空中戦争
The War in the Air
- 出版年
- 1908年
- 作者
- H・G・ウェルズ
- 翻訳
- 開原 藍誠
- 概要
- 急速な技術進歩が進む20世紀初頭、国家機密に関わる発明を手にした青年バートは、巨大な空中艦隊の戦いに巻き込まれていく。空を舞台にした破壊の脅威のなかで、文明の行方と人類の選択を鋭く問いかける作品である。
H・G・ウェルズ著
復刻版への序文
読者には、この本がいつ書かれたかを、はっきり承知しておいていただきたい。執筆は1907年、1908年には各種雑誌に連載され、同年秋に単行本として刊行された。当時、飛行機は大多数の人にとってまだ噂にすぎず、空を占めていたのは「ソーセージ」[訳注:細長い形の気球・飛行船の俗称]だった。今日の読者には、この物語が構想されてからの十年間という経験上の強みがある。いくつもの点で著者の誤りを正し、ここに記された警告の価値を、十年間の現実を物差しとして判断できる。たとえば対空砲についての記述は手薄であり、潜水艦への配慮はそれにもまして乏しい。いま読むと古めかしく、視野が狭いと感じられる箇所は、きっと多いだろう。だが、著者が誇っても不当とはいえない箇所も多い。ドイツ精神の描き方は、1908年には戯画と受け取られたに違いない。だが、はたして戯画だったのか。カール王子は当時、空想の産物に見えた。その後、現実は驚くほど忠実にカール王子をまねてみせた。いずれは民衆の側から出たどこかの「バート」が、この殿下に一矢報いるのではないかと期待するのは、望みすぎだろうか。著者は本書で、またほかの著作、とりわけ『解放された世界』で、そして今年の『戦争と未来』でも繰り返し説いている。人類が戦争を続けるなら、文明の崩壊は避けられない、と。人類を待つのは混沌か、さもなくば世界合衆国である。それ以外の選択肢はない。十年の歳月は、この本の訴えに途方もない確信を加えただけだった。その根本的な正しさはいまも変わらない。平和強制連盟を支持する、物語の形を借りた檄文なのである。K。
『空中戦争。』
第一章 進歩とスモールウェイズ一家について
1
「この進歩ってやつは」とトム・スモールウェイズ氏はいった。「止まらねえな。」
「いつまでも続くとは思えねえんだがな」とトム・スモールウェイズ氏はいった。
スモールウェイズ氏がこう口にしたのは、空中戦争が始まるよりずっと前のことだった。庭の端の柵に腰をかけ、褒めもけなしもしない目つきで、バン・ヒルの大きなガス工場を眺めていた。群れ集うガスタンクの上に、見慣れぬものが三つ姿を現していた。薄っぺらな袋が、ひらひら揺れ、身をよじり、ころころ動きながら、だんだん大きく、ますます丸くなってゆく。南イングランド航空クラブが土曜の午後に飛ばすため、膨らませている気球だった。
「毎週土曜に上がるんだ」と隣人の牛乳屋、ストリンガー氏はいった。「気球が飛ぶってんでロンドンじゅうの人間が見物に出たのが、つい昨日みてえなもんなのに、いまじゃ国じゅうのどんな小さな町でも、毎週お出かけだ。いや、お上がりっていうべきか。ガス会社にしちゃ、まったく救いの神だな。」
「先週の土曜にゃ、ジャガイモ畑から手押し車三杯ぶんの砂利を拾い出したぞ」とトム・スモールウェイズ氏はいった。「三杯だぞ! あいつらが重し代わりに積んで、捨ててったんだ。折られた株もありゃ、埋まっちまった株もある。」
「ご婦人も上がるそうじゃねえか!」
「ご婦人って呼んでやらにゃならねえんだろうな」とトム・スモールウェイズ氏はいった。
「だが、空を飛び回って人に砂利をぶつけるなんてのは、おれの考えるご婦人とは、どうにも違う。何にせよ、そういうのを女らしいと教わってはこなかったな。」
ストリンガー氏は賛成のしるしにうなずいた。二人はしばらく、膨らんでゆく巨体を見つめ続けた。顔つきはいつしか無関心から不賛成へと変わっていた。
トム・スモールウェイズ氏は職業としては八百屋、性分としては園芸家だった。小柄な妻のジェシカが店を切り盛りし、天は彼を平穏な世界に住まわせるつもりで造った。ところが困ったことに、彼のための平穏な世界までは造ってくれなかった。住んでいる世界では頑固なまでに絶え間なく変化が続き、しかも彼の住むあたりでは、その変化が容赦なく目についた。耕す土の中にさえ移り変わりは潜んでいた。庭そのものが一年契約の借地で、その上に影を落とす巨大な看板には、ここが庭であることよりも、いかに格好の建築用地であるかが大書されていた。立ち退きを通告された園芸、それが彼だった。新しいものや、よそのものが押し寄せる一帯に残る、最後の田舎のひとかけらだった。どうにか自分を慰め、そろそろ潮目も変わるはずだと思い込もうとしていた。
「いつまでも続くとは思えねえんだがな」と彼はいった。
スモールウェイズ氏の年老いた父親は、バン・ヒルがケントののどかな村だったころを覚えていた。五十歳までサー・ピーター・ボーンの御者を務め、その後は少々酒を飲むようになり、駅の乗合馬車を御して七十八歳まで働いた。それから引退した。いまは暖炉のそばに座っている。しなびた、ひどく、ひどく年老いた御者で、昔話を腹いっぱいにためこみ、うっかり近づく見知らぬ客をいつでも待ち構えていた。とうの昔に宅地に切り売りされ、姿を消したサー・ピーター・ボーンの屋敷と領地の話もできたし、あの地方がまだ田園だったころ、あの大人物がどう君臨していたかも語れた。鉄砲猟や狩猟、街道を走った馬車、「いまガス工場のあるところ」がクリケット場だったこと、クリスタル・パレス[訳注:1851年のロンドン万国博覧会のために建てられ、のち南郊に移築された巨大な鉄とガラスの建築物、水晶宮]がやってきたことも語れた。クリスタル・パレスはバン・ヒルから六マイルのところにあった。巨大な正面は朝日を浴びて輝き、午後には空を背にくっきり青い輪郭を浮かべ、夜ともなればバン・ヒルの住民みんなに、ただで花火を見せてくれた。その後、鉄道が来た。続いて郊外住宅が次々と建ち、それからガス工場と水道施設ができ、不格好な労働者住宅が大海のように広がった。次には排水設備が入り、オタボーン川の水が消えて、ひどい溝だけが残った。それから二つ目の駅、バン・ヒル・サウス駅ができ、家が増え、ますます増え、店も増え、競争も増え、大きな板ガラスの店先、学務委員会、地方税、乗合馬車、ロンドンのど真ん中まで行く路面電車、自転車、自動車、さらに自動車、カーネギー図書館が現れた。
「いつまでも続くとは思えねえんだがな」と、その驚異のただ中で育ったトム・スモールウェイズ氏はいった。
だが、進歩は続いた。ハイ・ストリートの外れ、昔の村家がまだ残るうちでも指折りに小さな一軒に彼が開いた八百屋は、初めからどこか沈みこんだ風情だった。何かに捜され、それから身を隠しているように見えた。ハイ・ストリートの歩道が整備された際に地面がかさ上げされたため、店へ入るには三段降りなければならなくなった。トムは種類こそ少ないが上等な自家製の作物だけを売ろうと精いっぱい努めた。ところが進歩が、あれこれと店の窓へ押しこんできた。フランス産のアーティチョークやナス、外国のリンゴ――ニューヨーク州のリンゴ、カリフォルニアのリンゴ、カナダのリンゴ、ニュージーランドのリンゴ。「見てくれはいいが、おれにいわせりゃイングランドのリンゴとは違う」とトムはいった――バナナ、見慣れぬ木の実、グレープフルーツ、マンゴー。
北へ南へと通り過ぎる自動車は、ますます馬力も性能も増し、うなりを上げて速く走り、臭いはひどくなった。姿を消す荷馬車に代わって、石炭や小包を配達する、がらがらと騒々しい大型のガソリン運搬車が現れ、自動車バスが乗合馬車を追い払った。夜中にロンドンへ運ばれるケントのイチゴさえ機械仕掛けに頼るようになり、きいきいではなく、がたがた音を立て、進歩とガソリンのせいで風味まで変わってしまった。
そして今度は、若いバート・スモールウェイズがオートバイを手に入れた……。
2
ここで説明しておく必要があるが、バートは進歩的なスモールウェイズだった。
いまの時代の進歩と拡張が、いかに容赦なく押し寄せるか。それがスモールウェイズ家の血にまで入りこんだという以上に雄弁な証拠はない。もっとも、この若いスモールウェイズには、幼児服を卒業する前から、先進的で冒険好きなところがあった。五歳になる前に丸一日行方不明になり、七歳になる前には新しい水道施設の貯水池で溺れかけた。十歳のときには、本物の拳銃を本物の警官に取り上げられた。喫煙を覚えたのも、トムのようにパイプや茶色い紙や葦の茎を使ってではなく、一ペニーの箱入り「ボーイズ・オブ・イングランド」アメリカ紙巻きたばこでだった。十二歳になる前にその言葉遣いで父親を仰天させ、そのころには駅で荷物運びの客をつかまえたり、『バン・ヒル・ウィークリー・エクスプレス』を売ったりして、週に三シリング以上を稼いでいた。その金を『チップス』『コミック・カッツ』『アリー・スローパーの半休日』といった漫画雑誌、たばこ、そのほか愉快で開明的な暮らしに付きものの品々に使っていた。しかも、これらは学業を少しも妨げず、並外れて早く第七学年にまで進んだ。こうしたことを記しておくのは、バートがどんな素質の持ち主だったか、読者に疑いを残さないためである。
バートはトムより六歳年下だった。トムが二十一歳で、奉公に出ていくらか金をためていた三十歳のジェシカと結婚したとき、しばらく弟を八百屋で役立てようという試みがなされた。だが、役立てられるのはバートの得意技ではなかった。土を掘るのが大嫌いで、配達する野菜の籠を渡されると、遊牧民の本能が抑えようもなく頭をもたげた。籠は旅の荷物と化し、届け先にさえ行かなければ、どれほど重かろうと、どこへ持っていこうと気にしないらしかった。世界は魅惑に満ち、そのあとを追って、籠もろともさまよってしまう。そこでトムは自分で配達に出ることにし、弟の性分にひそむこの詩情を知らない雇い主を探した。バートはいくつもの商売の縁を次々とかすめていった。服地屋の荷運び、薬局の小僧、医者の給仕、ガス配管工の下っ端助手、封筒の宛名書き、牛乳配達の助手、ゴルフのキャディー、そしてついに自転車屋の手伝いとなった。ここでようやく、生来求めていた進歩的な性質に出会ったらしい。雇い主はグラブという、海賊の魂を宿した若者だった。昼は顔を黒く汚し、夜はミュージックホール通を気取り、特許もののてこ式チェーンを夢見ていた。バートの目には、気骨ある紳士の理想の手本と映った。グラブは南イングランドじゅうで最も汚く、最も危険な自転車を貸し出し、その結果起きる議論を驚くほど威勢よくさばいた。二人はすっかり馬が合った。バートは住みこみ、曲乗り師に近い腕前を身につけた。あなたや私なら乗った瞬間ばらばらになる自転車で、何マイルも走れたのである。仕事が終わると顔を洗うようになり、余った金は目を引くネクタイと襟、たばこ、それからバン・ヒル学習会館の速記教室に使った。
ときおりトムの家へ顔を出すと、その身なりも話しぶりも実に華やかだったので、もともと誰でも何でも敬いたがるトムとジェシーは、弟をたいそう尊敬するようになった。
「バートは進んだやつだ」とトムはいった。「なかなか物を知ってる。」
「知りすぎてないといいけどね」と、分というものをよく心得ているジェシカはいった。
「時代が進んでるんだ」とトムはいった。「新ジャガが、それもイングランド産が、この調子で進んだら三月に出回るようになるぞ。こんな時代は初めてだ。昨日の晩のあいつのネクタイ、見たか?」
「あの子には似合わないよ、トム。あれは紳士のネクタイだもの。ネクタイに追いついてないのよ、ほかのところが。ちぐはぐだったわ」……
やがてバートは、帽子も徽章もそろったサイクリング服を手に入れた。頭を下げ、ハンドルを下げ、背骨を丸めて、グラブとブライトンへ出かけていく――そして戻ってくる――姿を見れば、スモールウェイズ家の血にどんな可能性がひそんでいたのか、目を開かれる思いがした。
進んだ時代だった!
老スモールウェイズは暖炉にあたりながら、過ぎ去った時代の偉大さをぶつぶつ語った。二十八時間でブライトンまで馬車を走らせて往復した先代サー・ピーターのこと、先代の白いシルクハットのこと、庭を散歩するとき以外には地面に足をつけなかったレディ・ボーンのこと、クローリーの盛大な懸賞拳闘試合のこと。赤い狩猟服と豚革の半ズボンの話をし、いまでは州議会の貧困者向け精神病院になっているリングズ・ボトムの狐の話、レディ・ボーンの更紗やクリノリン[訳注:裾を大きく広げるための枠入りペチコート]の話をした。誰も耳を貸さなかった。世界はまったく新しい種類の紳士を生み出していた。ひどく紳士らしからぬ精力に満ち、埃だらけの油布の服と自動車用ゴーグルと奇抜な帽子を身につけた紳士。悪臭を振りまく紳士。自分が絶えず立てる埃と悪臭から、絶えず街道を逃げ続ける、高級で俊足のアナグマ。そのご婦人も、バン・ヒルから見かけるかぎりでは、風雨にさらされた女神であり、ジプシーさながら上品さから自由だった。服を着ているというより、高速輸送用に荷造りされているのだった。
こうしてバートは、速さと冒険心を理想として育ち、何かになったといえる範囲では、「ちょっと見せてみな」といって塗装をはがしてしまう類いの、自転車技師のようなものになった。ギア比百二十インチ[訳注:自転車の変速比を車輪の直径に換算して表す値]のロードレーサーでさえ満足できず、ますます埃っぽく、機械の往来が混み合う街道を時速二十マイルで走りながら、しばらくはむなしく憧れに焦がれていた。だが、ついに貯金がたまり、好機が来た。割賦販売が資金の不足を埋めてくれた。晴れた、記念すべきある日曜の朝、新たな愛車を店の中から道路へ押し出し、グラブの助言と手助けでまたがると、プッ、プッと音を立て、交通に痛めつけられた街道の霞の中へ走り去った。南イングランドの快適な暮らしに、自発的な公害がまた一つ加わったのである。
「ブライトンへお出かけか!」と老スモールウェイズはいった。八百屋の二階の居間の窓から末息子を見やる顔には、誇らしさと不賛成が半々に浮かんでいた。「わしがあいつの年ごろには、ロンドンにも行ったことはなかった。クローリーより南にも行ったことはなかった。歩いて行けねえところへは、一人じゃどこにも行かなかったもんだ。誰も行きやしなかった。お屋敷の方々でもなきゃな。いまじゃ誰もが、どこへでもお出かけだ。いまいましい国じゅうが、ばらばらになって飛んでくみてえだ。みんな帰ってこられるのが不思議だわい。ブライトンへお出かけとはね! 馬を買うやつなんぞ、まだいるのか?」
「おれがブライトンへ行ったとはいえねえだろ、父さん」とトムはいった。
「行きたいとも思わないしね」とジェシカがぴしゃりといった。「走り回って、お金を使うだけじゃないか。」
3
しばらくのあいだ、オートバイの可能性に心を奪われたバートは、努力をやめぬ人間の魂が、別の新しい方向に活躍と活力の場を見いだしつつあることに気づかなかった。自動車の型が、自転車と同じように落ち着き、冒険的な性質を失いつつあることも見逃した。実のところ、驚くべきことだが、この新しい展開を最初に察知したのはトムだった。園芸のために空を気にしていたうえ、絶えず気球が上がるバン・ヒルのガス工場とクリスタル・パレスが近くにあり、やがてジャガイモ畑に重しの砂利が降ってくるに及んで、変化の女神が今度は空へと不穏な目を向けている事実を、不本意ながら認めざるをえなくなった。最初の大きな航空ブームが始まっていたのである。
グラブとバートはミュージックホールでその話を聞き、次いで活動写真によって心に刻みつけられた。それからバートは、航空文学の古典、ジョージ・グリフィス氏の『雲のクリッパー』の六ペンス版に想像力をかき立てられ、こうして二人はすっかりその虜になった。
初めのうち最も目立ったのは、気球の増加だった。バン・ヒルの空には気球がはびこり始めた。とくに水曜と土曜の午後には、十五分も空を眺めていれば、どこかに気球を見つけないことはまずなかった。そしてある晴れた日、クロイドンへオートバイを走らせていたバートは、クリスタル・パレスの敷地から巨大な長枕形の怪物がせり上がってくるのに目を奪われ、降りて見物せずにはいられなかった。鼻の折れた長枕のような形で、その下には、それに比べると小さな堅い骨組みがあり、人間一人とエンジンを載せていた。前ではプロペラがびゅんびゅん回り、後ろには帆布の舵らしきものがついていた。その骨組みが、気乗りしないガスの筒を引きずっているように見えた。元気な小さなテリアが、ガスで膨れた内気な象を引っ張って社交界へ連れ出すようなものだった。この合体した怪物は、たしかに進み、方向を変えた。おそらく千フィートほどの頭上を通り――バートにはエンジンの音が聞こえた――南へ飛び、丘の向こうへ消え、やがてはるか東に小さな青い輪郭となって再び現れた。今度は南西からのほどよい強風に乗ってずいぶん速く進み、クリスタル・パレスの塔の上へ戻ってくると、その周囲を回り、着陸場所を選んで、見えないところへ沈んでいった。
バートは深いため息をつき、再びオートバイに向き直った。
そして、それは空に次々と現れる奇怪なものの、ほんの始まりにすぎなかった。円筒、円錐、洋梨形の怪物、ついには見事にきらめくアルミニウム製のものまで現れた。グラブは装甲板についての知識を何かと混同して、その最後のものを兵器だと考えたがった。
続いて、本物の飛行が現れた。
もっとも、これはバン・ヒルから見られるものではなかった。私有地や、そのほか囲われた場所で、しかも条件のよいときに行われるものだったので、グラブとバート・スモールウェイズが実感できたのは、半ペニー新聞の読み物欄や活動写真の記録を通してだけだった。しかし、それはしつこいほど繰り返し伝えられた。当時、公共の場所で、誰かが大声で人を安心させるように、自信たっぷりに「必ず来るさ」といっていたなら、十中八九は飛行の話だった。そこでバートは箱の蓋を手に入れ、店頭の札にふさわしい書体で文字を書いた。グラブが窓に出した文句は、「飛行機製作・修理承ります」だった。
トムはひどくうろたえた。自分の店をあまりにも軽く扱っているように思えたのだ。だが近所の大半、とりわけスポーツ好きはみな、実にいいと褒めた。
誰もが飛行について語り、誰もが何度も「必ず来る」と繰り返した。それなのに、実際には来なかった。つまずきがあった。飛んだことはたしかだった。空気より重い機械で飛んだ。だが、墜落した。エンジンを壊すこともあれば、飛行家を壊すこともあり、たいていは両方だった。三、四マイル飛んで無事に降りてきた機械が、次に飛び立つと真っ逆さまに惨事へ突っこんだ。どうにも信頼の置きようがないらしかった。そよ風でひっくり返り、地表近くの渦風でひっくり返り、飛行家の心をふとよぎった考えでひっくり返った。そのほかにも、ただもう、ひっくり返った。
「この『安定性』ってやつにやられるんだ」とグラブは新聞の受け売りをした。「ぐらぐら揺れて、揺れて、揺れたあげくにばらばらになる。」
こうした成功に期待をかけた二年ののち、実験は下火になった。大衆が、次いで新聞が、費用のかさむ写真版や楽観的な報告、成功と惨事と沈黙の果てしない繰り返しに飽きた。飛行は不振に陥り、気球熱さえいくらか衰えた。それでも気球はかなり人気のあるスポーツとして残り、バン・ヒルのガス工場の荷場から砂利を空へ運び上げては、まっとうな人々の芝生や庭へ落とし続けた。トムにとっては、少なくとも飛行に関するかぎり、六年ほど安心できる年月が過ぎた。しかし、それはモノレール大発展の時代でもあった。高い空から彼の不安をそらしたのは、もっと低い空に迫る、差し迫った変化の脅威と兆候にすぎなかった。
モノレールは数年前から話題になっていた。だが、本格的な災いが始まったのは、ブレナンが王立協会にジャイロスコープ式モノレール車両を突如披露したときだった。1907年の夜会では最大の呼び物となり、名高い実演室も展示にはあまりに狭かった。勇敢な軍人、有力なシオニスト、立派な小説家、高貴な婦人が狭い通路にひしめき合い、名士の肘が、世間ならそう簡単には折らせまいとする肋骨に食いこんだ。「レールをほんのちょっとでも」見られれば幸運だと思っていた。
声は聞こえなくても説得力は十分に、この偉大な発明家は発見を説明し、未来の列車の従順な小模型を、坂道へ、曲線へ、たるんだ針金の上へと走らせた。一直線に並ぶ車輪で一本のレールを走る。簡単にして十分だった。止まり、後退し、完璧に釣り合ったまま静止した。万雷の拍手の中でも、その驚くべき平衡を保った。聴衆はやがて散っていき、一本のワイヤーで深い谷を渡るのを、どこまで楽しめるか論じ合った。「ジャイロスコープが止まったらどうする!」
ブレナンのモノレールが、自分たちの持つ鉄道証券と世界の姿に及ぼす影響を、その十分の一でも予想した人はほとんどいなかった。
数年のうちに、彼らにもよくわかってきた。ほどなく、ワイヤーで深い谷を越えることなど誰も気にしなくなり、モノレールは路面電車や鉄道、実際には機械輸送のためのあらゆる軌道を置き換えていった。土地の安いところではレールは地上を走り、高いところでは鉄の支柱に持ち上げられて頭上を通った。速く便利な車両はどこへでも行き、かつて地上に造られた道に沿って行われていたことを、すべてこなした。
老スモールウェイズが死んだとき、トムが父について思いついたいちばん印象的な言葉は、こうだった。「父さんが子供のころは、煙突より高いものなんかなかったんだ。空には電線もケーブルも一本もなかった!」
老スモールウェイズは、電線とケーブルの入り組んだ網の下を通って墓へ運ばれた。バン・ヒルは小規模ながら配電の中心地となり――ホーム・カウンティーズ配電会社が古いガス工場のすぐそばに変圧器と発電所を設けた――しかも郊外モノレール網の分岐点にもなっていたからである。そのうえ、町の商店はどこも、実際にはほとんどすべての家が、自分の電話を持っていた。
モノレールのケーブル支柱は、町の景観に際立った存在となった。たいていは先細りの脚台に似た、頑丈な鉄の構造物で、明るい青緑色に塗られていた。その一つが、よりによってトムの家をまたいでいた。家はその巨大な足元で、いっそう引っ込み思案で、申し訳なさそうに見えた。別の巨人は、庭の隅を少し入ったところに立っていた。庭にはまだ建物が建たず、広告看板が二枚増えたほかは変わっていなかった。一枚は二シリング六ペンスの時計を、もう一枚は神経の強壮薬を勧めていた。ちなみにこの看板は、頭上を通るモノレールの乗客の目に入るよう、ほとんど水平に置かれていたので、トムの道具小屋とキノコ小屋の屋根として立派に役立った。昼も夜も、ブライトンやヘイスティングズからの高速車両が、うなりながら頭上を通り過ぎた。長く幅広く、居心地のよさそうな車両で、日暮れ後は明るく照らされていた。夜に走り抜けると、光が一瞬ぱっと広がり、通過音がごろごろ響き、下の通りには夏の稲妻と雷雨がひっきりなしに続いた。
やがてイギリス海峡にも橋が架かった。エッフェル塔のような巨大な鉄の支柱を並べ、水面から百五十フィートの高さでモノレールのケーブルを渡したもので、中央近くでは、ロンドンやアントワープへ出入りする船やハンブルク・アメリカ航路の客船を通すため、さらに高くなっていた。
それから大型自動車が、前後に並んだたった二つの車輪で走り回るようになった。これにはなぜかトムはひどく動揺し、最初の一台が店の前を通ってから数日間、ふさぎこんでしまった……。
こうしたジャイロスコープとモノレールの発展は、当然ながら世間の関心を大量に吸い取った。それに加えて、海底探鉱家ミス・パトリシア・ギディがアングルシー島沖で驚くべき金鉱を発見し、大騒ぎとなっていた。彼女はロンドン大学で地質学と鉱物学の学位を取得し、短い休暇を女性参政権運動に費やしたのち、北ウェールズの含金岩を調べているうちに、これらの鉱脈が海底でも再び露出しているのではないかと思いついた。アルベルト・カッシーニ博士の発明した海底走行艇を使い、その推測を確かめようとしたのである。女性特有の推理と直感が幸いにも結びつき、最初の潜航で金を発見した。三時間の潜航を終えて浮上したときには、約二ハンドレッドウェイト[訳注:イギリスでは一ハンドレッドウェイトは112ポンド]の鉱石を持ち帰った。そこには一トンにつき十七オンスという、前例のない量の金が含まれていた。しかし、彼女の海底採鉱の全貌は、きわめて興味深いとはいえ、別の機会に語らなければならない。ここでは、その結果として物価、景気への信頼、事業熱が大きく高まる中、飛行への関心がよみがえったとだけ記せば十分だ。
4
その復活の始まり方は奇妙だった。静かな日に風が吹き始めるようなものだった。何かが起こしたのではなく、ただ、やってきた。人々は、片時も話題から外したことがなかったような顔で、飛行について話し始めた。飛行や飛行機の絵が新聞に戻り、堅い雑誌でも記事や言及がますます増えた。モノレールの車内では人々が尋ねた。「いつになったら空を飛べるんだろう?」
新たな発明家たちが、一夜ほどでキノコのように生えてきた。航空クラブは、ホワイトチャペルの貧民街の撤去で空いた広大な敷地で、大飛行博覧会を開く計画を発表した。
押し寄せる波は、ほどなくバン・ヒルの店にも共鳴するさざ波を生んだ。グラブは飛行機の模型をまた引っ張り出し、店の裏庭で試し、どうにか飛行らしきことをさせ、庭を一つ隔てた温室のガラスを十七枚、植木鉢を九つ壊した。
そして、どこからともなく生まれ、何に支えられているのかもわからないまま、不穏なしつこい噂が広がった。問題はもう解決した、秘密はすでにわかっている、というのである。バートがそれに出会ったのは、店を早じまいしたある午後、オートバイで出かけたナットフィールド近くの宿屋で一息ついていたときだった。カーキ色の服を着た工兵が、たばこを吸いながら物思いにふけっていたが、やがてバートの愛車に興味を示した。頑丈な機械で、この変化の速い時代には、ある種の史料的価値を備えるに至っていた。すでにほぼ八年物だったのである。特徴をひととおり話し合うと、兵士は新しい話題を切り出した。「おれの次は飛行機になりそうだ。もう道路や街道はたくさんだよ。」
「口じゃ何とでもいえるさ」とバートはいった。
「口だけじゃなく、やってるんだ」と兵士はいった。
「もうすぐ来るぞ――」
「ずっと来る来るっていってるじゃねえか」とバートはいった。「見たら信じるよ。」
「そう先のことじゃない」と兵士はいった。
話は、穏やかな言い争いへと落ちこんでいくようだった。
「飛んでるっていってるんだ」と兵士は言い張った。「この目で見た。」
「そりゃ誰だって見たさ」とバートはいった。
「ちょっと浮いてぶっ壊れるやつじゃない。ほんとの、安全で、安定した、操縦の利く飛行だ。風に逆らって、立派にちゃんと飛ぶんだ。」
「そんなもの見たわけねえ!」
「見たんだよ! オールダーショットで。秘密にしてるんだ。もうできてる。賭けてもいい、うちの陸軍省も今度ばかりは居眠りして出し抜かれたりしないぞ。」
バートの疑いは揺らいだ。質問すると、兵士はますます饒舌になった。
「一平方マイル近く、囲ってあるんだ。谷みたいな場所さ。高さ十フィートの有刺鉄線の柵があって、その中でいろいろやってる。野営地の連中は、ときどきちらっと見られるんだ。うちだけじゃないぞ。日本人もいる。あいつらだって、きっと持ってる。ドイツ人もな!」
兵士は両足を大きく開いて立ち、考え深げにパイプへたばこを詰めた。バートは、オートバイを立てかけた低い塀に腰をかけていた。
「戦争も妙なことになるな」と彼はいった。
「飛行ってやつが、一気に噴き出すんだ」と兵士はいった。「いよいよ来たとき、幕が上がったときにはな、舞台の上にみんなそろってるんだよ。せっせとやってる……。戦いだって大変なものになる! ……こういう話は、新聞じゃ読まないんだろう?」
「少しは読むよ」とバートはいった。
「じゃあ、発明家失踪の怪事件とでもいうべきものに気づかなかったか? 鳴り物入りで現れて、実験を二、三回成功させると、消えちまう発明家だよ。」
「気づいたとはいえねえな」とバートはいった。
「おれは気づいたね。誰だろうと、この方面で目を引くことをやってのけると、必ず消える。静かに、見えないところへ行っちまう。しばらくすると、話もまるで聞かなくなる。わかるか? 消えるんだ。行方不明、転居先不明さ。初めは――もう古い話になったが――アメリカのライト兄弟だった。滑空してた。何マイルも何マイルも滑空してた。とうとう舞台の外へ滑空していった。あいつらが消えたのは、1904年か、五年だったかな! そのあとアイルランドの連中がいた――いや、名前は忘れた。みんな、あいつらは飛べるっていってた。そいつらも消えた。死んだとは聞いてないが、生きてるともいえない。羽一本、見えやしない。それからパリを飛び回って、セーヌ川にひっくり返った男。ド・ブーリーだっけ? 忘れたな。事故は起こしたが、あれは見事な飛行だった。それで、やつはどこへ行った? 事故じゃ怪我もしなかったんだ。え? あいつも隠れちまった。」
兵士はパイプに火をつけようとした。
「秘密結社にでも捕まったみたいだな」とバートはいった。
「秘密結社だって! 違うね!」
兵士はマッチを擦り、煙を吸った。「秘密結社ね」と、パイプをくわえたまま繰り返した。言葉につれてマッチの炎が揺れた。「陸軍省だろうよ。そのほうが当たりだ。」
マッチを投げ捨て、自分の車へ歩いていった。「いいかね」と彼はいった。「ヨーロッパでも、アジアでも、アメリカでも、アフリカでも、大国と名のつく国で、いま飛行機を少なくとも一、二機、袖に隠してないところは一つもない。一つもだ。本物の、ちゃんと使える飛行機だよ。それに、あのスパイ合戦! ほかが何を持ってるか探ろうと、嗅ぎ回ったり手を回したり。いまじゃ外国人は、いや、それどころか許可証のない自国民だって、リッドの四マイル以内には近寄れないんだ。オールダーショットのうちの小さな曲芸場や、ゴールウェーの実験野営地はいうまでもない。近寄れやしない!」
「まあ」とバートはいった。「とにかく、そのうち一つでいいから見たいもんだ。信じる助けにな。見たら信じるよ、それは約束する。」
「嫌でもすぐ見られるさ」と兵士はいって、車を道へ押し出した。
あとに残されたバートは塀の上で、帽子を後頭部へずらし、口の端で紙巻きたばこをくゆらせながら、真顔で考えこんでいた。
「あいつの話がほんとなら」とバートはいった。「おれとグラブは、ありがたい時間を無駄にしてたってわけか。そのうえ、あの温室代までかかってる。」
5
兵士との不思議な会話が、まだバート・スモールウェイズの想像力を刺激していたころ、飛行の到来という、人類史の劇的な一章を通じて、最も驚くべき出来事が起きた。人々は画期的な事件という言葉を気軽に使うが、これこそ画期的な事件だった。アルフレッド・バタリッジ氏が、空気より重い、いかにも実用的な小型機で、クリスタル・パレスからグラスゴーへ、そしてまた戻る飛行を、予告なしに完全な成功のうちにやってのけたのである。その機械は自在に扱えて操縦でき、鳩に劣らず飛べた。
これは新たな一歩というより、巨人のひとまたぎ、跳躍だと感じられた。バタリッジ氏の総滞空時間はおよそ九時間で、そのあいだ鳥のように悠々と、確実に飛び続けた。だが機械そのものは、鳥にも蝶にも似ておらず、普通の飛行機のように横へ大きく広がってもいなかった。見る者には、むしろミツバチやスズメバチのように映った。装置の一部がきわめて速く回転し、半透明の翅のようにぼやけて見えたが、別の部分、とくに独特に曲がった二枚の「翅鞘」――飛ぶ甲虫になぞらえた言い方を許されるなら――は、硬く張り出したままだった。中央には蛾の胴のような長く丸い本体があり、その上にバタリッジ氏が、馬に乗るのとほとんど同じ格好でまたがっているのが見えた。飛行中の装置は、窓ガラスにぶつかるスズメバチそっくりの低いぶんぶんいう音を立てたので、ますますスズメバチに似ていた。
バタリッジ氏は世界の不意を突いた。人類を刺激するために、運命がいまだにどこからともなく登場させる、素性の知れぬ紳士の一人だった。オーストラリアから来たとも、アメリカから来たとも、南フランスから来たともいわれた。金のペン先とバタリッジ万年筆の製造で、かなりの財産を築いた男の息子とも報じられたが、これはまるで誤りだった。そちらはまったく別系統のバタリッジ家だった。大きな声、大きな体、威圧的な横柄さ、容赦のない態度にもかかわらず、彼は数年来、既存の航空団体の大半で、目立たぬ一会員にとどまっていた。ところがある日、ロンドンの全新聞に手紙を書き、飛行の行く手に残っていた難問がついに解決したことを十分に証明する機械を、クリスタル・パレスから飛ばす手はずを整えたと発表した。その手紙を載せた新聞はわずかで、主張を信じた人はさらに少なかった。ピカデリーの一流ホテルの玄関階段で、私的な事情からドイツの著名な音楽家を乗馬鞭で打とうとして騒ぎを起こし、予告した飛行が延期されても、誰も興奮しなかった。喧嘩の報道はお粗末で、名前もベタリッジやベトリッジとまちまちに綴られた。実際、飛ぶその日まで、世間の意識の中に存在していなかったし、どうしても存在できなかった。大騒ぎしたにもかかわらず、夏のある朝、六時ごろ、機械を組み立てていた大きな格納小屋の扉が開いたとき、待ち受けていた者は三十人もいなかった。その小屋は、クリスタル・パレスの敷地にある巨大なメガテリウム[訳注:絶滅した大型の地上性ナマケモノ]の模型の近くにあった。そこから巨大な昆虫が、無関心で疑い深い世界へ、ぶんぶん唸って飛び出してきたのである。
だが、クリスタル・パレスの塔を二周し終える前に、名声の女神はもうラッパを持ち上げていた。トラファルガー広場のベンチで眠る浮浪者たちが、ぶんぶんいう音に驚いて目を覚まし、ネルソン記念柱の周囲を旋回する彼を見上げたとき、女神は深く息を吸いこんだ。そして十時半ごろ、彼がバーミンガム上空を横切るころには、その耳をつんざくラッパの音が国じゅうに響き渡っていた。もはや望みなしと思われたことが、成し遂げられたのだ。
人間が、安全に、見事に飛んでいた。
スコットランドは口をあんぐり開けて到来を待っていた。グラスゴーへは一時までに到着したが、あの忙しい産業の巣窟で、二時半前に仕事を再開した造船所や工場は、ほとんどなかったと伝えられる。世間はちょうど、飛行がいかに不可能かを十分教えこまれ、バタリッジ氏の真価がわかるようになっていた。彼は大学の建物を一周し、ウェスト・エンド・パークやギルモアヒルの斜面の群衆に声が届く高さまで降りた。機械は時速三マイルほどで、大きな円を描きながら、きわめて安定して飛んだ。低いうなりは、もし拡声器を持っていなければ、彼の豊かによく響く声さえ完全にかき消しただろう。会話をしながら、教会や建物やモノレールのケーブルを、実にやすやすと避けていた。
「わしの名はバタリッジだ」と叫んだ。「B・U・T・T・E・R・I・D・G・E。――わかったか? 母はスコットランド人だ。」
ちゃんと伝わったのを確かめると、歓声と叫びと愛国的な掛け声を浴びながら上昇し、それから長くゆるやかに上下へうねり、驚くほどスズメバチらしい飛び方で、いとも軽々、すさまじい速さで南東の空へ去っていった。
ロンドンへの帰還――途中でマンチェスター、リヴァプール、オックスフォードを訪れ、それぞれの上空にとどまって名前の綴りを教えた――は、空前の興奮を呼び起こした。誰もが空を見上げていた。その一日で街頭で車にひかれた人は、それまでの三か月間より多かった。州議会の汽船アイザック・ウォルトン号はウェストミンスター橋の橋脚に衝突し、折から干潮だった南岸の泥地に乗り上げて、かろうじて惨事を免れた。日没ごろ、彼は航空冒険の由緒ある出発点、クリスタル・パレスの敷地へ戻り、無事に小屋へ入ると、帰還を待っていた写真家や新聞記者を締め出し、ただちに扉に鍵をかけさせた。
「いいか、諸君」と、助手が扉を閉めるあいだにいった。「くたくただし、尻は鞍ずれだ。一言も話せん。もう――へとへとだ。名前はバタリッジ。B・U・T・T・E・R・I・D・G・E。間違えるな。わしは大英帝国のイングランド人だ。明日ならみんなに話そう。」
その場面を記録するぼやけたスナップ写真が、いまも残っている。手帳を持ったりカメラを掲げたりし、山高帽と威勢のよいネクタイを着けた、押しの強い若者たちの海の中で、助手が奮闘している。本人は戸口にそびえ立つ大男で、巨大な黒い口髭の下の雄弁な空洞――口――を、容赦のない報道の使徒たちへ叫ぶために歪めている。国じゅうで最も有名な男が、そこにそびえている。
ほとんど象徴のように、左手に拡声器を持ち、それを振り回して身振りをしている。
6
トムとバートのスモールウェイズ兄弟は、どちらもこの帰還を見た。クリスタル・パレスの花火を何度となく眺めた、バン・ヒルの頂上から見守った。バートは興奮し、トムは落ち着いて鈍重なままだったが、この始まりが生み出すものに、自分たちの暮らしがどれほど侵されるかは、どちらもわかっていなかった。「これでグラブのやつも、ちっとは店に身を入れるかな」とバートはいった。「あのいまいましい模型も火にくべてさ。もっとも、シュタインハルトへの払いを乗り切らなきゃ、それでも助からねえけど。」
バートには、世間のことも航空の難問も十分わかっていたので、この巨大な蜂の模造品が、自分流の言い方をすれば、「新聞にひきつけを起こさせる」ことは察しがついた。
翌日、まさにそのとおりのひきつけが起きているのが明らかになった。読み物欄は急ごしらえの写真で真っ黒、文章は痙攣し、見出しは泡を吹いていた。その翌日はさらに悪くなった。一週間もたたぬうちに、新聞は発行されるというより、悲鳴を上げながら街へ担ぎ出されていた。
大騒ぎの中心にあったのは、バタリッジ氏の並外れた人物ぶりと、機械の秘密と引き換えに突きつけた途方もない条件だった。
