務め。長編小説。十二折判、クロス装、1ドル。
新たな運命の危うさ。長編小説。全二巻。十二折判、クロス装、2ドル。挿絵入り、十二折判、紙装、1ドル。
夢の影。小説。十二折判、クロス装、1ドル。紙装、50セント。
アニー・キルバーン。長編小説。十二折判、クロス装、1ドル50セント。紙装、75セント。
四月の希望。長編小説。十二折判、クロス装、1ドル50セント。紙装、75セント。
毎日がクリスマス、ほか短編集。挿絵入り。ポスト八折判、クロス装、1ドル25セント。
少年の町。挿絵入り。ポスト八折判、クロス装、1ドル25セント。
批評と小説。肖像付き。十六折判、クロス装、1ドル。
近代イタリアの詩人たち。肖像付き。十二折判、半クロス装、2ドル。
ねずみ捕り、ほか笑劇集。挿絵入り。十二折判、クロス装、1ドル。
紹介状。笑劇。挿絵入り。三十二折判、クロス装、50セント。
スイス小滞在記。挿絵入り。三十二折判、クロス装、50セント。
オールバニー駅。笑劇。挿絵入り。三十二折判、クロス装、50セント。
絞め強盗。笑劇。挿絵入り。三十二折判、クロス装、50セント。
ニューヨーク、ハーパー・アンド・ブラザーズ刊。
☛–>上記の書籍は各書店にてお求めいただけます。また、代金をお送りくだされば、米国、カナダ、メキシコの全域へ、出版社より送料負担でお届けいたします。
R・D・ブラックモアの小説
その描写は、驚くほど鮮明で自然である。どのページにも見事なユーモアが光り、風変わりで淡々とした思考のひねりは、折に触れてフィールディングを思い起こさせる。――ロンドン『タイムズ。』
ブラックモア氏の筆には、常に学者らしい教養と紳士らしい品格がある。――ロンドン『アシニーアム。』
その物語は、いずれも群を抜いて優れている。細部まで練り上げられた構成、誠実な仕上げ、劇的で物語性に富む印象深い出来事の豊かさ、自然に対する綿密な観察と広い理解、絵画的な描写の豊富さ、そして静かに持続するユーモアが際立つ。さらに全編を、明るく弾むような空気が貫き、健やかでたくましい活力から生まれる、晴れやかな気分を広げている。その生き生きとした軽快さと自然さで読者を魅了しながら、繊細さや良識の限度を、いささかも踏み越えることがない。温かさと明るさを放ちながら、降りたての雪のように清らかなのだ……。文学的な技巧は見事であり、その劇的な力も、道徳的な純粋さに劣らず並外れている。――ニューヨーク『クリスチャン・インテリジェンサー。』
ローナ・ドゥーン。挿絵入り。十二折判、クロス装、1ドル。八折判、紙装、40セント。
キットとキティ。十二折判、クロス装、1ドル25セント。紙装、35セント。
スプリングヘイヴン。挿絵入り。十二折判、クロス装、1ドル50セント。四折判、紙装、25セント。
クリストウェル。四折判、紙装、20セント。
クラドック・ノウェル。八折判、紙装、60セント。
エレマ、あるいは父の罪。八折判、紙装、50セント。
メアリー・アナリー。十六折判、クロス装、1ドル。四折判、紙装、15セント。
トミー・アップモア。十六折判、クロス装、50セント。紙装、35セント。四折判、紙装、20セント。
ニューヨーク、ハーパー・アンド・ブラザーズ刊。
☛–>上記の書籍は、代金をお送りくだされば、米国、カナダ、メキシコの全域へ、送料負担で郵送いたします。
チャールズ・キング大尉著
クルック将軍との従軍記、ならびに軍隊生活物語。ポスト八折判、クロス装、1ドル25セント。
戦時の求愛。R・F・ゾグバウム挿絵。前付4ページ、本文196ページ。ポスト八折判、クロス装、1ドル。
両軍の間で。戦争小説。ギルバート・ゴール挿絵。前付4ページ、本文312ページ。ポスト八折判、クロス装、1ドル25セント。
キング大尉のすべての物語において、作者は男性と女性の高い理想像を掲げ、名誉、寛大さ、勇気、そして自制の教えを説いている。――ボストン『リテラリー・ワールド。』
キング大尉の筆を際立たせる、生気と魅力……。アメリカ文学において、まったく独自の地位を占めている……。その文学は、清らかで優しい、誠実な情感の文学である。――『ニューヨーク・プレス。』