というのも、それは秘密であり、彼はきわめて念入りに秘密を守ったからだ。クリスタル・パレスの大きな小屋の、人目を遮る安全な場所で、ろくに注意を払わない職人たちを助手にして、自分で機械を造り上げた。飛行の翌々日には、たった一人で解体し、一部を梱包したうえで、残りは事情をのみこめない者たちを手伝わせ、荷造りして分散させた。封をした荷箱は、北へ東へ西へと、さまざまな大型倉庫へ送られ、エンジンにはとりわけ慎重な梱包が施された。機械の写真や見聞談を求める激烈な需要を考えれば、こうした用心も的外れではないことが明らかになった。だがバタリッジ氏は、ひとたび実演を済ませた以上、秘密をこれ以上の漏洩の危険にはさらさないつもりだった。いまやイギリス国民に向かって、秘密が欲しいのか、欲しくないのかと問いかけていた。自分は「大英帝国のイングランド人」だと絶えずいい、最初から最後まで願いは一つ、発明を帝国だけの特権、独占物にしたいのだといった。ただし――。
難問はそこから始まった。
バタリッジ氏は、見せかけの謙遜とはまったく無縁の男であり――実際、どんな種類の謙遜とも無縁だった――取材を受けることにも、航空以外のどんな話題の質問に答えることにも、意見、批判、自伝を自発的に披露することにも、自分の肖像画や写真を提供することにも、要するに地上の空いっぱいに自分という人物を広げることにも、ことのほか熱心だとわかってきた。掲載される肖像は、第一に巨大な黒い口髭を、第二にその背後の獰猛さを強調していた。そのため大衆はおおむね、バタリッジは小男だと思っていた。大きな男に、あんな毒々しく喧嘩腰の表情はできまいと思われたのである。実際には身長六フィート二インチで、体重もそれにまったく釣り合っていた。さらに彼は、大がかりで並外れ、しかも型にはまらない事情を伴う恋愛をしていた。そして、まだおおむね品行方正だったイギリスの大衆は、飛行の安定性をもたらす値のつけようもない秘密を大英帝国が独占するには、この恋愛問題を同情的に扱うことが不可欠だと知って、気まずさと驚きを覚えた。その事情の正確な細部は明らかにならなかったが、どうやら相手の女性は、高潔な心からうっかり、バタリッジ氏の未公表の談話を引用すれば、「腰抜けのスカンク」と結婚式を挙げてしまっていたらしい。そして、この動物学上の異変が、法律にかかわる厄介なかたちで、彼女の社会的な幸福を損なっていた。彼はこの件を話したくてたまらず、その込み入った事情に照らして、彼女の気性のすばらしさを示したがった。もともと沈黙を守る才能に恵まれ、いま風に個人的な話を欲しがりながらも、あまりに個人的な話は望まない新聞界にとって、これは実に困ったことだった。バタリッジ氏の偉大な心臓を容赦なく突きつけられ、自らを生体解剖する手によってそれが切り開かれ、脈打つ中隔のあちこちに強調の旗札を立てられるのを見るのは、繰り返すが、困ったことだったのである。
それでも突きつけられ、逃げ道はなかった。尻込みする記者たちの前で、彼はこの恐ろしい臓物をどくどく脈打たせた。大きな懐中時計と小さな赤ん坊を持った叔父でも、これほど執拗に同じ話を繰り返すことはあるまい。どんな逃げ口上も退けた。「わしは自分の愛を誇りとする」といい、必ず書き留めさせた。
「もちろん、それは私事でしょう、バタリッジさん」と記者たちは異議を唱えた。
「だがね、受けている不正は公の問題だ。相手が制度だろうと個人だろうと、わしは気にせん。全宇宙を敵に回そうと気にせん。わしは一人の女性のために訴えているのだ。わしが愛しておる女性だよ、君。高貴な女性なのだ。誤解されておる。わしは彼女の潔白を、天地の四方に向かって示すつもりだ!」
「わしはイングランドを愛しておる」と彼はよくいった。「イングランドを愛しておる。だが清教徒主義はね、君、大嫌いだ。嫌悪でいっぱいになる。吐き気がする。わし自身の場合を見たまえ。」
彼は容赦なく心情を訴え、取材記事の校正刷りを見せろと要求した。恋の雄叫びや身振りが十分に伝わっていなければ、大きなインクまみれの殴り書きで、省かれたものを残らず、いや、それ以上に書き加えた。
イギリスの新聞界にとって、これは奇妙なほど厄介な事態だった。これほど見え透いて、つまらない恋愛沙汰はかつてなく、型破りな恋の物語が、これほど興味も同情もなく世間に聞かれたこともなかった。他方、その発明にはきわめて強い関心が寄せられていた。ところが擁護する女性の話から、ほんの一瞬そらすことができても、バタリッジ氏は主として母と子供時代の話をした。声にはたいてい、優しい涙がにじんでいた。その母は、母性の美徳の百科全書をすべて備えたうえ、仕上げに「おおかたスコットランド人」だったのである。
生粋とまではいかないが、ほぼそうだった。「わしのすべては母のおかげだ」と断言した。「何もかもだ。ええ!」そして、「何かを成し遂げた男に聞いてみたまえ。同じ答えが返ってくる。われわれの持つものは、すべて女性のおかげだ。種を体現するのは女性なのだ、君。男など夢にすぎん。来ては去る。女の魂こそ、われらを高みへ、前へと導くのだ!」
いつもそんな調子だった。
秘密と引き換えに政府から具体的に何を望んでいるのかは、わからなかった。そもそもこの種の問題で、現代国家に金銭以外の何を期待できるのかも不明だった。分別ある観察者たちの総じての印象では、何かを交渉しているというより、前代未聞の機会を利用して、注目する世界に怒鳴り散らし、自慢しているのだった。正体についての噂が広まった。ケープタウンのいかがわしいホテルの主人で、パリサーという、ひどく内気で身寄りのない若い発明家を泊めてやり、その実験を見届けた末、書類と設計図を盗んだというのだ。その発明家は肺病が重くなってからイングランドより南アフリカへ渡り、そこで死んだのだという。少なくとも、歯に衣着せぬアメリカの新聞はそう主張した。だが、それを裏づける証拠も、否定する証拠も、世間には届かなかった。
バタリッジ氏はまた、多数の高額賞金の受領をめぐる、もつれ合った紛争に熱を上げた。その中には、早くも1906年に動力飛行の成功を条件として提示されたものもあった。彼が成功するころには、この手の先駆者たちが一度も払わずに済んでいるのに誘われて、実に多くの新聞が賞金を約束していた。マンチェスターからグラスゴーへ、ロンドンからマンチェスターへ、イングランドで百マイル、二百マイルと、最初に飛んだ者へ支払う額は、場合によっては圧倒的なものだった。大半は曖昧な条件で少々逃げ道を設けており、いまになって抵抗した。一、二紙はすぐに払い、その事実を声高に宣伝した。バタリッジ氏は、より頑固な新聞社を相手に訴訟へ飛びこむ一方で、政府に発明を買い取らせようと、精力的な運動と働きかけを続けた。
しかし、この一件がどのように展開しようと、バタリッジの途方もない恋沙汰や政治的意見、人物像、あらゆる怒号と自慢の背後には、一つ変わらぬ事実があった。一般大衆の知るかぎり、実用飛行機の秘密を握っているのは彼一人であり、反証のないかぎり、未来の世界帝国への鍵はそこにあるということだった。やがて、バート・スモールウェイズ氏を含む無数の人々が仰天する中で、この貴重な秘密をイギリス政府が手に入れるための交渉は、どんな形で進められていたにせよ、決裂の危機にあることが明らかになった。ロンドン・デイリー・レクイエムが、世間一般の不安を最初に代弁し、「バタリッジ氏、胸中を語る」という凄まじい見出しでインタビューを掲載した。
その中で発明家は――もし発明家なのなら――胸の内をぶちまけた。
「わしは地の果てから来た」と彼はいった。これはむしろケープタウンの話を裏づけるように見えた。「母国に世界の支配権を与える秘密を携えてな。それで、わしが受ける仕打ちは何だ?」
間を置いた。「年寄り官僚どもに鼻であしらわれる! ……そして、わしの愛する女性は、癩病患者のように扱われる!」
「わしは大英帝国のイングランド人だ」と、彼は見事な激昂ぶりで続けた。この部分はあとで本人が記事へ書きこんだものだった。「だが、人の心にも限界はある! もっと若い国々がある。生きている国々が! 形式主義とお役所仕事の寝床に横たわり、肥満の発作に襲われ、どうにもならずいびきをかき、喉を鳴らしているのではない国々がある! 無名の男を軽んじ、自分たちには靴紐をほどく資格すらない高貴な女性を侮辱するために、地上の支配権を投げ捨てたりしない国々がある。科学に目を閉ざさず、衰えた俗物支配層や、堕落した頽廃主義者どもに手足を縛られてはいない国々がある。要するに、よく覚えておきたまえ――国はほかにもあるのだ!」
この発言は、とりわけバート・スモールウェイズに強い印象を与えた。「ドイツ人やアメリカ人がこれを手に入れたら」と、兄に重々しくいった。「大英帝国はおしまいだ。かんぺきに終わりだ。いってみりゃユニオン・ジャックは、それが書いてある紙ほどの値打ちもなくなるんだぞ、トム。」
「今朝、手を貸してもらえないかね」と、意味ありげな沈黙の隙にジェシカがいった。「バン・ヒルじゅうの人が、いっぺんに早掘りジャガイモを欲しがってるみたいでさ。トムじゃ半分も運べないんだよ。」
「おれたちは火山の上で暮らしてるんだ」と、バートは提案を無視した。「いつ戦争が始まってもおかしくない。しかも、どんな戦争になるか!」
不吉な重みを込めて首を振った。
「トム、先にこっちを持っておいき」とジェシカはいった。それからきびきびとバートに向き直った。「午前中、空けられる?」
「まあ、空けられるよ」とバートはいった。「今朝は店もひどく暇だし。もっとも、この帝国の危機が心配で、たまらねえんだけど。」
「働けば気がまぎれるよ」とジェシカはいった。
やがてバートも、変化と驚異に満ちた世界へ出ていった。ジャガイモと愛国的不安の重荷に腰をかがめながら。だが、その二つはやがて、ジャガイモの重さと野暮ったさへのはっきりした苛立ち、そしてジェシカとはまったくもって憎たらしい女だという、きわめて明確な認識へと一つになっていった。
第二章 バート・スモールウェイズが窮地に陥るまで
バタリッジ氏のあの驚異的な空中実演が、自分たちの暮らしに格別の影響を及ぼすかもしれない、周囲の何百万人から何らかの形で自分たちだけを取り出すかもしれないなどとは、トムにもバートにも思い浮かばなかった。バン・ヒルの頂上から見守り、回転する翼面を夕日の中で金色の霞とした蠅のような機械が、唸りながら格納小屋の安息所へ沈むのを見届けると、二人はロンドン――ブライトン間モノレールの巨大な鉄の支柱の下に沈みこむ八百屋へ向かって戻り始めた。そして考えは、ロンドンの霞の中からバタリッジ氏の凱旋が姿を現す前にしていた話へ戻った。
難航し、成果の上がらない話し合いだった。ハイ・ストリートを通るジャイロスコープ式自動車の唸りや轟音のせいで、怒鳴り合わなければならず、しかも内容は揉めやすい内輪の話だった。グラブの商売は苦境にあり、金策の弁舌が勢いづいたある瞬間、グラブはその半分の持ち分をバートに譲っていた。バートと雇い主との関係は、しばらく前から無給で、友達同然の、なあなあなものになっていた。
バートは、再編されたグラブ・アンド・スモールウェイズ商会が、分別ある小口投資家に前代未聞、空前絶後の好機を提供すると、トムに納得させようとしていた。トムという人間は、考えというものを驚くほど受けつけないのだと、まるで新事実のようにバートの胸にしみてきた。最後には金銭上の議論を脇へ置き、もっぱら兄弟愛の問題にして、名誉にかけた約束を担保に、一ソヴリン[訳注:一ポンドに相当する金貨]を借りることに成功した。
旧グラブ商会ことグラブ・アンド・スモールウェイズ商会は、この一年ほど、実に運が悪かった。長年、ハイ・ストリートの、どこかだらしない小さな店で、浪漫的な不安定さを漂わせながら、どうにか商売を続けてきた。鮮やかな色の自転車広告、ベル、ズボン留め、油差し、空気入れの留め具、フレーム用ケース、財布、そのほかの付属品を並べ、「貸自転車」「修理」「空気入れ無料」「ガソリン」など、魅力的な掲示で飾っていた。聞いたこともない自転車メーカー数社の代理店で、見本二台が在庫のすべてだったが、ときどき売れることもあった。パンクも直し、そのほか持ちこまれた修理にも最善を尽くした。もっとも、運がいつも味方してくれるわけではなかった。安物の蓄音機も扱い、オルゴールも少々商っていた。
しかし商売の柱は、自転車の貸し出しだった。これは奇妙な商売で、既知の商業原則にも経済原則にも従わず、実際、どんな原則にも従わなかった。言葉では言い尽くせないほど傷んだ紳士用、婦人用の自転車がそろっており、この貸し出し用在庫を、世間の事情に疎く、注文が少なく、向こう見ずな人々に、名目上は最初の一時間一シリング、その後は一時間六ペンスで貸した。だが実際には定価などなく、しつこい少年なら、それしか持っていないとグラブを納得させれば、わずか三ペンスで一時間、自転車と危険のスリルを手にできた。グラブはサドルとハンドルを大ざっぱに調節し、顔なじみの少年以外からは保証金を取り、油を差し、冒険者を旅立たせた。たいていは本人が帰ってきたが、事故が重大な場合には、ときにバートかグラブが自転車を引き取りに行かなければならなかった。料金はいつも店へ戻った時刻まできっちり請求され、保証金から差し引かれた。自転車が彼らの手を離れるとき、四角四面に万全な状態であることはめったになかった。サドル調節ねじのすり減った山、不安定なペダル、ゆるいチェーン、ハンドル、とりわけブレーキとタイヤには、浪漫に富む事故の可能性がひそんでいた。勇敢な借り手が田舎へ漕ぎ出すと、こつこつ、がちゃがちゃ、奇妙に律動的なきしみが目を覚ました。それから、ベルが動かなくなったり、坂でブレーキが利かなくなったりする。サドルの支柱がゆるみ、がくんと不意をついて三、四インチ落ちる。下り坂で、がたがたするゆるいチェーンが歯車から飛び外れ、乗り手の前進の勢いは止めぬまま、機械だけが急激かつ破滅的に停止する。あるいはタイヤが、ばんと音を立てるか、静かにため息をつくかして、役目を果たすための闘いを放棄する。
借り手が熱くなった歩行者として戻ってくると、グラブは口頭の苦情をことごとく無視し、深刻な顔で自転車を調べた。
「まともな使い方をしてませんな」と切り出すのが常だった。
理性の精神が穏やかに人の姿を取ったようになった。「自転車に、抱き上げて運んでもらおうってわけにはいきませんよ」とよくいった。「頭を使っていただかないと。何しろ、機械ですからね。」
その結果生じる請求を清算する手続きは、ときに暴力すれすれになった。いつでも大いに弁舌を要し、しばしばつらい仕事だったが、この進歩的な時代には、食べていくためには騒がなければならない。骨の折れることが多かったとはいえ、貸自転車はまずまず安定した利益の源だった。ある日、口先の議論が本題から外れていることを許さない、批判の厳しすぎる借り手二人に、窓と戸のガラスを残らず割られ、窓辺の商品をひどく壊され、めちゃくちゃにされるまでは。二人はグレーヴズエンドから来た、体の大きい粗野な火夫だった。一人は左のペダルが外れたことに腹を立て、もう一人はタイヤの空気が抜けたことに腹を立てていた。バン・ヒルの基準なら些細な、実際、取るに足らない事故であり、預けられた繊細な機械を乱暴に扱ったことだけが原因なのに、こんな議論の仕方をすれば自分たちが悪くなるのだと、はっきり理解できなかった。不良品を貸したと相手に認めさせるために、その店の足踏み式空気入れを投げ回し、在庫のベルを外へ持ち出して窓ガラス越しに返してやるのは、拙いやり方である。グラブにもバートにも本当の納得は何一つもたらさず、ただ苛立たせ、困らせただけだった。一つの喧嘩は多くの喧嘩を生み、この不愉快な事件は、ガラスの入れ替えをめぐる道義と法的責任について、グラブと家主の激しい争いを招いた。結局、グラブとスモールウェイズは、夜陰に紛れた戦略的転進の費用を負担する羽目になった。
転進先は、以前から考えていた場所だった。バン・ヒルの坂の下、道が鋭く曲がるすぐ脇にある、小屋のような小さな店で、正面は板ガラス、奥に一室ついていた。そこで二人は、前の家主からしつこく煩わされながらも、店の独特の立地が約束しているように見える、ある種の成り行きを期待して、勇敢に奮闘した。しかしここでも、失望する運命だった。
バン・ヒルを通るロンドンからブライトンへの街道は、大英帝国やイギリス憲政に似ていた。成り行きで育ち、現在の重要性に至ったものだったのである。ヨーロッパのほかの道路と違って、イギリスの街道は勾配をならしたり、直線にしたりする組織的な試みを一度も受けていない。その独特の絵画的な美しさは、疑いなくそこに由来する。古いバン・ヒルのハイ・ストリートは、端で五分の一の勾配をなし、八十か百フィートほど下ると、左へ直角に曲がり、三十ヤードほど弧を描いて、かつてオタボーン川だった干上がった溝に架かるレンガ橋に至る。そして密生した木立を回って再び右へ鋭く折れ、その先は単純で、まっすぐな、平穏な街道になる。バートとグラブが借りた店が建つ前にも、ここでは荷馬車や自転車の事故が一、二度起きていた。率直にいえば、また起きそうだという見込みが、二人を引きつけたのだった。
最初にその可能性を思いついたときには、冗談めいた味わいがあった。
「ここなら、鶏を飼って食っていけそうだな」とグラブはいった。
「鶏を飼ったって、食っていけねえよ」とバートはいった。
「飼っときゃ、ぺちゃんこに開いてくれる」とグラブはいった。「自動車の連中が代金を払ってさ。」
実際に店を借りることになったとき、二人はこの会話を思い出した。だが鶏は無理だった。店内に設けるのでなければ、飼育場を作る場所がない。店の中では、明らかに場違いだった。前の店よりずっと近代的で、正面には板ガラスが入っていた。「遅かれ早かれ」とバートはいった。「ここへ自動車が突っこんでくるぞ。」
「結構じゃないか」とグラブはいった。「賠償金だ。いつ来たって構わねえ。おれが神経にショックを受けても構わねえよ。」
「それまでのあいだに」と、バートはいかにも抜け目なさそうにいった。「おれは犬を買う。」
実際に買った。続けて三匹買った。バタシーの犬の保護施設では、耳の聞こえないレトリーバーを求め、耳をぴんと立てる候補をことごとく退けて、人々を驚かせた。「耳が聞こえなくて、動きののろい、いい犬が欲しいんだ」といった。「ちょっとやそっとで腰を上げない犬がね。」
先方は、ありがたくない好奇心を示した。耳の聞こえない犬はたいそう少ないといった。
「だって」と説明した。「犬は耳が聞こえるものですから。」
「おれのは聞こえちゃ困る」とバートはいった。「聞こえる犬なら飼ったことがある。もう十分だ。こういうわけなんだよ。おれは蓄音機を売ってる。当然、実演するには、ちっとしゃべらせたり鳴らしたりしなきゃならない。ところが耳の聞こえる犬は、それが気に入らないんだ。興奮して、嗅ぎ回って、吠えたり唸ったりする。お客が困るだろ。わかるかい? それに、聞こえる犬は勝手に想像する。通りすがりの浮浪者を泥棒にしちまう。びゅんと音を立てる自動車なら、何にでも喧嘩を売りたがる。にぎやかにしたいんなら結構だが、うちはもう十分にぎやかなんだ。そういう犬はいらない。静かな犬が欲しいんだよ。」
結局、続けて三匹手に入れたが、どれもうまくいかなかった。一匹目は、呼んでも聞かず、果てしないかなたへさまよい去った。二匹目は夜中に果物運搬のトラックにひかれて死に、車はグラブが階下へ降りる前に逃げた。三匹目は通りがかった自転車の前輪に絡まり、乗り手は板ガラスを突き破って飛びこんできた。その男は失業中の俳優で、破産の免責も受けていなかった。ありもしない負傷の賠償を求め、自分が殺した高価な犬や割った窓の話には耳を貸さず、身体を張った頑強さだけで、グラブに曲がった前輪を直させたうえ、苦境の商会に、非情な文面の弁護士の手紙を次々と送りつけて悩ませた。グラブは痛烈な返事を書いたが、バートにいわせれば、それで自分たちを不利にした。
こうした圧迫のもとで、事態はますます苛立たしく、窮屈になった。窓には板が打ちつけられ、修理が遅れていると新しい家主と不愉快な口論になった。この家主はバン・ヒルの肉屋で、しかも大声でわめく理不尽な人物だった。その口論は、前の家主との未解決の揉め事も思い出させた。事態がこの段階に至ったとき、バートは、トムの利益になるよう、商売に一種の社債資本を設けようと思いついた。だが前述のとおり、トムには冒険心というものがなかった。彼のいう投資とは、靴下に金をしまっておくことだった。弟にいくらか渡して、勧誘を続けさせないことにした。
そして不運は、崩れかけた商売へ最後の一突きを加え、地面へ倒した。
2
喜ぶことを知らない心は、貧しい心である。聖霊降臨祭の休み[訳注:復活祭後の第七日曜と、その翌日の銀行休業日を含む連休]は、グラブ・アンド・スモールウェイズ商会の込み入った問題に、ありがたい一休みをもたらしそうだった。バートと兄の交渉が実利を生んだこと、貸し出し用の自転車の半分が土曜から月曜まで借りられていたことに励まされ、二人は日曜の残りの貸自転車商売には目をつぶり、ぜひとも必要な休養と気晴らしに一日を捧げることにした。つまり、聖霊降臨祭の日曜には惜しみなく楽しみ、ぱあっと騒ぎ、元気を取り戻して月曜の困難と休日の修理仕事に取り組もうというのだった。疲れ果て、気落ちした人間が、よい仕事などできるものではない。折よく二人は、クラパムで働く若い女性二人、ミス・フロッシー・ブライトとミス・エドナ・バンソーンと知り合っていた。そこで陽気な四人連れのサイクリングでケントの奥へ入り、アシュフォードとメードストンのあいだの木々とシダの中で、ピクニックをして、午後から夕方をのんびり過ごすことにした。
ミス・ブライトは自転車に乗れたので、一台を用意した。貸し出し用の中からではなく、わざわざ売り物の見本をあてた。バートがとくに心を寄せていたミス・バンソーンは乗れなかったので、彼は少々苦労して、クラパム・ロードの大きなレイ商会から、籠編みの牽引車を借りた。
晴れやかな服を着て、たばこに火をつけ、待ち合わせ場所へ向かって走り出す二人を見ると、気概がいかに支払不能にさえ打ち勝つかがわかった。グラブは熟練した片手で隣の婦人用自転車を操り、バートはプッ、プッと快調に進んだ。家主の肉屋は、二人が通り過ぎると「ぐるる」と唸り、遠ざかる背中に向かって、荒々しい大声で「勝手にやってろ!」と怒鳴った。
知ったことか!
天気はよく、九時前には南へ向かっていたのに、道はすでに大勢の行楽客でにぎわっていた。自転車やオートバイの若い男女が大勢おり、自動車は、自転車のように二輪で走るジャイロスコープ式のものが大半で、旧式の四輪車も混じっていた。銀行休業日の休みには、しまいこまれていた古い乗り物や風変わりな人々が必ず姿を現す。三輪自動車、電動ブルーム車、巨大な空気入りタイヤをつけた、がたの来た古い競走用自動車が見えた。四人の行楽客は、一度は馬と荷車を見かけ、一度は黒い馬に乗った若者を見かけた。若者は行き交う人々のからかいを浴びていた。空には気球はいうまでもなく、操縦できるガス飛行船も何隻か浮かんでいた。店での暗い不安のあとでは、何もかもがひどく面白く、心を晴れやかにした。エドナは芥子の花を飾った茶色の麦わら帽子が実によく似合い、女王のように牽引車へ座っていた。そして八年物のオートバイは、昨日できたばかりのように走った。
新聞の掲示が次のように告げていても、バート・スモールウェイズ氏には たいして気にならないらしかった。―― ―――――――――――――――――――- ドイツ、 モンロー主義を 否認。 日本の態度は曖昧。 イギリスはどうする? 戦争か? ―――――――――――――――――――-
この手のことはいつも起きており、休日には当然のように無視した。平日の、昼食後の暇な時間なら、帝国や国際政治を心配することもあるかもしれない。だが、よく晴れた日曜に、かわいい娘を後ろに引き、うらやましがる自転車乗りたちが競走を挑んでくるときには、そんなことはしない。若者たちはまた、ときおりちらちら見える軍の活動らしいものにも、大した重みを置かなかった。メードストン近くでは、奇妙な構造の自走砲が十一両、道端に一列に止まっているのに出会った。手際のよさそうな工兵が何人も集まり、丘陵の頂上近くで行われている塹壕工事らしきものを双眼鏡で見ていた。バートには何の意味もなかった。
「何してるの?」とエドナがいった。
「ああ、演習さ」とバートはいった。
「へえ! あれって復活祭にするのかと思ってた」とエドナはいって、それ以上気にしなかった。
イギリスが最後に戦った大きな戦争、ボーア戦争は終わって忘れられ、一般大衆が軍事専門家めいた批評をする流行も廃れていた。
四人の若者は陽気にピクニックをし、ニネヴェでも古くから知られていたような幸福のあり方で、幸せだった。目は輝き、グラブは面白く、ほとんど機知に富むほどで、バートは気の利いた警句まで披露した。生垣にはスイカズラと野バラがあふれ、森の中から聞く、埃で霞む街道の遠いプー、プー、プーという音は、妖精の国の角笛といってもよかった。笑い、おしゃべりをし、花を摘み、愛をささやき、話し、娘たちは紙巻きたばこを吸った。ふざけて小突き合いもした。航空の話もしたし、十年もたたないうちに、バートの飛行機で一緒にピクニックへ来るだろうとも話した。その午後、世界は面白い可能性に満ちているようだった。曾祖父母なら航空をどう思っただろうと考えた。夕方七時ごろ、一行は何の災難も予想せず帰途についた。災難が来たのは、ロータムとキングズダウンのあいだの丘陵の頂上だった。
薄暮の中を丘へ登ってきた。バートはランプを点ける前に――いや、点けようと試みる前にというべきだろう、成功は怪しかった――できるだけ遠くへ行きたかった。何人もの自転車乗りを勢いよく追い抜き、タイヤが一つしぼんで足を引きずる旧式の四輪自動車も追い抜いた。警笛には少し埃が入りこみ、そのため「パフ、パフ」に、奇妙でおかしな喘鳴が混じっていた。
愉快さと得意さのため、彼はできるだけその音を鳴らし、牽引車のエドナは笑い転げていた。道を突進する陽気なかたまりのようになり、道連れたちに、それぞれの気質に応じた反応を引き起こした。エドナは、バートの両足のあいだの軸受けのあたりから、青っぽい悪臭のする煙がかなり出ているのには気づいた。しかし動力で走れば自然にそうなるのだろうと思い、それ以上は気にしなかった。突然、先端の黄色い小さな炎が噴き出すまでは。
「バート!」と叫んだ。
だがバートはあまりに急にブレーキをかけたので、降りようとする彼の脚に、エドナは絡まってしまった。道の端へ出ると、乱れた帽子を急いで直した。
「うわっ!」とバートはいった。
ガソリンが滴り落ちて燃え、油だけでなくエナメル塗料の臭いもし始めた炎が広がり、大きくなるのを、致命的な数秒のあいだ立ったまま見つめた。頭の中を主に占めていたのは、一年前に中古で売っておかなかった、それをすべきだった、という悲しい考えだった。それなりによい考えだが、当座の役には立たない。急にエドナへ向き直った。「濡れた砂をたくさん持ってきて」といった。それから車体を少し道端へ寄せ、横に倒し、濡れた砂を探して辺りを見回した。炎はこれをありがたい世話と受け取り、存分に利用した。炎は明るくなり、周囲の薄闇は深まったようだった。ここは白亜地帯の火打石の多い道で、砂には恵まれていなかった。
エドナは背の低い太った自転車乗りに呼びかけた。「濡れた砂がいるんです」といってから、つけ加えた。「オートバイが燃えてるの。」
背の低い太った男は、一瞬ぽかんと見つめ、それから助けるぞというような叫びを上げて、道の砂利を掻き集め始めた。そこでバートとエドナも道の砂利を掻いた。ほかの自転車乗りも到着し、降りて周囲に立った。炎に照らされた顔には、満足、興味、好奇心が浮かんでいた。「濡れた砂だ」と、背の低い太った男は猛烈に掻き集めながらいった。「濡れた砂だ。」
一人が加わった。苦労して集めたひと握りずつの砂利を炎へ投げたが、炎は熱烈に歓迎した。
グラブが懸命に漕いで到着した。何か叫んでいた。飛び降りると、自転車を生垣へ放りこんだ。「水をかけるな!」といった。「水をかけるな!」
見事な沈着さで指揮を執った。その場の隊長になった。ほかの者は喜んで言葉を繰り返し、動作をまねた。
「水をかけるな!」とみんな叫んだ。もっとも、水はなかった。
「叩き消すんだ、ばかども!」と彼はいった。
牽引車から敷物をつかみ――それはオーストリア製の毛布で、バートが冬にかけて寝るものだった――燃えるガソリンを叩き始めた。驚くべき一分間、うまくいくように見えた。だが、燃えるガソリンのたまりを道へ飛び散らせていた。そしてほかの者も、その熱意に火をつけられてまねをした。バートは牽引車の座布団を取り上げ、叩き始めた。もう一枚の座布団とテーブルクロスもあり、それらもつかみ上げられた。若い勇士は上着を脱いで、叩く列に加わった。しばらくは言葉よりも激しい息遣いが多く、猛烈なばたばたという音がした。群衆の外側へ着いたフロッシーは、「ああ、大変!」と叫んで、大声で泣き出した。「助けて!」といい、「火事よ!」といった。
足を引きずる自動車が着き、驚いて止まった。運転していた、背が高く白髪でゴーグルをかけた男が、オックスフォード風の抑揚と、明瞭で丁寧な発音で尋ねた。「私どもに、何かお手伝いできることは?」
敷物もテーブルクロスも座布団も上着も、ガソリンまみれになって燃え始めたことが明らかになった。バートが振り回していた座布団から、魂が抜け出したようだった。羽根が空中に舞い、静かな薄暮の中の吹雪のようになった。
バートはすっかり埃と汗にまみれ、必死になっていた。勝利のまさにその瞬間、武器をもぎ取られた気がした。火は瀕死のもののように地面すれすれに、悪意をたたえて横たわり、叩かれるたび苦悶の跳躍をした。だがグラブは、燃える毛布を踏み消しに行ってしまい、ほかの者も、勝利の瞬間だというのに力が足りなかった。一人は座布団を落とし、自動車へ走っていた。「おい!」とバートは叫んだ。「続けろよ!」
しぼんで燃える座布団のぼろを脇へ投げ、上着をさっと脱ぎ、叫びながら炎へ飛びかかった。焼け残りを踏みつけ、炎が靴を這い上がった。エドナは赤く照らされた英雄を見て、男っていいものだと思った。
見物人の一人に、どこからか飛んできた熱い半ペニー硬貨が当たった。そのときバートはポケットの紙類を思い出し、燃える上着を消そうとしながら、よろめき退いた。行く手を阻まれ、撃退され、うろたえていた。
エドナの目に、シルクハットをかぶり、日曜のよそゆきを着た年配の見物人の、慈悲深そうな姿が映った。「お願い!」と叫んだ。「この人を助けて! よくそんなふうに、立って見ていられるわね!」
「防水シートだ!」という叫びが上がった。
ごく明るい灰色のサイクリング服を着た、熱心そうな男が、突然、足の悪い自動車の横へ現れ、持ち主に話しかけた。「防水シートはありますか?」
「あります」と紳士的な男はいった。「ええ。防水シートはあります。」
「それだ」と熱心そうな男は、急に怒鳴った。「出してください、早く!」
紳士的な男は、弱々しく遠慮がちな身振りをし、催眠術にかかった人のような様子で、上等な大きな防水シートを出した。
「おい!」と熱心そうな男がグラブへ叫んだ。「持ってくれ!」
今度は新しい方法を試すのだと、みんなにわかった。進んで手を出す者たちが、オックスフォード紳士の防水シートをつかんだ。ほかの者は賛成の声を上げながら離れた。シートは燃えるオートバイの上へ天蓋のように広げられ、それから押し下げられて覆いかぶさった。
「最初からこうすりゃよかった」とグラブは息を切らしていった。
勝利の瞬間が訪れた。炎は消えた。手を伸ばせる者はみな、防水シートの縁に触れた。バートは両手と片足で角を押さえた。中央の膨らんだ防水シートは、勝ち誇る歓喜を抑えているようだった。やがて自画自賛が抑えきれなくなり、真ん中に鮮やかな赤い笑みが裂けた。まさに口を開いたようだった。炎のひと吹きとともに、笑った。その赤が、見守る持ち主のゴーグルに映った。みんな後ずさった。
「牽引車を救え!」と誰かが叫んだ。それが戦いの最後の一戦だった。だが牽引車は外れず、籠細工には火がついており、最後に燃えたのはそれだった。集まった人々を、ある種の静けさが包んだ。ガソリンの火は低くなり、籠編みの牽引車が、ばんばん、ぱちぱち鳴った。群衆は、この一件で目立った役割を果たさなかったか、まるで何もしなかった批評家、助言者、端役の外側の輪と、熱くなって苦悩する主役たちの中心集団に分かれた。探究心が強く、オートバイをかなり知っている若者がグラブにつきまとい、こんなことは起こるはずがないと論じたがった。グラブがそっけなく相手にしないので、若者は群衆の後ろへ退き、慈悲深そうなシルクハットの老人に、わかりもしない機械で出かける者は、何かあっても自業自得だと語った。
老人はしばらくしゃべらせておいてから、うっとり楽しげな口調でいった。「つんぼでしてね」そしてつけ加えた。「嫌な代物ですな。」
麦わら帽子の、顔の赤い男が注意を求めた。「前輪はおれが助けたんだ」といった。「回し続けてなきゃ、あのタイヤも燃えてたぞ。」
たしかにそうだとわかった。前輪にはタイヤが残り、無傷で、黒焦げに曲がった機械の残骸の中で、まだゆっくり回っていた。貧しい界隈の家賃取りに特有の、自分の徳を自覚し、非の打ちどころのない堅気ぶりを誇るような顔つきがあった。「あの車輪は一ポンドの値打ちがある」と赤ら顔の男は、得意げに繰り返した。「おれが回し続けたんだ。」
南から来る新参者が「どうしたんだ?」と尋ね続け、グラブの神経に障った。ロンドン方面へは、群衆から絶えず人が抜けていった。いちばんいいところを見た観客の満足そうな顔で、それぞれの乗り物にまたがった。声は薄闇へ遠ざかり、とくに目立ったあれこれの場面を思い出して、笑うのが聞こえた。
「どうやら」と自動車の紳士はいった。「私の防水シートは、少々駄目になったようですな。」
グラブは、その点は持ち主がいちばんよくわかるだろうと認めた。
「ほかに何か、して差し上げることは?」と自動車の紳士はいった。皮肉が少々混じっていたかもしれない。
バートは行動を起こした。「あのね」といった。「おれの彼女なんだ。十時までに帰らなきゃ締め出されちまう。わかるでしょ? それで、金は全部上着のポケットにあって、燃えたものに混じっちまって、熱くて触れないんだ。クラパムは遠回りになりますか?」
「こういうこともありますからね」と自動車の紳士はいって、エドナへ向き直った。「ご一緒くだされば、喜んで。どうせもう夕食には遅れてますし、クラパム経由で帰っても、大して違いません。いずれにしてもサービトンまで行くんです。ただ、少しのろいかもしれませんよ。」
「でも、バートはどうするの?」とエドナはいった。
「バート君まで乗せられるかどうか」と自動車の紳士はいった。「できることなら、ぜひお力になりたいのですが。」
「丸ごと全部、積めませんか?」とバートは、地面の上のみじめな黒焦げの残骸を手で示した。
「残念ながら無理ですな」とオックスフォード紳士はいった。「本当に申し訳ないが。」
「じゃあ、おれはしばらくここにいるしかねえ」とバートはいった。「最後まで片をつけなきゃ。先に行きな、エドナ。」
「置いていきたくないわ、バート。」
「しょうがねえよ、エドナ」……
エドナが最後に見たバートは、焼け焦げて黒くなったシャツ姿で、夕闇の中に立っていた。失われたオートバイの、鉄くずと灰の混じったもののそばで、深い物思いにふける、哀れな姿だった。見物人の取り巻きは、いまや六人ほどに減っていた。フロッシーとグラブも、エドナに続いて引き揚げる支度をしていた。
「元気出してね、バート!」とエドナは、作った陽気さで叫んだ。「じゃあね。」
「じゃあな、エドナ」とバートはいった。
「また明日ね。」
「また明日」とバートはいった。だが実際には、再び彼女に会うまでに、人の住む地球の広い部分を見る運命にあった。
バートは借りた箱からマッチを取り出して擦り、焼け焦げた残骸の中で、まだ見つからない半クラウン銀貨を探し始めた。
顔は真剣で、悲しげだった。
「あんなことにならなきゃよかったのに」と、グラブと走りながらフロッシーはいった……。
ついにバートは、ほとんど一人になった。火という贈り物に呪われた、悲しく黒焦げのプロメテウスだった。荷車を借りようか、奇跡的な修理をしようか、たった一つの主な財産から、まだいくらか残りの値打ちを引き出そうかと、漠然と考えていた。いま、夜が深まる中で、そうした考えのむなしさがわかった。真実が荒涼として訪れ、冷たい確信を押しつけた。ハンドルを握り、車体を起こし、前へ押そうとした。思ったとおり、タイヤのない後輪は、どうにも動かなかった。一分ほど、車体を支えたまま立っていた。身じろぎしない絶望だった。それから大きく力を込めて残骸を溝へ突き落とし、一度蹴りつけ、しばし眺めると、きっぱりロンドンへ顔を向けた。
一度も振り返らなかった。
「この遊びも、これでおしまいだ!」とバートはいった。「バート・スモールウェイズにゃ、一、二年はプッ、プッ、プッもなしだ。さよなら、休みの楽しみ! ……ああ、三年前、機会があったときに、あのいまいましい代物を売っときゃよかった。」
3
翌朝、グラブ・アンド・スモールウェイズ商会は深い意気消沈の中にあった。向かいの新聞たばこ店が、こんな掲示を出していても、二人には些細なことに思えた。―― ―――――――――――――――――――- アメリカ、最後通牒を発したとの報。
イギリスは戦うべし。
わが陸軍省、愚迷にもなお
バタリッジ氏の訴えに耳を貸さず。
トンブクトゥでモノレール大事故。―――――――――――――――――――-
あるいは、こんなものもあった。―― ―――――――――――――――――――- 開戦は時間の問題。
ニューヨークは平静。
ベルリンは興奮。―――――――――――――――――――-
また、こんなものも。―― ―――――――――――――――――――- ワシントン、なお沈黙。
パリはどう動く?
証券取引所、大恐慌。
国王、覆面のトゥアレグ族を園遊会へ。バタリッジ氏、申し出を受諾。テヘランから最新賭け率。―――――――――――――――――――-
そして、こんなものもあった。―― ―――――――――――――――――――- アメリカは戦うか?
バグダッドで反ドイツ暴動。
ダマスカス市政の醜聞。
バタリッジ氏の発明、アメリカへ。―――――――――――――――――――-
バートは戸のガラスに掛けた空気入れ留め具の台紙越しに、それらを見ているようで見ていない目で眺めた。黒ずんだフランネルのシャツを着て、昨日の晴れ着の、上着を失った残骸をまとっていた。板で塞いだ店は、いいようもなく暗く陰気で、わずかに残るろくでもない貸自転車も、これほど救いようなくいかがわしく見えたことはなかった。彼は、いま「出ている」仲間の自転車と、午後に迫る言い争いを考えた。新しい家主と、古い家主と、請求書と、損害賠償を考えた。人生が初めて、運命との勝ち目のない闘いとして姿を現した……。
「グラブよ」と、思いの精髄を絞り出すようにいった。「おれ、この店はもう心底うんざりだ。」
「おれもだ」とグラブはいった。
「すっかり嫌になった。もう二度と客と口をききたくねえ気がする。」
「あの牽引車もある」と、しばらくしてグラブはいった。
「牽引車なんか、くそくらえだ!」とバートはいった。「とにかく保証金は置いてねえ。それはしなかった。とはいえ――」
友人へ振り向いた。「いいか」といった。「ここじゃうまくいってねえ。金はじゃんじゃん減る一方だ。何もかも五十も結び目を作って、もつれちまってる。」
「どうしろってんだ?」とグラブはいった。
「逃げ出すんだ。売れるものを売れる値で売って、やめる。な? 赤字商売にしがみついたって、しょうがねえ。何にもならねえ。ただのばかだ。」
「そりゃいいさ」とグラブはいった。「そりゃいいが、ここへ沈んだのは、おまえの元手じゃねえ。」
「元手のあとを追って、おれたちまで沈むこたあねえ」と、バートはその点を無視していった。
「どっちにしろ、あの牽引車の責任を負わされるのはごめんだ。おれには関係ねえ。」
「関係持てなんて誰も頼んでねえ。ここで粘りたきゃ、好きにしろ。おれはやめる。今日の休みだけは付き合うが、そしたら、お・さ・ら・ばだ。わかったか?」
「おれを置いてくのか?」
「置いてくよ。残るしかねえってんなら。」
グラブは店内を見回した。たしかに嫌気が差していた。昔は希望と新しい出発と商品と、信用取引の見込みで明るかった。いまは――いまは失敗と埃だった。きっと家主も、じき窓の喧嘩の続きをしに来るだろう……。「どこへ行くつもりだ、バート?」
グラブが尋ねた。
バートは振り返って相手を見た。「帰り道と、寝床で考え抜いたんだ。一睡もできなかった。」
「何を考え抜いた?」
「計画さ。」
「どんな計画だ?」
「だって、おまえはここに居残るんだろ。」
「もっといい話があるんなら別だ。」
「ただの思いつきだがな」とバートはいった。
「昨日、おまえの歌で、娘たち笑ってたろ。」
「もうずいぶん前みたいだ」とグラブはいった。
「エドナなんか、おれが歌ったとこで、泣きそうになってた。」
「目に虫が入ったんだ」とグラブはいった。「おれ、見てた。だが、それが計画と何の関係がある?」
「大ありさ」とバートはいった。
「どうして?」
「わからねえか?」
「街頭で歌うんじゃあるまいな?」
「街頭だって? まさか! だが、イングランド保養地巡業ってのはどうだ、グラブ? 歌でさ! 良家の若者が、お遊びでやってるってことにして。おまえの声も悪くねえし、おれのも大したもんだ。浜で歌ってるやつを見て、歌じゃ勝てねえと思ったことは一度もない。それに二人とも、ちょっとお上品に気取るくらいできる。な? それが考えさ。おれとおまえで、上品な歌と陽気な踊り。昨日ふざけてやったみたいにな。あれで思いついたんだ。演目なんて簡単に組める。簡単さ。選りすぐりを六つに、アンコール用を一つか二つ、それにおしゃべり。しゃべりなら、とにかくおれに任せろ。」
グラブは暗く、気をめいらせる店を眺め続けた。前の家主といまの家主を思い、『中流階級の悲痛な叫び』がこだまする時代に、商売というものが総じていかに胸糞の悪いものかを考えた。すると遠くから、バンジョーのつんたら、つんたらという音と、浜に取り残されたセイレーンの歌声が聞こえた気がした。熱い日差しが砂に照りつけ、少なくとも休暇のあいだは裕福な行楽客の子供たちが周囲に輪を作っている。「あの人たち、ほんとの紳士なのよ」という囁き。それから、ちゃりん、ちゃりんと帽子に銅貨が落ちる。ときには銀貨まで。すべて収入、支出も請求書もない。「乗ったぜ、バート」といった。
「よし来た!」とバートはいった。そして、「これでもう、すぐだ。」
「元手なしで出発しなくてもいい」とグラブはいった。「この中のいい自転車をフィンズベリーの自転車市場へ持っていけば、六、七ポンドにはなる。明日、まだあまり人が出てねえうちに、簡単にやれる……」
「あの脂身骨太野郎が、いつもの喧嘩をしに来て、『修理のため休業』って札を見つけると思うと、いい気分だな。」
「そうしよう」とグラブは張り切っていった。「そうしよう。もう一枚貼って、用のある方はみんな、あいつのところへ聞きに行ってくれって書くんだ。な? そしたら、おれたちのことは全部わかるだろ。」
その日が終わる前に、計画はすべてでき上がった。初めは「海軍ミスターO一座」と名乗ることにした。よく知られた「緋色のミスターE一座」からの盗用で、あまりよいものでもなかった。バートは、海軍将校の制服に似て、しかもそれ以上に派手な、鮮やかな青いサージに金モールや紐や飾りをたっぷりつけた制服の案に、かなり執着した。だが準備に時間も金もかかりすぎ、実行不能として諦めざるをえなかった。もっと安く、すぐ作れる衣装でなければならないと悟り、グラブは白い仮装用マントに立ち返った。貸し出し用在庫から最悪の二台を選び、真紅のエナメルを塗り、ベルをいちばん大きな音の自動車用警笛に替え、興行の始めと終わりにひと回り乗り回そうという案も、しばらく考えた。しかし、この策が賢明かどうか疑わしかった。
「世の中には」とバートはいった。「おれたちの顔はわからなくても、あの自転車なら一目でわかるやつがいる。昔の話を続けたくはねえ。出直したいんだ。」
「おれもだ」とグラブはいった。「切実にな。」
「忘れたいんだ。あの腐った古い心配事を、全部切り捨てたい。体にもよくねえ。」
それでも自転車の危険は冒すことにし、衣装は茶色の長靴下とサンダル、真ん中に穴を開けた安い未晒しのシーツ、それに麻屑のかつらと髭に決めた。あとは、いつもの自分たちだ! 「砂漠の修道僧」[訳注:イスラム神秘主義の托鉢修行者、ダルヴィーシュを模した芸名]と名乗り、主な歌は流行歌の「ぼくの牽引車で」と「いまさらヘアピンが何だ?」にする。
最初は小さな海辺の町で始め、自信がつくにつれ、大きな町へ攻めこもうと決めた。手始めにはケントのリトルストーンを選んだ。主な理由は、その控えめな名前だった。
こうして計画を練り、にぎやかにしゃべっているあいだに、世界の半分以上の政府が戦争へ流されつつあることなど、二人には些細でどうでもよいことに思えた。正午ごろ、通りの向こうから夕刊の最初の掲示が叫びかけているのに気づいた。―― ―――――――――――――――――――――――-
戦雲、いよいよ暗く―――――――――――――――――――――――-
ただそれだけだった。
「このごろ、戦争のくだらねえ話ばっかりだ」とバートはいった。
「よほど気をつけねえと、いつかほんとにひどい目に遭うぞ、あいつら。」
4
これで、気ままで静かなディムチャーチの砂浜に突然現れ、人々を喜ばせるよりも驚かせたものが、どういうものだったかおわかりだろう。ディムチャーチは、イングランド沿岸でモノレールが届くのが最も遅い土地の一つだった。したがって、この物語の当時、その広々とした砂浜は、まだごく限られた人だけの秘密であり、喜びだった。人々は俗悪さや度を越したことから逃れ、平穏に泳ぎ、座り、話し、子供と遊ぶために来ていたので、「砂漠の修道僧」はまったく歓迎されなかった。
真っ赤な自転車に乗った二つの白い姿が、リトルストーン方面の砂浜を通って、果てしないかなたから現れた。近づき、大きくなり、音も高くなった。パフパフと鳴らし、怪しい声を発し、いかにも押しつけがましいにぎやかさを予告していた。「まあ、大変!」とディムチャーチはいった。「これは何?」
それから若者たちは、打ち合わせた計画どおり、縦一列から横一列へ回り、降りて直立した。「淑女ならびに紳士の皆様」といった。「ご紹介申し上げます。われら、砂漠の修道僧でございます。」
深々とお辞儀をした。
浜にまばらに散っていたいくつかの一団は、たいていぎょっとして
二人を見たが、子供や若者の中には興味を抱き、
近づいてくる者もいた。「浜じゅう合わせても一シリングも出ねえぞ」とグラブが
小声でいい、「砂漠の修道僧」は自転車を使って滑稽な
「芸」を披露した。それには、ひどくうぶな小さな男の子が一人、笑った。
それから二人は深く息を吸い、陽気な節の
「いまさらヘアピンが何だ?」を歌い出した。グラブが本歌を歌い、バートは
できるかぎり景気よく合唱を盛り上げ、各節の終わりには
裾を手に持って、念入りに稽古したステップを踏んだ。
「チンガリンガ、チンガリンガ、チンガリンガ、タン……
いまさらヘアピンが何だ?」
こうしてディムチャーチの浜の日差しの中で歌い踊り、子供たちは、なぜこんなことをするのだろうと不思議がりながら、おかしな若者たちへ近づいた。大人たちは冷たく、よそよそしい顔をしていた。
その朝、ヨーロッパの海岸という海岸で、バンジョーが鳴り、人々が声を張り上げ、歌い、子供たちが日の光の中で遊び、遊覧船が行き交っていた。その時代の、ありふれた豊かな暮らしは、暗く集まりつつある危険を少しも疑わず、陽気に、あてどなく流れ続けていた。都市では、人々が商売や約束事にせわしく立ち回っていた。あまりにも何度も「狼だ!」と叫んだ新聞の掲示は、いま「狼だ!」と叫んでも、むなしいばかりだった。
5
さて、バートとグラブが三度目の合唱を張り上げたとき、
北西の低い空に、とても大きな金茶色の気球があり、
急速にこちらへ近づいてくるのに気づいた。「やっと客をつかみかけたと
思ったら」とグラブはつぶやいた。「対抗の見世物かよ。行け、バート!」
「チンガリンガ、チンガリンガ、チンガリンガ、タン
いまさらヘアピンが何だ?」
気球は上がったり下がったりし、見えなくなり――「降りたか、ありがてえ」とグラブはいった――また跳ねるように現れた。「ちぇっ!」とグラブはいった。「踊れ、バート、気づかれちまう!」
二人は踊り終えると、遠慮もなく立ったまま見つめた。
「あの気球、何かおかしいぞ」とバートはいった。
いまや誰もが、勢いのある北西風に乗って急速に近づく気球を見ていた。歌と踊りは、完全にしらけきった。
もう誰も気に留めなかった。バートとグラブさえ忘れ、次の演目はまるで顧みなかった。気球は、乗員が着陸しようとしているかのように、弾んでいた。ゆっくり下がりながら近づき、地面に触れると、すぐ五十フィートほど跳ね上がり、またすぐ落ち始めた。吊り籠が木立に触れ、綱の中でもがいていた黒い人影が、籠へ倒れ戻るか、跳び戻るかした。次の瞬間には、もうすぐそばだった。家ほどもある巨大な代物に見え、砂浜へ向かってすばやく浮かび降りてきた。長い綱を後ろに引きずり、籠の男が途方もない声を上げていた。服を脱いでいるように見え、それから頭が籠の縁に現れた。「綱をつかめ!」とはっきり聞こえた。
「救助だ、バート!」とグラブは叫び、綱の先回りをしようと走り出した。
バートも続き、同じ目的の漁師にぶつかったが、倒れはしなかった。赤ん坊を抱いた女、おもちゃのシャベルを持った小さな男の子二人、フランネル服の太った紳士が、ほぼ同時に引きずられる綱へ到着し、押さえようとして、その上で踊り始めた。バートはこの身をくねらせる捕まえにくい蛇へ追いつき、足で踏み、四つん這いになり、ようやく握った。六秒ほどで、浜に散らばっていた人々が、いわば綱を芯に結晶した。籠の男の激しい、奮い立たせる指示のもと、気球に逆らって引っ張った。「引けといってるんだ!」と籠の男はいった。「引け!」
一、二秒、気球は勢いと風に従い、人間の錨を海へ引きずった。下がって水に触れ、平たい銀色のしぶきを上げ、熱いものに触れた指のように跳ね返った。「引き寄せろ」と籠の男はいった。「気を失ったぞ!」
綱につかまる人々が引き寄せるあいだ、男は見えない何かにかかりきりだった。バートは気球にいちばん近く、ひどく興奮し、興味をそそられていた。夢中になるあまり、修道僧の衣装の裾に何度もつまずいた。気球がこれほど大きく、軽く、ぐらぐら揺れるものだとは、想像したこともなかった。籠は茶色の粗い籠編みで、比較的小さかった。引いている綱は、籠の四、五フィート上の、頑丈そうな輪につながっていた。一度引くたび一ヤードほど綱を手繰り、そのぶん揺れる籠が近づいた。籠の中から怒った怒鳴り声がした。「気を失ったんだ!」そして、「心臓だ。あれほどつらい目に遭って、壊れてしまったんだ。」
気球は抵抗をやめ、下へ沈んだ。バートは綱を放し、もっと先をつかもうと走った。次の瞬間には、籠に手をかけていた。「つかまえろ」と籠の男がいい、バートのすぐそばに顔が現れた。妙に見覚えのある顔だった。荒々しい眉、やや平たい鼻、巨大な黒い口髭。上着と胴着を脱いでいた――じきに命がけで泳ぐことになると思ったのかもしれない――黒髪は途方もなく乱れていた。「皆さん、籠の周りをつかんでくれませんか」といった。「女性が気を失っている。いや、心臓が止まったのか。どちらかは天のみぞ知る! わしの名はバタリッジだ。バタリッジという者が、気球に乗っているのだ。さあ、みんな、縁をつかんでくれ。こんな旧石器時代の仕掛けに命を預けるのは、これが最後だ。引き裂き綱は利かず、弁も動かなかった。点検すべきあの悪党に、今度会ったら――」
突然、綱のあいだから頭を突き出し、真剣にたしなめるような調子でいった。「ブランデーを持ってきてくれ! ――生のブランデーだ!」
誰かが浜を上がって取りに行った。
籠の中では、寝台兼腰掛けのようなものに、大柄な金髪の婦人が、念入りに身を投げ出したような姿勢で横たわっていた。毛皮のコートを着て、花でいっぱいの大きな帽子をかぶっていた。頭は籠のクッションのある隅へだらりともたれ、目を閉じ、口を開けていた。「おまえ!」とバタリッジ氏は、俗っぽい大声でいった。「もう安全だぞ!」
反応はなかった。
「おまえ!」とバタリッジ氏は、さらに格段に声を張り上げた。「もう安全だぞ!」
婦人は依然として何の反応も示さなかった。
するとバタリッジ氏は、魂の燃える芯をあらわにした。「もし死んでいたら」と、頭上の気球へ拳をゆっくり上げ、震える途方もない怒号でいった。「もし死んでいたら、わしは天を衣のように、引き裂いてやる! 外へ出さねば!」と、感情で鼻の穴を広げて叫んだ。「外へ出さねばならん。王宮にふさわしいこの女を、一辺九フィートの籠細工の中で死なせるわけにはいかん! この籠をしっかり押さえてくれ! わしが差し出したら、受け取れる力のある男はいないか?」
力強い腕の動きで婦人を抱き寄せ、持ち上げた。「籠が跳ねないようにしてくれ」と、周囲の人々にいった。「体重をかけるんだ。この人は軽くない。外へ出したら――そのぶん軽くなる。」
バートは軽く跳び、籠の縁へ腰を下ろした。ほかの者は綱と輪をいっそう強く握った。
「いいかね?」とバタリッジ氏はいった。
寝台兼腰掛けの上へ立ち、婦人を慎重に持ち上げた。それからバートと反対側の籠の縁に腰を下ろし、片脚を越えて外へ垂らした。綱が一本かそこら、邪魔になるらしかった。「誰か手を貸してくれないか」といった。「この婦人を受け取ってもらえれば。」
ちょうどそのときだった。バタリッジ氏と婦人が、籠の縁に危うく釣り合っているとき、婦人が気づいた。突然、激しく意識を取り戻し、胸を裂くような大声で叫んだ。「アルフレッド! 助けて!」
手探りに両腕を振り回し、それからバタリッジ氏にしがみついた。
バートには、籠が一瞬揺れ、それから馬のように跳ねて、自分を蹴ったように感じられた。また、婦人の靴と紳士の右脚が、籠の外へ消える前触れとして、空中に弧を描くのも見えた。印象は複雑だったが、自分が釣り合いを失い、このきしむ籠の中で逆立ちしようとしていることもわかった。何かをつかもうと両腕を広げた。ほとんど逆立ちになり、麻屑の髭が外れて口に入り、頬がクッションをこすって滑った。鼻は砂袋へ埋まった。籠は激しく傾き、それから静まった。
「ちくしょう!」といった。
耳の中でごうごう鳴り、周囲の人々の声がすべて小さく遠くなったので、頭を打ってぼうっとしているのだろうと思った。みんな、丘の中の妖精のように叫んでいた。
立ち上がるのは、少々難しかった。手足が、海へ飛びこまねばならないと思ったときにバタリッジ氏が脱いだ衣服に絡まっていた。バートは、半分怒り、半分情けない声で叫んだ。「籠をひっくり返すんなら、ひと言いってくれりゃよかったのに!」
それから立ち上がり、籠の綱を発作的につかんだ。
下には、はるか下には、青く輝くイギリス海峡の水があった。遠く、日差しの中の小さなものとなって、誰かがくぼませるように曲げているかのように、急速に下がっていく砂浜と、ディムチャーチをなす不規則な家並みがあった。あまりに突然あとにした、小さな人の群れが見えた。グラブは「砂漠の修道僧」の白い衣を着て、波打ち際を走っていた。バタリッジ氏は膝まで水につかり、途方もない声でわめいていた。婦人は花だらけの帽子を膝に置いて座り、ひどく放っておかれていた。東にも西にも、浜には小さな人間が点々といて、頭と足ばかりのように見え、空を見上げていた。そして気球は、バタリッジ氏と婦人の合わせて二十五ストーン[訳注:一ストーンは14ポンド]ほどの重みから解放され、競走用自動車の速さで空へ突進していた。「たまげたな!」とバートはいった。「こりゃ、とんだことになった!」
引きつった顔で遠ざかる浜を見下ろし、目は回っていないなと思った。それから漠然と「何とかする」つもりで、周囲の紐や綱をざっと調べた。「こいつをいじくり回すのはよそう」とついにいって、マットレスへ座った。「触らねえぞ……。いったい、どうすりゃいいんだろう?」
ほどなくまた立ち上がり、下へ沈んでいく世界を長いあいだ見つめた。東の白い崖、左手で平らに広がっていく湿地、細密画のように小さく、広々と続くウィールドと丘陵、霞む町と港と川とリボンのような道、広がり続ける海の上の無数の船、その甲板と遠近法で縮まった煙突、そしてフォークストンからブローニュまで海峡をまたぐ巨大なモノレール橋を見つめた。やがて、初めは小さなちぎれ雲が、次いで薄雲の幕が、景色を目から隠した。少しも目は回らず、さほど怖くもなかった。ただ、途方もなく途方に暮れていた。
第三章 気球
一
バート・スモールウェイズは、俗っぽいちっぽけな男だった。生意気で見識の狭い、二十世紀初頭の旧文明が世界のどの国でも何百万という単位で生み出していた、あの手合いの一人である。それまでの人生を、狭い通りと、屋根越しに向こうを見渡すことさえできないみすぼらしい家々の間で、そして逃れようもない狭い観念の輪の中で暮らしてきた。人間の務めは、仲間より抜け目なく立ち回り、本人の言い方なら「銭をつかんで」、面白おかしく暮らすこと、それがすべてだと思っていた。実際、イングランドとアメリカを当時のような国にしたのは、まさしくこの種の人間だったのである。これまでは運が向かなかったが、それはまた別の話だ。国家というものを意識することも、忠誠を習いとすることもなく、献身の心も、名誉の掟も、勇気の掟さえも持たない、ただ押しが強く欲深い一個人にすぎなかった。その男が今、奇妙な偶然によって、驚異に満ちた現代世界からしばし引き離され、その慌ただしさや入り乱れる呼び声のすべてから抜け出し、死んで肉体を失ったもののように海と空の間を漂っていた。天がこの男を使って実験をしているかのようだった。イングランドの何百万もの人間の中から見本に選び出し、もっと近くから眺め、人間の魂に何が起きているのか調べようというのだ。もっとも、もしそうだとして、天がこの男をどう評したか、私には想像できるとは言えない。天が何を理想とし、何に満足するかについての学説は、とうの昔にすべて捨ててしまったからである。
一万四千ないし一万五千フィートの高みにある気球に、たった一人で乗っていること――やがてバート・スモールウェイズはそこまで上った――は、人間のほかのいかなる経験にも似ていない。人に許された至高の体験の一つだ。どんな飛行機械も、それにまさることはできない。それは人の世から、異様なほど遠く離れることだ。かつてないほど静かに、独りになることだ。何かが立ち入ってくる気配すらない孤独であり、余計な物音が一つもない静けさである。空を見る、とはこのことだ。人間社会のあらゆる轟音も騒音も、ここまでは一つとして届かない。空気は、汚れなど思いもよらぬほど清らかで、心地よい。鳥も虫も、これほど高くは来ない。気球の中では風はけっして吹かず、そよ風がものをそよがせることもない。気球は風とともに動き、それ自体が大気の一部だからだ。一度動き出せば、ぐらつきも揺れもしない。上昇しているのか下降しているのかさえ、体では感じられない。バートはひどく寒かったが、高山病にはならなかった。バタリッジが脱ぎ捨てた上着と外套と手袋を身につけた――安物の一張羅を覆う「砂漠の修道士」のシーツの上から着込んだ――そして、初めて知る世界の静寂に圧倒され、長いあいだ身じろぎもせず座っていた。頭上には、褐色に光る油引き絹布でできた、軽く透き通るふくらんだ球体、その先には燃え立つ陽光と、深い青をたたえた巨大な空の丸天井があった。
下には、はるか下には、陽光に照らされた雲の床が破れたように広がり、その大きな裂け目から海が見えていた。
もし下から彼を見ていたなら、小さな黒いこぶのような頭が、まず長いあいだ籠の片側から動かず突き出て、それから消え、しばらくすると別の場所に現れるのが見えただろう。
居心地が悪いとも怖いとも、少しも思わなかった。この手に負えないものが、自分を乗せてこうも勢いよく空へ駆け上がったのだから、そのうちまた勢いよく落ちるかもしれないとは思ったが、その考えもさほど気にはならなかった。心を占めていたのは、何よりも驚嘆だった。気球には恐れも苦労もない――下降し始めるまでは。
「たまげたな!」ついに、何かしゃべりたくなって言った。「オートバイよりいいや。」
「こりゃ、いいぞ!」
「今ごろ、電報を打ちまくってるんだろうな。おれのことをさ」……
二時間目に入ると、籠の備品を念入りに調べ始めた。頭上には気球の口が寄せ集めて縛ってあったが、中央には開いた通り穴が残っており、そこから広大で何もない静かな内部をのぞき込めた。そこからは用途のわからない細い綱が二本、白いものと深紅のものが垂れ、輪の下のポケットに収まっていた。気球を包む網は下端で綱になり、輪につながっていた。それは鋼で補強した大きな輪で、籠はそこから綱で吊られていた。輪からは引き綱と鉤付きの錨が垂れ、籠の外側には帆布の袋がいくつも掛かっていた。気球が落ちたら「ほうり落とす」重しに違いない、とバートは判断した。(「まだ落ちそうにはないな」とバートは言った。)
輪にはアネロイド気圧計と、もう一つ箱形の計器が吊られていた。後者には象牙の銘板がついていて、「スタトスコープ[訳注:気圧の変化から気球の昇降を示す計器]」と、ほかにフランス語の文字が記され、小さな指針が「上昇」と「下降」の間で震えながら揺れていた。「なるほど」とバートは言った。「上ってるか下りてるか、わかるわけだ。」
気球の深紅のクッション付き座席には毛布が二枚とコダックのカメラが置かれ、籠の底の向かい合った隅には、空のシャンパン瓶とグラスが一つずつあった。「お飲み物か」とバートは考え深げにつぶやき、空瓶を傾けた。そのとき、うまい考えが浮かんだ。毛布とマットレスを備えた、寝台のような二つの座席は、よく見ると収納箱だった。その中には、バタリッジ氏の考える気球旅行の十分な装備がそろっていた。食べ物を詰めた籠には、猟鳥獣の肉のパイ、ローマ風パイ、冷たい鶏料理、トマト、レタス、ハムサンドイッチ、小エビのサンドイッチ、大きなケーキ、ナイフとフォークと紙皿、自己加熱式の缶入りコーヒーとココア、パン、バター、マーマレード。ほかに、丁寧に梱包されたシャンパン数本、ペリエの瓶、洗い物用の水を入れた大きな壺、書類入れ、地図、方位磁石、髪の鏝やヘアピンをはじめとするさまざまな便利物の入ったリュックサック、耳当て付きの帽子などがあった。
「まるで家にいるみたいだ」とバートは、耳当てを顎の下で結びながら、この備蓄を見渡して言った。籠の縁から下をのぞいた。はるか下には、輝く雲があった。雲は厚くなり、世界をすっぽり隠していた。南には雪のような大きな塊が積み重なり、山かと思いそうなほどだった。北と東では波のような層をなし、陽光を受けてまぶしく光っていた。
「気球って、いつまで浮いてるんだろうな」と言った。
巨大な気球は、周囲の空気とともにあまりにも静かに漂っていたので、自分は止まっているのだと思った。「少し移動するまでは、下りたってしょうがないな」と言った。
スタトスコープを見た。
「まだモンティだ。」
「綱を引っ張ったら、どうなるんだろう?」
「いや」と決めた。「むやみにいじるのはやめとこう。」
それでも後には、裂開用と排気弁用の綱を両方とも引いてみた。しかし、バタリッジ氏がすでに気づいていたとおり、それらは気球の口で絹布のひだに絡まっていた。何も起きなかった。このささいな引っ掛かりがなければ、裂開索は剣で切り裂いたように気球を開き、スモールウェイズ氏を毎秒およそ千フィートの速さで永遠へと投げ込んでいたはずだった。「だめだな!」最後に一度ぐいと引いて言った。それから昼食にした。
シャンパンの瓶を開けたが、針金を切るやいなや、栓が信じがたい勢いで吹き飛び、中身の大半も後を追って空中へ飛び出してしまった。それでもバートは、コップ一杯ほどは確保した。「気圧だな」とバートは言い、初等学校の七年級で習った自然地理が、ようやく役に立った。「次はもっと気をつけなきゃ。酒を無駄にしちゃいけない。」
それから、バタリッジ氏の葉巻を利用しようと、マッチを捜し回った。しかし、ここでも運が味方し、頭上のガスに火をつける道具は何一つ見つからなかった。見つかっていたら、ひときわ華麗だがつかのまの花火となって、炎の中を落ちていたことだろう。「グラブの野郎!」何も出てこないポケットを叩いてバートは言った。「おれのマッチ箱を持ってくことはねえだろ。あいつ、いつもマッチをくすねやがる。」
しばらく横になって休んだ。それから起き上がり、ちょこちょこ歩き回って床の重し袋を並べ直し、少し雲を眺め、座席の上の地図を繰った。バートは地図が好きだったので、フランスかイギリス海峡の地図を見つけようと、しばらく探した。だが、どれもイングランド各州の陸地測量部の地図だった。それで外国語のことが頭に浮かび、七年級で習ったフランス語を思い出そうとした。「私はイングランド人です。これは手違いです。私は偶然ここへ来ました」――このあたりが便利だろうと決めた。次には、暇つぶしにバタリッジ氏の手紙を読み、手帳を調べてみようと思いつき、そうして午後を過ごした。
2
バートは、体を念入りにくるんで、クッション付きの収納座席に腰を下ろしていた。風こそなかったが、空気は身が引き締まるほど冷たく澄んでいた。まずは控えめな青いサージのスーツに、郊外のおしゃれな若者らしい気取りのない下着一式、サンダルめいた自転車靴、ズボンの裾の上まで引き上げた茶色の長靴下。その上に穴の開いた「砂漠の修道士」用のシーツ、次にバタリッジ氏の上着とチョッキと、大きな毛皮縁の外套、さらに婦人物の大きな毛皮のマントをまとい、膝には毛布を巻いていた。頭には麻くずのかつら、その上にバタリッジ氏の大きな帽子をかぶり、耳当てを下ろしていた。足はバタリッジ氏の毛皮の寝靴に包まれ、暖かかった。気球の籠は小さく、きちんとしていて、いちばん雑然としているのは何袋かの重しくらいだった。軽い折り畳みテーブルを見つけて肘のそばに置き、その上にはシャンパン入りのグラスを載せていた。そして周囲にも、上にも下にも、空間があった――空を飛ぶ者だけが味わえる、澄みきった空虚と静寂に満ちた空間が。
どこへ流されているのか、この先何が起こるのか、わからなかった。その状況を、スモールウェイズ家の勇気の面目を施すような落ち着きで受け入れていた。その勇気はもっと堕落した、まるで取るに足りないものだろうと考えても、無理はなかったのだが。どこかには必ず下りるのだから、そのとき潰れてさえいなければ、誰か、ひょっとすると何かの「協会」が、自分と気球をイングランドへ送り返してくれるだろう、というのが彼の見込みだった。そうしてもらえなければ、イギリス領事に会わせろと、きっぱり要求すればいい。
「ル・コンスエロ・ブリタニック」――それがフランス語だろうと決めた。「アポルテ・モワ・ア・ル・コンスエロ・ブリタニック、シル・ヴ・プレ」――つまり、イギリス領事のところへ連れていってください、だ。何しろフランス語にまったく無知なわけではないのだ。その間、バタリッジ氏の私生活を探るのは、なかなか面白い研究だった。
バタリッジ氏宛ての、まったく私的な手紙があった。中でも、女性らしい大きな筆跡で書かれた何通かの恋文は、相手を食い尽くしそうな情熱に満ちていた。それらはわれわれの関知するところではなく、バートがそれを読んだと記すのは遺憾である。
読み終えると、バートは畏れを含んだ声で「たまげたな!」と言い、長い間を置いてから、「あの女だったのかな?
「いやはや!」
しばらく考え込んだ。
それから、バタリッジ氏の内情探査を再開した。インタビュー記事の新聞切り抜きがいくつもあり、ドイツ語の手紙も何通かあった。さらに、それと同じドイツ人の筆跡で、英語で書かれたものもあった。「おや、おや!」とバートは言った。
後者のうち最初に手に取った一通は、これまで英語で書かなかったこと、そのためバタリッジに不便と遅延を強いたことへの詫びから始まり、そのあとに、バートをこの上なく興奮させる内容が続いていた。「貴殿のお立場の難しさ、ならびに目下の情勢においては監視を受けている可能性があること、いずれも十分理解しております。――しかしながら、貴殿が図面を携え、通常の経路、すなわちドーヴァー、オステンド、ブローニュ、あるいはディエップ経由で出国して当方へお越しになろうとする場合、重大な障害が加えられるとは考えておりません。貴殿の貴重な発明ゆえに殺害されるおそれがあるとのご懸念につきましては、正当なものとは考えにくく存じます。」
「妙だな!」とバートは言い、考え込んだ。
それから、ほかの手紙にも目を通した。
「来てほしいらしいな」とバートは言った。「だが、ぜひともってほどじゃなさそうだ。それとも値段を下げさせようと、欲しくないふりをしてるのか。
「どうも政府そのものじゃなさそうだな」と、しばらくして考えた。「どこかの会社の便箋みたいだ。上にこんなに印刷してある。ドラッヘンフリーガー。ドラッヘンバローン。バローンシュトッフェ。クーゲルバローン。ちんぷんかんぷんだ。
「だが、こいつはあの秘密を外国に売ろうとしてたんだ。そこは確かだ。そこはちんぷんかんぷんじゃないぞ! たまげたな! その秘密がここにある!」
座席から転げるように下り、収納箱を開けると、折り畳みテーブルの上に書類入れを広げた。中は、技師が用いる独特の平面的な描き方と規定の色分けによる図面でいっぱいだった。そのほかに、やや露出不足の写真が数枚あり、明らかに素人が至近距離から撮ったものだった。クリスタル・パレス近くの格納小屋でバタリッジが作った、あの機械そのものを写していた。バートは、自分が震えていることに気づいた。「なんてこった」と言った。「飛行の秘密一式を抱えて、おれはこんなところに――世界の屋根の上で迷子になってる。
「どれどれ!」
図面を調べ、写真と照らし合わせ始めた。わからなかった。半分ほど欠けているようだった。どう組み合わさるのか思い描こうとしたが、彼の頭には荷が重すぎた。
「じれったいな」とバートは言った。「機械屋に育ててもらってりゃなあ。こいつがわかりさえすりゃ!」
籠の縁に寄り、巨大な雲の群れをしばらく、見ているともつかぬ目で眺めた。下で陽光を浴び、ゆっくり溶けてゆくモンテ・ローザの山々のようだった。その上を動く奇妙な黒い点が目に留まった。ぎょっとした。はるか下で、自分とともにゆっくり動く黒い点がある。雲の山々の上を、飽くこともなく、下から自分についてくる。なぜあんなものがついてくるのか? いったい何だろう? ……
はっと思いついた。「そりゃそうか!」と言った。気球の影だった。それでも、まだしばらくは疑わしげに見つめていた。
テーブルの図面に戻った。
その仕組みを理解しようと格闘しては、折々に考え込む。その繰り返しで長い午後を過ごした。フランス語で、見事な新しい口上もこしらえた。
「これをご覧、ムッシュ! ――私はイングランドの発明家です。名前はバタリッジ。ビー、ユー、ティー、ティー、イー、アール、アイ、ディー、ジー、イー。私はここにありました、フライング・マシーンの秘密を売るために。わかりますか? お金で売ります、すぐに、手にお金。わかりますか? これは空中で遊ぶ機械です。わかりますか? これは鳥をする機械です。わかりますか? 釣り合う? はい、そのとおり! 鳥を実際に打つ、鳥自身の勝負で。私はこれをあなたの国家政府に売りたいです。そこへ私を案内したいですか?
「文法から見りゃ、ちょいと変だろうが」とバートは言った。「言いたいことは、ちゃんとわかるはずだ。
「だが、あの機械を説明しろって言われたら?」
不安げに図面へ戻った。「全部はそろってないと思うな!」と言った。……
雲の間の高みに浮かびながら、このすばらしい拾い物をどうしたらいいのか、ますます途方に暮れていった。彼にわかるかぎり、いつ何どき、どことも知れぬ外国人の中へ降り立つとも知れなかった。
「一生に一度のチャンスだ!」と言った。
だが、そうではないことが、次第にはっきりしてきた。「下りたとたん、電報を打たれる――新聞にも載る。バタリッジがそれを知って、やってくる――おれを追いかけて。」
誰であれ、バタリッジに追われるのは恐ろしいことだった。バートは、あの大きな黒い口ひげ、三角の鼻、人を探して響き渡る怒鳴り声、ぎらつく目を思い浮かべた。バタリッジの大秘密を見事に横取りして売り払うという、午後の夢は、頭の中でしぼみ、溶け、消え去った。ようやくまともな考えに立ち返った。
「無理だ。考えたってしょうがない。」
のろのろと、名残惜しげに、バタリッジの書類を、もとどおりポケットと書類入れに戻し始めた。頭上の気球がみごとな金色の光を浴び、青い空の丸天井に新たな暖色が差していることに気づいた。立ち上がると、まぶしい黄金の大球となった太陽が、金で縁取られた深紅と紫の雲の、うねる海へ沈もうとしていた。想像を超えて不思議で、美しい眺めだった。東には、雲の国が暮れゆく青の中に果てしなく続き、バートには、世界の丸い半球がそっくり眼下にあるように思われた。
そのとき、青い遠方に、急ぐ魚のような、長く黒い影が三つ見えた。水中でネズミイルカが連れ立つように、一つの後をもう一つが進んでいた。まさしく魚に似ていた――尾まであった。その光の中では、確かとは言いがたい印象だった。目をしばたたき、もう一度見つめたが、もう消えていた。長いあいだ、遠い青の広がりを凝視したが、それきり何も見えなかった。……
「ほんとに何か見たのかな」と言い、それから、「あんなもの、いるわけがない……」
太陽は下へ、下へと沈んだ。急角度で落ちるのではなく、北へ進みながら沈んでいった。そして突然、昼の光も、あたりを満たしていた昼の暖かみもすっかり消え、スタトスコープの指針が震えながら「下降」の側へ振れた。
3
「さて、今度はどうなるんだ?」とバートは言った。
冷たい灰色の雲の荒野が、広々と、ゆっくり、一定の速さで迫り上がってきた。雲の中へ沈むにつれ、それまで雪をかぶった山腹に似ていた雲は、固いもののようには見えなくなり、形を失い、その内部に広大で無音の流れと渦を現した。薄暗い雲塊にほとんど入りかけたところで、一瞬、下降が止まった。次の瞬間には空が隠れ、昼の光の最後の名残も消えた。夕暮れの薄闇の中を、細かな雪片の渦を抜けて、急速に落ちていた。雪片は頭上へ向かって流れ去り、周囲の物の上に吹き込んでは溶け、幽霊の指のように顔に触れた。身震いした。唇から白い息が立ちのぼり、何もかもがたちまち水滴に覆われ、濡れた。
見たこともない猛吹雪が、激しさを増しながら上向きに吹き荒れているように感じた。やがて、自分がますます速く落ちているのだと悟った。
いつの間にか、音が耳に届き始めた。世界の大いなる静寂は終わっていた。この入り混じった音は何だろう?
気にかかり、戸惑いながら、籠の外へ首を伸ばした。
初めは見えた気がして、次には見えなくなった。やがて、白い泡の小さな縁が互いを追いかけるのがはっきり見え、その下に波立つ水の広大な荒野が現れた。遠くには、大きな帆に薄黒い文字を記した水先案内船があり、小さな桃色がかった黄色い灯をともしていた。船は強風の中で、横揺れし、縦揺れし、また横揺れし、縦揺れしていたが、こちらには少しも風を感じなかった。すぐに水の音が大きく、近くなった。落ちている、落ちている――海へ!
突如、猛烈に動き出した。
「重しだ!」と叫び、床の小袋を一つつかんで、外へ放り投げた。効き目を待たず、もう一つ続けて投げた。外をのぞくと、ちょうど下の薄暗い水面に小さな白いしぶきが上がるところだった。その次には、もう雪と雲の中へ戻っていた。
まったく必要もないのに三袋目、四袋目の重しまで投げ捨てた。やがて、湿気と冷たさを抜け、まだ昼の名残のある、澄んで冷たい上空へ舞い上がると、この上もなく満ち足りた気分になった。「ああ、ありがてえ!」と心の底から言った。
青空には、もう星がいくつか姿を現し、東には縦長の月が明るく輝いていた。
4
この最初の急降下によって、バートの心には、下に果てしない水が広がっているという思いが取りついて離れなくなった。夏の夜だったが、それでも途方もなく長く感じられた。落ち着かない不安を抱き、日の出がそれを取り払ってくれると、何の根拠もなく思っていた。腹も減っていた。暗がりで収納箱を手探りし、ローマ風パイに指を突っ込み、サンドイッチを取り出し、シャンパンのハーフボトルも今度はかなりうまく開けた。それで体が温まり、元気を取り戻すと、マッチのことでグラブにぶつぶつ文句を言い、座席の上で暖かくくるまって、しばらくうとうとした。一度か二度起き上がり、まだ安全に海のはるか上にいるか確かめた。最初に見たとき、月明かりの雲は白く厚く、気球の影が、ついてくる犬のようにその上を走っていた。次に見たときには、雲は薄くなっているようだった。じっと横になり、頭上の巨大な黒い気球を見つめているうちに、一つ発見をした。自分の――いや、バタリッジ氏の――チョッキが、息をするたびにかさかさ鳴るのだ。裏に紙が入っていた。取り出して調べたくてたまらなかったが、バートには暗くて見えなかった。……
鶏の声、犬の吠える声、鳥の騒ぐ声で目を覚ました。晴れた空の下、朝日で金色に染まった広大な土地の上を、低い高度でゆっくり進んでいた。生け垣のない、よく耕された畑が見え、道がそれを区切り、どの道にも電線を支える赤い柱が並んでいた。ちょうど、まっすぐな教会の塔と、急勾配の赤い瓦屋根を備えた、白壁の家々の小ぢんまりまとまった村を越えたところだった。光沢のある仕事着に、ごつごつした履物をつけた男女の農民たちが、仕事に向かう足を止めて見上げていた。あまりに低く、綱の端が地面を引きずっていた。
その人々を見下ろした。「どうやって着陸するんだろう」と思った。
「やっぱり下りるべきなんだろうな?」
モノレールの線路へ向かって高度が下がってきたので、慌てて重しを二、三つかみ投げ出し、上を越えた。
「ええと! 『プルネ!』だけでもいいか。綱をつかめって、フランス語で何て言うんだっけな! ……フランス人なんだろうな?」
もう一度あたりを見渡した。「オランダかもしれない。ルクセンブルクかもな。おれにゃロレーヌだって区別がつかない。向こうのでっかいのは何だろう? 何かの窯だな。豊かそうな土地だ……」
きちんとした土地のたたずまいが、彼の中のそれに応える気持ちを呼び起こした。
「まずは、こっちも少し身なりを整えよう」と言った。
少し上昇し、かつらを取るなどしようと決めた。頭がもう暑くなっていたのだ。重しを一袋投げ捨てると、気球がものすごい勢いで空へ駆け上がったので、驚いた。
「しまった!」とスモールウェイズ氏は言った。「重しを捨てすぎた……今度はいつ下りられるんだ? ……ともかく、朝飯は船内だな。」
空気は暖かかったので帽子とかつらを取り、先のことも考えず、かつらを外へ投げ捨てた。スタトスコープは敏感に反応し、勢いよく「上昇」へ振れた。
「こいつ、下をのぞいただけでも上がりやがる」と言って、収納箱に取りかかった。ほかの品々に交じって、液体ココアの缶がいくつかあり、詳しい開け方が記されていたので、細心の注意でそのとおりにした。付属の鍵を使い、指定された穴の位置で底を突くと、冷たかった缶がたちまち熱くなり始め、ついにはほとんど触れないほどになった。それから反対側を開けると、マッチも火も何一つ使わないのに、ココアが湯気を立てていた。古くからある発明だったが、バートには初めてだった。ハムもマーマレードもパンもあり、朝食は実にまずまずのものとなった。
日差しが暑くなってきたので外套を脱ぎ、そこで夜に聞いた紙の音を思い出した。チョッキを脱いで調べた。「こいつの縫い目をほどいたら、バタリッジの親父は嫌がるだろうな。」
ためらった末に、縫い目をほどき始めた。そして、飛行機械の安定を全面的に支える側方の回転翼についての、欠けていた図面を発見した。
目ざとい天使が見ていたなら、この発見のあと、バートが長いあいだ座り込んで、一心に考えにふける姿を見ただろう。ついにひらめいたような顔で立ち上がると、切り開き、壊し、中をほじくり返したバタリッジ氏のチョッキを手に取り、気球から投げ捨てた。チョッキはゆっくりひらひらと渦を描いて落ち、やがてヴィルトバート近くのホーエンヴェークの道端で安らかに眠るドイツ人旅行者の顔に、満足げなぱさりという音を立てて落ち着いた。これで気球はさらに上がり、仮想の天使にはいっそう観察しやすい位置となった。続いて天使の目に映ったのは、スモールウェイズ氏が自分の上着とチョッキを勢いよく開け、襟を外し、シャツを開き、胸に手を差し入れ、心臓を引きずり出す姿だった――少なくとも、心臓でないとしたら、何か大きな鮮紅色の物体である。観察者が天上の戦慄を押さえて、この赤い物体をさらに詳しく調べたなら、バートが大切に隠していた秘密の一つ、その本質的な弱みの一つが明らかになったはずだ。それは赤いフランネルの胸当てだった。キリスト教世界のプロテスタント諸民族のあいだで、丸薬や薬とともに、霊験あらたかな聖遺物や聖像の代わりを果たす、大きなまがい物の健康用品の一つである。バートはいつもこれを身につけていた。マーゲイトの一シリング占い師の助言をもとに、自分は肺が弱いという思い込みを大事にしていたのだ。
そこで彼は、自分の護符のボタンを外し、ポケットナイフで切り目を入れ、新たに発見した図面を、それを作っている二枚重ねの模造サクソニー・フランネルの間へ押し込んだ。それから、バタリッジ氏の小さなひげ剃り鏡と折り畳み式帆布の洗面器を使い、人生で後戻りのできない一歩を踏み出した男の厳粛さで身なりを整えた。上着のボタンを掛け、「砂漠の修道士」の白いシーツを脇へ放り、水を控えめに使って顔を洗い、ひげを剃り、大きな帽子と毛皮の外套を着直した。そして、こうした作業ですっかりさっぱりすると、眼下の土地を見渡した。
まことに、信じがたいほど壮麗な眺めだった。前日の、陽光を浴びた雲の国ほど奇妙でも壮大でもなかったかもしれないが、少なくとも興味深さは比べものにならなかった。
大気はこの上なく澄みきり、南と南西を除けば空には雲一つなかった。丘の多い土地で、ときどきモミの植林地や荒涼とした高地もあったが、農場も数多かった。蛇行する幾筋もの川が深い峡谷を刻んで丘々を区切り、その流れはところどころ、発電用水車のためにせき止めた池や堰に遮られていた。明るい色合いの、急勾配の屋根を持つ村々が点在し、どの村にも無線電信塔の傍らに、特徴のある面白い教会が見えた。あちらこちらには大きな城館や庭園があり、白い道路や、赤と白の電柱を並べた小道が、景色の中できわめて目立っていた。庭や干し草置き場らしい囲い地、納屋の大きな屋根、電化された酪農施設も数多かった。高地には牛がまだら模様を作っていた。場所によっては、昔の鉄道――今ではモノレールに改められていた――の路線が、トンネルに潜っては築堤を渡るのが見え、さっと走り抜ける唸りが列車の通過を告げた。何もかもがひどく小さいのに、驚くほどくっきり見えた。一度か二度、大砲と兵士が目に入り、イングランドの銀行休日に目撃した軍事準備の騒ぎを思い出した。しかし、その準備が異常なものだと教えてくれるものも、ときおりかすかに、不規則に響いてくる砲声を説明してくれるものもなかった。……
「下り方がわかりゃなあ」と、そのすべての上、一万フィートほどの高さでバートは言い、赤と白の綱をさんざん引っ張ったが、無駄だった。そのあとで、食料のおおまかな目録を作った。上空での生活で恐ろしく腹が減るので、今のうちに食料を一食分ずつ割り振っておくのが賢明だと思ったのだ。わかっているかぎりでは、一週間空にいることになるかもしれなかった。
初めのうち、眼下の広大な眺望は、描かれた絵のように静かだった。だが日が進み、気球からガスがゆっくり抜けるにつれ、再び地上へ近づいていった。細部が増し、人の姿がはっきりし、列車や車両の笛や唸り、牛の声、ラッパや太鼓、やがては人の声まで聞こえ始めた。ついに誘導綱がまた地面を引きずり、着陸を試みられそうになった。綱が電線をこすったとき、一度か二度、電気で髪が逆立ち、一度は軽い感電をして、籠の周囲で火花がはじけた。そういうことも旅につきものの出来事として受け止めた。今は、やるべきことが一つはっきりしていた。輪から吊られた鉄の鉤錨を落とすのだ。
この試みは、初めからうまくいかなかった。おそらく、下りる場所の選び方が悪かったのだろう。気球は何もない広場に下りるべきなのに、彼が選んだのは人込みだった。十分に考えず、急に決めてしまったのだ。綱を引きずって進むうち、前方に、世界でも指折りに魅力的な小さな町が見えた。急な切妻屋根の群れの上に高い教会塔がそびえ、ところどころに木々が混じり、周囲は城壁で囲まれ、立派な大門が街路樹の並ぶ幹線道路へ開いていた。近隣の電線やケーブルはすべて、宴に招かれた客のようにそこへ集まっていた。いかにも居心地がよく、ほっとするたたずまいで、たくさんの旗がさらに華やかさを添えていた。道路では、大きな二輪荷車や徒歩の農民たちが大勢行き来し、ときおりモノレールの車両も通った。町の外の車両乗り継ぎ場では、木陰に露店が並び、小さな市がにぎわっていた。バートには、温かく、人間味にあふれ、暮らしの根がしっかり張った、申し分なく愉快な場所に見えた。木々の梢すれすれを進み、鉤錨を投げて係留する用意をした。想像の中では、好奇心に満ち、自分でも人々の興味を引く客となって、その真ん中へ舞い降りるつもりだった。
感心する田舎者たちの輪の中で、身振りと、あり合わせの外国語を駆使して大活躍する自分を思い描いた。……
そこで、災難続きの一幕が始まった。
木々の上に彼が現れたことを群衆が十分に悟るよりもずっと前に、綱のほうが不評を買い始めた。光る黒い帽子をかぶり、大きな深紅の傘を持った、どうやら酔っているらしい年配の農民が、そばを引きずられていく綱を最初に見つけた。そして、そいつを仕留めてやろうという、感心しない野望に取りつかれた。不愉快な声を上げながら、すばやく追いかけた。綱は斜めに道を横切り、露店の牛乳桶にばしゃりと飛び込むと、牛乳まみれの尾を、城門の外に止まっていた工場娘たち満載の自動車へ叩きつけた。娘たちは大声で悲鳴を上げた。人々は見上げ、バートが愛想よく挨拶しているつもりの身振りを見たが、娘たちの叫びを聞いたあとだったので、それを侮辱的なしぐさと受け取った。続いて籠が門楼の屋根をしたたかに打ち、旗竿を折り、電信線をひとしきりかき鳴らし、切れた線を鞭のように走らせて、不評をさらに積み上げた。バートは夢中でしがみつき、危うく頭から投げ出されるのを免れた。若い兵士二人と何人かの農民が、頭上へ何事か怒鳴り、拳を振り上げた。そして気球が城壁を越えて町の中へ消えると、追いかけて走り出した。
感心する田舎者たち、とはよく言ったものだ!