キング大尉の小説を読むのは、いつでも喜びである。扱う題材を、これほどまでに完全に掌握しているからだ……。この分野で、キング大尉に肩を並べる者はほとんどいない……。物語全体の基調も、大いに称賛に値する。主人公の男性たちは飾り気がなく、率直で、軍人らしい気骨を備えている。女性たちは、どれほど型破りな状況に置かれても、気品と乙女らしさを失わない。――ニューヨーク『エポック。』
キング大尉の物語は、どれも生気に満ち、本物の響きを備えている。――『フィラデルフィア・アイテム。』
キング大尉の軍隊生活物語は、あまりに鮮やかで迫力に富み、実体験の確かな響きがあり、登場人物が生き写しのように躍動しているので、新作の発表はいつも喜びをもって迎えられる。――『ニューヘイヴン・パラディアム。』
キング大尉は、実に魅力的な語り手である。――『ワシントン・ポスト。』
戦闘場面を描くとき、キング大尉の文体は歯切れよく力強く、読者の胸に、真の愛国の熱情による高鳴りを呼び起こす。――『ボストン・コモンウェルス。』
自ら選んだ分野において、キング大尉に匹敵する者は、ほとんどいない……。その文体は力強く、同時に、最もよい意味で情感に満ちている。それゆえ、若い女性ばかりでなく、若い男性にも喜ばれる小説となっている。――『ピッツバーグ・ブレティン。』
ロマンと騎士道の精神が、まだこの世からすっかり消え去ったわけではなく、騎士や勇士たちの時代と同じように勇敢で誠実な心が、今日も存在すると信じている人が、少なくとも一人はいる。そう思えるのは、うれしいことである。――『フィラデルフィア・レコード。』
ニューヨーク、ハーパー・アンド・ブラザーズ刊。
☛–>上記の書籍は、代金をお送りくだされば、米国、カナダ、メキシコの全域へ、送料負担で郵送いたします。
ベン・ハー――キリストの物語
ルー・ウォーレス著。十六折判、クロス装、1ドル50セント。ガーフィールド版。全二巻。全ページ大のフォトグラビュール20点。ウィリアム・マーティン・ジョンソンによる余白挿絵1000点以上。クラウン八折判、上質の強光沢図版用紙に印刷、アンカット仕上げ・天金装、絹および金装、7ドル。(グラッドストーン式ケース入り。)
この物語の主眼をなすものほど、驚くべき、新しく、独創的な特色は、小説作品にそうしばしば現れるものではない……。ウォーレス氏の文章には、胸を打つ雄弁さで際立つ箇所がある。新約聖書に描かれた場面が、円熟した文章の大家の力と技によって、書き直されている。――『ニューヨーク・タイムズ。』
本書の真の基盤は、キリスト紀元の始まりにおけるユダヤ人とローマ人の生活の描写にあり、それは力強く、鮮烈である……。読者は、驚くほど多様な場面へと導かれる。海戦、戦車競走、ローマのガレー船の内部の営み、アンティオキアやエルサレム、砂漠の部族の家庭生活を目にする。宮殿、牢獄、放蕩にふけるローマの若者たちのたまり場、敬虔なイスラエルの家族の住まい。胸の躍る出来事がふんだんにあり、何もかもが生き生きとして、鮮やかに光り輝いている。――『ニューヨーク・トリビューン』
巻頭から最後の一行まで、読者の興味は最高潮に保たれるだろう。誰もが、この作品を当代最も偉大な小説の一つと認めるに違いない。――『ボストン・ポスト。』
『ベン・ハー』は興味深く、人物造形も見事で力強い。また、物語の舞台となる時代を綿密に研究した跡がうかがえる。相応の注意をもって読む人なら、救世主の降臨のころ、エルサレムのヘブライ人や、アンティオキアのローマ人が、どのような性質と状況の生活を送っていたか、実感できるだろう。――ニューヨーク『イグザミナー。』
疑いようのない力を備えた一冊であり、型どおりの小説や物語に飽きた多くの読者に、ひときわ強い興味をもって読まれるだろう。――『ボストン・ジャーナル。』
最も注目に値し、最も楽しい本の一つである。人生そのもののように現実味と温かさに満ち、歴史の中でも最も壮大で英雄的な章に劣らぬ魅力がある。――『インディアナポリス・ジャーナル。』
ニューヨーク、ハーパー・アンド・ブラザーズ刊。
☛–>上記の書籍は、代金をお送りくだされば、米国、カナダ、メキシコの全域へ、送料負担で郵送いたします。