気球は、地面に触れて重量の一部が支えられたときの常で、いささか軽薄とさえ見える調子で、たちまち跳ね上がった。次の瞬間、バートは農民と兵士で混み合う通りの上にいて、その先にはにぎやかな市場の広場が開けていた。敵意の波が追ってきた。
「鉤錨だ」とバートは言い、思いついたように叫んだ。「テート! そこのあんたら! おい! おい! 頭だ! ちくしょう!」
鉤錨は急勾配の屋根を叩き割り、砕けた瓦を雪崩のように引き連れ、悲鳴と叫びの間で通りを跳び越え、巨大な不吉な衝撃音とともに板ガラスの窓へ突っ込んだ。気球はむかつくほど横に揺れ、籠が前後にあおられた。しかし鉤錨は引っ掛からなかった。すぐに外へ出てきたその鉤の一つには、小さな子供椅子が掛かっていた。えり好みした末に選んだような、こっけいな様子だった。逆上した店主が追いかけてきた。鉤錨は獲物を持ち上げ、怒号の中を、苦しい決断に迷うかのように振り回し、最後にはひらめきを得たように、広場でキャベツを売っていた農婦の頭に、きれいに落としてやった。
今や誰もが気球に気づいていた。誰もが鉤錨をよけるか、引き綱をつかまえようとしていた。鉤錨は振り子のように群衆の中へ振れ込み、人々を左右に蹴散らして、再び地上へ下りた。青い服に麦わら帽子の太った紳士を狙って外し、小間物屋の露店を支える脚台をはね飛ばし、膝丈ズボンをはいた自転車兵をシャモアのように跳び上がらせた末、羊の後ろ脚の間に、心もとなく引っ掛かった。羊は薄情にも、必死でもがいて逃れようとしたが、引きずられ、広場中央の石の十字架に押しつけられて止まった。気球ががくりと停止した。次の瞬間には、やる気満々の二十人ほどが綱を引き、地面へたぐり寄せていた。同時にバートは、初めて自分の周囲をさわやかな風が吹いていることに気づいた。
数秒のあいだ、吐き気を催すほど揺れる籠の中でよろめきながら立ち、下の怒り狂った群衆を眺め、考えをまとめようとした。この災難の連続には、まったく度肝を抜かれていた。そんなに怒っているのだろうか? 誰もが自分に腹を立てているようだった。到着を面白がったり、楽しんだりしてくれる者はいないらしかった。叫び声のうち、不釣り合いなほど多くが罵声めいていた――いや、暴動の気配を濃厚に帯びていた。仰々しい制服に二角帽をつけた役人が何人か、群衆を抑えようと奮闘していたが、無駄だった。拳や棒が振り回された。そして群衆の端の男が干し草車へ走り、ぴかぴかの歯のついた干し草用フォークを取り出し、青い制服の兵士がベルトを外すのを見たとき、この町はやはり着陸に向いていなかったのではないかという疑いは、確信に変わった。
多少なりとも英雄扱いしてくれるだろう、という空想を捨てきれずにいた。だが、それが間違いだとわかった。
決断したとき、人々の頭上、十フィートほどの高さにいた。金縛りが解けた。座席へ跳び上がり、頭から落ちそうになりながら、鉤錨の綱を留め具から外した。それから引き綱へ飛びつき、こちらも外した。鉤錨の綱が落ち、気球がすばやく跳ね上がると、しわがれた不満の叫びが湧いた。何かが――あとで考えるとカブだったらしい――頭のそばをひゅっとかすめた。引き綱も仲間の後を追った。群衆が自分から跳びのくように見えた。ものすごく恐ろしいばさばさという音を立て、気球が電話線の柱をかすめた。張りつめた一瞬、電気の爆発か、油引き絹布の破裂か、その両方が起きると思った。だが、運は味方していた。
次の瞬間には、籠の底で身を縮め、鉤錨と二本の綱の重さから解放されて、また空へ向かって疾走していた。しばらくうずくまったままでいた。ようやく外をのぞくと、小さな町はごく小さくなり、下界のドイツのほかの部分と一緒に、籠の周りを円軌道に沿ってぐるぐる回っていた――少なくとも、そう見えた。慣れてみると、この気球の回転はむしろ便利だった。籠の中を歩き回らずに済むからだ。
5
一九一某年の、快い夏の日の午後も遅く――故G・P・R・ジェイムズの読者にかつて好まれた言い回しを借りるなら――古典的な冒険物語の孤独な騎手に代わり、一人の孤独な気球乗りが、フランケン地方を北東へ進む姿を見ることができたであろう。海抜およそ一万一千フィート、なおもゆっくり回転しつつ進んでいた。籠の縁から首を突き出し、深く困惑した表情で眼下の国土を眺め、ときおり唇が、聞こえない言葉を形作った。たとえば「人を撃ちやがって」とか、「やり方さえわかりゃ、ちゃんと下りるさ」といった言葉だった。
籠の外には「砂漠の修道士」の衣が垂れ下がり、情けを求める訴え、効果のない白旗となっていた。
今でははっきりわかっていた。眼下の世界は、その日の早い時刻に思い描いたような、無邪気な田園地帯ではない。眠たげに彼の存在を知らず、下りていけば驚き、ほとんど敬意さえ払ってくれる土地ではなかった。彼の振る舞いにひどく苛立ち、その進路に我慢がならなくなっていたのだ。――とはいえ、その進路を選んでいたのは彼ではなく、彼の主人、天の風だった。不思議な声が耳に語りかけてきた。拡声器で言葉を頭上へ突き上げる、奇怪で人をぎょっとさせるやり方で、実にさまざまな言語が届いた。役人らしい人々が旗を振り、腕を振り回して合図を送った。気球に届く文句は、全体としては喉音の強い英語が多く、たいてい「下りでこい、さもないと撃つぞ」というものだった。
「そりゃ結構」とバートは言った。「だが、どうやって?」
すると、籠から少し外れたところを撃ってきた。ここしばらくで六、七回は撃たれていた。一度は弾丸が通り過ぎる音が、あまりにも本物らしく絹布の裂ける音に似ていたので、まっさかさまに落ちる運命を覚悟したほどだった。だが、わざとそばを狙っているのか、単に外れたのか、今のところ裂けたのは周囲の空気と、不安にさいなまれる彼の心だけだった。
今はこの手の厚遇が途切れていたが、せいぜい一時の休止にすぎないと感じ、できるかぎり自分の立場を把握しようとしていた。そのかたわら、籠の外へ神経質に目をやりながら、熱いコーヒーとパイを、散らかるのもかまわず上の空で口にしていた。初めは、自分の行方に関心が高まっているのは、あの明るい高台の町へ着陸しようとした無分別のせいだと思っていた。だが今では、自分に気をもんでいるのは、文官よりも軍のほうらしいと気づき始めていた。
まったく意図せず、あの怪しく謎めいた役を演じていたのである――国際スパイという役を。秘密を見てしまっていたのだ。実際、よりにもよってドイツ帝国という大国の計画に割り込み、世界政策の灼熱の焦点へ迷い込んでいた。帝国の大秘密へ向かい、なすすべもなく漂っていたのである。フランケン地方に猛烈な速さで建設された巨大な航空基地。フンシュテットとシュテッセルの大発見を、ひそかに、迅速に、壮大な規模で発展させ、それによってドイツがあらゆる国に先駆けて飛行船隊を持ち、制空権と世界の覇権を手にするための基地へ。
やがて、完全に撃ち落とされる直前、バートはその熱狂的な作業の大地を見た。夕暮れの暖かな光に照らされた広大な高台に、飛行船が、草を食む巨大な怪獣の群れのように横たわっていた。北へ、目の届くかぎり続く広大で忙しい場所だった。番号を振った格納庫、ガスタンク、部隊の野営地、資材置き場が整然と区画され、どこにでもあるモノレールの線路が縦横に走り、頭上の電線やケーブルは一本もなかった。どこを見ても帝政ドイツの白、黒、黄があり、どこでも黒鷲が翼を広げていた。そうした印がなくとも、すべてにみなぎる大規模で力強い整然さが、ドイツのものだと告げただろう。おびただしい人数が行き来していた。白や灰褐色の作業服で飛行船の周りを忙しく働く者が多く、ほかには実用的な灰褐色の軍服で教練を行う者もいた。ところどころで正装の軍服がきらめいた。何より目を引いたのは飛行船だった。昨夜見た三つの影は、このうちの三隻が、雲の広がる空を利用して、人目につかず演習していたのだと、すぐにわかった。実に魚そっくりだった。人類が世界制覇など夢にすぎないと悟る前、ドイツが世界の覇権を目指す最後の巨大な試みとしてニューヨークを襲った大飛行船は、一九〇六年にボーデン湖上を飛んだツェッペリン飛行船と、一九〇七年、一九〇八年にパリ上空で記念すべき飛行を行ったルボーディの操縦可能な飛行船の、直系の子孫だったのである。
ドイツの飛行船は、肋骨のような鋼鉄とアルミニウムの骨組みと、丈夫で伸びない帆布の外皮で形を保ち、その内側に、ガスを通さないゴム製の気嚢があった。横の隔壁で、五十から百の区画に分けられていた。各区画は完全に気密で、水素を満たしていた。飛行船全体の高度は、内部に設けた細長い補助気嚢によって調整した。油を引いて強化した絹帆布製で、そこへ空気を送り込み、あるいは汲み出せる仕組みだった。こうして飛行船を空気より重くも軽くもでき、燃料消費や爆弾投下などで失う重量も、主気嚢の一部の区画に空気を入れることで補えた。最終的には爆発性のきわめて高い混合気体ができることになるが、こうした事柄ではいずれも、危険を引き受け、防がねばならなかった。船全体には鋼鉄の軸、つまり中央の背骨が通り、その末端にエンジンとプロペラがあった。乗員と弾薬庫は、頭のようにふくらんだ前部の下に並ぶ船室に収まっていた。エンジンは、ドイツの発明の最高傑作である、並外れて強力なプフォルツハイム式で、この前部からワイヤーで操作した。実際、船内で人がまともに居住できるのは前部だけだった。何か不具合が起きれば、機関員は骨組みの下の縄梯子を通って後部へ行った。船全体が横揺れしやすい性質は、左右両側の水平なひれである程度抑え、操舵は主として、ふだんは頭の左右に鰓蓋のように伏せてある二枚の垂直ひれで行った。まさしく、魚の形を空中の条件にきわめて完全に適応させたものだった。ただし、浮袋、目、脳の位置は、上ではなく下になっていた。魚らしくない目立つ特徴は、前部船室から――つまり魚の顎の下から――垂れ下がる無線電信の装置だった。
この怪物たちは、無風なら時速九十マイルを出せた。したがって最も激しい竜巻を除けば、ほとんどどんな風にも向かって進めた。長さは八百から二千フィート、積載能力は七十から二百トンだった。ドイツが何隻保有していたか、歴史に記録はない。だがバートは、短い見物のあいだに、遠近法の奥へ続く巨大な船体を、八十近く数えた。ドイツはこうした手段を主な頼みとして、モンロー主義を否認し、新世界の支配の一角に食い込もうという大胆な企てに出たのである。もっとも、頼みはそれだけではなかった。戦力のうちには、能力未知数の一人乗り爆撃機、ドラッヘンフリーガーもあった。
だがドラッヘンフリーガーは、ハンブルク東方の第二大航空基地にあった。フランケンの施設を上空から眺めていたバート・スモールウェイズは、一機も見ることなく、実に手際よく撃ち落とされた。弾丸がそばをかすめ、気球を貫くと、ぽんというような音がした。続いて、さらさらとため息のような音がし、一定の速さで下降し始めた。その瞬間の混乱の中で重しを一袋落とすと、ドイツ人たちは、まことに丁重ながらも断固たる態度で、さらに二発、気球へ撃ち込み、彼のためらいを取り除いた。
第四章 ドイツ航空艦隊
1
バート・スモールウェイズ氏が生きた世界を、目のくらむほど驚異に満ちたものにしていた人間の想像力の産物の中でも、帝国政治と国際政治が生み出した近代版の愛国心ほど、奇妙で、性急で、不穏で、騒々しく、説得力があり、危険なものはなかった。すべての人間の魂には、同胞への親しみ、自分を取り巻くものへの誇り、母語と住み慣れた土地への優しい思いがある。科学の時代が来る以前、こうした穏やかで高貴な感情は、立派な人間なら誰もが備える美点だった。その美点の、あまり好ましくない面として、よその人々への、たいていは無害な敵意と、よその国を、たいていは無害に見下す態度があった。だがその後、人間の生活の速度、範囲、素材、規模、可能性が猛烈な勢いで変化し、古い境界、古い閉鎖性と隔たりは、激しく打ち破られた。人々の、古くから定着した思考の習慣や伝統は、単に新しい状況に直面したのではない。絶えず新たになり、変わり続ける新しい状況に直面したのである。適応する余裕などなかった。消滅するか、歪められるか、見分けもつかないほど煽り立てられるか、そのいずれかとなった。
バン・ヒルがサー・ピーター・ボーンの父の支配下にある村だったころ、バート・スモールウェイズの祖父は、一ファージングの端数に至るまで「身のほどをわきまえ」、目上には帽子に手をやって挨拶し、目下は軽蔑して見下し、生まれてから死ぬまで考えを一つも変えなかった。ケントの人間であり、イングランドの人間だった。それはつまり、ホップ、ビール、野バラ、そして世界一の日差しということだった。新聞だの政治だの「ロンドン」見物だのは、自分のような者には縁がなかった。そこへ変化がやってきた。これまでの章で、バン・ヒルに何が起こり、新しい物事の洪水が、その災厄に見舞われた田園の素朴さをどう呑み込んだか、おおよそのところは述べてきた。バート・スモールウェイズは、ヨーロッパ、アメリカ、アジアにいた、数えきれない何百万もの人間の一人にすぎなかった。土に根を下ろして生まれる代わりに、最後までよくわからない奔流の中で、もがきながら生まれた人間の一人だった。父祖の信条はことごとく不意を突かれ、驚きのあまり、この上なく奇妙な形や反応をとった。とりわけ、愛国心という立派な古い伝統は、新時代の奔流の中でねじ曲げられ、歪められた。「フランスかぶれ」が最大の侮辱だった祖父のように、偏見の中にどっかと腰を据える代わりに、バートの頭の中には、薄っぺらで乱暴な観念が、飛沫のように次々と流れ込んだ。ドイツとの競争、黄禍、黒禍、白人の重荷についての観念である。最後のものは、言い換えれば、ブラワヨやキングストン(ジャマイカ)やボンベイで、煙草を吸い、自転車に乗る、自分とまったく同類のちっぽけな下衆ども――少々茶色く塗ってあるだけだ――の、もともとひどくごたついた政治を、さらにごたつかせるという、バートの途方もない権利だった。これがバートの「被支配民族」であり、その権利を保持するためなら死ぬ覚悟があった――入隊してもいいという誰かを身代わりにして。失うかもしれないと思うと、夜も眠れなかった。
バート・スモールウェイズが生きた時代、ついには空中戦争という大惨事へ不覚にも踏み込んだ時代の政治をめぐる本質的な事実は、ごく単純だった。ただ、それを単純に受け止める知性が人々にあれば、の話である。科学の発達は、人間社会の規模を変えた。高速の機械輸送によって、人々は互いに近づいた。社会的にも、経済的にも、物理的にも、あまりに近づいたため、国民国家や王国への古い分裂はもはや成り立たず、より新しく、より広い統合が、単に必要なのではなく、避けがたく求められていた。かつて独立していたフランスの公国が一つの国に融合しなければならなかったように、今度は諸国が、より広い結合に適応しなければならなかった。価値があり存続可能なものを守り、時代遅れで危険なものを譲らねばならなかった。もっと正気の世界なら、理にかなった統合への、この明白な必要を認め、穏やかに論じ、実現し、そのうえで、人類に明らかに可能となっていた偉大な文明を組み立てていっただろう。バート・スモールウェイズの世界は、そのようなことを何一つしなかった。各国政府と各国の利害は、そんな明白な話に耳を貸そうともしなかった。互いへの疑いが強すぎ、寛大な想像力が乏しすぎた。混み合う公共の乗り物に乗った育ちの悪い者どものように、押し合い、肘で突き、突き飛ばし、言い争い、喧嘩を始めた。座り方を変えれば快適になるだけだ、と指摘しても無駄だった。二十世紀初頭の歴史家は、世界中、至るところに同じものを見いだす。人間社会の流動と再編が、古い領域、古い偏見、熱に浮かされた短気な愚鈍さのようなものに、解きほぐせないほど絡め取られていた。どこでも、窮屈な領域に詰め込まれた国々が、人口と生産物を互いの中へあふれさせ、関税や、ありとあらゆる貿易上の嫌がらせで互いを煩わせ、年ごとにいっそう不気味な規模に膨らむ海軍と陸軍で脅し合っていた。
世界の知的、肉体的エネルギーのどれほどが、軍備と戦争準備に浪費されたか、今では算定できない。しかし、途方もない割合だった。イギリスは陸海軍に金と能力を費やした。それを体育と教育に向けていれば、イギリス人は世界の貴族となっていただろう。戦争の資材に使った資源を人間づくりに注いでいれば、支配者たちは全国民に十八歳まで学習と運動を続けさせ、列島のバート・スモールウェイズ一人ひとりを、胸板の厚い知的な男にできたはずである。代わりにしたことは、十四歳まで目の前で旗を振り、歓声を上げるよう仕向け、それから学校の外へ追い出して、われわれが手短に記した、あの個人事業の人生を始めさせることだった。フランスも同じような愚行をなし、ドイツは、さらに悪いと言えるなら、そうだった。ロシアは軍国主義の浪費と重圧の下で、破産と衰退に向かって腐っていった。ヨーロッパ全土が、大砲と、無数の小さなスモールウェイズの群れを生産していた。アジアの諸民族も、自衛のため、科学がもたらした新しい力を、同じように別の用途へ振り向けざるをえなかった。開戦前夜、世界には六つの大国と、一群の小国があり、いずれも歯の先まで武装し、兵器の殺傷力と軍事効率で他国に先んじようと、全神経を張りつめていた。列強の第一は合衆国だった。商業に熱中する国だったが、ドイツの南米進出の試みと、日本の鼻先で無思慮に領土を併合した当然の帰結によって、軍事の必要に目覚めさせられた。東西に二つの巨大艦隊を維持し、国内では、防衛民兵の国民皆兵制をめぐって、連邦政府と州政府が激しく対立していた。次に、東アジアの大同盟、中国と日本の緊密な結合体があり、年々急速に、世界情勢の主導権へ向かって歩を進めていた。それに続き、ドイツの同盟はなお、帝国拡張と、力ずくで統一したヨーロッパへのドイツ語の押しつけという夢を実現しようとあがいていた。この三つが、世界で最も意気盛んで攻撃的な勢力だった。はるかに平和的だったのは大英帝国である。危険なほど世界各地に散在し、今やアイルランドと、すべての被支配民族の反乱運動に悩まされていた。帝国は被支配民族に、紙巻き煙草、ブーツ、山高帽、クリケット、競馬、安い拳銃、石油、工場制工業、英語と現地語の半ペニー新聞、安上がりな大学の学位、オートバイ、電車を与えた。被支配民族への軽蔑を表す大量の著述を生み、それを当の民族が自由に読めるようにもした。それでいて、誰かが昔「太古のままの東洋」と書いたというだけで、こうした刺激からは何も起こるまいと、安んじて信じていた。加えて、キプリングの霊感あふれる言葉もあった――
東は東、西は西、
その二つ、けっして相まみえることなし。
ところが実際には、エジプト、インド、そして被支配国全般に、激しい憤りと、最大限の活力、行動力、近代性を備えた新しい世代が生まれていた。イギリスの支配階級は、被支配民族とは目覚めつつある民衆なのだ、という新しい見方に、ゆっくり適応し始めていた。だが、こうした緊張と観念の変化の中で帝国を保とうとする努力は、本国で何百万人ものバート・スモールウェイズが、まるきりスポーツ観戦の気分で投票することと、その肌の色の濃い同類が、短気な役人に無礼を働きがちなことに、大きく妨げられていた。彼らの生意気さは並大抵ではなかった。石を投げたり、わめいたりするだけではない。バーンズを引き、ミルやダーウィンを引き合いに出し、議論で役人をやり込めるのだった。
大英帝国よりさらに平和的だったのが、フランスと、その同盟国であるラテン諸国だった。なるほど重武装の国々ではあったが、戦争には気乗りせず、社会的にも政治的にも、多くの面で西洋文明を先導していた。ロシアは、やむをえず平和的な国だった。内部で分裂し、社会の再建には同じように無能な革命派と反動派の間で引き裂かれ、慢性的な政治的復讐の応酬という、悲劇的な混乱へ沈みつつあった。こうした不気味な巨体の間に挟まれ、振り回され、脅かされながら、世界の小国は危うい独立を保ち、それぞれが能力の限りを尽くして、危険なまでに武装していた。
こうして各国で、活力と創意に富む人々の大集団が、さらに数を増しながら、攻撃のため、あるいは防御のため、戦争の機構を精緻にする仕事に従事していた。積み重なる緊張が、破断点に達するまで。各国は準備を秘密にし、新兵器を温存し、敵国の準備を先読みし、探り出そうと努めた。新しい発見への危機感が、世界のあらゆる民族の愛国的想像力を揺さぶった。あるときはイギリスに圧倒的な大砲があると噂され、次にはフランスに無敵の小銃、日本に新型爆薬、アメリカには海からすべての装甲艦を駆逐する潜水艦があると噂された。そのたびに戦争恐慌が起きた。
国々は力と心を戦争の思考に捧げていた。それなのに、その国民の大多数は、精神的にも、道徳的にも、肉体的にも、過去のどんな民衆にも劣らず――いや、あえて言えば、これから存在しうるどんな民衆にも劣らず――戦闘に無頓着で、不向きな、ひしめく民主社会の大衆だった。これが時代の逆説だった。世界史上、まったく類を見ない時期である。戦争の装置、戦闘の技術と方法は、完成へ向けた驚異的な進歩の中で、十二年ほどごとに一変し、人々はますます戦争向きでなくなり、そして戦争は起きなかった。
そしてついに、それは来た。世界中が不意を突かれた。真の原因が隠されていたからである。関税紛争による激しい反感と、モンロー主義に対するドイツの曖昧な態度のため、ドイツと合衆国の関係は緊張していた。また、長年の市民権問題により、合衆国と日本の関係も緊張していた。だが、どちらも以前からある対立の原因だった。今では知られているとおり、真の決定的原因は、ドイツがプフォルツハイム・エンジンを完成させ、高速で完全に実用的な飛行船が可能になったことだった。当時、ドイツは世界でも抜きん出て能率のよい大国であり、迅速かつ秘密の行動のためによく組織され、近代科学の資源を豊かに備え、官僚と行政担当者の教育、訓練水準も高かった。ドイツはそれを自覚し、その認識を誇張して、近隣諸国の秘密の策議を侮るほどになった。自信の習慣がついて、他国への諜報も手薄になっていたのかもしれない。さらに、感傷を排し、手段を選ばず行動する伝統があり、それが国際的な見通しを深く損なっていた。新兵器が現れると、国の集合的知性は、ついに自分たちの時が来たという思いに震えた。進歩の歴史の中で、再び決定的な武器を握ったかに思えた。今なら攻撃し、征服できる――ほかの国々の空には、まだ実験機しかないうちに。
とりわけ、アメリカを迅速に叩かなければならなかった。空の競争相手が現れる可能性があるとすれば、そこだったからだ。アメリカがライト式から発達した、かなり実用価値のある飛行機を持つことは知られていた。だが、ワシントンの陸軍省が航空艦隊を創設するために、大規模な試みをしているとは考えられていなかった。それができる前に攻撃する必要があった。フランスには低速の操縦可能な飛行船隊があり、何隻かは一九〇八年製だったが、新型に対抗できる見込みはなかった。東部国境での偵察だけを目的に建造されたもので、大半は、武器も食料も持たない人間を二十数人載せるのがやっとの小型船であり、一隻として時速四十マイルに達しなかった。イギリスは、けち臭さが頭をもたげたらしく、帝国精神に富むバタリッジとその驚異的発明に対し、引き延ばしと口論を続けていた。それもまだ実戦には出てこない――早くとも数か月は無理だった。アジアからは何の兆候もなかった。ドイツ人は、黄色人種には発明の才がないからだと説明した。ほかに考慮すべき競争相手はいなかった。「今を逃せば、もうない」とドイツ人は言った。「空をつかむなら今だ――かつてイギリスが海をつかんだように! ほかの国々が、まだ実験しているうちに。」
準備は迅速、組織的、秘密裏に進み、計画はこの上なく優れていた。彼らの知るかぎり、危険になりうるのはアメリカだけだった。そのアメリカは今やドイツ最大の貿易上の競争相手でもあり、帝国拡張を阻む主要な障壁の一つでもあった。だから、ただちにアメリカを攻撃するのだ。大兵力を大西洋の空へ送り出し、警告も準備の暇も与えず、アメリカを圧倒するのだ。
総じて、ドイツ政府の持つ情報に照らせば、よく練られた、きわめて有望で、意気に富む企てだった。奇襲が成功する見込みは非常に大きかった。飛行船や飛行機は、建造に二年ほどを要する装甲艦とはまったく違っていた。人手と設備さえあれば、数週間で無数に作れた。必要な基地と鋳造所を整えれば、飛行船とドラッヘンフリーガーを空へ注ぎ出せた。実際、その時が来ると、ある辛辣なフランスの作家の言葉を借りれば、汚物から追い立てられた蠅のように、空へどっとあふれ出した。
アメリカ攻撃は、この壮大な勝負の第一手となるはずだった。だが、それが始まるやいなや、航空基地ではただちに第二艦隊の組み立てとガス充填に取りかかることになっていた。ヨーロッパを支配し、ロンドン、パリ、ローマ、サンクトペテルブルク、その他、心理的効果を必要とする場所の上空で、意味ありげに演習を行うための艦隊である。世界を不意打ちにするのだ――そして世界征服そのものでもある。その計画を立てた、冷静で冒険心に富む頭脳が、その巨大的な構想の実現にどれほど近づいたかは、驚くべきことである。
この空中戦争のモルトケ[訳注:普仏戦争などで名を上げたプロイセンの軍事指導者]はフォン・シュテルンベルクだったが、ためらう皇帝を計画に引き入れたのは、カール・アルベルト王子の、奇妙に冷徹なロマン主義だった。カール・アルベルト王子こそ、この世界劇の中心人物だったのである。ドイツの帝国主義精神の寵児であり、新しい貴族意識――新騎士道とも呼ばれた――の理想像だった。社会主義が内部の分裂と規律の欠如によって打倒され、富が少数の大家系の手に集中したあとに生まれた意識である。へつらう追従者たちは王子を、黒太子、アルキビアデス、若きカエサルになぞらえた。多くの者には、ニーチェの超人が現れたように思えた。大柄で金髪、男らしく、見事なまでに道徳の埒外にいた。ヨーロッパを驚かせ、もう少しで新たなトロイア戦争を起こしかけた最初の大立ち回りは、ノルウェーのヘレナ王女をさらい、そのうえ結婚をきっぱり拒絶した事件だった。続いて、比類ない美しさを誇るスイス娘、グレートヒェン・クラスと結婚した。その後、ヘルゴラント近海で舟が転覆して溺れかけた三人の水兵を、自分も危うく命を落とすほどの勇敢さで救った。その功績と、アメリカのヨット、ディフェンダー二〇一号に勝利したことによって、皇帝は王子を許し、新設のドイツ軍航空部隊の指揮を委ねた。王子は驚くべき精力と手腕でこれを発展させた。本人の言うとおり、ドイツに陸と海と空を与える決意だった。国民の侵略熱は王子において最高の表現者を見いだし、この驚愕の戦争によって実現した。だが、その魅力は一国にとどまらなかった。かつてナポレオン伝説が人々の心を支配したように、王子の容赦ない強さは、世界中の心を支配した。イングランド人は、自国政治の緩慢で複雑な文明的手法に嫌気がさし、この妥協を知らぬ力強い人物へ目を向けた。フランス人は王子を信じた。アメリカ語でも、王子に捧げる詩が書かれた。
この男が、戦争を起こした。
帝国政府のすばやい精力的な行動は、世界のほかの人々とまったく同じように、ドイツの一般国民をも不意打ちにした。ただし、一九〇六年という早い時期のルドルフ・マルティンに始まる、軍事的未来予測のかなりの量の著述は、こうした企てを想像する心構えを、ドイツ人にある程度与えていた。マルティンは、すぐれた未来予測の本を書いただけでなく、「ドイツの未来は空にある」という格言の生みの親でもあった。
2
こうした世界を動かす力や巨大な構想について、バート・スモールウェイズは何一つ知らなかった。そのすべての焦点に自分がいると気づき、巨大な飛行船の群れを、驚いて口を開けたまま見下ろすまでは。一隻一隻がストランド街ほども長く、胴回りはトラファルガー広場ほどもあるように見えた。三分の一マイルの長さに達するものもあったに違いない。これほど巨大で統制の取れたものは、それまで見たことがなかった。生まれて初めて、同じ時代に生きていても、人はどれほど驚異的で重大なことを知らずに暮らせるものか、実感したのだった。それまでずっと、ドイツ人とは、陶製のパイプをふかし、学問と馬肉とザワークラウトと、概して消化の悪いものに目のない、太ったこっけいな連中だという思い込みを捨てずにいた。
上空からの眺めは、ごく短いものだった。最初の銃声で身をかがめ、気球が落ち始めるやいなや、どう説明したらいいか、バタリッジを装うべきかどうか、頭の中が混乱した。「ああ、どうしよう!」と、決めかねる苦しさにうめいた。そのときサンダルが目に入り、激しい自己嫌悪に襲われた。「大馬鹿者だと思われるぞ」と言った。そしてそのとき、必死に立ち上がって砂袋を投げ捨て、二発目と三発目を招いたのだった。
籠の底でうずくまっているうちに、気が狂ったふりをすれば、厄介で込み入った説明を一切せずに済むかもしれない、という考えがひらめいた。
それが最後の思いつきだった。次には、飛行船たちが自分を見ようとしているかのように周囲へせり上がり、籠が地面を打って跳ね、バートは頭から投げ出された。……
気がつくと、有名人になっていた。「ブーテレイジ! ヤー! ヤー! ヘル・ブーテレイジ! 本人だ!」という声が聞こえた。
航空基地の大通路の一つのそば、小さな草地に横たわっていた。飛行船は、巨大な遠近の眺めの奥へと並んでいた。それぞれの鈍い船首には、翼幅百フィートほどの黒鷲が描かれていた。通路の反対側にはガス発生装置が並び、その間の空間を、太いホースが至るところで横切っていた。すぐ近くには、ほとんどしぼんだ気球と、横倒しの籠があった。間近の飛行船の巨大な船体と比べれば、ちっぽけな、壊れた玩具、しなびた泡にすぎなかった。その飛行船は、ほとんど端から見る格好になっていた。崖のように立ち上がり、反対側の仲間へ向かって前にせり出し、間の通路を覆っていた。周囲には興奮した人々の群れがあり、大半は体にぴったりした軍服の大男だった。誰もがしゃべり、何人かは叫んでいた。ドイツ語だった。驚いた子猫のように、音をはね散らし、息を吹き出しているので、それとわかった。
わかるのは、何度も繰り返される一語だけだった――「ヘル・ブーテレイジ」という名前である。
「たまげたな」とバートは言った。「ばれちまった。」
「よくなった」と誰かが言い、それから早口のドイツ語が続いた。
すぐそばに野戦電話があり、青い制服の背の高い将校が、自分について話していることに気づいた。別の一人は、図面と写真の入った書類入れを持って、間近に立っていた。二人はバートを振り返った。
「ドイツ語を話せますか、ブーテレイジ殿?」
バートは、頭がぼうっとしていることにしたほうがよいと決めた。精いっぱい、すっかり放心した様子を作った。「ここは、どこですか?」と尋ねた。
たちまち早口の言葉が飛び交った。「王子」という言葉が出た。遠くでラッパが鳴り、少し近くでそれを受け、さらにすぐそばでも鳴った。それで興奮はいっそう高まったらしかった。モノレールの車両が唸りながら通り過ぎた。電話のベルが激しく鳴り、背の高い将校は激しい口論を始めたようだった。やがてバートを囲む一団へ近づき、「連れてこい」というようなことを叫んだ。
真剣な顔つきの、痩せ衰えた白い口ひげの男が、バートに訴えた。「ブーテレイジ殿、われわれは、ちょうど出発するところなのです!」
「ここはどこですか?」
バートは繰り返した。
誰かが反対側の肩を揺すった。「あなたはブーテレイジ殿ですか?」と尋ねた。
「ブーテレイジ殿、われわれは今から出発するのです!」と白い口ひげは繰り返し、それから途方に暮れて、「これではどうにもならん。どうすればよいのだ?」
電話の将校が、「王子」と「連れてこい」についての文句を繰り返した。
口ひげの男は、しばらくじっと見つめ、何かを理解すると、急に猛烈に動き出した。立ち上がり、見えない人々へ指図を怒鳴った。質問が飛び、バートのそばの医者は「ヤー! ヤー!」と何度も答え、「頭」についても何か言った。
少し急かしながら、気乗りしないバートを立たせた。灰色の軍服を着た巨漢の兵士が二人、近づいてきてバートをつかんだ。「おい!」とバートは驚いた。「どうするんだ?」
「大丈夫です」と医者が説明した。「あなたを運ぶのです。」
「どこへ?」とバートは尋ねたが、返事はなかった。
「腕を、彼らの――首に――回してください!」
「はい、でも、どこへ?」
「しっかりつかまって!」
バートがさらに何か言おうと決める前に、二人の兵士にひょいと持ち上げられた。二人は手を組んで座席を作り、バートの腕を自分たちの首に回させた。「前へ!」
書類入れを持った誰かが先を走り、バートはガス発生装置と飛行船の間の広い通路を、すばやく運ばれていった。速く、概して滑らかだったが、一度か二度、担ぎ手がホースにつまずき、危うく落とされかけた。
バタリッジ氏のアルペン帽をかぶり、小さな肩にはバタリッジ氏の毛皮裏の外套が掛かり、バタリッジ氏の名に返事をしてしまっていた。サンダルが力なくぶらぶらした。まったく! みんな恐ろしく急いでいる。なぜだ? 薄闇の中を揺られ、口を開けたまま運ばれながら、ただただ驚きあきれるばかりだった。
広く使いやすい空間の規則正しい配置、至るところに大勢いる、てきぱきした兵士、ときおり見える整然と積まれた資材、どこにでもあるモノレールの線路、周囲にそびえる船のような胴体は、少年のころウーリッジ造船所を見物したときの印象を少し思い出させた。基地全体が、それを生み出した近代科学の巨大的な力を映していた。地面に置かれた電灯の低さが、独特の異様さを生んでいた。影はすべて上へ伸び、バートと担ぎ手の影が飛行船の側面に奇怪な姿を作った。三人が一つに溶け合い、細長い脚と、巨大な扇形に盛り上がった胴を持つ怪獣になった。灯りが地面にあるのは、飛行船の上昇時に支障を起こさないよう、柱や支柱をできるかぎりなくしてあったからだった。
今や薄闇は深く、穏やかな青空の夕べだった。地上に飛び散る光の中から、すべてのものが、ぼんやり透ける高い塊となって立ち上がっていた。飛行船の空洞の中では、小さな点検灯が雲に隠れた星のように光り、船体を驚くほど実体のないものに見せていた。それぞれの飛行船の左右の側面には、白地に黒い字で名が記され、前部には皇帝の鷲が大きく広がっていた。薄闇の中で、圧倒的な鳥だった。
ラッパが鳴り、無言の兵士を載せたモノレール車両が、低く唸って滑るように通り過ぎた。飛行船の頭部の下の船室に灯りが入り、扉が開いて、クッション張りの通路が見えた。
ときおり声が飛び、ぼんやり見える作業員たちに指示を与えた。
歩哨、渡り板、長い狭い通路を通り、乱雑な荷物の上をどうにか越えたのち、バートは地面に下ろされ、広い船室の入口に立っていた。おそらく十フィート四方、高さ八フィートほどで、深紅のクッション張りとアルミニウムでしつらえてあった。小さな頭、長い鼻、ごく淡い色の髪をした、鳥のような背の高い青年が、ひげ剃り用の革砥、靴の型、ヘアブラシ、化粧道具入れといったものを両手いっぱいに抱え、バートが入っていくと、神だの雷だの、馬鹿なブーテレイジだのということを言っていた。どうやら部屋を追い出された主らしかった。やがて青年は消え、バートは隅の寝椅子に横たわり、頭の下に枕が入り、船室の扉が閉まった。一人だった。誰も彼も、また驚くほど慌ただしく出ていった。
「たまげたな!」とバートは言った。「今度は何だ?」
部屋を見回した。
「バタリッジか! このまま通そうか、やめとこうか?」
自分のいる部屋が腑に落ちなかった。「牢屋じゃないし、事務所でもないな?」
それから、いつもの悩みが頭をもたげた。「ああ、こんな間抜けなサンダルさえ履いてなきゃ!」と、宇宙に向かって不平がましく叫んだ。「これじゃ何もかもばれちまう。」
3
扉が勢いよく開き、引き締まった体つきの若い軍人が、バタリッジ氏の書類入れ、リュックサック、ひげ剃り鏡を持って現れた。
「いやあ!」と、非の打ち所のない英語で言いながら入ってきた。にこにこした顔で、髪は桃色がかった金髪だった。「あなたがバタリッジだなんて。」
バートのわずかな荷物を、どさりと置いた。
「あと三十分で」と言った。「出発するところだったんですよ! ずいぶんぎりぎりでしたね!」
興味深げにバートを眺めた。ほんの一瞬、視線がサンダルに止まった。「ご自分の飛行機でいらっしゃればよかったのに、バタリッジさん。」
返事は待たなかった。「殿下に、あなたのお世話をするよう言われましてね。もちろん今はお会いになれませんが、あなたが来たのは天の配剤だとお考えです。最後の天の恵みだって。吉兆みたいなものですよ。おや!」
動きを止め、耳を澄ました。
外では足音が行き交い、遠くのラッパの音を、突然すぐそばのラッパが受けて響かせた。男たちは大声で、短く鋭く、何やら重大らしいことを叫び、遠くから返事があった。ベルがじゃんじゃん鳴り、足音が廊下を遠ざかった。続いて、物音よりも気を揉ませる静けさが訪れ、そのあと、どっと水がごぼごぼ流れ、走り、はねる大きな音がした。青年は眉を上げた。ためらってから、部屋を飛び出した。やがて外の騒音に、途方もない一発の轟音が加わり、遠くで歓声が上がった。青年が戻ってきた。
「もう補助気嚢から水を抜いています。」
「何の水だ?」とバートは尋ねた。
「船を地面につなぎ止めていた水です。うまい仕掛けでしょう?」
バートは理解しようとした。
「そうか!」と引き締まった青年は言った。「ご存じないんですね。」
かすかな震えが、バートの感覚に伝わってきた。「エンジンですよ」と青年は満足げに言った。「もうすぐです。」
また長いあいだ、耳を澄ます間があった。
船室が揺れた。「おや、もう出発だ!」と青年は叫んだ。「出発しますよ!」
「出発だって!」バートは起き上がって叫んだ。「どこへ?」
だが青年は、また部屋を出ていた。通路ではドイツ語が響き、ほかにも神経にこたえる音がしていた。
揺れが増した。青年が戻った。「間違いない、出ました!」
「おい!」とバートは言った。「どこへ出発するんだ? 説明してくれよ。ここは何なんだ? わからないんだ。」
「何ですって!」と青年は叫んだ。「わからない?」
「ああ。頭をぶつけたせいで、ぼうっとしてる。ここはどこだ? どこへ出発するんだ?」
「どこにいるか――これが何か、ご存じない?」
「さっぱりだ! この揺れと騒ぎは何なんだ?」
「こいつは面白い!」と青年は叫んだ。「いやはや、とんだ話だ! ご存じない? アメリカへ行くんですよ、それも知らなかったとは。ほんの間一髪で間に合ったわけだ。殿下の乗る旗艦にいるんですよ。何一つ見逃しませんよ。何が起ころうと、ファーターラント号は必ずその場にいますから。」
「おれたちが! ――アメリカへ?」
「もちろん!」
「飛行船で?」
「ほかに何だと思います?」
「おれが! 飛行船でアメリカへ! あの気球のあとで! おい! ちょっと待ってくれ――行きたくない! 自分の足で歩き回りたいんだ。下ろしてくれ! そんなこととは知らなかった。」
扉へ飛びかかった。
青年は身振りでバートを止め、革紐をつかんで、クッション張りの壁の板を持ち上げた。窓が現れた。「ご覧なさい」と言った。二人は並んで外を見た。
「うわっ!」とバートは言った。「上がってる!」
「そうですよ!」と青年は陽気に言った。「ぐんぐん!」
飛行船は滑らかに静かに上昇し、エンジンの鼓動に合わせて、航空基地をゆっくり横切っていた。下では、基地が闇の中にぼんやりと幾何学的な形を描き、規則正しい間隔で、蛍のような光の点が浮かんでいた。丸い背の灰色の飛行船が長く並ぶ中に、一か所、黒い隙間があり、そこがファーターラント号のいた場所だった。その隣で、二頭目の怪物が、綱やケーブルの束縛を解かれ、今やそっと空へ浮かび上がった。それから、見事に正確な間隔を取り、三隻目が上がり、四隻目が続いた。
「もう遅いですよ、バタリッジさん!」と青年は言った。「出発です! 少し驚かれたでしょうが、こうなった以上は仕方ない。殿下も、あなたには来てもらわねばならんとおっしゃってました。」
「なあ」とバートは言った。「本当に頭がぼんやりしてるんだ。これは何だ? どこへ行く?」
「これはですね、バタリッジさん」と青年は、はっきり説明しようと努めながら言った。「飛行船です。カール・アルベルト王子の旗艦です。これがドイツ航空艦隊で、アメリカへ渡って、あの威勢のいい国民に、一つお灸を据えてやるんです。われわれが少しでも気にかけていたのは、あなたの発明だけでした。それが、あなたのほうから来てくださった!」
「だが! ――あんた、ドイツ人か?」とバートは尋ねた。
「クルト中尉です。航空中尉クルト、どうぞよろしく。」
「だって、英語を話してるじゃないか!」
「母がイングランド人でして。学校もイングランドでした。そのあと、ローズ奨学生[訳注:オックスフォード大学への国際留学奨学制度の奨学生]に。それでもドイツ人ですよ。今のところ、バタリッジさんのお世話を命じられています。落ちたショックが残っているんですね。本当に、何も心配いりません。あなたの機械も何もかも、買い取ることになるでしょう。さあ座って、落ち着いて。じきに事情がわかりますよ。」
4
バートは収納座席に腰を下ろし、考えを整理した。青年は飛行船について話してくれた。
実に気配りのできる青年で、それもごく自然にやってのけるのだった。「何もかも初めてでしょうね」と言った。「あなたの機械とは種類が違う。ここの船室も、なかなか悪くないですよ。」
立ち上がって小さな部屋を回り、設備を示した。
「これが寝台です」と言い、壁から寝台をさっと下ろして見せ、またかちりと戻した。「これが洗面道具」そう言って、整頓された戸棚を開けた。「あまり洗えませんがね。水がないんです。飲み水以外はまったく。アメリカへ着いて着陸するまでは、風呂も何もありません。へちまで体をこするんです。ひげ剃り用のお湯が一パイント。それだけです。お座りになっている箱には、敷物と毛布があります。じきに必要になりますよ。寒くなるそうです。僕は知りません。上がるのは初めてなので。グライダーを少しやった以外は――あれはたいてい下りるほうですが。艦隊の連中の四分の三も、上がったことがありません。扉の後ろに折り畳み椅子とテーブルがあります。コンパクトでしょう?」
椅子を取り、小指に載せて釣り合わせた。「軽いでしょう? アルミニウムとマグネシウムの合金で、中は真空です。クッションはどれも水素入り。うまいもんだ! 船全体がこの調子です。それに艦隊には、殿下とあと一人か二人を除けば、十一ストーン[訳注:一ストーンは十四ポンド]を超える者はいません。殿下に汗をかいて減量していただくわけにはいかないですからね。明日、船内を全部見て回りましょう。僕も楽しみでたまらないんです。」
バートににこりとした。「本当にお若く見える」と言った。「ずっと、ひげを生やした老人だろうと思っていました。哲学者みたいな人だと。頭のいい人はみんな年寄りだと思ってしまうのは、なぜでしょうね。僕はそうなんです。」
バートはその褒め言葉を、少しぎこちなくかわした。すると中尉は、なぜバタリッジ殿が自分の飛行機で来なかったのか、という謎を思い出した。
「話せば長くなる」とバートは言った。「それより!」と急に言った。「スリッパか何か、貸してくれないか。このサンダルには、ほとほと嫌気がさした。ろくでもない代物だ。友達のために試してやってたんだが。」
「いいですよ!」
元ローズ奨学生は部屋からさっと出ていき、かなりの選択肢をそろえて戻ってきた。パンプス型の上履き、布の浴用スリッパ、金色のヒマワリをあしらった紫の一足。
だが最後のものは、土壇場で惜しくなった。
「これは僕も履かないんです」と言った。「つい勢いで持ってきてしまった。」
内緒話をするように笑った。「刺繍してもらったんです――オックスフォードで。ある友達に。どこへ行くにも持っていきます。」
そこでバートは上履きを選んだ。
中尉は楽しげにくすくす笑い出した。「僕たちはここでスリッパを試してる」と言った。「その下では、世界がパノラマみたいに流れていく。なかなか愉快でしょう? ほら!」
バートも一緒に窓からのぞき、赤と銀の、明るい小さな船室から、暗い広大さへ目を向けた。眼下の土地は、湖を除けば黒一色で、何の特徴も見えず、ほかの飛行船も隠れていた。「外なら、もっと見えます」と中尉は言った。「行きましょう! 小さな展望廊みたいなのがあります。」
小さな電灯一つで照らされた長い通路へ先に立ち、ドイツ語の掲示を通り過ぎ、開放されたバルコニーへ出た。その先には軽い梯子と、何もない空間に突き出た金属格子の展望廊があった。バートはゆっくり、慎重に、先導者に続いてそこへ下りた。そこから、夜を飛ぶ最初の航空艦隊の驚異的な光景が見えた。艦隊は楔形の隊形を取り、ファーターラント号が最も高く先頭を行き、後列は空の両隅へ遠ざかっていた。大きく暗い魚のような船影は、ほとんど灯りを見せず、長く規則正しい波を描いて飛び、エンジンがどっどっどっという音を立てていた。展望廊に出ると、その音がよく聞こえた。五、六千フィートの高度を進み、着実に上昇していた。下には国土が静まり返り、澄んだ闇の中に炉の集まりが点在し、大きな町々の明るい街路が線を引いていた。世界は鉢の底にあるようだった。頭上へ張り出す飛行船の巨体が、空の最も低い部分以外をすっかり隠していた。
二人はしばらく景色を眺めた。
「発明って、楽しいでしょうね」と中尉が突然言った。「あなたの機械は、最初どうやって思いついたんです?」
「考え抜いたんだ」と、間を置いてバートは言った。「こつこつ、ひたすらやった。」
「こちらの連中は、あなたに大いに期待しています。イギリスがあなたを押さえたと思っていましたよ。イギリスは乗り気じゃなかったんですか?」
「ある意味じゃな」とバートは言った。「だが――話せば長い。」
「発明するって、すごいことだと思います。僕には、命がかかっていても何一つ発明できませんよ。」
二人はまた黙り、暗い世界を眺め、それぞれの考えにふけった。やがてラッパが、遅い夕食へ呼び集めた。バートは急に不安になった。「正装とかしなきゃならないのか?」と言った。「いつも科学だの何だのに忙しくて、社交界だとか、そういうのは縁がなくてな。」
「心配いりません」とクルトは言った。「誰も着ているもの以外は持ってきていません。軽装ですから。外套くらいは脱いでもいいかもしれませんね。部屋の両端に電気暖房があります。」
こうしてまもなくバートは、「ドイツのアレクサンドロス」の面前で食事の席についていた。偉大にして強大な王子、カール・アルベルト王子、戦の君、東西両半球の英雄である。金髪の美男で、くぼんだ目、低い鼻、上向きの口ひげ、長く白い手をした、奇妙な風貌の男だった。翼を広げた黒鷲とドイツ帝国の旗の下、ほかの者より高い席に座っていた。いわば玉座についているのだった。食事をしながらも人々を見ず、幻視する者のように、その頭越しに視線を向けていることが、バートには強く印象に残った。さまざまな階級の将校二十人が卓を囲んで立ち、そこにバートもいた。みな有名なバタリッジを見ようと強い好奇心を示し、その姿への驚きをうまく隠せずにいた。王子は威厳ある挨拶を与え、バートはとっさの思いつきでお辞儀をした。王子の隣には、褐色のしわだらけの顔に銀縁眼鏡をかけ、薄汚れた灰色の頬ひげをふわふわ生やした男が立っており、奇妙に鋭い、落ち着かなくなるような眼差しでバートを見ていた。バートにはわからない儀礼のあと、一同は座った。卓の反対の端には、部屋を明け渡させられた鳥顔の将校がいて、まだ敵意を隠さず、隣の者にバートのことをささやいていた。二人の兵士が給仕した。夕食は簡素で、スープ、新鮮な羊肉、チーズが出て、会話はほとんどなかった。
実際、奇妙な厳粛さが全員を覆っていた。一つには、激務と、出発時の抑えた興奮の反動だった。もう一つには、未知の新しい体験、重大な冒険への圧倒的な思いだった。王子は考えに沈んでいた。ふと我に返って、シャンパンで皇帝に乾杯すると、一同は教会で唱和する人々のように「万歳!」と叫んだ。
喫煙は許されていなかったが、何人かの将校は小さな屋外展望廊へ下り、噛み煙草を口にした。これほど可燃物を束ねた中では、どんな火も安全ではなかった。バートは急にあくびが出始め、身震いした。空を疾走する大怪物たちの中で、自分のあまりのちっぽけさに押し潰されそうになった。人生は自分には大きすぎる――まるで手に負えない、と感じた。
頭の具合についてクルトに何か言い、揺れる小さな展望廊から急な梯子を上って船内へ戻り、避難所へ逃げ込むように寝床へ入った。
5
バートはしばらく眠ったが、やがて夢に眠りを破られた。たいていは、飛行船の果てしない通路を、形のない恐怖から逃げていた。床には、初めは人を貪り食う落とし戸が並び、次にはひどくいい加減な網目状の帆布が張ってあった。
「うわっ!」とバートは言い、その晩七度目の無限の空間への墜落から、寝返りを打って目を覚ました。
暗闇で起き上がり、膝を抱えた。飛行船の進み方は、気球ほど滑らかではなかった。上へ、上へ、上へ、それから下へ、下へ、下へという規則正しい揺れと、エンジンの鼓動、細かな震えを感じた。
記憶が頭にあふれ始めた――次から次へ、さらに多くの記憶が。
その間を、荒れた水の中でもがく泳ぎ手のように、厄介な問いが浮かんできた。明日、どうすればいい? 明日は王子の秘書、フォン・ヴィンターフェルト伯爵が来て、飛行機について話をし、そのあと王子に会うのだと、クルトは言っていた。バタリッジになってしまった以上、最後まで押し通して、発明を売らなければならない。それで、ばれたら! 激怒したバタリッジの姿がいくつも浮かんだ。……いっそ白状したらどうだろう? 相手の勘違いだったことにしては? 秘密を売り、バタリッジを出し抜く手立てを練り始めた。
いくら要求すればいいのか? どういうわけか、二万ポンドくらいがふさわしい額に思えた。
夜明け前に待ち伏せしている、あの落胆に落ち込んだ。大きすぎる仕事に手を出した――大きすぎる仕事に……。
記憶が計略を呑み込んだ。
「昨夜の今ごろ、どこにいた?」
夜ごとの出来事を、くどく、長々と思い返した。昨夜はバタリッジの気球に乗って、雲の上にいた。雲を突き抜けて落ち、すぐ下に冷たい夕闇の海を見た瞬間を思い出した。あの嫌な出来事は、まだ悪夢のように生々しかった。その前の晩は、グラブとケントのリトルストーンで安宿を探していた。今ではなんと遠いことか。何年も前のことかもしれなかった。初めて、ディムチャーチの砂浜に、赤く塗った二台の自転車とともに残した、もう一人の「砂漠の修道士」を思い出した。「おれがいなきゃ、大した芸にはならねえな。まあ、金庫はあいつのポケットにあった――大した額じゃなかったが!」……その前の晩は銀行休日の夜で、二人で旅芸人稼業について話し合い、演目を作り、足運びを稽古していた。さらに前は聖霊降臨祭の日曜日だった。「まったく!」とバートは叫んだ。「あのオートバイには、えらい目に遭わされた!」
中身を抜いたクッションが、空っぽでばたばたしたこと、炎がまた上がったときの無力感を思い出した。あの悲惨な炎をめぐる混乱した記憶の中から、一人の小さな姿が、ひときわ明るく、胸に沁みるほど愛らしく浮かんだ。エドナだった。走り去る自動車から、名残惜しげに振り返って呼びかけていた。「また明日ね、バート?」
その印象の周りに、エドナのほかの思い出が集まった。それらはバートの心を一歩一歩、快い気分へ導き、やがてこんな言葉になった。「あいつ、油断してると、おれに嫁にされちまうぞ。」
その瞬間、バタリッジの秘密を売れば、それができるではないかとひらめいた! 本当に二万ポンドを手に入れたらどうだ。そんな額が払われた例だってある! それがあれば、家と庭が買え、夢にも見なかった新しい服が買え、自動車が買え、旅行もでき、自分とエドナのために、自分の知る文明生活の楽しみをすべて手に入れられる。もちろん危険はある。「バタリッジの親父に追いかけられるだろうな!」
そのことを考えた。また落胆へ傾いた。まだ冒険の入り口にすぎない。品物を引き渡し、金を受け取らなければならない。その前に――今のところ、家路についているわけではまったくなかった。アメリカへ戦いに飛んでいく途中だった。「大した戦いにはならねえ」と考えた。「こっちの思うままだ。」
それでも、もし砲弾がファーターラント号の腹に当たったら! ……
「遺言を作っとくべきかな。」
しばらく横になり、遺言をこしらえた――主としてエドナのために。金額はもう二万ポンドに決めていた。小口の遺贈もいくつかした。遺言はだんだん取り留めがなくなり、途方もなくなっていった。……
八度目の、空間を落ちていく悪夢から目を覚ました。「空を飛ぶのは、神経にこたえる」と言った。
飛行船が下へ、下へ、下へ潜り、それからゆっくり上へ、上へ、上へと向きを変えるのを感じた。どっ、どっ、どっ、どっ、とエンジンが震えた。
やがて起き上がり、空気がひどく冷たいので、バタリッジ氏の外套とありったけの毛布にくるまった。窓からのぞくと、雲の上に灰色の夜明けが広がっていた。灯りを強くし、扉に掛け金を掛け、テーブルにつき、胸当てを取り出した。
しわくちゃの図面を手で伸ばし、じっと眺めた。それから書類入れのほかの図面を参照した。二万ポンド。うまくやれば! ともかく、試す価値はある。
やがて、クルトが紙と筆記用具を入れておいた引き出しを開けた。
バート・スモールウェイズは、けっして頭の悪い人間ではなかった。あるところまでは、教育も悪くなかった。公立初等学校は、ある程度まで製図を教え、計算と仕様書の読み方を教えていた。そこで国が努力に飽き、未完成のまま、広告と個人事業の空気の中へ放り出して、生計のためにもがかせたとしても、それは本当のところ彼の責任ではなかった。国家が作ったとおりの人間だったのである。読者は、彼がロンドン下町のちっぽけな下衆だからといって、バタリッジの飛行機の着想をまるで理解できないと思ってはならない。ただ、難しく、わかりにくかった。自分のオートバイ、グラブの実験、七年級で習った「機械製図」が、すべて助けになった。しかも、この図面を描いた者は、誰であれ、意図をはっきり伝えようと努めていた。バートは略図を写し、注記をつけ、肝心の図面については、理解を伴う、なかなかよい写しを作り、ほかのものは概略を写した。それから、それらを前に考え込んだ。
ついにため息をついて立ち上がり、それまで胸当てに入っていた原図を畳んで上着の胸ポケットへ入れ、自分の作った写しを、その代わりにきわめて慎重に収めた。そうするにあたって、秘密をすっかり手放すのが嫌だという以外、はっきりした計画はなかった。長いあいだ、深く考えにふけった――こっくりしながら。それから灯りを消して寝床へ戻り、計略を練るうちに眠り込んだ。
6
高貴なるフォン・ヴィンターフェルト伯爵も、その夜は眠りが浅かった。もっとも、もともとあまり眠らず、暇つぶしに頭の中でチェスの詰め問題を解くような人間だった――そしてその夜は、とりわけ難しい問題を抱えていた。
伯爵が訪ねてきたとき、バートはまだ寝床にいて、下の北海から反射する陽光の中、兵士が運んできたロールパンとコーヒーを口にしていた。伯爵は小脇に書類入れを抱え、澄んだ朝の光の中では、薄汚れた灰色の髪と、ごつい銀縁眼鏡が、ほとんど慈愛深く見せていた。英語は流暢だったが、強いドイツ訛りがあった。とりわけ「b」が苦手で、「th」は弱い「z」のように柔らかくなった。
バートを「プーテリッジ」と、破裂するような声で呼んだ。
聞き取りにくい愛想の言葉から始め、一礼し、扉の後ろから折り畳みテーブルと椅子を出した。テーブルを二人の間に置き、椅子に座り、乾いた咳をして、書類入れを開けた。それから両肘をテーブルにつき、二本の人差し指で下唇をつまみ、眼鏡で拡大された目で、バートを落ち着かなくさせるほど見つめた。「プーテリッジ殿、あなたは、ご自分の意志に反して、われわれのところへ来られた」と、ようやく言った。
「どうして、そうわかるんです?」と、驚きの間を置いてバートは尋ねた。
「籠にあった地図から判断しました。みなイングランドの地図です。それに食料。みなピクニック用でした。また綱が絡まっていた。あなたは引っ張った――だが効かなかった。気球を操れず、ご自分とは別の力によって、われわれのところへ運ばれてきた。そうではありませんか?」
バートは考えた。
「それから――ご婦人は、どこです?」
「ええ? ――何の女です?」
「ご婦人と出発した。それは明らかです。午後の遊覧――ピクニックに出た。あなたのような気質の男なら――ご婦人を連れるはずだ。だがドルンホーフへ降りたとき、気球にはいなかった。いなかったのです! 上着だけでした! あなたの私事ではある。だが、興味があります。」
バートは考えた。「どうして、そんなことまで?」
「さまざまな備品の性質から判断しました。プーテリッジさん、ご婦人をどうしたかは、説明がつきません。また、なぜ自然派サンダルを履き、なぜあんな安い青い服を着ているかも、わからない。それらは私への指示の範囲外です。ささいなことかもしれない。公的には無視すべきことです。女は来ては去るもの――私も世間は心得ている。賢者がサンダルを履き、菜食主義さえ実践するのを知っています。煙草を吸わない男も――少なくとも化学者なら――知っている。ご婦人は、どこかで下ろしたのでしょう。よろしい。では――商談に入りましょう。より高い力が」――声の情感が変わり、拡大された目が見開かれたようだった――「あなたと秘密を、まっすぐわれわれのところへ運んだ。そうなのです!」――頭を垂れた――「かくあれかし。これがドイツと、わが殿下の運命なのです。あなたがいつも秘密を携えているのは、わかります。盗賊やスパイが怖い。だから秘密も一緒に来る――われわれのもとへ。プーテリッジさん、ドイツはそれを買います。」
「買ってくれるんですか?」
「買います」と秘書は言い、収納座席の隅に捨ててあるサンダルをじっと見た。気を取り直して、しばらく覚え書きの紙に目をやった。バートは期待と恐怖を込めて、褐色のしわだらけの顔を見つめた。「ドイツは、と申し上げるよう命じられています」と秘書は、覚え書きを広げ、テーブルへ目を落として言った。「これまでも常に、あなたの秘密を買う意志がありました。実際、獲得を熱望していた――非常に熱望していました。仲介者を通じて、その驚異的な発明に値をつけるのに慎重だったのは、あなたが愛国心からイギリス陸軍省と示し合わせているのではないかと、それだけを恐れたためです。今は何らためらうところなく、あなたの十万ポンドというご提案に同意するよう、指示されています。」
「ひえっ!」とバートは、圧倒されて言った。
「何とおっしゃいました?」
「ちょっと、ずきんと」とバートは言い、包帯を巻いた頭へ手を上げた。
「ああ! また、こう申し上げるようにも命じられています。イギリスの偽善と冷淡さに抗して、あなたがあれほど勇敢に擁護してきた、不当な非難を受ける高貴なご婦人については、ドイツの騎士道のすべてが味方です。」
「ご婦人?」とバートは弱々しく言い、それからバタリッジの大恋愛を思い出した。この老人も手紙を読んだのだろうか? 読んだなら、自分を相当な色事師だと思っているに違いない。「ああ! そりゃ大丈夫です」と言った。「あの女のことは。そこは疑っちゃいませんでした。おれは――」
口をつぐんだ。秘書の凝視は、まったく恐ろしかった。再び目を落とすまで、何年もたったように感じた。「よろしい、ご婦人のことはご随意に。あなたの問題です。私は指示を果たしました。それから男爵の称号、それも可能です。すべてかなえられます、プーテリッジ殿。」
一、二秒テーブルを指で叩き、話を続けた。「申し上げなければなりませんが、あなたは――世界政策の危機に際して、われわれのもとへ来られた。今、われわれの計画をお話ししても差し支えありません。あなたがこの船を再び離れる前に、全世界に明らかになるでしょう。おそらく、すでに宣戦布告されている。われわれは――アメリカへ行きます。わが艦隊は空から合衆国へ降り立つ――あの国は、どこも戦争の備えがない――どこもです。これまでずっと大西洋を頼ってきた。そして海軍を。われわれはある地点を選んである――今のところ、司令官たちだけの秘密です――そこを占領し、補給基地を設ける。いわば内陸のジブラルタルです。それは――何と言えばよいか――鷲の巣になる。飛行船はそこへ集まり、修理をし、そこから合衆国上空を往来する。都市を恐怖に陥れ、ワシントンを制圧し、必要なものを徴発する。われわれの提示する条件が受け入れられるまで。おわかりですか?」
「続けてください!」とバートは言った。
「今ある飛行船とドラッヘンフリーガーだけでも、すべて実行できました。だが、あなたの機械が加われば、計画は完全になります。より優れたドラッヘンフリーガーを得るだけでなく、イギリスについての最後の不安も消える。あなたを欠けば、イギリス――あなたがあれほど愛し、あれほど不当に報いられた国、あの偽善者と爬虫類の国――には、何もできない! 何も! ご覧のとおり、私はまったく率直に話しています。さて、ドイツはこれらすべてを認めている、と申し上げるよう命じられています。われわれのために働いていただきたい。飛行技術部門の最高責任者になっていただきたい。製造をしていただきたい。あなたの指揮で、スズメバチの大群を装備したいのです。その部隊を指揮していただきたい。そして、必要とする場所は、アメリカの基地です。そこで、駆け引きなしに、数週間前にあなたが求めた条件を、そのまま提示します。現金十万ポンド、年俸三千ポンド、年金千ポンド、それにご希望の男爵の称号です。以上が、私への指示です。」
またバートの顔をじっと見つめた。
「もちろん、そいつは結構です」とバートは言った。少し息が詰まっていたが、それ以外は毅然として落ち着いていた。夜中に練った計画を実行に移すなら、今だと思った。
秘書は、バートの襟を執拗に見つめた。ほんの一瞬だけ、視線がサンダルへ動き、また戻った。
「ちょっと考えさせてください」とバートは言った。凝視に力を奪われるようだった。「いいですか!」と、ようやく、きわめて明確に話す様子で言った。「秘密は持ってるんです。」
「はい。」
「だが、バタリッジという名は出したくない――わかりますね? そこを考えてたんです。」
「少々、気兼ねがおありですか?」
「そのとおり。あんたが秘密を買う――いや、つまり、おれが渡す――その持参人から、ってことで――わかります?」
声が少し弱まり、凝視は続いた。「匿名でやりたいんです。わかります?」
まだ見つめていた。バートは流れに捕まった泳ぎ手のように、話し続けた。「実は、スモールウェイズって名に変えるつもりなんです。男爵なんて称号はいらない。気が変わったんで。それから、金はこっそり受け取りたい。十万ポンドを銀行へ入れてもらいたいんです――図面を渡したらすぐ、三万をケントのバン・ヒルにあるロンドン・アンド・カウンティ銀行の支店へ。二万をイングランド銀行へ。残りの半分は信用できるフランスの銀行、もう半分はドイツ国民銀行へ、いいですか? すぐに入れてもらいたい。バタリッジの名義じゃなくて。アルバート・ピーター・スモールウェイズの名義です。これから名乗る名前なんで。これが第一の条件です。」
「続けてください」と秘書は言った。
「次の条件は」とバートは言った。「権利について調べないことです。イングランドの紳士が土地を売ったり貸したりするとき、ああいうやり方をするでしょう。どう手に入れたかは訊かない。わかります? ここにおれがいる――品物を渡す――それでいい。こいつはおれの発明じゃないなんて、ずうずうしいことを言う奴もいるんです。わかります? おれの発明なんですよ――そこは確かです。だが、そこを詮索されたくない。問題なしっていう、公明正大な契約が欲しいんです。わかります?」
最後の「わかります?」が、深い沈黙の中へ消えた。
秘書はついにため息をつき、椅子にもたれ、爪楊枝を取り出した。それを使いながら、バートの件を考えた。「何という名前でしたかな?」と、ようやく爪楊枝をしまって尋ねた。「書き留めなければ。」
「アルバート・ピーター・スモールウェイズです」と、バートはおとなしい声で言った。
二つの言語でアルファベットの呼び方が違うため、綴りに少々手間取ったが、秘書は書き留めた。
「さて、シュマルヴェイズさん」と、最後に椅子にもたれ、また凝視して言った。「教えていただきたい。どうやってプーテリッジ氏の気球を手に入れたのです?」
7
フォン・ヴィンターフェルト伯爵がついにバート・スモールウェイズのもとを去ったとき、バートはすっかりしょげ返り、自分のささやかな一件をすべて話してしまっていた。
世間の言い方をすれば、洗いざらい白状したのだった。細部まで追及された。青いスーツ、サンダル、「砂漠の修道士」――何もかも説明しなければならなかった。一時は学究的な熱意が秘書を支配し、図面の問題は棚上げになった。気球の前の乗客についてまで推測した。「おそらく」と言った。「あのご婦人は、そのご婦人だったのでしょう。だが、それはわれわれの問題ではない。
「実に奇妙で面白い話ではあります。しかし、殿下がお怒りになるかもしれません。いつもの決断力で行動なさった――いつも驚くべき決断力で行動なさる。ナポレオンのように。あなたがドルンホーフの基地へ降りたと知らされるや、『連れてこい! ――連れてこい! 私の星だ!』とおっしゃった。運命の星です! わかりますか? 期待を裏切られることになる。バタリッジ殿として来るよう命じられたのに、あなたはそうしなかった。もちろん、そうしようとはした。だが、うまくはなかった。殿下の人物判断は、まことに公正で正確です。人はその判断に応えるのがよい――完全に。特に今は。とりわけ今は。」
両方の人差し指で下唇をつまむ、あの姿勢に戻った。ほとんど内緒話の口ぶりだった。「厄介なことになります。私は多少の疑いを申し上げようとしたが、退けられた。殿下は耳を貸されない。高い空では気が短くなられる。運命の星に愚弄されたと思われるかもしれない。私が愚弄したと思われるかもしれない。」
額にしわを寄せ、口の両端を引き締めた。
「図面は持ってます」とバートは言った。
「そう。その点はある! そうです。だが殿下は、バタリッジ殿のロマンに富む面に興味を持っておられた。バタリッジ殿なら、もっと――ああ――絵になるのです。あなたには、殿下が望まれたように、航空基地の飛行機部門を統括する力はなさそうだ。そうするおつもりでいらしたのに……。
「それに、バタリッジが味方にいるという威信――世界に対する威信もあった……。まあ、どうにかできるか考えましょう。」
手を差し出した。「図面をください。」
恐ろしい冷たさが、スモールウェイズ氏の全身を走った。今に至るまで、あのとき泣いたかどうか、本人にもはっきりしない。だが、声には確かに泣きが入っていた。「ちょっと、待ってください!」と抗議した。「こいつの代金は――何もないんですか?」
秘書は慈悲深い目で見た。「あなたには何も受け取る資格がありません」と言った。
「破いちまうことだってできたんですよ。」
「あなたのものではない!」
「バタリッジのものでもなかった!」
「何も払う必要はない。」
バートの全身が、捨て身の行動へ向けて引き締まるようだった。「へえ!」と、上着をつかんで言った。「本当にないんですか?」
「落ち着きなさい」と秘書は言った。「聞いてください。五百ポンド差し上げましょう。私の約束で、お渡しする。あなたのためにそうしましょう。私にできるのは、それだけです。これで承知しなさい。あの銀行の名を教えてください。書いて。そうです! 言っておきますが、殿下は――冗談では済まない方です。昨夜のあなたの姿を、お気に召したとは思えません。ええ! 殿下がどうなさるか、保証はできない。バタリッジをお望みだったのに、あなたが台なしにした。殿下は――よくわからないのですが、妙な状態におられる。出発の興奮と、この空への大飛翔のためです。何をなさるか、私には説明できない。だが、すべてうまく運べば、私が取り計らいます――五百ポンドを差し上げる。それでよいですか? では図面を。」
「食えねえ爺さんだ!」と、扉がかちりと閉まるとバートは言った。「まったく! ――とんだ爺さんだ! ――抜け目がねえ!」
折り畳み椅子に腰を下ろし、しばらく音の出ない口笛を吹いた。
「破いちまえば、あいつもいい面の皮だったのにな! やれたんだ。」
考え深げに鼻筋をこすった。「何もかも自分でばらしちまった。匿名にしたいなんて、黙ってりゃ……まったく! ……早すぎたんだ、バート、おまえは――早すぎたし、せっかちすぎた。自分の馬鹿さ加減を蹴飛ばしてやりたい。
「どのみち、押し通せやしなかった。
「まあ、そんなに悪くはない」と言った。
「何しろ五百ポンドだ……。どうせおれの秘密じゃない。道で拾ったようなもんだ。五百か。
「アメリカから帰る船賃は、いくらだろう?」
8
その日の後刻、打ちのめされ、すっかり取り乱したバート・スモールウェイズが、カール・アルベルト王子の前に立った。
やり取りはドイツ語だった。王子は自室にいた。飛行船の先端の部屋で、籐家具を備え、前方に向かって部屋の幅いっぱいの長窓がある、気持ちのよい船室だった。緑のラシャを張った折り畳みテーブルにつき、隣にはヴィンターフェルトと二人の将校が座っていた。前にはアメリカの地図が何枚も、バタリッジ氏の手紙と書類入れ、ばらの紙が散らばっていた。バートは座るよう勧められず、面談の間ずっと立っていた。ヴィンターフェルトが事情を話し、ときどき「バローン」や「プーテリッジ」という言葉が、バートの耳を打った。王子の顔は厳しく、不吉なままで、二人の将校はその顔を用心深くうかがうか、バートに目をやった。王子を見つめる様子には、少し奇妙なものがあった――好奇心と、不安だった。やがて王子が何かを思いつき、一同は図面について話し始めた。王子は唐突に、英語でバートに尋ねた。「これが飛ぶところを見たことはあるか?」
バートはびくりとした。「バン・ヒルから見ました、殿下。」
ヴィンターフェルトが何か説明した。
「どれほど速く飛んだ?」
「わかりません、殿下。新聞では、少なくともデイリー・クーリエでは、時速八十マイルと。」
しばらく、そのことをドイツ語で話し合った。
「止まっていられたか? 空中で。それが知りたい。」
「浮いたまま止まれました、殿下。スズメバチみたいに」とバートは言った。
「ずっとよいではないか?」と王子はヴィンターフェルトに言い、それからしばらくドイツ語を続けた。
やがて話が終わり、二人の将校がバートを見た。一人がベルを鳴らし、書類入れが従卒へ渡され、運び去られた。
それからバートの処遇に戻ったが、王子が厳しく処分したがっているのは明らかだった。ヴィンターフェルトが異を唱えた。どうやら神学的な考慮も加わったらしく、「神」という言葉が何度か出た。
何らかの結論が出て、ヴィンターフェルトがそれをバートに伝えるよう命じられたことがわかった。
「シュマルヴェイズさん、あなたは恥ずべき、組織的な嘘によって、この飛行船に入り込んだ」と伯爵は言った。
「組織的ってほどじゃ」とバートは言った。「おれは――」
王子は身振りで黙らせた。
「殿下には、あなたをスパイとして処分する権限がおありです。」
「待ってください! ――おれは売りに――」
「静かに!」と将校の一人が言った。
「しかし、神の導きによって、あなたがバタリッジの飛行機を殿下の手に届ける道具となった、その幸運な偶然を考慮し、命は助けられます。そうです――あなたは吉報の運び手だった。処分の都合がつくまで、この船にとどまることを許されます。わかりましたか?」
「連れていく」と王子は言い、恐ろしい目でにらみ、恐ろしい声で付け加えた。「重しとして。」
「われわれと同行するのです」とヴィンターフェルトは言った。「重しとして。わかりましたか?」
バートは五百ポンドについて尋ねようと口を開いたが、そのとき救いとなる知恵のひらめきがあり、口を閉ざした。ヴィンターフェルトと目が合い、秘書がかすかにうなずいたように思えた。
「行け!」と王子は言い、大きな腕と手を扉へ向けて払った。バートは、強風に吹かれる木の葉のように出ていった。
9
だが、フォン・ヴィンターフェルト伯爵との話と、この恐ろしい王子との会見の間に、バートはファーターラント号を端から端まで見て回っていた。深刻な悩みを抱えながらも、面白いと感じた。クルトは、ドイツ航空艦隊の大多数の男たちと同じく、この新しい旗艦への任命以前には、航空のことをほとんど知らなかった。だが、ドイツがこれほど突然、劇的に手にした驚異の新兵器に、夢中だった。少年のような熱意と感嘆を込めて、バートにあれこれ見せた。新しい玩具を見せる子供のように、見せながら自分でも改めて味わっているかのようだった。「船をすっかり見て回りましょう」と、張り切って言った。とりわけ、すべての軽さを示した。内部を真空にしたアルミ管、圧縮水素で膨らませた弾力のあるクッション。仕切りは軽い模造革で覆った水素袋で、食器でさえ、真空中で釉薬をかけた軽い素焼きの磁器で、ほとんど重さがなかった。強度の必要な箇所には、ドイツ鋼と呼ばれる新しいシャルロッテンブルク合金を使っていた。世界で最も強靱で、耐久性のある金属だった。
空間には不足がなかった。荷重さえ増えなければ、空間は問題にならなかった。居住部分は長さ二百五十フィートで、部屋は二層に分かれていた。その上には、大きな窓と気密の二重扉を備えた、白い金属製の珍しい小塔へ上がることができ、ガス室の巨大な空洞を点検できた。この内部の眺めは、バートに強い印象を与えた。飛行船が、ガスしか入っていない一続きの単純な気嚢ではないと、それまで考えたこともなかった。今は、はるか頭上に機体の背骨と大きな肋骨が見えた。「神経管と血管弓みたいでしょう」と、生物学を少しかじったクルトは言った。
「まったくだ!」とバートは感心して言った。その言葉の意味は、かけらもわからなかったが。
夜に不具合が起これば、あの上で小さな電灯をつけられた。空間を渡る梯子さえあった。「だが、ガスの中へは入れないだろう」とバートは異を唱えた。「息ができない。」
中尉は戸棚を開け、潜水服を見せた。ただし油引き絹布製で、圧縮空気の背嚢もヘルメットも、アルミニウムと何か軽い金属の合金でできていた。「内側の網をどこへでも行けて、弾痕や漏れをふさげます」と説明した。「内にも外にも網があるんです。外皮全体が、いわば縄梯子です。」
居住部分の後方、船の全長のほぼ中央に近いところに、爆薬庫があった。さまざまな型の爆弾ばかりで、大半はガラス製だった。ドイツの飛行船は、いずれも砲をまったく搭載していなかった。唯一の例外は、小型のポンポン砲[訳注:ボーア戦争以来の英語の俗称で、小口径の自動砲]一門で、前方の展望廊、鷲の胸の盾の上に据えてあった。
中央の弾薬庫からは、床にアルミニウムの踏み板をつけ、手すり綱を張った、帆布で覆われた通路が、ガス室の下を尾部の機関室まで延びていた。だがバートはそこを通らず、最初から最後までエンジンを見ることはなかった。一方、猛烈な換気風に逆らって梯子を上りはした。梯子は気密の避難筒のようなものに収まり、大きな前部の空気室をまっすぐ横切って、電話のある小さな見張り台へ通じていた。その台には、ドイツ鋼製の軽いポンポン砲と弾薬箱が載っていた。台全体はアルミニウム・マグネシウム合金製で、張りつめた飛行船の前面が上下に崖のようにふくらみ、黒鷲が圧倒的な巨体を広げていた。気嚢の丸みのため、鷲の翼や脚の先はすべて見えなかった。そして、その舞い上がる鷲たちのはるか下にはイングランドがあった。おそらく四千フィート下で、朝の光の中、実に小さく、無防備に見えた。
そこがイングランドだと気づくと、バートは突然、思いがけない愛国的な良心の痛みに襲われた。まったく新しい考えが胸を打った。結局、あの図面を破って捨てることもできたのだ。この連中だって、自分にそれほどのことはできなかっただろう。たとえできたとしても、イングランド人なら国のために死ぬべきではないか? それは、それまで競争文明の苦労に、ずいぶん押し潰されていた考えだった。ひどく気が沈んだ。もっと早く、その見方をするべきだったのだ。なぜもっと早く、そう考えなかったのか?
実際、自分は一種の裏切り者ではないか? ……下から、この航空艦隊はどう見えるだろうと思った。間違いなく巨大で、どんな建物も小さく見せるだろう。
マンチェスターとリヴァプールの間を通っているのだと、クルトが教えた。景色を横切る光る帯が船舶運河で、はるか前方の、船がひしめく溝のようなものはマージー河口だった。バートは南部育ちで、ミッドランド諸州より北へ行ったことがなかった。大量の工場と煙突――煙突の大半は今や時代遅れで煙を出さず、排煙を自ら燃焼させる巨大な発電所に取って代わられていた――古い鉄道高架橋、モノレール網、貨物操車場、そして目的もなく広がる、くすんだ住宅と狭い通りの巨大な区域は、キャンバーウェルとロザハイズが際限なくはびこったように思えた。ところどころに、網に捕まったような畑や農地の切れ端があった。特色のない人口の広がりだった。この混乱の中にも、行政や宗教の組織の、理論上の中心を示す博物館や市庁舎、ある種の大聖堂さえ、きっとあったのだろう。だがバートには見えなかった。労働者の家と働く場所、店、けちな発想で建てられた礼拝堂や教会が密集する、広大で無秩序な眺めの中では、まったく際立たなかった。そして、この産業文明の風景を、ドイツ飛行船の影が、急ぐ魚群のように横切っていった。……
クルトとバートは航空戦術の話になり、やがて下の展望廊へ下りた。右翼の飛行船が夜のうちに受け取って後ろへ曳いているドラッヘンフリーガーを、バートに見せるためだった。各船が三機か四機ずつ曳いていた。大きな箱凧を極端にしたような形で、見えない綱の端に浮かんでいた。頭部は長く四角く、尾は平たく、側面にプロペラがあった。
「あれには熟練が要ります! ――かなりの熟練が!」
「だろうな!」
間があった。
「あなたの機械は、あれとは違うんですね、バタリッジさん?」
「まるっきり違う」とバートは言った。「鳥より、もっと虫に似てる。それに、ぶんぶん鳴って、あんなふうに流されない。あれは何ができるんだ?」
クルト自身も、その点はあまりはっきりしておらず、まだ説明している途中で、バートは先に記した王子との会見へ呼ばれた。
それが終わると、バタリッジの最後の痕跡は、衣のようにバートから脱げ落ち、船内の全員にとってスモールウェイズとなった。兵士は敬礼をやめ、クルト中尉を除く将校たちは、存在に気づく様子さえなくなった。快適な船室を追い出され、荷物ごと、一番下級という不運を負ったクルト中尉の部屋に押し込まれた。鳥頭の将校は、まだ少し悪態をつき、革砥とアルミニウムの靴型、重さのないヘアブラシ、手鏡、ポマードを両手に抱え、元の部屋を取り戻した。バートがクルトと同室になったのは、この人でいっぱいの船では、包帯を巻いた頭を横たえる場所が、ほかになかったからだった。食事は兵と一緒だ、と告げられた。
新しい部屋でしょんぼり座っていると、クルトが来て、脚を大きく開いて立ち、しばらくバートを眺めた。
「で、本当の名前は?」とクルトは言った。新しい事情は、まだ十分には聞かされていなかった。
「スモールウェイズ。」
「少しうさんくさいと思っていたよ――バタリッジだと思っていたときからね。殿下が穏やかに済ませてくださって、ずいぶん運がよかった。怒ると、相当なものだからな。必要だと思えば、君みたいな男を船外へ放り出すくらい、一瞬もためらわない。そうさ! ……君を僕に押しつけたわけだが、ここは僕の船室だ。それは心得てくれ。」
「忘れません」とバートは言った。
クルトが去り、バートがあたりを見回すと、最初に目に入ったのは、クッション張りの壁に貼られた、ジークフリート・シュマルツの名高い《軍神》の複製画だった。ヴァイキングの兜と真紅のマントをまとい、剣を手に、破壊の中を踏みしだいて進む、あの恐ろしい姿である。機嫌を取るために描かれた相手、カール・アルベルト王子に、ひどくよく似ていた。
第五章 北大西洋の戦い
一
カール・アルベルト王子は、バートの心に強烈な印象を刻みつけた。これまで出会った誰よりも恐ろしい人物だった。スモールウェイズの魂は、激しい恐怖と反感でいっぱいになった。バートは長いあいだクルトの船室にひとり座りこみ、何もせず、扉を開ける勇気さえ出なかった。そんなことをすれば、あの恐ろしい人物にそれだけ近づいてしまうからだ。
そのため、大西洋の真ん中で大海戦が進行中だという知らせを、船内で最後に聞いたのは、おそらくバートだった。無線電信はその報を、脈打つように、切れ切れに飛行船へ運んできていた。
結局、知らせてくれたのはクルトだった。
クルトは、バートなど眼中にないという様子で入ってきたが、それでも英語で独り言をつぶやいていた。「すさまじいな!」
バートの耳にその声が届いた。「おい!」とクルトは言った。「その長櫃からどいてくれ。」
そして本を二冊と地図入れを引っぱり出した。折り畳み式のテーブルに広げ、立ったまま見つめる。しばらくはドイツ人らしい規律正しさが、イングランド流の気さくさや、生来の親切でおしゃべりな気質とせめぎ合っていたが、とうとう後者に負けた。
「始まったぞ、スモールウェイズ。」
「何がですか?」とバートは、すっかり気圧され、うやうやしく尋ねた。
「戦闘だ! アメリカの北大西洋艦隊と、わが海軍のほぼ全艦隊がな。こちらのアイゼルネ・クロイツ号はひどくやられて沈みかけている。向こうのマイルズ・スタンディッシュ号――最大級の一隻だ――は全乗員もろとも沈没した。魚雷だろうな。カール・デア・グローセ号より大きかったが、五、六年古い艦だった。くそっ! 見に行けたらなあ、スモールウェイズ。大洋の真ん中で真っ向勝負だ。大砲だけが頼りで、どいつもこいつも全速前進だ!」
クルトは地図を広げた。話さずにはいられず、バートを相手に海軍の戦況を講義しはじめた。
「ここだ」と言った。「北緯三十度五十分、西経三十度五十分。とにかく、ここから丸一日はかかる。連中はみんな南西微南へ、出せるかぎりの速力で突っ走っている。ついてないな、これじゃ何ひとつ見られない! 煙の匂いすら嗅げやしない!」
二
当時、北大西洋の海軍情勢は一風変わったものだった。海上戦力では、両国のうちアメリカ合衆国が圧倒的に優勢だったが、その艦隊の主力はまだ太平洋にいた。最も開戦が危ぶまれていたのはアジア方面で、アジア人と白人の対立は異常なほど激烈で危険なものとなり、日本政府は前例のない強硬な態度を示していた。そのためドイツが攻撃を仕掛けたとき、アメリカの戦力の半分はマニラにあり、いわゆる第二艦隊はアジアの根拠地とサンフランシスコのあいだに、無線連絡を保ちながら太平洋を横切って展開していた。東海岸に属する唯一のアメリカ海軍部隊が北大西洋艦隊だった。フランスとスペインへの親善訪問からの帰途にあり、国際情勢が切迫したときには、大西洋の真ん中で補給船から石油燃料を汲み入れていた――所属艦の大半は蒸気船だったのである。戦艦四隻と、戦艦にほぼ匹敵する装甲巡洋艦五隻からなり、いずれも一九一三年以前の建造だった。実際アメリカ人は、大西洋の平和維持はイギリスに任せておけばよいという考えに慣れきっていて、東部沿岸への海からの攻撃など、想像のうえでさえ備えがなかった。ところが宣戦布告よりずっと前――実をいえば聖霊降臨祭の月曜日[訳注:キリスト教の聖霊降臨祭翌日の祝日]に――ドイツ海軍は戦艦十八隻の全艦隊を挙げ、燃料補給船と、航空艦隊支援用の物資を積んだ改装客船の船団を伴ってドーヴァー海峡を通過し、大胆にもニューヨークへ針路を取っていた。これらドイツ戦艦は、数がアメリカ側の二倍であるだけでなく、武装も強力で構造も新しく、七隻にはシャルロッテンブルク鋼製の高爆発力内燃機関が搭載され、全艦が同鋼製の砲を備えていた。
両艦隊が接触したのは水曜日で、正式な宣戦布告はまだなかった。アメリカ艦隊は当時の方式に従っておよそ三十マイル間隔に散開し、ドイツ艦隊と、東部諸州およびパナマの双方とのあいだを遮るべく航行していた。沿岸の諸都市、とりわけニューヨークの防衛も重大だったが、それ以上に重大なのは、太平洋から主力艦隊が帰還するのを妨げるような攻撃から、運河を守ることだったからだ。クルトによれば、主力はいまごろ記録的な速さで太平洋を渡っているに違いなかった。「日本人がドイツ人と同じことを考えていなければな。」
アメリカ北大西洋艦隊がドイツ艦隊を迎え撃って勝利を望むなど、どう考えても人間業ではなかった。しかし運がよければ遅滞戦闘を行い、敵に損害を与えて、沿岸防備への攻撃力を大幅に弱めることはできるかもしれなかった。実際、その任務は勝利ではなく献身であり、この世で最も厳しい務めだった。そのあいだにニューヨーク、パナマ、その他の重要拠点では、潜水艦による防備をどうにか整えられるはずだった。
海上の情勢はそういうものだった。そして聖霊降臨祭の週の水曜日まで、アメリカ国民が認識していた情勢はそれだけだった。この日、国民はドルンホーフ航空基地の本当の規模を初めて知り、海だけでなく空からも襲われる可能性があると知った。しかし不思議なことに、この時代の新聞はあまりにも信用を失っていたので、たとえばニューヨーク市民の大多数は、ドイツ航空艦隊についてどれほど豊富で詳細な報道があっても、実際にその艦隊がニューヨークの空に姿を現すまでは信じなかったのである。
クルトの話は半ば独り言だった。メルカトル図法の地図を前に立ち、飛行船の揺れに合わせて体を揺らしながら、大砲やトン数、艦船、その構造と性能と速力、戦略上の要衝や作戦基地について語った。士官食堂では気後れして聞き役に甘んじていたが、ここではもう口を閉ざすことはなかった。
バートはそばに立ち、ほとんど口を挟まず、地図のうえを動くクルトの指を見ていた。「新聞じゃ、ずっと前からこういう話をしてましたね」と言った。「まさか本当になるなんて!」
クルトはマイルズ・スタンディッシュ号に詳しかった。「あれは砲術では一流だった――記録も持っていた。こちらが撃ち勝ったのか、それとも何だったんだろう。そこにいたかったなあ。うちのどの艦が仕留めたんだろう。機関に一発食らったのかもしれん。走りながらの戦いだ! バルバロッサ号は何をしているだろう」と続けた。「以前おれが乗っていた艦だ。一等艦じゃないが、いい艦だぞ。シュナイダーのおやじが本調子なら、いまごろ一発や二発は命中させているに決まっている。考えてもみろ! そこで撃ち合っているんだ。巨砲が吼え、砲弾が炸裂し、弾薬庫が吹き飛び、鉄材が嵐の藁くずみたいに舞う――何年も夢見てきた、そのままの光景だ! おれたちはきっとニューヨークへ直行するんだろうな――そんなものは、まるでどうでもいいかのように。下には用がないという判断になるんだろう。こちらにとっては援護戦闘にすぎないからな。燃料補給船も物資輸送船も、みんな南西微西へ、ニューヨークを目指して進んでいる。おれたちの浮かぶ補給基地になるんだ。わかるか?」
人差し指で地図を突いた。「おれたちはここだ。補給船団はそっちへ行く。戦艦はそこでアメリカ艦隊を押しのけて、おれたちの道をあける。」
夕食の配給を受けに兵員食堂へ降りていくと、バートに注意を向ける者は、ちょっと指さす者を除けばほとんどいなかった。誰もが海戦の話をしていて、推測を述べたり、反論したりしていた。ときには下士官に静められるまで大騒ぎになった。新しい公報が出ていたが、バートにはバルバロッサ号に関するものだという以外、内容はわからなかった。何人かがじろじろ見て、「ブーテレイジ」という名も何度か耳に入ったが、ちょっかいを出す者はいなかった。列の最後尾で順番が回ってくると、スープとパンも難なくもらえた。自分の分はないかもしれないと恐れていたし、そうだったらどうしたか、見当もつかなかった。
そのあと、ひとりの歩哨がいる小さな吊り廊へ思い切って出てみた。天気はまだよかったが、風が強まり、飛行船の横揺れも大きくなっていた。手すりにしっかりつかまったものの、かなり目がくらんだ。もう陸地は見えず、眼下には大きなうねりとなって上下する青い海が広がっていた。イギリス旗を掲げた薄汚れた古いブリガンティン型帆船が、幅広い青い波間に浮かび上がっては突っこんでいた――見える船はそれだけだった。
三
夕方になると風が吹きつのり、飛行船は空を進みながら、ネズミイルカのように身を揺すりはじめた。クルトによると船酔いした兵が何人かいたが、バートにはこの動揺も苦にならなかった。幸いにも、生まれつき船に強い人間をつくる、あの不可思議な胃の持ち主だったのである。ぐっすり眠ったが、夜明け前、明かりで目が覚めると、クルトがよろめきながら何かを探していた。やがて長櫃の中で見つけ、揺れる手に握った――方位磁針だった。それから地図と見比べた。
「針路が変わったぞ」と言った。「風に向かっている。どうもわからん。ニューヨークをそれて、南へ向いている。まるで一枚加わりに行くみたいだ――」
しばらく独り言を言いつづけていた。
朝は雨と風とともに来た。窓の外側は水滴に覆われ、何も見えなかった。ひどく寒くもあったので、バートは朝食配給のラッパが鳴るまで、長櫃のうえで毛布にくるまっていることにした。食べ終えて小さな吊り廊へ出たが、渦を巻いて勢いよく流れ過ぎる雲と、近くの飛行船のおぼろな輪郭しか見えなかった。奔流のような雲の切れ間から灰色の海がちらりと見えるのは、ごくまれだった。
午前の遅い時刻にファーターラント号は高度を変え、突如として、澄みきった高空へ舞い上がった。クルトによると、一万三千フィート近くまで上昇したという。
バートは船室にいて、たまたま窓の水滴が消えるのを見、外に差す日光の輝きに気づいた。のぞくと、初めて気球に乗ったときに見た、あの日に照らされた雲の床がまた広がり、その白い表面からドイツ航空艦隊の飛行船が一隻また一隻と浮かび出てきた。深い水底から魚が上がってきて姿を現すようだった。しばらく目を見張っていたが、この驚異をもっとよく見ようと、小さな吊り廊へ駆け出した。下は雲と嵐の国で、荒れ乱れた天候の巨大な流れが、北東へ激しく押し流されていく。一方、周囲の大気は澄んで冷たく静まり、ごくかすかな冷たい風と、まれに漂う雪片のほか、何もなかった。静けさの中で機関が、どく、どく、どく、どくと脈打った。巨大な飛行船の群れが次々と上昇するさまは、不気味な異形の怪物たちが、まったくなじみのない世界へ押し入ってくるかのようだった。
その朝は海戦の知らせがなかったのか、それとも届く情報をすべて王子が手元に留めていたのか、ともかく正午を過ぎるまで何も伝わらなかった。それから公報が一気に来た。中尉を興奮で我を忘れさせる知らせだった。
「バルバロッサ号、航行不能、沈没しつつあり」と叫んだ。「ああ、神よ! わが老バルバロッサ! なんと勇敢な戦士だ!」
揺れる船室を歩き回り、しばらくはすっかりドイツ人に戻った。
それからまた英語になった。「考えてみろ、スモールウェイズ! おれたちがあれほど磨き上げ、整えていた、あの艦が! めちゃくちゃに打ち壊され、鉄が破片になって飛び散り、知っている連中まで――ああ、神よ! ――一緒に吹き飛んでいるんだ! 熱湯が噴き出し、火が燃え、大砲が、どかん、どかんと打ちつける! そばにいると、あれは音じゃなく衝撃だ! 何もかもばらばらになるような! 耳に羊毛を詰めてもだめだ――何をしても! それなのにおれはここにいる――こんなに近くて、こんなに遠い! ああ、老バルバロッサ!」
「ほかの船は?」と、やがてスモールウェイズが尋ねた。
「神よ! ああ、そうだ! カール・デア・グローセ号を失った。最大最良の艦をな。夜のうちにイギリスの定期客船に衝突されて沈んだんだ。そいつは戦場から抜け出そうとまごまごして、かえって戦闘の真ん中へ迷いこんだ。暴風の中で戦っているんだ。客船は船首を潰されて、浮かんだまま、ふらふらしている! こんな戦いはかつてなかった! ――一度もな! どちらにもいい船、いい乗組員がいて――嵐があり、夜があり、夜明けがあり、何もかもが大洋の真ん中で全速前進だ! 不意打ちなんかじゃない! 潜水艦もない! 大砲と砲撃だ! うちの半数の艦からは、もう連絡がない。マストを撃ち飛ばされたからだ。北緯三十度四十分――西経四十度三十分――どこだ?」
また地図を引っぱり出し、見えてもいない目で凝視した。
「老バルバロッサ! 頭から離れん――機関室に砲弾を食らい、炉から火が吹き出し、火夫や機関員が熱湯を浴びて死んでいる。飯を一緒に食った連中だぞ、スモールウェイズ――膝を突き合わせて話した連中だ! とうとう晴れ舞台が来たんだ! なのに、いいことばかりとはいかなかった!
「航行不能、沈没しつつあり! 戦いじゃ、誰もがいい目を見られるわけじゃないんだろうな。気の毒なシュナイダーのおやじ! きっと一矢報いてやったに違いない!」
その午前中、海戦の知らせはそうして少しずつ伝わってきた。アメリカ側は二隻目を失い、艦名は不明だった。ヘルマン号はバルバロッサ号を援護して損傷した……。クルトは檻に閉じこめられた動物のように、落ち着きなく飛行船の中を歩き回り、鷲の像の下にある前部張り出しへ上がったかと思えば、揺れる吊り廊へ降り、また地図にかじりついた。地球の丸みのすぐ向こうで進行している戦いが、いまここに迫っているという感覚が、スモールウェイズにも感染した。しかしバートが吊り廊へ降りてみると、世界は何もなく静まり返っていた。上には澄んだインク色の青空、下には日の光を浴びた薄い巻雲の、さざ波模様の動かぬ帳。その透けた向こうに雨雲の奔流は見えたが、海は一度も見えなかった。どく、どく、どく、どくと機関は脈打ち、長く波打つ楔形の飛行船隊列が、先頭の白鳥を追う群れのように旗艦のあとを急いだ。機関の震えを除けば、夢のように無音だった。そして下のどこか、風雨の中では、大砲が轟き、砲弾が命中して砕け散り、昔ながらの戦争の作法に従って、人間たちが働き、死んでいた。
四
午後が深まるにつれ、下界の荒天は衰え、海がまたとぎれとぎれに見えはじめた。航空艦隊はゆっくりと中空へ降り、日没近く、東のはるか遠方に、航行不能となったバルバロッサ号が見えた。通路を足早に行く者たちの音を聞いて、スモールウェイズも吊り廊へ誘い出された。そこには十二人近い士官が集まり、双眼鏡で無力な残骸と化した戦艦を見つめていた。二隻の船が寄り添っていた。一隻は積荷を空にした石油タンク船で、船体が水面から高く浮き上がり、もう一隻は改装客船だった。クルトは吊り廊の端で、ほかの者たちから少し離れていた。
「神よ!」と、とうとう双眼鏡を下ろして言った。「古い友人が鼻を削ぎ落とされて――とどめを待っているのを見るようだ。あのバルバロッサが!」
ふいに思い立ったように、クルトは双眼鏡をバートに渡した。バートはそれまで、誰にも顧みられず、その両手の下からのぞいていたが、三隻の船は海に引かれた黒褐色の線三本にしか見えていなかった。
拡大され、わずかに霞んだその像に似たものを、バートは見たことがなかった。無力に波間を漂っているのは、単に打ち傷を負った装甲艦ではなかった。ずたずたに引き裂かれた装甲艦だった。まだ浮いていることが不思議に思えた。その強力な機関が、この艦を破滅させたのだった。夜の長い追撃戦のうちに僚艦の戦列から外れ、サスケハナ号とカンザス・シティ号のあいだへ入りこんでしまったのである。両艦はその接近に気づくと速度を落とし、バルバロッサ号がサスケハナ号にほぼ舷側を向ける位置に来るのを待ち、セオドア・ルーズヴェルト号と小型のモニター号を信号で呼び寄せた。夜明けには、バルバロッサ号は敵に取り囲まれていた。交戦から五分もたたないうちに、東にヘルマン号、続いて西にフュルスト・ビスマルク号が現れたため、アメリカ艦隊は手を引かざるをえなかったが、そのわずかなあいだに、鋼鉄の船体はぼろ布同然にされていた。一日じゅうの苦しい退却でたまった鬱屈を、敵はその一艦に叩きつけたのだった。バートの目には、ねじれのたうつ金属を凍らせた、金工師の奇怪な空想作品としか見えなかった。何がどの部分なのか、位置で推測するほかなかった。
「神よ!」と、返された双眼鏡を受け取りながらクルトはつぶやいた。「ああ、神よ! あそこにはアルブレヒトがいた――いいやつのアルブレヒト、それからツィンマーマンのおやじも――フォン・ローゼンも!」
バルバロッサ号が夕闇と距離に呑まれてからも、クルトは長いこと吊り廊に残り、双眼鏡をのぞいていた。船室に戻ってきたときには、いつになく無口で、考えこんでいた。
「これは手荒な勝負だ、スモールウェイズ」と、やがて言った。「この戦争というのは、手荒な勝負だ。ああいうものを見ると、どうも違って見えてくる。あのバルバロッサを造るために、大勢の人間が働いた。そして中には人間がいた――そうそうお目にかかれる連中じゃない。アルブレヒト――アルブレヒトという男がいてな――ツィターを弾いて即興曲を作った。あいつはどうなったんだろうと、そればかり考える。あいつとおれは――ドイツ流の、とても親しい友人だった。」
次の夜、スモールウェイズが目を覚ますと、船室は暗く、風が吹き抜け、クルトがドイツ語で独り言を言っていた。留めねじを外して開けた窓際に、うっすらと姿が見えた。下をのぞきこんでいる。顔には、光というより闇が引いていく気配に近い、冷たく澄んだ、かすかな明るさが差していた。インクのような影を落とし、高空ではしばしば夜明けを告げる光だった。
「何の騒ぎです?」とバートは言った。
「黙れ!」と中尉は言った。「聞こえないのか?」
静けさの中に、重い砲声が繰り返し響いた。一つ、二つ。間があって、続けざまに三つ。
「うわあ」とバートは言った。「大砲だ!」たちまち中尉の横に並んだ。飛行船はまだ非常に高く、下の海は薄い雲の帳に覆われていた。風は落ちていた。クルトの指さす先を追うと、色のない帳を透かして、まず赤い光がぼんやり見え、次に鋭い赤の閃光が走り、少し離れてまた一つ光った。しばらくは音のない閃光のように見えた。そして何秒かして、もう音など来ないと思いかけたころ、遅れた砲声が届いた――どん、どん。クルトは早口のドイツ語で何か言った。
ラッパの合図が飛行船じゅうに響いた。
クルトは跳ね起き、興奮した調子で何かを言い、まだドイツ語のまま、扉へ向かった。
「ちょっと! どうしたんです?」とバートは叫んだ。「今のは何です?」
中尉は戸口で一瞬立ち止まった。明るい通路を背に、姿が黒く浮き出た。「そこにいろ、スモールウェイズ。そのまま、何もするな。戦闘に入るんだ」と説明し、消えた。
バートの心臓が急に激しく打ちはじめた。はるか下で戦う船々の頭上に、自分が宙づりになっているのを感じた。次の瞬間には、鳥に襲いかかる鷹のように急降下するのだろうか。「うわあ」と、とうとう畏怖に満ちた声でささやいた。
どん! ……どん! 遠くに二つ目の赤い火があり、最初の火へ砲撃を返しているのがわかった。ファーターラント号にも何か変化が起きていたが、何なのかつかめなかった。やがて、機関が速度を落とし、ほとんど聞こえないほどの鼓動になっていることに気づいた。窓から頭を突き出した――やっと通る狭さだった――すると冷え冷えした空に、ほかの飛行船も、ほぼ動きがわからないほど減速しているのが見えた。
二度目のラッパが鳴り、船から船へ、かすかに受け継がれた。明かりが消えた。艦隊は、まだところどころ星の残る濃い青空を背に、ぼんやりした黒い塊となった。長いあいだ宙に留まっていた。バートには果てしなく思えた。そのあと、バロネット[訳注:ガス嚢内に設け、空気を出し入れして船体の形状や浮力を調整する空気袋]へ空気を送りこむ音がはじまり、ファーターラント号はゆっくり、ゆっくりと雲へ向かって降下した。
首を伸ばしたが、ほかの艦隊が続いているかどうかは見えなかった。頭上に張り出したガス室が視界を遮っていた。その忍び寄るような無音の降下には、想像力を深くかき立てる何かがあった。しばらく闇が濃くなり、地平線の最後の薄い星が消え、冷たい雲の気配を肌に感じた。と、突然、下の赤い光が明瞭な輪郭を得て炎となり、ファーターラント号は降下をやめ、流れる雲の層のすぐ下に留まった。眼下の戦闘から、おそらく千フィートほどの高さだった。そこで観察を続けたが、こちらはまだ発見されていないようだった。
夜のあいだに、苦しい海戦と退却は新しい局面に入っていた。アメリカ艦隊は逃走中の散開戦列の両端を巧みに寄せ集め、ついには縦列となって、広くまばらに追撃するドイツ艦隊のかなり南へ出た。そして夜明け前の闇の中で反転し、密集隊形で北へ進んだ。ドイツの戦列を突破し、航空艦隊を支援するためニューヨークへ向かっている補給船団を襲うつもりだった。両艦隊の最初の接触以来、事情は大きく変わっていた。このときまでに、アメリカ側のオコナー提督は飛行船の存在を詳しく知らされていた。また、キーウェストから潜水艦隊がパナマに到着したとの報告があり、強力で最新式の二艦、デラウェア号とエイブラハム・リンカーン号も、すでに運河の太平洋側、リオ・グランデにいたため、パナマへの懸念はもはや最優先ではなかった。だが、この機動はサスケハナ号のボイラー爆発で遅れた。夜明けに同艦はブレーメン号とヴァイマル号の視界内にあり、それどころか至近距離だったため、ただちに交戦となった。見捨てるのでなければ、艦隊戦に入るしかなかった。オコナーは後者を選んだ。決して望みのない戦いではなかった。数でも威力でもはるかに勝るドイツ艦隊は、端から端まで約四十五マイルというまばらな戦列に広がっていた。戦闘のために集結するより早く、七隻のアメリカ艦の縦列が、その戦列を端から端まで食い破る可能性は十分にあった。
曇り空の薄暗い夜明けだった。ブレーメン号もヴァイマル号も、サスケハナ号の背後から全縦列が一マイルかそれ以下の距離で現れ、押し寄せてくるまでは、相手が一隻だけではないことに気づかなかった。ファーターラント号が空に現れたのは、まさにそのときだった。バートが雲越しに見た赤い光は、不運なサスケハナ号から上がっていた。ほとんど真下にいて、船首も船尾も炎に包まれながら、まだ二門の砲で応戦し、ゆっくり南へ進んでいた。ともに数か所に命中弾を受けたブレーメン号とヴァイマル号は、西微南へ進んで同艦から遠ざかっていた。セオドア・ルーズヴェルト号を先頭とするアメリカ艦隊は、その背後を横切りながら順々に砲撃を浴びせ、両艦と、西から迫る大型新鋭艦フュルスト・ビスマルク号とのあいだへ割って入った。しかしバートは、これらの艦名を何ひとつ知らなかった。実際かなり長いあいだ、双方の移動方向に惑わされて、ドイツ艦をアメリカ艦、アメリカ艦をドイツ艦だと思いこんでいた。六隻の戦艦の縦列が、援軍一隻に支えられた別の三隻を追っているように見えたのだ。ところがブレーメン号とヴァイマル号がサスケハナ号を撃っているので、その計算が崩れた。それからしばらくは、まったく訳がわからなくなった。砲声にも混乱させられた。もはや、どんと響く音ではなかった。ばしん、ばしん、ばしん、ばしんと叩きつけてきて、かすかな閃光を見るたびに、次の瞬間の衝撃を予期して心臓が跳ねた。しかも装甲艦は、絵で見慣れた横姿ではなく、真上からの、奇妙に縮められた姿で見えていた。甲板の大部分には人影がなく、ところどころ鋼鉄の防壁の陰に小さな人の塊が隠れていた。せわしなく動く長い巨砲の鼻先から、薄く透き通った閃光が噴き出し、舷側の速射砲が盛んに働いている。それがこの俯瞰の光景で目につくものだった。アメリカ艦は蒸気タービン船で、それぞれ二本から四本の排気煙突を持っていた。ドイツ艦は内燃機関なので水面低くに船体を構え、その機関が、どういうわけかいまは普段と違うくぐもった轟音を立てていた。蒸気推進であるため、アメリカ艦のほうが大型で、輪郭も優美だった。遠近法で押し縮められたこれらの艦が、冷たく容赦なく照らし出す夜明けの光の下、低く大きな波の海でひどく横揺れしながら砲戦を続けているのを、バートは見た。飛行船の長く規則的な上下動と振動に合わせて、光景全体がゆっくり揺れていた。
航空艦隊のうち、下界の戦場に姿を現したのは、最初はファーターラント号だけだった。セオドア・ルーズヴェルト号の高い頭上に浮かび、その全速力に歩調を合わせた。下の艦からは、流れる雲を通してとぎれとぎれに見えていたはずだった。ほかのドイツ飛行船は雲の天蓋の上、六千ないし七千フィートに留まり、無線電信で旗艦と交信しながら、下の砲火に身をさらす危険は冒さなかった。
不運なアメリカ兵たちが、この新しい要素の参戦にいつ気づいたのか、はっきりとはわからない。体験を伝える記録は、いまや何ひとつ残っていない。戦闘で神経をすり減らした水兵が、ふと見上げて、どんな戦艦よりも巨大な、長い、静かな船影を頭上に見つけたとき、どんな気持ちだったか――その後部からは、いまや大きなドイツ国旗が翻っていた――われわれは、できるだけ想像してみるほかない。やがて空が晴れるにつれて、溶けていく雲の向こうの青空に、同じような船がさらに、またさらに現れた。どれも大砲や装甲など眼中にないかのように、それらを持たず、下の走りながらの戦闘に合わせて高速で飛んでいた。
初めから終わりまで、ファーターラント号には一発の砲弾も放たれず、小銃が数発撃たれただけだった。船内でひとりの死者が出たのは、まったく不運な偶然の一撃によるものだった。また、最後に至るまで、戦闘に直接加わりもしなかった。破滅を運命づけられたアメリカ艦隊の上を飛び、王子は無線電信で僚船の動きを指揮した。そのあいだに、フォーゲルシュテルン号とプロイセン号は、それぞれ六機のドラッヘンフリーガー[訳注:ドイツ語で「凧の飛行機」。ここでは一人乗りの小型軍用飛行機]を曳航して全速力で先行し、アメリカ艦隊の五マイルほど前方で雲を抜けて降下した。セオドア・ルーズヴェルト号は、ただちに前部砲座の巨砲を放ったが、砲弾はフォーゲルシュテルン号のはるか下で炸裂した。たちまち十二機の一人乗りドラッヘンフリーガーが、攻撃のために舞い降りてきた。
船室の丸窓から首を伸ばしていたバートは、この出来事のすべてを見た。飛行機と装甲艦の最初の遭遇だった。幅広い平らな翼、四角い箱型の頭、車輪付きの胴体にひとりずつ乗り手を載せた、奇妙なドイツのドラッヘンフリーガーが、鳥の群れのように空を滑り降りてくるのを見た。「うわあ」と言った。右手の一機が激しく縦揺れし、急角度で空へ跳ね上がり、大音響とともに破裂して、燃えながら海へ落ちた。別の一機は機首から水に突っこみ、波に当たるなり粉々になったように見えた。下のセオドア・ルーズヴェルト号の甲板では、小さな人間たち――真上からでは頭と足だけに縮められた人間たち――が駆け出して、残りの飛行機を撃とうと身構えていた。次の瞬間、先頭の飛行機がバートとアメリカ艦の甲板とのあいだを突っ走り、どん、と爆音が響いた。前部砲座へ巧みに投げこまれた爆弾だった。かすかで小さな小銃の連射音が応じた。ばしん、ばしん、ばしんとアメリカ艦の速射砲が撃ち、どかんとフュルスト・ビスマルク号の応射が命中した。それから二機目、三機目の飛行機がバートと装甲艦のあいだを通過し、やはり爆弾を落とした。四機目は乗り手が弾に当たり、よろめき落ちて、砲弾に裂かれた煙突のあいだで砕けて爆発し、煙突を吹き分けた。つぶれる飛行機の骨組みから小さな黒い生き物が跳び出し、煙突にぶつかり、力なく落ちるのが一瞬見えた。たちまち爆発の炎と奔流に捉えられ、跡形もなく消えた。
どかん! 旗艦の前部で大爆発が起こり、巨大な金属構造物が持ち上がったかと思うと、人間を振り落としながら海へ転落した。その跡の大穴へ、機敏なドラッヘンフリーガーが燃えさかる爆弾を投げこんだ。そして一瞬、バートには見えすぎるほどはっきり見えた。強まりゆく無慈悲な光の中で、セオドア・ルーズヴェルト号の泡立つ航跡に、小さな微生物のようなものが幾つも、焼けただれ、ひきつるように身を動かしてもがいていた。あれは何だ? 人間じゃない――まさか人間ではあるまい? 溺れかけ、傷ついた小さな生き物たちの、何かをつかもうとする指が、バートの魂を引き裂いた。「ああ、神さま!」と叫んだ。「ああ、神さま!」ほとんどすすり泣きだった。もう一度見たときには消えていた。沈みかけたブレーメン号の最後の一発で少し傷ついたアンドルー・ジャクソン号の黒い船首が、彼らを呑んだ海面を、左右対称のきれいな二つの波に切り分けていた。しばらくのあいだ、空白そのもののような恐怖で、バートには下の破壊が見えなくなった。
そのとき、すさまじい奔流のような音が響き、その背に、ばらばらに連発する小さな爆発の轟きを乗せて、いまや東へ三マイル以上離れたサスケハナ号が吹き飛び、煮えたぎり湯気立つ混沌の中へ忽然と消えた。一瞬、荒れ狂う水しか見えなかった。それから、巨大な喉がごくりごくりと鳴るような音を立てて、蒸気と空気と石油、帆布の切れ端、木材、人間が、海中から噴き上げられてきた。
それで戦闘には明瞭な間が生まれた。バートには長い間に思えた。気がつくとドラッヘンフリーガーを探していた。一機の平たく潰れた残骸が、モニター号の真横に浮いていた。残りはアメリカ艦隊の縦列に沿って爆弾を落としながら通過していた。数機が水上にあって、どうやら無傷に見え、三、四機はまだ飛んでいて、母船へ帰るため大きな弧を描いて旋回していた。アメリカ装甲艦は、もう縦列隊形ではなかった。ひどく損傷したセオドア・ルーズヴェルト号は南東へ向きを変え、アンドルー・ジャクソン号は激しく叩かれながらも戦闘に必要な部分は無傷で、同艦と、まだ新鮮な戦力を保つフュルスト・ビスマルク号のあいだに割って入り、後者の砲火を引き受けて応戦しようとしていた。はるか西にはヘルマン号とゲルマニクス号が現れ、戦闘に加わろうとしていた。
サスケハナ号の惨事のあとの静けさの中で、バートは、油の切れた建てつけの悪い扉がひとりでに開くような、かすかな音に気づいた。フュルスト・ビスマルク号の乗組員たちの歓声だった。
その喧騒の切れ目に、太陽も昇った。暗い海は光を含んだ青となり、黄金の光の奔流が世界を照らした。憎悪と恐怖の光景に、突然ほほえみが差したようだった。雲の帳は魔法のように消え、ドイツ航空艦隊の巨大な全容が空に現れた。その航空艦隊が、いま、獲物に襲いかかろうとしていた。
「ばしん、どかん、ばしん、どかん」と砲撃が再開した。しかし装甲艦は天頂の敵と戦うために造られたものではなかった。アメリカ側が命中させたのは、ほぼ無力な小銃射撃のうち、幸運に恵まれた数発だけだった。縦列はすでに大きく崩れていた。サスケハナ号は消滅し、セオドア・ルーズヴェルト号は戦列後方へ脱落して、前部砲は残骸の山の中で使用不能となり、モニター号も何か重大な故障に陥っていた。この二艦は完全に射撃をやめ、ブレーメン号とヴァイマル号も同様だった。四隻とも互いの射程内にありながら、意図せぬ休戦状態で、それぞれ旗を掲げたまま浮かんでいた。いまなお南東への針路を保っているアメリカ艦は、アンドルー・ジャクソン号を先頭に、わずか四隻だった。フュルスト・ビスマルク号、ヘルマン号、ゲルマニクス号は、それらと並航しながら激しく砲撃し、前へ出ていった。ファーターラント号は、この劇の最終幕に備えて、ゆっくり上昇した。
すると十二隻の飛行船が、一隻また一隻と所定の位置に入り、一列になって、せかせかすることなく素早く降下し、アメリカ艦隊を追った。最後尾の装甲艦の真上より少し前へ出るまでは二千フィート以上の高度を保ち、それから噴水のような銃弾の中を素早く降下し、下の艦よりわずかに速く進みながら、防御の薄い甲板へ爆弾を浴びせ、爆炎の一枚板に変えた。こうして飛行船は、フュルスト・ビスマルク号、ヘルマン号、ゲルマニクス号との戦いを続けようとするアメリカ艦隊の縦列に沿って、次々と通り過ぎた。一隻ごとに、先行船の生んだ破壊と混乱をさらに増した。アメリカ側の砲撃は、英雄的な数発を除いて途絶えた。それでも艦は進みつづけた。頑として屈せず、血まみれで、傷だらけで、怒りに燃えて抗い、飛行船に銃弾を吐きつけ、ドイツ装甲艦から容赦なく叩かれていた。だがバートには、攻撃する飛行船の、より近い巨大な船体のあいだから、とぎれとぎれに見えるだけになっていた……。
不意にバートは、戦場全体が遠ざかって小さくなり、轟音も弱まっていることに気づいた。ファーターラント号は、着実に、音もなく上昇していた。やがて大砲の衝撃はもう心臓を打たず、距離に鈍らされた音が耳に届くばかりとなり、東方の砲撃をやめた四隻も、遠くの小さな物体になった。だが、四隻だったか? 逆光の中に浮かぶ、黒焦げで煙を上げる筏のような残骸は、いまや三つしか見えなかった。ブレーメン号からはボートが二艘出ていた。セオドア・ルーズヴェルト号も、小さなものの群れが大西洋の大きく幅広い波に上下しながらもがく場所へ、ボートを降ろしていた……。ファーターラント号は、もう戦闘を追っていなかった。急行する騒乱のすべてが南東へ遠ざかり、進むにつれて小さく、聞こえにくくなっていった。一隻の飛行船が水上で燃えていた。遠い、途方もなく大きな炎の噴水だった。はるかな南西には、まず一隻、次いで三隻のドイツ装甲艦が姿を現し、僚艦の支援に急いでいた……。
五
ファーターラント号は着実に上昇し、航空艦隊もともに上昇して、ニューヨークへ針路を変えた。戦いは遠方の小さな出来事、朝食前の一件になった。暗い影の列と、煙を吐く黄色い炎ひとつへと縮み、やがてそれも広大な水平線と明るい新しい一日のうえに残る、ぼんやりした染みにすぎなくなり、ついには完全に見えなくなった……。
こうしてバート・スモールウェイズは、飛行船の最初の戦いと、戦争の全歴史の中で最も奇怪なもの――装甲戦艦――の最後の戦いを目撃した。装甲戦艦は、クリミア戦争における皇帝ナポレオン三世の浮き砲台からその経歴を始め、人間の精力と資源を膨大に費やしながら、七十年存続した。その期間に世界は、この奇妙な怪物を一万二千五百隻以上造り出した。流派ごとに、型ごとに、連作として、どれも前のものより大きく、重く、殺傷力が高かった。どの一隻も、登場するたび時代の最新の産物として称賛され、その大半は、順々に古鉄として売られた。実際に戦闘を経験したのは、わずか五パーセントほどだった。沈没したもの、座礁して壊れたもの、誤って互いに衝突し、沈んだものもあった。無数の人間が生涯をその奉仕に捧げ、幾千もの技師や発明家の輝かしい才知と忍耐、計り知れぬ富と資材が注ぎこまれた。陸上で貧しく飢え、成長を妨げられた人生、無理な労働へ送り出された数百万の子供たち、開花することもなく失われた、豊かな生の無数の可能性も、その勘定に入れねばならない。どんな代償を払ってでも、そのための金は捻出しなければならなかった――あの奇妙な時代、それが国家存立の掟だった。まったく、機械発明の全歴史において、これほど異様で、破壊的で、浪費的なメガテリウム[訳注:絶滅した巨大な地上性ナマケモノ]はなかっただろう。
そしてガスと籠細工でできた安物が、空から襲いかかり、何もかも終わらせてしまったのだ! ……。
バート・スモールウェイズは、それまで純然たる破壊というものを見たことがなく、戦争の害悪と浪費を思い知ったこともなかった。驚愕した頭に、ようやく一つの理解が生まれた。こういうことも人生にはあるのだ。激しく押し寄せる感覚の洪水から、一つの印象が浮かび上がり、すべての中心となった。最初の爆弾が爆発したあと、水中でもがいていたセオドア・ルーズヴェルト号の人々の姿だった。「うわあ」と、思い出して言った。「おれとグラブだったかもしれねえ! ……足をばたつかせて、口に水が入ってくるんだろうな。そんなに長くはかからねえと思うけど。」
クルトがこれらの出来事をどう受け止めたか、どうしても知りたくなった。それに、腹が減っていることにも気づいた。ためらいがちに船室の扉へ近づき、通路をのぞいた。前方の兵員食堂への昇降口近くに、空の水兵たちが小さな輪を作って立ち、くぼみの中にある、こちらからは見えない何かを眺めていた。ひとりは、バートが以前ガス室の塔で見たのと同じ軽装の潜水服を着ていた。その男をもっと近くで見て、脇に抱えたヘルメットも調べたいと思い、そちらへ歩いていった。だが、くぼみに着くと、ヘルメットのことは忘れた。そこには、セオドア・ルーズヴェルト号から飛んできた弾丸に殺された少年の死体が、床に横たわっていたからだ。
バートはファーターラント号に弾丸が届いたことにまったく気づかなかったし、自分が射撃を受けているとも考えていなかった。何が少年を殺したのか、しばらくわからず、誰も説明してくれなかった。
少年は倒れて死んだときのまま、上着を裂かれ、焦がされて横たわっていた。肩甲骨は砕けて体から吹き離され、左半身はすっかり引き裂かれていた。血が大量に流れていた。水兵たちは、ヘルメットを持つ男の説明を聞いていた。男は床の丸い弾痕と、なお凶暴な勢いを残した弾丸が最後の力を使い果たした、通路の羽目板の破損を指さしていた。どの顔も重く真剣だった。金髪で青い目をした、従順と秩序ある暮らしに慣れた、実直な男たちの顔だった。かつて仲間だったこの、無残で、濡れて、痛ましいものは、彼らにとってもバートにとってとほとんど同じくらい、不可解なものだった。
小さな吊り廊のあるほうから、通路に豪快な笑い声が響き、何者かが勝ち誇った調子で、ドイツ語で話した――ほとんど叫んだ。
ほかの声が、もっと低く、うやうやしく答えた。
「王子だ」と誰かが言い、男たちはみな、こわばって不自然な姿勢になった。通路に一団の姿が現れ、書類の束を持ったクルト中尉が先頭を歩いていた。
くぼみの中のものを見るなり、ぴたりと足を止め、血色のよい顔が白くなった。
「そうか!」と、驚いたように言った。
王子はそのあとから、肩越しにフォン・ヴィンターフェルトと船長へ話しかけながら来た。
「何だ?」と話を中断してクルトに言い、その手の示す先を見た。くぼみの中の、ひしゃげたものを睨み、少し考えるようだった。
少年の遺体へ、ぞんざいに軽く手を振り、船長に向き直った。
「片づけろ」とドイツ語で言い、通り過ぎた。そしてフォン・ヴィンターフェルトへの話を、話しはじめたときと同じ陽気な調子で結んだ。
六
大西洋の実戦から持ち帰った、なすすべもなく溺れる人々の強い印象は、ファーターラント号の水兵の遺体を手振りひとつでどかせた、カール・アルベルト王子の尊大な姿と、切り離せなくなった。これまでバートは、戦争とは陽気で、景気よくぶち壊す、胸躍るもので、銀行休業日の大騒ぎを大規模にしたような、総じて愉快で爽快なものだと思い、その考えをかなり気に入っていた。いまでは、少しばかり実情がわかっていた。
翌日、その幻滅に第三の醜い印象が加わった。語ってしまえば取るに足りない、戦時下では必要な日常の一件にすぎないが、都会暮らしに馴らされた彼の想像力には、ひどく苦痛だった。「都会暮らしに馴らされた」と書くのは、この時代特有の温和さを表したいためである。何かが殺される場面を一度も見ず、あらゆる生命の底に横たわる致死的暴力という事実に、本や絵という衝撃を和らげる媒介を通す以外、出会うことがない――これは当時の過密な都会の住人にまったく特有のことで、それ以前のどの時代の普通の経験とも異なっていた。バートが死んだ人間を見たのは、生涯に三度、ただの三度だった。そして生まれたばかりの子猫より大きなものが殺される場に、立ち会ったことはなかった。
第三の衝撃を与えたのは、アードラー号の乗員のひとりが、マッチ箱を携帯していた罪で処刑された事件だった。明白な違反だった。男は乗船の際、それを持っていることを忘れていた。この違反がいかに重大かは、全員に十分通告され、飛行船内の至るところに掲示も出ていた。男の弁明は、掲示を見慣れすぎていたうえ、仕事で頭がいっぱいで、自分のこととして考えなかったというものだった。つまり弁護のつもりで、軍務においてはもう一つの重大な罪である、不注意を申し立てたのだ。船長が裁き、王子が無線電信で判決を承認し、その死を全艦隊への見せしめにすることが決まった。「ドイツ人は」と王子は宣言した。「ぼんやり夢想するために大西洋を渡ったのではない。」
そしてこの規律と服従の教訓を誰もが見られるよう、違反者は電気で殺すのでも溺れさせるのでもなく、絞首に処すことになった。
そこで航空艦隊は、餌の時間の池の鯉のように、旗艦の周囲へ集まった。アードラー号は旗艦のすぐ横の、頭上高くに留まった。ファーターラント号の全乗員が吊り廊へ集まり、ほかの飛行船の乗員は気室の外側に配置についた。つまり、外側の網をよじ登って上面へ出たのである。士官たちは機関銃台に姿を現した。艦隊全体を見下ろす位置にいたバートには、とてつもない眺めに思えた。はるか下のさざ波立つ青い海には、イギリス船とアメリカ国旗を掲げた船の二隻の汽船が、ごく小さな点となって見え、規模を測る目印になっていた。途方もなく遠かった。バートは処刑を見たい好奇心から吊り廊に立っていたが、落ち着かなかった。あの恐ろしい金髪の王子が、十二フィートも離れていないところにいて、腕を組み、軍人らしく踵をそろえ、恐ろしい目つきで睨んでいたからだ。
男はアードラー号から吊るされた。六十フィートの縄が与えられた。マッチを隠し持っていたり、同様の不服従を企てたりする不心得者全員に、ぶらぶら揺れる姿を見せるためだった。バートは、およそ百ヤード離れたアードラー号の下部吊り廊に、その男が立つのを見た。生きていて、死を拒む男だった。胸の中は恐怖と反抗でいっぱいだったに違いないが、外見は背筋を伸ばし、従順だった。そして男は船外へ突き落とされた。
手足を広げて落下し、ぐいと引かれて縄の端に達した。そこで死に、教訓を垂れるように揺れるはずだった。だが代わりに、もっと恐ろしいことが起きた。首がすっぽり抜けたのだ。胴体は回転しながら海へ落ちていった。無力で、滑稽で、現実離れした姿だった。頭がその落下を競うように追った。
「うっ!」とバートは言い、目の前の手すりにしがみついた。そばの男たちからも、同じようなうめきがいくつか漏れた。
「そうか!」と王子は言った。いっそう身をこわばらせ、厳しい顔で数秒睨み、それから飛行船内へ上がる昇降口へ向き直った。
バートは長いこと、吊り廊の手すりにしがみついていた。この些細な一件の恐怖で、ほとんど吐きそうだった。海戦よりもはるかに恐ろしかった。まったく彼は、ひどく退化した、末世の文明人だったのである。
その日の午後遅く、クルトが船室へ戻ると、バートは長櫃の上に丸まり、真っ青で、惨めな顔をしていた。クルトもまた、以前の溌剌とした様子をいくらか失っていた。
「船酔いか?」
「違います!」
「今晩にはニューヨークへ着くはずだ。いい追い風が吹いてきている。そこでまた何か見られるぞ。」
バートは答えなかった。
クルトは折り畳み椅子とテーブルを開き、しばらく地図をがさがさやっていた。それから陰気に考えこんだ。やがて我に返り、同室者を見た。「どうした?」
「何でもありません!」
クルトは威圧するように睨んだ。「どうしたんだ?」
「あの男を殺すのを見たんです。飛行機の男が、大きな装甲艦の煙突にぶつかるのも見た。通路の死んだやつも見た。このところ、ぶち壊したり殺したりを見すぎたんです。そういうことです。嫌なんですよ。戦争がこういうもんだとは知らなかった。おれは民間人です。嫌なんです。」
「おれも嫌だ」とクルトは言った。「まったく、嫌だとも!」
「戦争の話は読んだし、いろいろ知ってるつもりだったけど、見ると違うんです。それに目がくらむんです。目がくらんじまう。初めてあの気球に上がったときは、何ともなかったのに、こうやって下ばかり見て、何もかもの上をふわふわ飛んで、人をめちゃめちゃにしてると、神経が参っちまう。わかります?」
「その神経には立ち直ってもらわんとな……」
クルトは考えた。「おまえだけじゃない。兵もみんな張りつめてきている。飛行は――ただ飛んでいるだけだ。初めのうちは少しくらくらするのも当然だ。殺すことについては、血に慣れなければならん。それだけだ。おれたちは飼い馴らされた文明人だ。だから血に慣れなければならん。この船に、本物の流血を見た者は十二人もいないだろう。これまでは、善良で、おとなしく、法を守るドイツ人だったんだ……それがここへ来て――巻きこまれた。いまは少し尻込みしているが、そのうち手慣れてくる。まあ見ていろ。」
考えこみ、「誰もが少し張りつめている」と言った。
また地図に向かった。バートは隅で体を丸め、クルトには無関心に見えた。しばらく二人とも黙っていた。
「王子はどうして、わざわざあの男を吊るしたんです?」とバートは突然尋ねた。
「あれは正しい」とクルトは言った。「あれは正しい。まったく正しい。鼻の先ほど明らかな命令があって、それなのにあの馬鹿はマッチを持ち歩いていたんだ――」
「くそっ! あれはちょっとやそっとじゃ忘れられねえ」と、バートは筋違いのことを言った。
クルトは返事をしなかった。ニューヨークまでの距離を測りながら、思いを巡らせていた。「アメリカの飛行機はどんなものだろうな?」と言った。「おれたちのドラッヘンフリーガーに似ているのか……明日の今ごろにはわかっている……何がわかっているんだろう? どうだろうな。ひょっとして、向こうが戦いを挑んでくるとしたら……妙な戦いだ!」
小さく口笛を吹き、物思いに沈んだ。やがて落ち着かなく船室を出ていき、のちにバートが見つけたときには、夕闇の揺れる足場に立ち、前方を見つめ、明日起こるかもしれないことを考えていた。再び雲が海を覆い、飛びながら上下する、長く不ぞろいな楔形の飛行船隊列は、陸も水もなく、ただ霧と空だけがある混沌の中に、奇妙な生を得たばかりのものの群れのようだった。
第六章 戦争はいかにニューヨークへ来たか
一
ドイツ軍の攻撃を受けた年のニューヨーク市は、世界がかつて見たことのないほど大きく、豊かで、多くの点で最も壮麗であり、いくつかの点では最も邪悪な都市だった。科学と商業の時代の都市として究極の姿をなし、その偉大さ、力、無慈悲で無政府的な事業欲、社会的な無秩序を、最も鮮やかに、余すところなく示していた。現代のバビロンとしての栄誉ある地位からロンドンを追い落としてすでに久しく、世界の金融、世界の貿易、世界の快楽の中心だった。人々はこれを、古代の預言者たちが語った終末の都市になぞらえた。かつてローマが地中海の富を、バビロンが東方の富を呑み干したように、この都市は居座って一大陸の富を呑み干していた。その街路には、豪奢と悲惨、文明と無秩序の両極端があった。ある地区では、光と炎と花をまとい、冠のようにいただく大理石の宮殿が、言葉では言い表せぬ美しさで、驚異的な夕空へそびえ立っていた。別の地区では、暗く不穏な多言語の住民が、政府の力も把握も及ばぬ迷路のような住居や地下の穴に、言いようもなく密集して蒸されていた。悪徳も、犯罪も、法も、等しく凶暴で恐るべき活力に突き動かされ、中世イタリアの大都市のように、街の暮らしは私闘に満ち、暗く冒険的だった。
ニューヨークの建築家たちを、初めに極端な高さへ向かわせたのは、マンハッタン島の独特な形だった。両側から海の入り江に挟まれ、北へ延びる細い帯状の土地を除けば、ゆったり拡張する余地がなかった。必要なものは何でも潤沢にあった――金も、資材も、労働力も。ただ空間だけが限られていた。そのため、当初はやむなく高く建てたのだった。だがそうすることは、上へ伸びる精妙な線が織りなす、建築美のまったく新しい世界を発見することだった。海底トンネル、イースト川に架かる四本の巨大橋、東西を結ぶ十二本のモノレール索道によって中心部の混雑が和らいでからも、上への成長はなお長く続いた。ニューヨークと、その絢爛たる富豪支配は、多くの点でヴェネツィアの再現だった。建築、絵画、金工、彫刻の壮麗さ、政治手法の冷酷な苛烈さ、海運と商業の優位などがそうだった。しかし内部行政の放漫な無秩序には、過去のどの国家にも似ていなかった。その放漫さのために広大な地域が前代未聞の無法地帯となり、通りと通りのあいだで内戦が荒れ狂って、地区全体が通行不能になることもあり、市のただ中には、正規の警察が決して足を踏み入れないアラセイシア[訳注:かつてロンドンにあった、犯罪者が逃げこむ治外法権的な地区の名。転じて無法者の避難地]が存在しえた。そこは民族の渦だった。港にはあらゆる国の旗が翻り、最盛期には、海外との年間往来は合計二百万人を超えた。ヨーロッパにとってはアメリカそのものであり、アメリカにとっては世界への門だった。しかしニューヨークを語ることは、世界の社会史を書くことに等しい。聖人と殉教者、夢想家と悪党、千の民族と千の宗教の伝統がこの都市を作り、その街路で脈打ち、押し合っていた。そしてその、人間と目的の激流のような混沌の上に、奇妙な旗、星条旗がはためいていた。それは人生で最も高貴なものと、最も卑しいものを同時に意味した。すなわち、一方では自由を、他方では、私利を追う個人が国家の共通の目的に向ける、卑小な猜疑と反感を。
何世代ものあいだ、ニューヨークは戦争を、遠い場所で起こり、相場を動かし、新聞に刺激的な見出しや絵を提供するものとしてしか気に留めていなかった。自国での戦争などありえないという確信は、おそらくイングランド人以上だった。その点では北アメリカ全体の思い違いを共有していた。闘牛場の観客のように安全だと感じていた。勝敗に金を賭けることはあっても、それだけだった。そして一般のアメリカ人が持っていた戦争の観念は、範囲が限られ、絵になり、冒険的だった過去の戦争から得たものだった。戦争も歴史も、虹色の霧を通して見ていた。悪臭は取り除かれ、それどころか香りさえつけられ、本質的な残酷さはすべて、気を利かせて隠されていた。人を高めるものとして戦争を惜しみ、自分の人生ではもう経験できないのだと溜息をつく傾向さえあった。新しい大砲、巨大になり、さらに巨大になる装甲艦、信じがたく強力になり、なお強力になる爆薬について、むさぼるほどではなくとも興味をもって読んだ。だが、この恐るべき破壊装置が、自分たち個人の暮らしに何を意味するのかは、まったく頭をよぎらなかった。同時代の文献から判断するかぎり、そもそも私生活に何らかの意味があるとは考えていなかった。爆薬がこれほど積み上がっても、アメリカは安全だと思っていた。習慣と伝統から国旗に喝采し、他国を見下し、国際的な紛争が起これば、猛烈に愛国的になった。つまり、相手国民に対して厳しく妥協のない言葉や脅しや行動を取らない自国の政治家には、熱烈に反対した。アジアにも気勢を上げ、ドイツにも気勢を上げ、イギリスに対してはあまりにも威勢がよかったので、母国の偉大な娘に対する外交姿勢は、当時の風刺画で、気の強い若妻に頭の上がらぬ夫としばしば比較された。それ以外では、誰もが仕事と遊びにいそしみ、戦争などメガテリウムと一緒に絶滅したかのように暮らしていた……。
その世界へ、主として軍備と爆薬の改良に平和裏に忙殺されていた世界へ、突然、戦争が来た。大砲が実際に火を噴きはじめたのだ、世界じゅうに積み上げた可燃物が、とうとう燃え上がったのだと悟る衝撃が来た。
二
突然の開戦がニューヨークに与えた当初の効果は、ただ、平時の激しさをいっそう激しくすることだった。
アメリカ人の精神を養っていた新聞や雑誌――せっかちなこの大陸では、本はすでに蒐集家の精力を注ぐ対象にすぎなくなっていた――は、たちまち戦争の絵と、ロケットのように舞い上がり、砲弾のように炸裂する見出しで、目もくらむばかりになった。日ごろから張りつめた活気に満ちるニューヨークの街路に、戦争熱が一さじ加えられた。とりわけ昼食時には、マディソン・スクエアのファラガット記念碑の周囲に大群衆が集まり、愛国演説を聞いて歓声を上げた。朝ごとに路面電車、モノレール、地下鉄、汽車でニューヨークへ流れこんで働き、五時から七時のあいだにまた家へ引いていく、足早な若者の大きな奔流には、小旗と徽章の文字どおりの流行病が広がった。戦争支持の徽章を着けないのは危険だった。当時の豪華なミュージックホールは、あらゆる話題を愛国心に沈め、熱狂の光景を生み出した。バレエ団総出で支える国旗を見ると屈強な男たちが泣き、特設の探照灯や電飾は、見守る天使たちを驚かせた。教会は国民の熱狂を、より重い調子、より遅い拍子で反響させた。イースト川での航空・海軍の準備は、応援の歓声を上げようと群がる大量の遊覧汽船によって、大いに妨げられた。小火器の商売は大いに繁盛し、興奮しすぎた多くの市民は、勇ましく、危険で、愛国的な花火を程度の差こそあれ公道で打ち上げ、感情をただちに発散した。セントラル・パークでは、小さな子供たちの糸付き最新型気球が、歩行者の深刻な障害となった。そして言い表せぬ感動のさなか、オールバニの州議会は常時開会のまま、規則も先例も気前よく棚上げし、長らく争われてきたニューヨーク州の国民皆兵法案を上下両院で可決した。
アメリカ人の国民性を批評する者は、ドイツ軍の攻撃を実際に受けるまで、ニューヨーク市民は戦争を政治的な示威運動のように扱いすぎていた、と考えがちだ。徽章を着け、小旗を振り、花火を上げ、歌を歌っても、ドイツ軍にも日本軍にも、ほとんど、あるいはまったく損害を与えなかった、と彼らは言う。だが彼らは忘れている。一世紀にわたる科学の進歩が生んだ戦争の条件の下では、非軍事的な住民は、どんな形でも敵に重大な損害を与えることなどできず、したがって、彼らのように振る舞ってはいけない理由はなかったのだ。軍事的有効性の重心は、再び多数から少数へ、一般人から専門家へと移っていた。
感情に駆られた歩兵が戦いを決める時代は、永久に過ぎ去っていた。戦争は、装置と、きわめて複雑な専門訓練と技能の問題になっていた。民主的なものではなくなっていた。民衆の興奮にどれほど価値があったにせよ、まったく予期せぬヨーロッパからの武力侵攻に直面した合衆国政府の小規模な常備軍が、精力、科学的知識、想像力をもって行動したことは否定できない。外交情勢に関しては不意を突かれ、飛行船や飛行機を建造する設備は、巨大なドイツの基地に比べれば話にならなかった。それでも彼らはただちに働きはじめた。一八六四年のモニター号や南部連合の潜水艇を生んだ精神が、まだ死んでいないことを世界に示すためだった。ウェストポイント近くの航空施設の長はカボット・シンクレアであり、民主主義のこの時代にあまねく見られた芝居がかった身振りを、自分に許したのは一度きりだった。「墓碑銘は決めてある」と記者に言った。「『彼らは力を尽くした』と刻んでもらう。さあ、あっちへ行きたまえ!」
不思議なのは、実際に誰もが力を尽くしたことだ。例外は一人も知られていない。唯一の欠点は、確かに物の言い方の欠点だけだった。この戦争について歴史的に最も目立つ事実の一つ、そして戦争の手法と民主的支持の必要性とが完全に切り離されていたことを示すのが、ワシントン当局による飛行船についての徹底した秘密保持である。準備に関する事実を、国民に一つも打ち明けようとはしなかった。議会に説明する気さえなかった。あらゆる問い合わせを握り潰し、封じた。戦争は大統領と閣僚たちによって、まったく専制的に遂行された。彼らが広報を求めるとすれば、特定地点の防衛を要求する厄介な騒ぎを、先回りして防ぐためだけだった。空中戦争において、興奮しやすく利口な国民から生じる最大の危険は、地元の利益を守るために、地元へ飛行船や飛行機を配備せよという騒々しい要求だと理解していた。手持ちの戦力では、それは国家の軍事力を致命的に分割、分散することになりかねなかった。とりわけ、ニューヨーク防衛のために時期尚早な出撃を強いられることを恐れた。ドイツ軍がまさにそこにつけこもうとすることを、予言的な洞察で見抜いていたのだ。そこで、国民の関心を防衛用の大砲へ向け、空中戦の考えからそらすために、非常な努力を払った。本当の準備は、見せかけの準備の陰に隠した。ワシントンには海軍砲の大きな備蓄があり、それらが迅速に、目立つように、報道陣の大きな注目のもと、東部の諸都市へ配られた。大部分は、脅威にさらされた人口集中地を囲む丘や目立つ高みに据えられた。当時、重砲を最も高くまで撃ち上げられるドーン式旋回砲架を、急造で改変したものに据えたのである。ドイツ航空艦隊がニューヨークに到着したとき、この砲兵力の多くはまだ据え付けが終わらず、ほとんどすべてが無防備だった。そしてそのとき、下の混み合う街路では、ニューヨークの新聞の読者たちが、驚くべき挿絵付きの、驚くべき記事を楽しんでいた。たとえば、こういうものだった――
雷撃の秘密
老科学者ついに完成
電気砲
飛行船の乗員を感電死させる
上向きの稲妻
ワシントン、五百門を
発注
ロッジ陸軍長官、大喜び
ドイツ人にはぴったりだ
これで連中も
地に足がつくだろう
大統領、公の場で喝采
この愉快な冗談に
三
ドイツ艦隊は、アメリカ海軍の惨敗の報より先にニューヨークへ着いた。到着は午後遅くで、最初に見つけたのはオーシャン・グローヴとロング・ブランチの監視員だった。南の海から急速に現れ、北西へ去っていった。旗艦はサンディ・フック監視所のほとんど真上を、急上昇しながら通過し、数分後にはニューヨーク全体がスタテン島の砲声に震えていた。
これらの砲のうちいくつか、とりわけギフォーズの砲と、マタワンを見下ろすビーコン・ヒルの砲は、きわめて巧みに扱われた。前者は距離五マイル、高度六千フィートのファーターラント号のすぐ近くで砲弾を炸裂させ、その破片で王子の前面窓のガラスが一枚割れた。突然の爆発に、バートは驚いた亀のような素早さで首を引っこめた。航空艦隊はただちに急上昇して約一万二千フィートに達し、その高度で、効き目のない砲の頭上を無傷で通過した。飛行船は前進しながら横に広がり、扁平なV字形を作った。その頂点を都市へ向け、頂点の旗艦が最も高く飛んだ。V字の両端はそれぞれプラムフィールドとジャマイカ湾の上を通った。王子はナローズ海峡のやや東へ針路を取り、アッパー湾を越え、ニューヨーク南部を制する位置、ジャージー・シティ上空に留まった。怪物たちはそこで、夕日の中に大きく、驚異的な姿を浮かべ、下空でときおり起こるロケットの爆発や砲弾の閃光など、悠然と意に介さなかった。
互いを眺める間が訪れた。しばらくは人間の無邪気さが、戦争の約束事をすっかり押し流した。下の数百万人も、上の数千人も、同じように見世物への興味に心を奪われていた。思いがけず晴れた夕方で、七千ないし八千フィートに横たわる薄い雲の帯がいくつかあるほか、澄んだ光を遮るものはなかった。風は落ち、限りなく平和で静かな夕暮れだった。遠くの大砲の重い震動と、雲の高さでたまに起こる無害な花火は、観艦式の礼砲と同じほど、殺戮や暴力、恐怖や服従とは無縁に思えた。下では、見晴らしのきく場所という場所が見物人で埋まっていた。高層建築の屋上、広場、行き交う渡し船、見やすい交差点には、どこも群衆がいた。川沿いの桟橋はすべて人でびっしり埋まり、バッテリー・パークはイースト・サイドの住民で真っ黒だった。セントラル・パークやリヴァーサイド・ドライヴ沿いの眺めのよい場所には、それぞれ近隣の街路の特色を映す人々が集まっていた。イースト川の大橋の歩道も、人が密集して通れなくなった。どこでも店主は店を、男は仕事を、女や子供は家を離れ、この驚異を見に出てきた。
「新聞より」と彼らは言った。「ずっとすごい。」
そして上からは、飛行船に乗る多くの者が、同じ好奇心で見下ろしていた。世界のどの都市も、ニューヨークほど見事な場所に置かれてはいなかった。海と断崖と川にこれほど雄大に区切られ、建築の高さが生む効果、橋やモノレールや土木技術の偉業の、複雑で巨大な姿を見せるのに、これほどよく整えられてはいなかった。ロンドンも、パリも、ベルリンも、これと比べれば、形のない低い寄せ集めだった。港はヴェネツィアのように心臓部まで入りこみ、ヴェネツィアのように、その姿は明快で、劇的で、誇らしげだった。上から見ると、這い回る汽車や車で生き生きと動き、千もの場所で、すでにちらちらと明かりが灯りはじめていた。その夕方のニューヨークは、まさしく最もよい姿、壮麗さの極みにあった。
「うわあ! なんてところだ!」とバートは言った。
あまりにも巨大で、全体としてあまりにも平和な壮麗さに満ちていたので、そこへ戦争を仕掛けることは、どうしようもなく場違いに思えた。ナショナル・ギャラリーを包囲したり、ホテルの食堂にいる善良な人々を、鎖帷子と戦斧で襲ったりするようなものだった。その全体はあまりにも大きく、複雑で、精妙な巨大さを持っていたので、これを戦争の勝負に持ちこむのは、時計の仕掛けに鉄梃を突っこむようなものだった。そして頭上の日を浴びた空に軽々と浮かび、空を満たす巨大飛行船の魚群のような群れも、同じく戦争の醜い暴力性から遠く離れて見えた。クルトにも、スモールウェイズにも、航空艦隊の中のほかの何人にかはわからないが、この相容れなさが、きわめて明瞭に感じられた。だがカール・アルベルト王子の頭の中には、英雄譚の霧がかかっていた。自分は征服者で、これは敵の都市なのだ。都市が大きければ、凱旋の栄誉も大きい。その夜、王子は途方もない歓喜を味わい、前例のないほどの力の実感に酔ったに違いない。
ついにその休止にも終わりが来た。いくつかの無線交信が満足のいく結末に至らず、艦隊と都市は、自分たちが敵対する勢力であることを思い出した。「見ろ!」と群衆は叫んだ。「見ろ!」
「何をしてるんだ?」
「何だ?」……夕闇を抜けて、五隻の攻撃飛行船が降りてきた。一隻はイースト川の海軍工廠へ、一隻は市庁舎へ、二隻はウォール街とブロードウェイ南部の大きなオフィスビルの上へ、一隻はブルックリン橋へ。仲間のあいだから、遠くの砲の危険圏を滑らかに素早く通り抜け、建物群に近い安全な高さへ降下した。その下降と同時に、街路の車両がすべて劇的なほど突然止まり、通りや家々に灯りはじめていた明かりが、また一斉に消えた。市庁舎が目を覚まし、電話で連邦軍司令部と協議し、防衛措置を取りはじめたからだった。市庁舎は飛行船を要求し、ワシントンの勧告する降伏を拒み、激しい感情と慌ただしい活動の中心になりつつあった。至るところで警察が、集まった群衆を急いで散らしはじめた。「家へ帰ってください」と言い、人から人へ、「何か起こるぞ」という言葉が伝わった。
不安の寒気が都市を走った。見慣れぬ暗闇の中、シティ・ホール・パークやユニオン・スクエアを急いで横切る人々は、兵士と大砲のぼんやりした影に出くわし、誰何され、追い返された。半時間のうちに、ニューヨークは静かな夕日と口を開けた賛嘆から、不穏で脅威に満ちた夕闇へ移っていた。
最初の死者は、飛行船が近づいたブルックリン橋からの、恐慌的な逃走の中で出た。交通が止まると、ニューヨークには異様な静けさが訪れ、周囲の丘の、役に立たない防衛砲の不穏な震動が、ますますよく聞こえるようになった。やがてその砲撃もやんだ。さらなる交渉のための間が続いた。人々は暗闇に座り、沈黙した電話に助言を求めた。そして、息を詰めて待つ静けさの中へ、大きな崩壊音と轟音が飛びこんできた。ブルックリン橋が崩れ、海軍工廠から小銃が鳴り、ウォール街と市庁舎で爆弾が炸裂した。ニューヨーク全体には、何もできず、何も理解できなかった。暗闇のニューヨークは、目を凝らし、遠い音に耳を澄ませた。やがてそれらは、始まったときと同じほど突然に消えた。「何が起きているんだろう?」
問いかけても、答えはなかった。
長く曖昧な時間が流れた。上階の窓から外を見る人々は、ドイツ飛行船の黒い船体が、すぐ近くをゆっくり、音もなく滑っていくのを見つけた。それから静かに電灯がまたつき、夜の新聞売りの叫びが街路に湧き起こった。
広大で多様な人口を構成する一人ひとりが新聞を買い、何が起きたかを知った。戦闘があり、ニューヨークは白旗を掲げたのだった。
四
ニューヨーク降伏後の痛ましい事件は、いま振り返れば、一方には科学の一世紀が生んだ近代的装置と社会条件、他方には粗野で英雄譚めいた愛国心の伝統、その衝突の、必要かつ不可避な結果にすぎなかったように思える。初め、人々は降伏という事実を、無責任な他人事として受け止めた。乗っている列車が速度を落としたとか、自分の住む市が記念碑を建てたとか、そういうことと大差なかった。
「降伏したんだって。おやまあ! 本当に?」最初の知らせは、おおむねそんなふうに迎えられた。航空艦隊が初めて現れたときと同じ、見物人の気分で受け止めたのだ。降伏の認識に感情の赤みが差すのは、ゆっくりだった。考えて初めて、自分自身に引きつけた。「おれたちが降伏したんだ!」と、あとから思い至った。「われわれのうちに、アメリカが敗れたのだ。」
それから体が熱くなり、ひりひりしはじめた。
午前一時ごろ発行された新聞には、ニューヨークの降伏条件の詳細はなく、降伏に先立つ短い戦闘がどんなものだったかについても、何の示唆もなかった。後続の版が、その欠落を埋めた。ドイツ飛行船へ食料を供給し、戦闘と北大西洋艦隊の破壊に使われた分の爆薬を補充し、四千万ドルという莫大な賠償金を払い、イースト川の小艦隊を引き渡すことに合意したと、明記された。市庁舎や海軍工廠の破壊についても、記事はますます長くなり、人々はあの短い数分間の轟音が何を意味したのか、かすかに理解しはじめた。人間が粉々に吹き飛ばされた話、限られた場所での戦いにおいて、無力な兵士たちが言い表せぬ残骸の中で、望みのない抵抗を続けた話、泣く男たちの手で旗が降ろされた話を読んだ。そしてこれら奇妙な夜中の号外には、艦隊の惨敗を伝える、ヨーロッパからの最初の短い海底電報も載っていた。ニューヨークが常に格別の誇りと愛着を寄せてきた、北大西洋艦隊の惨敗だった。ゆっくりと、一時間ごとに、集合的な意識が目を覚ました。愛国的な驚愕と屈辱の潮が満ちてきた。アメリカが災厄に見舞われたのだ。ニューヨークは突然、自分が征服者の手中にある征服された都市だと悟り、驚きは言いようのない怒りへ変わった。
その事実が人々の心に形を取るにつれ、炎が立ち上がるように、怒りに満ちた拒絶が湧き起こった。「違う!」と、夜明けに目覚めるニューヨークは叫んだ。「違う! わたしは負けていない。これは夢だ。」
夜が明けきる前に、アメリカ人の激しやすい怒りは、街全体に、感情を伝染させ合う数百万の魂の一つひとつに走っていた。それが行動になる前、形を取る前から、飛行船の男たちは、その巨大な感情の蜂起を感じ取っていた。牛や野生動物が地震の到来を感じるというように。最初に言葉と標語を与えたのは、ナイプ系の新聞だった。「われわれは同意しない」と、ただそう書いた。「われわれは裏切られた!」
至るところで男たちがそれを唱え、人から人へ伝わった。白みゆく夜明けの光の下、どの街角にも演説者が立ち、誰に止められることもなく、アメリカの精神よ立ち上がれと呼びかけ、聞く者すべてに屈辱を個人的な現実として感じさせた。五百フィート上で耳を澄ますバートには、初めはただ雑然とした物音を立てていた都市が、いまや蜂の巣のように唸っている気がした――ひどく怒った蜂の巣だった。
市庁舎と郵便局が破壊されたあと、古いパーク・ロウ・ビルの塔に白旗が掲げられ、オヘイゲン市長はそこへ赴いていた。実際には、恐怖におののくニューヨーク南部の資産家たちに急き立てられ、フォン・ヴィンターフェルトと降伏条件を交渉しに行ったのである。ファーターラント号は縄梯子で秘書官を降ろしたあと、シティ・ホール・パークを囲む新旧の大建築の上を、きわめてゆっくり旋回していた。その場所の戦闘を担当したヘルムホルツ号は、頭上の、おそらく二千フィートほどまで上昇していた。そのためバートは、この中心地で起こることを間近に見ることができた。市庁舎、裁判所、郵便局、そしてブロードウェイ西側の一群の建物は大きな損害を受け、前の三つは黒焦げの瓦礫の山だった。最初の二つでは死者はさほど多くなかったが、郵便局の破壊では、多くの少女や女性を含む大勢の職員が巻きこまれていた。白い腕章を着けた小軍団のような志願者たちが消防士のあとに入り、まだ生きていることも多い、たいていはひどく焼けただれた体を運び出して、すぐ近くの大きなモンソン・ビルへ運んでいた。至るところで消防士がせわしなく、くすぶる瓦礫へ輝く水の筋を向けていた。広場にはホースが這い、長い警官の列が、主にイースト・サイドから集まってくる黒い人の塊を、救助活動の中心から押しとどめていた。
この破壊の光景とは激烈で異様な対照をなして、すぐ近くにパーク・ロウの巨大な新聞社群があった。どこも明かりをつけて働いていた。爆弾が実際に投下されている最中にも放棄されなかった。いまは編集者も印刷機も猛烈に動き、この夜の大きく恐ろしい物語を記事にし、論評を展開し、大半の場合、飛行船の鼻先で抵抗の思想を広めていた。バートは長いこと、この冷淡なほど忙しく働く事務所が何なのかわからなかったが、やがて輪転機の音に気づき、「うわあ」と声を漏らした。
その新聞社群のさらに向こう、古いニューヨーク高架鉄道――とうの昔にモノレールへ改造されていた――のアーチに一部を隠されて、別の警官の列と、救急車と医師たちの一種の野営地があった。夜の早い時刻、ブルックリン橋の恐慌で出た死傷者の処置に追われていた。バートはこれらすべてを鳥瞰の遠近法の中で、下にある、高層建築の崖に囲まれた、不規則な形の大きな穴の中の出来事として見ていた。北にはブロードウェイの切り立つ峡谷が延び、ところどころ、興奮した演説者の周囲に群衆が集まっていた。目を上げると、ニューヨークの煙突、ケーブルの塔、屋上の空間が見え、その上には、火が荒れ狂い、水が噴き上がるところを除き、至るところで見張り、議論する人々が集まっていた。また至るところに、旗のない旗竿が立っていた。パーク・ロウの建物の上では、白い布が一枚、垂れ、はためき、また垂れた。そして、この奇妙な光景の、ものすごい灯火、ただれるような動き、濃い影の上に、冷たく公平な夜明けが訪れようとしていた。
バート・スモールウェイズにとって、これらすべては開いた丸窓の枠の中に収まっていた。暗く、手で触れられるその縁の外は、青白く、おぼろな世界だった。一晩じゅうその縁につかまり、爆発のたびに飛び上がり、震え、幻のような出来事を見ていた。高くなったり低くなったりし、ほとんど音の届かないところにいたかと思うと、崩壊音、叫び、悲鳴のすぐそばを飛んだ。暗くうめく街路の上を、低く速く飛ぶ飛行船を見た。影の中で突然赤く照らされた大建築が、爆弾の衝撃に崩れ落ちるのを見た。貪欲な大火が奇怪な速さで襲いかかるさまを、生まれて初めて目撃した。何もかもから切り離され、肉体を失ったように感じていた。ファーターラント号は爆弾一つ投げなかった。見守り、支配した。それからついに降下し、シティ・ホール・パーク上空に留まった。そこで、光を浴びる黒い塊が燃える大きなオフィスビルであり、提灯の光に照らされた灰色や白の、小さな薄い幽霊の往来が、負傷者と死者を集める仕事なのだと、冷たく、恐ろしく、徐々に理解が忍びこんできた。明るさが増すにつれ、あのひしゃげた黒いものが何を意味するのか、ますますわかってきた……。
陸地の青い霞の中から初めてニューヨークが立ち現れて以来、何時間も何時間も見つづけていた。日が出ると、耐えがたい疲労が押し寄せた。
疲れた目を、空の桃色の光へ上げ、大きなあくびをし、ひとり何かをささやきながら、船室を這うように横切って長櫃へ戻った。横になったというより、そこへ倒れ、そのままたちまち眠った。
何時間かあと、クルトはそこで、だらしなく手足を広げ、深く眠るバートを見つけた。理解するにはあまりにも複雑な時代の問題に直面した、民主的精神の、まさに生き写しだった。顔は青白く無関心で、口を大きく開け、いびきをかいていた。不快ないびきだった。
クルトは軽い嫌悪を浮かべて、しばらく見た。それから足首を蹴った。
「起きろ」と、目を見開くスモールウェイズに言った。「もっとまともな格好で寝ろ。」
バートは起き上がって目をこすった。
「また戦いが始まりました?」
「いや」とクルトは言い、疲れきって腰を下ろした。
「神よ!」と、やがて両手で顔をこすりながら言った。「冷たい風呂に入りたい! 一晩じゅう、いままで、気室の流れ弾の穴を探していたんだ。」
あくびをした。「眠らなければ。出ていってくれ、スモールウェイズ。今朝はおまえがいると我慢ならん。まったく不細工で役立たずだ。配給は食ったか? まだか! じゃあ行ってもらってこい。それから戻ってくるな。吊り廊にいろ……」
五
こうしてバートは、コーヒーと睡眠で少し元気を取り戻し、『空中戦争』への無力な加担を再開した。中尉に言われたとおり小さな吊り廊へ降り、見張りの先、いちばん端の手すりにつかまった。できるだけ目立たず、害のない、小さな生き物の切れ端に見えようと努めた。
南東からかなり強い風が吹きはじめていた。そのためファーターラント号はそちらへ船首を向けねばならず、マンハッタン島の上を行き来するあいだ、ひどく横揺れした。北西の遠くに雲が集まっていた。風に逆らうゆっくりしたスクリューの、どく、どくという振動は、全速前進のときよりずっとはっきり感じられた。ガス室の下面をこする風が、浅いさざ波を幾筋も走らせ、かすかなはためく音を立てた。舟の船首の下でさざ波が打つ音に似ていたが、それよりも弱かった。船はパーク・ロウ・ビルの仮市庁舎の上に配置され、ときおり降下して市長やワシントンとの連絡を再開した。しかし王子は落ち着きがなく、一か所に長く留まってはいられなかった。ハドソン川やイースト川の上を旋回したかと思えば、青い遠方をのぞこうとするように高く上がった。一度など、あまりに速く高く上昇したため、王子も乗員も高山病に襲われ、降りざるをえなかった。バートもそのめまいと吐き気を分かち合った。
高度の変化につれて、揺れる景色も変わった。低く近づくと、急角度の、見慣れない遠近の中に、窓や扉、街路や屋上の看板、人々、ごく細かなものまで見分けられ、屋上や街路に集まる群衆の、謎めいた振る舞いを観察できた。上昇すれば細部は縮み、街路の両側は寄り合い、眺望は広がり、人の姿は意味を失った。最高点では、凹面の立体地図のようだった。暗く密集した陸地が、至るところで輝く水に区切られ、ハドソン川は銀の槍のように、ロウアー・アイランド海峡は盾のように見えた。哲学的とはいえぬバートの頭にも、下の都市と上の艦隊の対照は、一つの対立を示した。冒険好きなアメリカ人の伝統と気質、それに対するドイツの秩序と規律の対立だった。下の巨大建築は、壮大で見事ではあったが、生存を争う密林の巨木のようだった。その絵のような壮麗さは、岩山や峡谷の偶然の造形と同じほど無計画で、まだ抑えられず広がっていく火災の煙と混乱が、その偶発性を強めていた。空には、まったく別の、はるかに秩序立った世界の存在のように、ドイツの飛行船が浮かんでいた。どれも地平線に対して同じ角度を向き、構造も外観も統一され、狼の群れのように一つの目的をもって正確に動き、最も緻密で効果的な協同を保つ配置についていた。
バートは、見えているのが艦隊の三分の一にも満たないことに気づいた。ほかは、何のためか想像もつかない任務で、大地と空の大きな円の外へ行っていた。不思議だったが、尋ねる相手はいなかった。時がたつうち、十二隻ほどが東から再び姿を現した。補給船団で物資を補い、幾機ものドラッヘンフリーガーを曳航していた。午後に近づくと天候が崩れ、南西に流れる雲が現れ、互いに寄り合い、さらに雲を生み出すように見えた。風もそちらへ回り、強まった。夕方には強風となり、激しく揺れる飛行船は風上へ進まねばならなくなった。
その日じゅう王子はワシントンと交渉し、分遣された偵察船は東部諸州を広く遠くまで捜し、航空基地らしきものを探していた。前夜に派遣された二十隻の飛行船隊は、ナイアガラへ空から降り立ち、町と発電所を押さえていた。
そのあいだに、巨大都市の反乱運動は抑えようのないものになっていた。すでに五つの大火が何エーカーもの土地を巻きこみ、着実に広がっていたにもかかわらず、ニューヨークはまだ、自分が敗れたと納得していなかった。
初め、下界の反抗心は、散発的な叫び、街頭の演説、新聞の示唆にしか表れなかった。だがやがて、朝日に照らされた都市の建築の崖の上に、点々とアメリカ国旗が現れ、ずっと明確な表現を得た。すでに降伏した都市が勇ましく旗を掲げるという行為は、多くの場合、アメリカ人の無邪気な形式軽視から生まれたのかもしれない。しかしまた多くの場合、人々が「ひと暴れしたい気分だ」ということを、意図的に示したものだったのも否定できない。
ドイツ人の規矩を重んじる感覚は、この突発事に深く傷ついた。フォン・ヴィンターフェルト伯爵はただちに市長と連絡し、この違反を指摘した。火災監視所にも、その件で指示が出された。ニューヨーク警察はたちまち大忙しとなり、旗を掲げつづけようとする熱狂した市民と、降ろせと命じられて苛立ち、困惑する警官との、愚かな争いが盛んに繰り広げられた。
問題はついに、コロンビア大学の北の街路で深刻になった。この地区を監視する飛行船の船長が降下し、モーガン・ホールに掲げられた旗へ投げ縄をかけ、旗竿から引きずり落とそうとしたらしい。その最中、大学とリヴァーサイド・ドライヴのあいだに立つ巨大な集合住宅の上階の窓から、小銃と拳銃の一斉射撃が浴びせられた。
大半は何の効果もなかったが、二、三発がガス室を貫き、一発が前部足場にいた男の手と腕を砕いた。下部吊り廊の歩哨はただちに応射し、鷲の盾に据えた機関銃も火を噴いて、たちまちそれ以上の射撃を止めた。飛行船は上昇して旗艦と市庁舎へ信号を送り、警察と民兵がただちに現場へ向けられ、この一件は終わった。
しかしすぐあとに、ニューヨークの若い社交クラブ会員たちによる、無謀な企てが続いた。愛国的で冒険的な空想に駆られ、半ダースの自動車でひそかにビーコン・ヒルへ向かい、そこに置かれたドーン式旋回砲の周囲に、驚くほどの精力で急造の砦を築きはじめた。砲はまだ、降伏時に射撃中止を命じられ、不満を募らせた砲兵たちの手にあった。この兵たちに自分たちの気概を吹きこむのは容易だった。砲兵は、自分たちの砲にはろくな機会も与えられなかったと言い張り、その威力を見せようと燃えていた。新来の者たちの指揮で、砲架の周囲に壕と土塁を設け、波形鉄板で頼りない退避壕を作った。
飛行船プロイセン号が発見したとき、彼らはちょうど装填中だった。その爆弾によって彼らも粗末な防備も粉々にされる前に、どうにか撃った一発は、ビンゲン号の中央ガス室の上で炸裂し、同船を航行不能にしてスタテン島へ落とした。大量のガスを失って木立のあいだへ降り、空になった中央のガス袋が、天蓋や花綱のように木々の上へ広がった。だが何も燃えず、乗員はすぐ修理に取りかかった。その態度は、軽率に近いほど自信に満ちていた。大半が膜の裂け目に継ぎを当てはじめる一方、六人ほどがガス本管を探して最寄りの道路へ向かい、ほどなく敵意ある群衆の捕虜となっていた。すぐ近くには何軒もの別荘風住宅があり、その住人の好意のない好奇心は、たちまち攻撃へ変わった。当時、スタテン島の大規模な多言語住民への警察の統制はひどく緩んでおり、小銃か拳銃と弾薬を持たない家はほとんどなかった。それらがやがて持ち出され、二、三発の外れ弾のあと、作業中の男のひとりが足を撃たれた。そこでドイツ人たちは縫い物と修繕をやめ、木々に身を隠して撃ち返した。
ぱちぱちという銃声は、たちまちプロイセン号とキール号を現場へ呼び寄せた。両船は少数の手榴弾で、一マイル以内の別荘をことごとく片づけた。戦闘に加わっていないアメリカ人の男、女、子供が何人も殺され、実際の襲撃者は追い払われた。しばらくは、この二隻の直接の保護のもと、修理は平穏に進んだ。だが二隻が持ち場へ戻ると、座礁したビンゲン号の周囲で、とぎれとぎれの狙撃と戦闘が再開した。それは午後じゅう続き、ついには夕方の全面的な戦闘へ溶けこんだ……。
八時ごろ、ビンゲン号は武装した群衆に突撃され、激しく無秩序な争いのあと、守備する者は全員殺された。
この二件でドイツ側が苦しんだのは、航空艦隊から有効な兵力を地上へ降ろせなかったこと、実際には兵力をまったく降ろせなかったことに起因した。飛行船には十分な上陸部隊を輸送する能力がまるでなかった。乗員は、空で操船し、戦闘を行うのにちょうど足りるだけだった。上空からなら莫大な損害を与えられた。組織ある政府なら、どんなものでもごく短時間で降伏に追いこめた。だが、下の降伏した地域を武装解除することはできず、占領などなおさらできなかった。再爆撃の脅しによって、下の当局に圧力をかけるほかなかった。それが唯一の手段だった。高度に組織され、損傷を受けていない政府と、均質で規律正しい国民であれば、平穏を保つにはそれで十分だっただろう。だがアメリカはそうではなかった。ニューヨークの政府は弱く、警察力も不十分だっただけでなく、市庁舎や郵便局、その他の中枢の破壊によって、各部分の連携が絶望的に乱されていた。路面電車も鉄道も止まり、電話網も故障して、とぎれとぎれにしか働かなかった。ドイツ軍は頭を殴り、その頭は屈服し、気を失った――だがそれは、体を頭の支配から解き放っただけだった。ニューヨークは頭のない怪物となり、もはや集団として服従できなくなっていた。至るところで反逆的に身を起こした。至るところで、自分の判断に任された当局者や役人が、その午後の武装、掲旗、熱狂に加わっていた。
六
崩れかけていた休戦を、明確な全面的破局へ変えたのは、ユニオン・スクエア上空、市庁舎の見せしめの廃墟から一マイルも離れていない場所での、ヴェッターホルン号の暗殺だった――あの行為には、それ以外の言葉はない。それは午後遅く、五時と六時のあいだに起きた。そのころには天候はひどく悪化し、飛行船は突風へ船首を向けつづけねばならず、作戦行動を妨げられていた。雹と雷を伴う突風が南微南東から次々に来た。できるだけ避けるため、航空艦隊は家々の上へ低く降り、見渡せる範囲を狭め、小銃の攻撃に身をさらしていた。
前夜、ユニオン・スクエアには大砲が一門置かれていた。砲架に据え付けられることも、まして撃たれることもなく、降伏後の暗闇の中で、弾薬などとともに、邪魔にならないよう巨大なデクスター・ビルのアーチの下へ運びこまれていた。午前遅く、何人かの愛国者がそれに目を留めた。彼らは建物の上階へ持ち上げ、屋内に据え付ける作業に取りかかった。つまり、きちんとした事務所のブラインドの陰に、隠し砲台を作ったのだ。そして子供のようにただ興奮して待ち伏せていた。ついに、不運なヴェッターホルン号の船首が、最近再建されたティファニーの尖塔の上に現れた。四分の一速力で風に逆らい、横揺れしていた。たちまち一門きりの砲台が姿を現した。飛行船の見張りには、デクスター・ビルの十階の外壁全体が崩れ落ち、下の街路で砕け、その背後の暗がりから黒い砲口がのぞくのが見えたはずだった。そのあと、おそらく砲弾が彼を直撃した。
デクスター・ビルの骨組みが崩れるまでに、砲は二発撃った。どちらもヴェッターホルン号を船首から船尾まで貫いた。船は徹底的に打ち砕かれた。重い長靴で蹴られた缶のように潰れ、前部は広場へ落ち、残りの長い船体は、軸や支索が激しく折れ、ねじれる音とともに、タマニー・ホールと第二アヴェニューへ向かう街路を横切って、崩れながら降ってきた。ガスが漏れて空気と混ざり、裂けたバロネットの空気が、しぼむガス室へ流れこんだ。そして凄まじい衝撃とともに爆発した……。
そのときファーターラント号は、ブルックリン橋の残骸の上から、市庁舎の南へ向かって風に逆らって進んでいた。砲声と、それに続くデクスター・ビル崩壊の最初の音が、クルトとスモールウェイズを船室の丸窓へ呼び寄せた。爆発する大砲の閃光を見るのには間に合った。次の瞬間、爆風で二人は窓に押しつけられ、それから船室の床を頭も足もなく転がされた。ファーターラント号は、誰かに蹴られたフットボールのように跳ねた。再び外を見たとき、ユニオン・スクエアは小さく、遠く、粉砕されていた。宇宙的な巨大さの巨人が、その上をひと転がりしたかのようだった。東側の建物は、飛行船の燃えるぼろ布と、歪む骨組みの下で、十数か所から炎を上げていた。屋根も壁もみな、ばかばかしいほど斜めになり、見ているそばから崩れていた。「うわあ!」とバートは言った。「何が起きたんです? あの人たちを見て!」
だがクルトが説明する前に、飛行船の甲高い警鐘が戦闘配置を告げ、中尉は行かなければならなかった。バートはためらい、窓を振り返りながら、考え深げに通路へ出た。出たとたん、自室から中央弾薬庫へ猛然と突進する王子に突き倒された。
バートの目に一瞬、怒りで真っ白になり、巨大な憤激を逆立て、大きな拳を振るう王子の巨体が映った。「鉄と血だ!」と王子は、罵るように叫んだ。「ああ、鉄と血だ!」
誰かがバートにつまずいて転んだ――その転び方の何かが、フォン・ヴィンターフェルトを思わせた――別の誰かは足を止め、悪意をこめて強く蹴った。それからバートは通路に身を起こし、新たに打った頬をさすり、まだ頭に巻いていた包帯を直した。「くそ王子め」と、腹に据えかねて言った。「豚ほどの行儀もありゃしねえ!」
立ち上がり、一分ほど気を落ち着けてから、小さな吊り廊への昇降口へゆっくり向かった。すると王子が戻ってくるらしい音が聞こえた。一行が全員戻ってきたのだ。バートは巣穴へ逃げる兎のように船室へ飛びこみ、怒鳴り散らす恐怖から、かろうじて逃れた。
扉を閉め、通路が静かになるのを待ち、それから窓へ行って外を見た。流れる雲が街路や広場の眺めを霞ませ、飛行船の横揺れが景色を上下に振った。何人かが走り回っていたが、地区の大部分は無人に見えた。ファーターラント号が再び降りるにつれて、街路は広がるように見え、明瞭になり、人間である小さな点々が大きくなった。やがてブロードウェイの南端上空を揺れながら進んでいた。下の点々は、もう走らず、立って見上げているとバートにはわかった。すると突然、みんなまた走りだした。
飛行機から何かが落ちた。小さく、頼りなく見えるものだった。バートの真下にある大きなアーチの近く、歩道へぶつかった。六ヤードも離れない歩道を小さな男が全力で走り、ほかに二、三人と女ひとりが車道を横切って逃げていた。妙な小人たちだった。頭のあたりはひどく小さく、肘と脚のあたりばかり忙しく動いた。その脚の動きは、まったくおかしかった。真上から短く縮めて見れば、人間に威厳はない。歩道の小男は、爆弾が脇に落ちたとき、滑稽に跳び上がった――むろん恐怖のためだろう。
すると落下点から、目もくらむ炎があらゆる方向へ噴き出し、跳び上がった小男は、一瞬、火の閃きとなって消えた――完全に消えた。車道へ走り出ていた人々は、途方もなく無様に跳ね、それからどさりと倒れて動かなくなり、裂けた服がくすぶって炎を上げた。次いでアーチの破片が落ちはじめ、建物下部の石積みが、地下室へ石炭を流しこむような轟音とともに崩れこんだ。かすかな悲鳴がバートに届き、それから人々が一群となって街路へ飛び出した。ひとりの男は足を引きずり、不器用に身振りをしていた。立ち止まり、建物へ戻りかけた。落ちてきた煉瓦の塊がぶつかり、男は投げ出され、その場にひしゃげたまま動かなくなった。埃と黒煙が街路へ流れ出し、やがて赤い炎がその中を走った……。
こうしてニューヨークの虐殺は始まった。科学時代の大都市のうち、空中戦争の巨大な力と、奇怪な限界によって苦しんだ最初の都市だった。前世紀に数限りない「未開」の都市が砲撃されたのと同じように、ニューヨークも破壊された。占領するには強すぎ、破壊を免れるために降伏するには、規律を欠き、誇りが高すぎたからである。状況がそうである以上、これは行われねばならなかった。王子が攻撃をやめ、自分の敗北を認めることは不可能であり、都市の大部分を破壊せずに屈服させることも不可能だった。この破局は、科学を戦争へ応用したことで生まれた状況の、論理的な帰結だった。大都市の破壊は避けられなかった。王子はこの板挟みに激しく苛立ちながらも、虐殺においてさえ節度を保とうとした。人命の浪費も爆薬の消費も最小限に抑えながら、忘れがたい教訓を与えようとした。その夜は、ブロードウェイだけを破壊するつもりだった。ファーターラント号を先頭に、航空艦隊がこの大通りの道筋に沿って縦列で飛び、爆弾を落とすよう命じた。こうしてわれらがバート・スモールウェイズは、世界史上、最も冷血な殺戮の一つに加わることになった。興奮してもおらず、弾丸に当たるごくわずかな可能性を除けば危険にもさらされていない男たちが、下の家々と群衆へ、死と破壊を注いだのである。
飛行船が揺れ、あおられるなか、バートは丸窓の枠にしがみつき、いまは風に追われて降る小雨越しに、夕闇の街路を見下ろした。家から人が走り出すのを見た。建物が崩れ、火が生まれるのを見た。飛行船は進みながら、子供が積み木と厚紙の街を壊すように都市を粉砕した。その下に、瓦礫と燃えさかる大火、積み重なり、散らばる死者を残した。男も女も子供も入り混じっていた。まるで、ただのムーア人か、ズールー人か、中国人ででもあるかのように。ニューヨーク南部はたちまち真紅の炎の炉となり、逃げ道はなかった。路面電車も、鉄道も、渡し船も、すべて止まっていた。薄暗い混乱の中を逃げ惑う人々の道を照らすものは、燃える火の光以外、何もなかった。下にいることがどういうことなのか、バートは垣間見た――ほんの垣間見た。そして突然、信じがたい発見のように思い至った。こういう災厄は、いまや、この異国の、奇妙で巨大なニューヨークだけでなく、ロンドンでも――バン・ヒルでも起こりうるのだ! 銀色の海に浮かぶ小さな島の、安全を免れていた時代は終わったのだ。もはや世界のどこにも、スモールウェイズのような者が誇らしげに顔を上げ、戦争と強硬な外交政策に賛成票を投じながら、このような恐ろしい出来事からは安全でいられる場所など、残っていないのだ。
第七章 航行不能となったファーターラント号
一
そしてマンハッタン島の炎の上で、戦いが始まった。史上初の空中戦である。アメリカ側は、待ちの一手がいかに高くつくかを悟り、持てる全戦力を投じて攻撃に出た。この狂える鉄血の王子から、炎と死から、まだニューヨークを救えるかもしれないという、一縷の望みにかけたのだ。
薄暮のなか、雷鳴と雨に包まれ、猛烈な風の翼に乗って、アメリカ軍はドイツ軍に襲いかかった。ワシントンとフィラデルフィアの造船場から、二個飛行隊が全速力で飛来したのだった。トレントン近郊に哨戒中の飛行船が一隻いなかったら、奇襲は完全に成功していただろう。
破壊に倦み疲れ、弾薬も半ば尽きたドイツ軍は、風上へ船首を向けていたところへ、この襲来の報を受けた。ニューヨークは南東の彼方に置き去りにしてきた。闇に沈んだ都市に、炎の醜悪な赤い傷痕が一本刻まれていた。飛行船はどれも横揺れし、よろめいていた。激しい雹の嵐にたたき落とされては、必死に高度を取り戻さねばならず、空気は身を切るほど冷たくなっていた。王子が地表近くまで降下して銅製の避雷鎖を垂らすよう命じかけたとき、飛行機の襲撃が伝えられた。王子は艦隊を南向きの横一列に並べ、ドラッヘンフリーガーに搭乗員を乗せて発進に備えさせると、雨と闇を抜け、凍てつく澄明な上空へ一斉に上昇するよう命じた。
何が迫っているのか、バートが理解するまでには時間がかかった。そのときバートは食堂に立っていて、夕食が配られていた。バタリッジの上着と手袋をまた身につけ、そのうえ毛布まで体に巻きつけていた。パンをスープに浸し、大きくかじっていた。両脚を広げ、仕切り壁に寄りかかって、飛行船の縦揺れと横揺れに耐えていた。周囲の男たちは疲れ、気落ちした様子だった。口をきく者も少しはいたが、大半はむっつりと思いに沈み、一人か二人は空酔いしていた。みな、夕方の殺戮のあとに生じた、あの独特な見放された気分を分かち合っているようだった。足下には陸がある。だが、踏みにじられた人類は、海よりもなお敵意に満ちた存在となっていた。
そこへ知らせが飛び込んできた。赤ら顔でがっしりした、薄い色のまつげと傷痕のある男が戸口に現れ、ドイツ語で何か叫んだ。一同が明らかにぎょっとした。何を言われたのか一言もわからなかったが、空気の変化はバートにも衝撃として伝わった。告知のあと、一瞬の沈黙があり、それから質問や提案がどっと噴き出した。空酔いしていた者まで顔を紅潮させて口を開いた。数分間、食堂は狂乱のるつぼと化した。そして、知らせを裏づけるように、部署につけと命じる甲高いベルが鳴り響いた。
舞台の早変わりさながら、バートはたちまち一人取り残された。
「何だよ?」半ば察しながらも、そう言った。
残りのスープを一息に飲み干すと、揺れる通路を駆け抜け、しっかりつかまりながら、梯子を伝って小さな張り出し通路へ降りた。ホースから冷水を浴びせられたように、風雨がたたきつけてきた。飛行船は大気を相手に、新手の柔術でも仕掛けているようだった。片手に渾身の力をこめてつかまり、毛布をいっそうきつく身に寄せた。濡れた薄闇のなかで翻弄され、目に入るものといえば、流れ過ぎる霧ばかりだった。頭上の飛行船には暖かな明かりが灯り、持ち場へ向かう男たちが忙しく動いていた。と、突然明かりが消え、ファーターラント号は跳ね、ねじれ、奇妙に身をくねらせながら、大気を突き上がりはじめた。
船が大きく傾いた拍子に、すぐ下で大きな建物がいくつも燃えているのがちらりと見えた。炎は震えるアカンサスの葉飾りのようだった。ついで、吹き荒れる風雨の向こうに、別の飛行船がネズミイルカのように身をうねらせながら、やはり上昇していくのがぼんやり見えた。やがて雲がその船をしばし呑みこみ、ふたたび姿を見せたときには、流れる風雨のなかの、黒い鯨のような怪物になっていた。あたりには、はためく音や笛のような音、空ろな叫びや物音が突風とともに満ちていた。風に殴られ、頭が混乱した。何度も意識がひとつに凝り固まり、見ることも聞くこともなく、ただ釣り合いを保ち、しがみつくばかりになった。
「うわっ!」
頭上の広大な闇から何かが脇を落ちていき、斜め下へ走って、下方の荒れ狂う空に消えた。ドイツ軍のドラッヘンフリーガーだった。あまりの速さに、操縦輪を握って小さくうずくまる飛行士の黒い姿が、一瞬わかっただけだった。操縦の一手だったのかもしれないが、どう見ても墜落だった。
「ひええ!」とバートは言った。
前方の暗闇のどこかで、砲が「ポン、ポン、ポン」と鳴った。突然、ぞっとするほど激しくファーターラント号が傾き、バートも歩哨も命がけで手すりにしがみついた。「ドン!」頭の真上から巨大な衝撃が襲い、ふたたび船が大きく横転した。周囲で渦巻く雲は、見えない閃光を受けて赤く不気味に輝き、途方もない深淵をあらわにした。手すりが真上へ回り、バートはそれをつかんだまま、宙ぶらりんになった。
しばらく、バートの心も体も、しがみつくことにすべてを奪われた。「船室に戻るぞ」と言ったのは、飛行船が姿勢を立て直し、張り出し通路の床が足の下に戻ったときだった。用心しながら梯子へ近づきはじめた。「ひゃああっ!」通路全体が前方へ跳ね上がり、狂った馬のように急降下したので、思わず叫んだ。
パシッ! ドン! ドン! ドン! この小さな銃声と爆発音の連なりに、間髪を入れず、震える白い稲妻の大火炎が続いた。周囲を包み、呑みこみ、何もかもを圧する巨大な光。そして、ひとつの世界が破裂したような雷鳴。
轟音の直前の一瞬、宇宙は影ひとつない眩光のなかで、ぴたりと止まったように見えた。
そのとき、アメリカ軍の飛行機が見えた。閃光のなかで、機体は完全に静止していた。プロペラさえ止まり、人々は硬直した人形だった。(それほど近く、乗っている人間まではっきり見えたのだ。)尾部が下がり、機体全体が横に傾いていた。コルト=コバーン=ラングレー式で、上向きに反った二段の翼と前方のプロペラを備え、人々は網をかぶせた舟形の胴体に乗っていた。その軽く細長い胴体の両脇から、連発銃が突き出ていた。すべてが照らし出されたその瞬間、ひときわ奇妙で驚くべきものがあった。左の上翼が、煙を含んだ赤い炎を上げ、下へ向かって燃え進んでいたのだ。だが、この出現で最も驚くべきことは、それではなかった。飛行機と、その五百ヤード下にいるドイツ軍の飛行船が、まるで稲妻の糸に貫かれていた。稲妻はその二つを捉えるために進路を曲げたかのようだった。そして巨大な翼の角という角、突端という突端から、小さな棘の木に似た枝分かれする電光が、四方へ流れ出していた。
バートはそれを一枚の絵として見た。風に引き裂かれた薄霧のベールに、わずかにぼかされた絵だった。
閃光に続いた雷鳴は、光そのものの一部のようだった。あの一瞬、バートが耳をつぶされたのか、目をくらまされたのか、そのどちらとも言いがたい。
そして闇、完全な闇。重い爆発音がひとつ。それから、か細い声々が、下の深淵へ泣き叫びながら落ちていった。
二
そのあと飛行船は、長く深く揺れつづけた。バートは船室へ戻ろうと必死にもがきはじめた。ずぶ濡れで、凍え、言いようもなく怯え、今では空酔いもかなりひどかった。膝にも手にも力がなくなり、足は踏みしめる金属の上で氷のようにつるつる滑る気がした。だが、それは通路に薄氷が張っていたためだった。
梯子を上って飛行船のなかへ戻るまで、どれほどかかったのか、ついにわからなかった。だが、のちに夢であの体験を思い返すと、何時間にもわたったように思えた。下にも上にも周囲にも、深淵があった。風が吠え、暗い雪片が渦を巻く、おぞましい深淵。そのすべてから身を守ってくれるのは、小さな金属の格子床と手すりだけだった。しかも、その格子と手すりは、バートに狂おしい怒りを燃やし、なんとか引きはがして、荒れ狂う空間へ投げ捨てたがっているようだった。
一度、耳の脇を弾丸が裂いていき、雲と雪片が閃光に照らされた気がした。だが、どんな新たな襲撃者が虚空を回って通り過ぎたのか、顔を向けようともしなかった。通路へ入りたい! 通路へ入りたい! 通路へ入りたい! しがみつくこの腕はもつのか、それとも力が尽きて折れてしまうのか。ひとつかみの雹が顔にぶつかり、しばらく息もできず、意識もほとんど遠のいた。しっかりつかまれ、バート! また力を振り絞った。
ようやく通路のなかに入り、途方もない安堵と暖かさを覚えた。だが通路はサイコロの筒のように振る舞い、バートをがらがら振り回して、また外へ投げ出すつもりらしかった。本能のまま、ひきつるようにしがみつき、通路の先が下へ傾くのを待った。その瞬間、船室へ向かって少し駆け、前方が上がるとまたしがみついた。
やった! 船室に入れた!
扉をぴしゃりと閉めたあとのしばらく、バートは人間ではなく、空酔いの症状そのものだった。しがみつかずに済む、体を固定できる場所へ入りたかった。物入れを開け、雑多な品々の間へ潜りこみ、力なく手足を投げ出した。頭は片側へ、また反対側へとぶつかった。蓋がカチリと閉じた。もう何が起きていようと、どうでもよかった。誰が誰と戦い、どんな弾丸が飛び、何が爆発していようと知ったことではなかった。今に撃たれようが、粉々になろうが、どうでもよかった。弱々しい、言葉にもならぬ怒りと絶望が、体のなかに満ちていた。「ばかげてる!」それが人間の事業、冒険、戦争、そして自分を巻きこんだ数々の偶然に対する、すべてを言い尽くした評言だった。「ばかげてる! ううっ!」
この全面的な断罪には、宇宙の秩序も含まれていた。死んでしまいたかった。
やがてファーターラント号が、下層の荒れ狂う気流を抜けて星空へ出たことも、二機の飛行機に旋回されながら戦ったことも、バートは見なかった。最後尾のガス室を撃ち抜かれ、炸裂弾で追い払い、戦いながら逃走に移ったことも知らなかった。
この驚くべき夜の鳥たちの疾駆と急襲、その英雄的な突撃と自己犠牲は、すべてバートのあずかり知らぬことだった。ファーターラント号は体当たりを受け、しばし破滅の瀬戸際にあった。砕けたプロペラにアメリカ軍の飛行機が絡みつき、アメリカ兵たちが乗り移ろうとよじ登るなか、船は急速に沈下した。バートには何の意味もなかった。ただ激しい揺れとして感じられただけだ。ばかげてる! 乗員の大半が撃たれるか落下するかして、アメリカの飛行船がとうとう離れ落ちたときも、物入れのなかのバートにわかったのは、ファーターラント号がぞっとするほど急に跳ね上がったことだけだった。
だが、そのあと無限の安堵が、信じがたいほど幸福な安堵が訪れた。横揺れも縦揺れも、もみ合いも止んだ。一瞬にして、完全に止んだ。ファーターラント号は、もはや暴風と戦っていなかった。打ち砕かれ、爆発した機関は、もう脈打たなかった。航行不能となった船は、気球のように滑らかに風に流されていた。風に広げられた、ぼろぼろの、巨大な空中残骸の雲だった。
バートにとっては、一連の不快な感覚が終わった、それだけのことだった。飛行船に何が起きたのか、戦いがどうなったのか、知りたいとも思わなかった。揺れと翻弄と吐き気がまた戻ってくるのではないかと、長いあいだ身構えて横になっていた。そうして物入れのなかに押しこめられたまま、やがて眠りに落ちた。
三
目を覚ますと静かだったが、ひどく息苦しく、同時にひどく寒かった。いったいどこにいるのか、まるで思い出せなかった。頭が痛み、息が詰まった。エドナや砂漠のダルウィーシュたちの、とりとめのない夢を見ていた。爆竹とベンガル花火の光が飛び交う空の上を、ひどく危なっかしい格好で自転車に乗っていた。そして王子とバタリッジ氏を混ぜ合わせたような人物を、大いにいらだたせていた。それから、どういうわけかエドナと自分は、互いを求めて哀れっぽく泣きはじめた。そうして、まつげを濡らしたまま、この物入れの息の詰まる暗闇に目覚めたのだった。もう二度とエドナには会えない。もう二度とエドナには会えない。
ここはバン・ヒルの坂下にある、自転車店の裏の寝室に違いないと思った。爆弾によって壮麗な都市が、信じられないほど大きくすばらしい都市が壊されていくのを見たのは、ただ、とりわけ鮮やかな夢を見ただけなのだ。そう確信した。
「グラブ!」話して聞かせたくて、呼びかけた。
返事のない静けさ、自分の声に物入れが返す鈍い響き、息苦しい空気。それらが重なって、別の考えが動きだした。手足を持ち上げると、びくともしないものに突き当たった。棺桶のなかだ! 生き埋めにされたのだ! たちまち狂乱の恐怖に屈した。「助けてくれ!」と叫んだ。「助けてくれ!」足でどんどんたたき、蹴り、もがいた。「出してくれ! 出してくれ!」
数秒のあいだ、この耐えがたい恐怖と格闘していると、棺桶だと思っていたものの側面が突然開き、明るいところへ飛び出した。ついで、クッション張りらしい床の上をクルトと一緒に転がり、さんざん殴られ、怒鳴られた。
バートは起き上がった。頭の包帯が緩んで片目にかぶさっていたので、丸ごとむしり取った。一ヤードほど向こうでは、クルトも身を起こしていた。相変わらず血色のよい顔で、毛布にくるまり、膝にはアルミニウムの潜水用ヘルメットを載せていた。厳しい顔でバートを見つめ、柔らかな無精ひげの生えた顎をさすっていた。二人は深紅のクッションに覆われた斜めの床に座っていた。頭上には、横に長い、低い地下室の跳ね蓋のような開口部があった。バートは頭を働かせ、半ばひっくり返った船室の扉なのだと悟った。実際、船室全体が横倒しになっていた。
「いったいどういうつもりだ、スモールウェイズ?」とクルトは言った。「あの物入れから飛び出してくるなんて。ほかの連中と一緒に船外へ落ちたとばかり思っていたぞ。どこにいた?」
「どうしたんです?」とバートは尋ねた。
「飛行船のこっちの端が上になった。それ以外は、たいてい下だ。」
「戦いがあったんですか?」
「あった。」
「どっちが勝ったんです?」
「新聞を読んでいないんだよ、スモールウェイズ。終わる前に失礼したからね。壊れて操縦が利かなくなり、同僚たちは――僚船と言うべきか――ほとんどが忙しすぎて、われわれどころではなかった。そこへ風に吹き飛ばされた――今どこへ吹き流されているのかは、神のみぞ知るだ。時速八十マイルほどで、戦場から真っすぐ追い出された。いやはや、すさまじい風だった! すさまじい戦いだった! その結果がこれだ!」
「ここはどこです?」
「空中だ、スモールウェイズ。空中だよ! また地面に降りたら、脚をどう使っていいかわからなくなっているぞ。」
「でも、下はどこなんです?」
「わかるかぎりではカナダだ。それにしても、陰気で、何もなくて、人を寄せつけない土地に見えるな。」
「でも、どうしてちゃんとした向きになってないんです?」
クルトはしばらく答えなかった。
「最後に覚えてるのは、稲妻の光で飛行機みたいなのが見えたことです」とバートは言った。「いやもう、ひどいもんでした。大砲は鳴る! 何かが爆発する! 雲だの雹だの。揺すられて、放り回されて。怖くて、どうにもならなくて――気持ち悪くて。戦いがどうなったか、わからないんですね?」
「まったくね。私は分隊と一緒にあの潜水服を着て、ガス室のなかへ上がっていた。穴をふさぐ絹布を持ってね。外のことは、稲妻の光以外、何も見えなかった。アメリカの飛行機は一機も見ていない。ガス室を貫いて弾が光るのを見ては、裂け目へ人をやっただけだ。少し火もついた――大したことはないがね。ひどく濡れていたから、どかんといく前に、しゅうしゅういって消えた。そこへ、敵の忌々しいやつが一機、空から降ってきて体当たりした。感じなかったか?」
「何もかも感じましたよ」とバートは言った。「これっていう衝撃は覚えてませんけど――」
「わざとやったのなら、よほど追いつめられていたに違いない。刃物みたいに切りこんできて、ニシンの腹を裂くように後部のガス室をずたずたにした。機関もプロペラもぐしゃぐしゃだ。向こうが離れ落ちたとき、機関の大半も落ちた――そうでなければ地面まで落ちていた――だが、残りはぶら下がっているような状態だ。それで、われわれは天に向かって鼻を上げ、そのままになった。あちこちから十一人が転がり落ちたし、気の毒なヴィンターフェルト老は、王子の船室の扉から海図室へ落ちて、足首を折った。電気設備も撃ち壊されたか、もぎ取られたかした――どうなったのか誰も知らん。これが現状だよ、スモールウェイズ。われわれはただの気球よろしく、自然の力に任せて、ほぼ真北へ空を流されている――たぶん北極まで行くのだろう。アメリカがどんな飛行機を持っているのか、それに関することは何ひとつわからん。案外、われわれが全滅させたのかもしれない。一機はこっちに絡みつき、一機は雷に打たれ、三機目はひっくり返ったのを見た者がいる。どうやら、ふざけてやったらしい。とにかく、ずいぶん景気よく失われたわけだ。こっちもドラッヘンフリーガーを大半失った。夜のなかへ、つるつる滑っていった。安定性がないのさ。それだけだ。勝ったのか負けたのかもわからない。大英帝国ともう戦争中なのか、まだ平時なのかさえわからない。だから、うかつに降りられない。何をしているのか、これから何をするのか、何もわからない。わがナポレオンは船首で一人きりだ。おそらく作戦を練り直しているのだろう。ニューヨークがわれわれのモスクワだったかどうかは、いずれわかる[訳注:ナポレオンのロシア遠征は、モスクワ占領後の撤退によって破局に至った]。まったく大いに暴れて、際限なく人を殺したものだ! 戦争! 崇高なる戦争! 今朝はもううんざりだ。つるつるの仕切り壁ではなく、ちゃんとした向きの部屋に座りたい。私は文明人なんだ。老アルブレヒトや、バルバロッサ号のことばかり考えてしまう……。体を洗って、優しい言葉をかけてもらって、静かな家にいたい気分だ。おまえを見ると、体を洗いたいことだけは確信できる。まったく!」――激しいあくびを押し殺した――「なんてざまだ。ロンドン下町育ちの、おたまじゃくしみたいなちびの悪党だな!」
「何か食べられますか?」とバートは尋ねた。
「神のみぞ知る!」とクルトは答えた。
しばらくバートを眺め、考えこんでいた。「私の見るところだが、スモールウェイズ」と言った。「王子は、今度おまえを思い出したら、船外へ放り出したくなるだろう。顔を見れば、まず間違いない……。何しろ、おまえは _重し_ として乗りこんだわけだからな……。しかも、そう遠くないうちに、船を大幅に軽くしなければならない。私の見込み違いでなければ、王子はじきに目を覚まし、猛烈な勢いで何かをやりはじめる……。私はおまえが気に入ったよ。自分のなかのイギリス人の血のせいだな。おまえは妙なちび助だ。空をひゅうっと落ちていくのは見たくない……。役に立つところを見せたほうがいいぞ、スモールウェイズ。私の分隊に徴用することにしよう。働いてもらうぞ。ひどく気を利かせてもらわなくてはならん。それに、少々逆さまにぶら下がることにもなる。それでも、おまえにはそれがいちばん見込みのある道だ。この航海では、もう長く客を乗せてはいられまい。重しは船外へ捨てる――すぐにも着地して戦争捕虜になりたいのでなければね。ともかく王子は、それだけはしない。最後まで勝負を捨てない男だ。」
四
扉の裏にまだ固定されていた折り畳み椅子を使い、二人は窓まで上がって交互に外をのぞいた。下にはまばらな森のある土地が広がっていた。鉄道も道路もなく、人の住むしるしは、ところどころに見えるだけだった。やがてラッパが鳴り、クルトは食事の合図だと教えた。二人は扉を抜け、ほぼ垂直になった通路を、かなり苦労してよじ登った。床の換気孔に指先とつま先を必死に引っかけて進んだ。給仕たちは、火を使わない保温器具が無事なのを見つけており、士官には熱いココアが、兵には熱いスープが用意されていた。
バートには、この体験の奇妙さがあまりにも強烈で、怖がる余地さえなかった。実際、今は恐怖より興味のほうがはるかに大きかった。一夜のうちに、恐怖と絶望のどん底に足がついたようだった。自分はたぶん、まもなく殺される。この奇妙な空の旅は、まず間違いなく死への道行きなのだ。そんな考えに慣れはじめていた。どんな人間も、永遠に怯えつづけることはできない。恐怖はついには心の奥へ退き、受け入れられ、棚上げされ、片づけられる。バートはスープを前にしゃがみこみ、パンを浸して食べながら、仲間たちを眺めた。みな黄ばんだような顔で薄汚れ、四日分のひげを伸ばし、遭難船の乗員らしく、疲れた体を思い思いに寄せていた。ほとんど口をきかなかった。事態に当惑するばかりで、考えなど浮かびようもなかった。三人は戦闘中、船が跳ね上がった際にけがをし、一人は銃創に包帯を巻いていた。このひと握りの男たちが、前例のない規模の殺人と虐殺を犯したとは、信じがたかった。スープのカップを手に、ガスのクッションで覆われた斜めの仕切り壁にしゃがんでいる者たちは、誰一人、本当にそんな罪を犯したようには見えず、むやみに犬を傷つけることさえできそうになかった。しっかりした大地に建つ居心地のよい山小屋、丁寧に耕された畑、金髪の妻、陽気な祝い事――誰もが、明らかにそういうもののために生まれてきた人間だった。空中戦の第一報を兵員食堂に持ってきた、薄い色のまつげの、赤ら顔で頑丈な男は、スープを飲み終え、母親のように気遣わしげな顔で、腕をくじいた若者の包帯を巻き直していた。
最後のパンを残りのスープに崩し入れ、少しでも長くもたせようとしていたバートは、ふと、皆が下向きに開いた戸口に垂れている一対の足を見ていることに気づいた。クルトが現れ、蝶番のところにまたがってしゃがんだ。どういう不思議な方法を使ったのか、ひげを剃り、薄い金髪をきちんとなでつけていた。驚くほど天使めいて見えた。「王子殿下だ」と言った。
もう一足の長靴が続いた。扉の枠を探ろうと、堂々たる大きな身振りで足を動かしていた。クルトが足場へ導くと、王子は滑り降り、戸口にまたがった。ひげを剃り、服にブラシをかけ、口ひげを蜜蝋で固めた、清潔で、大きく、恐ろしい王子だった。兵たちもバートも立ち上がり、敬礼した。
王子は馬上の人のような姿勢で一同を見渡した。その隣に船長の頭が現れた。
そこでバートに、恐ろしい一瞬が訪れた。王子の青く燃える目がバートに据えられ、太い指が向けられ、質問が発せられた。クルトが割って入り、説明した。
「そうか」と王子は言い、バートの件は片づいた。
それから王子は、片手で蝶番をつかんで体を支え、もう一方の手で多彩な大ぶりの身振りをしながら、短く勇壮な言葉で兵たちに語りかけた。何を言ったのかバートにはわからなかったが、皆の態度が変わり、背筋が伸びるのはわかった。王子の演説の合間に、賛同の声が上がりはじめた。最後には指導者が歌いだし、全員が唱和した。「神はわが堅き砦」――深く力強い声が響き、士気は大いに高まった。世界史上最も残酷な爆撃を行ったあげく、航行不能に陥り、戦場から吹き飛ばされ、半ば転覆して沈下中の傷ついた飛行船には、あまりにも不似合いな歌だった。それでも、途方もなく人を奮い立たせた。バートも深く心を動かされた。ルターの偉大な賛美歌の歌詞は一言も歌えなかったが、口を開け、ところどころ調子の合う、低く大きな声を出した……。
はるか下では、キリスト教徒になった混血の木こりたちの、小さな野営地に、この深い合唱が届いた。朝食中だったが、みな喜んで飛び出し、キリスト再臨を迎えるつもりでいた。暴風に流される、砕けてねじれたファーターラント号を見上げ、言葉も出ないほど驚いた。実に多くの点で、それは想像していた再臨に似ていた。だがまた、実に多くの点で似ていなかった。畏怖と、言い表せない戸惑いに打たれ、その通過を見つめた。賛美歌が止んだ。それから長い間を置いて、天から声が降ってきた。「こごは、なんという場所か。なんという?」
誰も答えなかった。問いかけは繰り返されたが、そもそも意味がわからなかった。
やがて怪物は松林の尾根を越えて北へ流れ、見えなくなった。人々は熱のこもった長い論争を始めた……。
賛美歌が終わった。王子の脚はまた通路の上方へ消え、誰もが勇ましい働きと勝利に向け、きびきびと身構えた。「スモールウェイズ!」クルトが叫んだ。「こっちへ来い!」
五
こうしてバートは、クルトの指揮のもと、初めて空の水夫の仕事を経験した。
ファーターラント号の船長が直面していた当面の課題は、きわめて単純だった。浮いていなければならない。風は初めほど激しくはなくなっていたが、それでも、この扱いにくい巨大な塊を着地させるには、きわめて危険な強さで吹いていた。たとえ王子が、人の住む土地に降りて捕らわれる危険を冒してもよいと思ったとしても、である。風が収まるまで飛行船を空にとどめ、そのあと、できればこの地方の人里離れた場所へ降下し、修理するか、捜索に来る僚船の救援を待つ必要があった。そのためには重量を捨てなければならなかった。クルトは十二人ほどの兵を与えられ、しぼんだ気嚢の残骸へ降りて、船が沈下するにつれ、少しずつ切り離すよう命じられた。こうしてバートは鋭い舶刀を持たされ、地上四千フィートの網に取りつき、英語ならクルトの言葉を理解しようと努め、ドイツ語なら意味を察しようと努めることになった。
目のくらむ仕事だった。とはいえ、暖かい部屋に座る、少々栄養のよすぎる読者が想像するほどではなかった。バートは案外平気で、下に広がる亜寒帯の荒野を見下ろすことができた。そこにはもう人の住むしるしはなく、岩の崖と滝、幅広く渦巻く寂寥とした川があり、日が進むにつれて、木々も茂みもますます低く、みすぼらしくなっていった。丘のあちこちには、斑に、あるいはくぼみに、雪が残っていた。そのすべてを足下に、バートは網にしっかりしがみつき、丈夫で滑りやすい油引きの絹布を切り払った。やがて一同は、骨組みから曲がった鋼の棒と針金のもつれを切り離し、大きな絹の袋の塊とともに落とした。これには肝を冷やした。邪魔な重荷が離れた瞬間、飛行船は跳ね上がった。カナダを丸ごと落としたような気さえした。残骸は空中で広がり、浮かぶように降りていき、峡谷の縁にぶつかって、嫌な具合にねじれた。バートは凍った猿のように綱にしがみつき、五分間、身じろぎもしなかった。
だが、この危険な仕事には、ひどく胸の躍るものがあった。そして何よりも、仲間意識があった。もう、皆のなかで孤立し、不信を抱くよそ者ではなかった。同じ目的を持ち、親しみのある競争心を燃やして、自分の分担を誰よりも早く片づけようと働いた。それに、これまで心の底に潜んでいただけのクルトへの尊敬と愛着が、大きく育った。仕事を指揮するクルトは、まったく見事だった。機転が利き、力を貸し、気を配り、すばやく動いた。どこにでもいるようだった。血色のよさも、軽快で陽気な物腰も、忘れさせた。困るとすぐそばに来て、確かな、自信に満ちた助言をくれた。部下たちにとって、兄のような存在だった。
一同は合わせて、かなり大きな残骸を三つ切り離した。それからバートは、喜んで船室へよじ登り、第二の作業班と交替した。仲間とともに熱いコーヒーを支給された。実際、手袋をしていてさえ、凍える仕事だった。みな座って飲みながら、満足げに互いを見た。一人がドイツ語で親しげに話しかけ、バートはうなずいて笑った。足首が凍りつきそうだったので、クルトを介し、負傷者の一人から長靴を一足もらうことができた。
午後には風がずっと弱まり、小さな雪片がまばらに漂いはじめた。下にも雪がいっそう広がり、木といえば、低い谷間にまとまって生える松とトウヒだけになった。クルトは三人を連れて、まだ無事なガス室へ入り、ある程度ガスを抜くと、降下に備えて一連の裂開弁を用意した。また、弾薬庫に残っていた爆弾と爆薬はすべて船外へ捨てられ、下の荒野へ落ちて、大きな爆音を上げた。そして午後四時ごろ、雪を頂く崖を望む広い岩原で、ファーターラント号は裂開弁を開き、着地した。
これは必然的に、難しく手荒な仕事となった。ファーターラント号は、気球としての必要に応じて設計されたものではなかったからだ。船長はひとつの弁を早く開きすぎ、ほかの弁は開くのが遅すぎた。船はどしんと落ち、不格好に跳ね返り、吊り下げられた通路を前部にたたきつけ、フォン・ヴィンターフェルトに致命傷を負わせた。それからしばらく地面を引きずり、崩れた山となって倒れた。船首の防盾と機関銃は、下にあるものの上へ転がりこんだ。飛び散る棒と針金で二人が重傷を負った。一人は脚を折り、一人は内臓を傷めた。バートも一時、船の側面の下に押さえこまれた。ようやく這い出してあたりを見渡すと、六日前の夕方、あれほど華々しくフランケンを出発した巨大な黒鷲が、しぼんだ姿で、飛行船の船室と、この寂しい土地の霜に侵された岩々を覆っていた。まるで誰かにつかまって首をひねられ、脇へ放り出されたような、何とも気の毒な鳥に見えた。乗員の何人かは黙って立ち尽くし、残骸と、落ちこんだ先の無人の荒野を眺めていた。ほかの者は、空になったガス室がつくる急ごしらえの天幕の下で忙しく働いていた。王子は少し離れたところへ行き、双眼鏡で遠くの高地を調べていた。そこは古い海食崖のように見えた。あちこちに小さな針葉樹の群れがあり、二か所には高い滝があった。近くの地面には氷河に磨かれた巨石が散らばり、密に寄り集まった茎と、柄のない花をつける、背の低い高山植物しか育っていなかった。川は見えなかったが、すぐ近くの急流の轟きとせせらぎが、空気を満たしていた。荒涼とした、身を刺す風が吹いていた。ときおり雪片が流れ過ぎた。バートの足下にある、弾力のない凍土は、浮力に支えられた飛行船のあとでは、妙に死んで重く感じられた。
六
こうして偉大にして強大なるカール・アルベルト王子は、自らがその勃発に中心的な役割を果たした途方もない戦争から、しばし締め出されることになった。戦いの偶然と天候が手を組み、王子をラブラドールに置き去りにした。戦争と驚異が世界を席巻するあいだ、王子はそこで、長い六日間を怒り狂って過ごした。国と国が立ち上がってぶつかり、航空艦隊と航空艦隊が組み合い、都市は燃え、無数の人間が死んだ。だがラブラドールでは、わずかな槌音を除けば、世界は平和なのだと夢見ることもできた。
そこに野営地があった。気球部分の絹布で覆われた船室は、遠くから見ると、とりわけ大きなジプシーの天幕のようだった。働ける者は総出で、骨組みの鋼材を使ってマストを建てていた。ファーターラント号の電気技師たちが、そこから無線電信装置の長い導線を吊るし、王子をふたたび世界に結びつけるためだった。いつまでたってもマストを立てられそうに思えないこともあった。一行は初めから困難に苦しんだ。食糧はさほど潤沢ではなく、配給を減らされた。厚手の服はあったが、この荒野の刺すような風と、容赦ない自然の猛威をしのぐには不十分だった。最初の夜は暗闇のなか、火もなしで過ごした。動力を供給していた機関は壊れ、はるか南へ落ちてしまっていた。しかも、誰一人マッチを持っていなかった。マッチの携帯は死刑に値したのだ。弾薬庫の爆薬もすべて投棄されていた。明け方近くになってようやく、最初にバートに船室を取られた、あの鳥に似た顔の男が、決闘用の拳銃二丁と弾薬を持っていると告白し、それで火を起こすことができた。その後、機関銃の物入れにも、未使用の弾薬が残っているとわかった。
苦しい夜で、ほとんど果てがないように思えた。眠れた者はほぼいなかった。負傷者は七人いた。フォン・ヴィンターフェルトは頭を傷め、震えながらうわごとを言い、介抱する者ともみ合い、ニューヨークの炎上について奇妙なことを叫んでいた。男たちは薄暗い食堂へ身を寄せ、見つかるものにくるまり、保温器のココアを飲みながら、その叫びに耳を傾けた。朝になると王子は、運命と、父祖の神と、王家のために命を捧げる喜びと栄光について、演説した。この寂しい荒野では、そうでもしなければ忘れられていたかもしれない、さまざまな同類の理念についても語った。兵たちは熱のこもらない歓声を上げ、はるか遠くで狼が吠えた。
それから作業が始まり、一週間、鋼鉄のマストを立て、そこに二百フィート掛ける十二フィートの、格子状に張った銅線を吊るすために働きづめだった。その間の主題は仕事、ひたすら仕事、力を振り絞る辛い仕事だった。それ以外は、苛酷な困窮と悪運ばかりだった。ただ、周囲の荒野の夕日と朝日、急流と流れゆく風雪には、野性の壮麗さがあった。火を輪状に焚き、絶やさないように守った。灌木を集める班はあちこちを歩き回り、狼に出会った。負傷者は寝台ごと船室から運び出され、火の周りの小屋に寝かされた。そこで老ヴィンターフェルトはうわごとを叫び、やがて静まり、死んだ。ほかの負傷者のうち三人は、よい食べ物がないため病状を悪くし、残りは快方へ向かった。だがそうしたことは、いわば舞台の袖で起きていた。バートの意識の中心を占める事実は、第一に、絶え間ない労働だった。重く扱いにくい塊を支え、持ち上げ、引きずり、うんざりするほどやすりをかけ、針金を巻くこと。第二に王子だった。誰かが少しでも手を緩めると、せき立て、脅した。頭上に立ちはだかり、人々の頭越しに、南の空を指さした。「あそこにある世界が」とドイツ語で言った。「われわれを待っている! 五十世紀が、その完成の時を迎えたのだ。」
バートには言葉はわからなかったが、身振りの意味は読み取れた。王子は何度か怒りを爆発させた。一度は作業の遅い男に、一度は仲間の配給を盗んだ男に。前者は叱りつけて、もっと退屈な仕事へ回した。後者は顔を殴り、手荒く痛めつけた。王子自身は何も働かなかった。火のそばに空き地があり、そこで腕を組み、忍耐と自らの運命についてつぶやきながら、ときには二時間ぶっ通しで行きつ戻りつした。そのつぶやきが、ときおり演説に変わり、叫びや大きな身振りになって、働く者の手を止めた。皆は王子を見つめ、やがて、その青い目の睨みも、振りかざす手も、いつも南の丘へ向けられていると気づいた。日曜には半時間仕事をやめ、王子が信仰と、ダビデに対する神の友情について説教した。そのあと全員で、「神はわが堅き砦」を歌った。
急ごしらえの小屋に横たわるフォン・ヴィンターフェルトは、ある朝、午前いっぱいドイツの偉大さについてうわごとを言いつづけた。「血と鉄!」と叫び、それから嘲るように、「世界政策だ――はっ、はっ!」
それから低い、抜け目のない声で、複雑な政治問題を、そこにはいない聴衆に説明するのだった。ほかの病人たちはじっとして、耳を傾けていた。バートのそれた注意は、クルトの声で引き戻された。「スモールウェイズ、その端を持て。そうだ!」
ゆっくりと、じれったいほどの手間をかけ、大マストは組み上げられ、一フィートずつ所定の位置へ起こされた。電気技師たちは近くの急流に貯水池と水車を工夫して設けていた。通信士たちが使う、渦巻き型タービンを備えた小型ミュルハウゼン発電機は、水力駆動にも十分対応できたのだ。そして六日目の夕方、装置は稼働し、王子は世界の空白を越えて、自らの航空艦隊を呼び出していた。弱い信号ではあったが、確かに呼びかけていた。しばらくは返答がなかった。
その夕べの印象は、バートの記憶に長く残った。作業する電気技師たちのすぐそばで、赤い火がはぜ、燃え上がり、その照り返しが、垂直に立つ鋼鉄のマストと細い銅線を、天頂へ向かって走った。王子は近くの岩に腰かけ、顎に手を当てて待っていた。その向こう、北側には、フォン・ヴィンターフェルトを覆う積み石の墓があり、鋼鉄の十字架が立っていた。遠くの崩れた岩の間には、狼の目が赤く光っていた。反対側には大飛行船の残骸があり、男たちはもうひとつの赤い焚火の周りに野営していた。皆、まもなく告げられるかもしれない知らせを待つように、ひどく静かにしていた。はるか彼方、何百マイルもの荒野の向こうで、別の無線マストがかちかちと鳴り、火花を散らし、応答の振動に目覚めているのだろう。そうではないかもしれない。エーテルを伝うこの鼓動は、無関心な世界に空しく消えているだけかもしれない。男たちは口をきくにも声を落とした。ときおり遠くで鳥が叫び、一度、狼が吠えた。これらすべてが、果てしなく冷たい大自然の広がりのなかにあった。
七
知らせを聞いたのは、バートが最後だった。主に、仲間のうちの語学のできる男から、片言の英語で教わった。疲れきった通信士が呼びかけへの応答を得たのは、夜もかなり更けてからだった。だが、それからは明瞭で強い通信が届いた。その知らせときたら!
「おい」とバートは朝食をとりながら、大騒ぎのなかで言った。「少し教えてくれよ。」
「世界じゅう、戦争です!」語学のできる男は、説明するようにココアを振り回した。「世界じゅう、戦争です!」
バートは南の暁を見やった。そんなふうには見えなかった。
「世界じゅう、戦争です! ベルリン、焼かれました。ロンドン、焼かれました。ハンブルクもパリも、焼かれました。日本、サンフランシスコ焼きました。わたしたち、ナイアガラに陣地つくりました。そう通信、言ってます。中国、ドラッヘンフリーガーも飛行船も、数えきれません。世界じゅう、戦争です!」
「ひええ!」とバートは言った。
「そうです」と語学のできる男は、ココアを飲みながら言った。
「ロンドンが焼かれたって? おれたちがニューヨークにやったみたいにか?」
「爆撃です。」
「クラパムとか、バン・ヒルとかいう所のことは、何も言ってないか?」
「何も聞いてません」と男は言った。
しばらく、バートにわかったのはそれだけだった。だが周囲の男たちの興奮は伝染した。やがてクルトが一人で立ち、両手を背中に回して、遠くの滝のひとつを、じっと見つめているのが目に入った。バートは近づき、兵隊らしく敬礼した。「失礼します、中尉殿。」
クルトが顔を向けた。その朝はいつになく深刻な顔だった。「あの滝を、もう少し近くで見たいと思っていたところだ」と言った。「思い出すものがあってね――何の用だ?」
「みんなの話が、さっぱりわからないんです。どんな知らせなのか、教えていただけませんか?」
「知らせなんかくそくらえだ」とクルトは言った。「今日が終わるまでには、嫌というほど聞くさ。世界の終わりだ。迎えにグラーフ・ツェッペリン号を寄越すそうだ。朝までには来る。四十八時間以内にはナイアガラだ――さもなければ、永久にお陀仏だ……。あの滝を見たい。おまえも来るといい。食事は済んだか?」
「はい。」
「よし。来い。」
深い物思いに沈みながら、クルトは岩場を越え、遠くの滝へ先に立って歩いた。
しばらくバートは護衛のように後ろを歩いた。それから、野営地の空気を離れると、クルトは歩みを緩め、隣に来させた。
「二日もすれば、またあの渦中に戻る」と言った。「しかも、戻る先はとんでもない戦争だ。それが知らせだよ。世界は狂ってしまった。われわれの船がやられた夜、わが艦隊はアメリカ軍を破った。それは確かだ。十一隻失った――飛行船十一隻は確実だ。向こうの飛行機はすべて壊れた。どれほど壊し、どれほど殺したのかは、神のみぞ知る。だが、あれは始まりにすぎなかった。われわれの一手は、弾薬庫に火をつけたようなものだった。どこの国も飛行機を隠し持っていた。ヨーロッパじゅうの空で戦っている――世界じゅうでだ。日本と中国も参戦した。これが大きい。これが最大の事実だ。われわれの小競り合いに、飛びかかってきた……。黄禍というやつは、やはり脅威だったのだ! 何千隻も飛行船を持っている。世界じゅうにいる。われわれはロンドンとパリを爆撃し、今度はフランスとイギリスがベルリンを破壊した。そのうえ今度は、アジアがわれわれ全員に襲いかかり、全員の上に立とうとしている……。狂気だよ。中国が頂点だ。それに、どこでやめるか誰も知らない。際限がない。究極の混乱だ。首都を爆撃し、造船所も工場も、鉱山も艦隊も壊している。」
「ロンドンはひどくやられたんですか?」とバートは尋ねた。
「神のみぞ知る……」
しばらく、それきり口をきかなかった。
「このラブラドールは静かな所だな」と、ようやく続けた。「ここに残りたい気が半分する。そんなことはできない。できない! 最後まで見届けねばならん。最後まで見届けねばならん。おまえもだ。誰もがだ……。だが、なぜだ? ……。いいか、われわれの世界はばらばらになった。抜け道もなければ、戻る道もない。これがわれわれだ! 火事の家に閉じこめられた鼠だ。洪水に襲われた牛だ。まもなく迎えが来て、また戦闘に戻る。また殺し、壊すのだ――たぶん。今度の相手は中日航空艦隊で、こちらが不利だ。われわれの番も来る。おまえがどうなるかはわからない。だが自分のことは、よくわかっている。私は殺される。」
「大丈夫ですよ」とバートは、妙な間を置いて言った。
「いや」とクルトは言った。「私は殺される。前は知らなかった。だが今朝、夜明けにわかったんだ。まるで、そう告げられたように。」
「どうして?」
「わかると言っているだろう。」
「でも、どうしてそんなことがわかるんです?」
「わかるんだ。」
「誰かに言われたみたいに?」
「確かなことだと感じるんだ。
「わかるんだ」と繰り返し、二人はしばらく黙って滝へ歩いた。
クルトは思いに包まれ、足下も見ずに歩いていたが、ついにまた言葉があふれ出した。「これまでは、いつだって若い気でいたんだ、スモールウェイズ。だが今朝は、年老いた気がする――老いたんだ。ひどく老いた! 老人が感じるより、ずっと死に近い。人生なんて愉快な遊びだと、ずっと思っていた。そうじゃない……。こんなことは、いつでも起きていたのだろうな。こうしたことが、戦争や地震が、暮らしのまともなものを何もかも薙ぎ払っていく。今初めて、そのすべてに目覚めたような気がする。ニューヨークへ行って以来、毎晩その夢を見る……。しかも、昔からずっとそうだったのだ。それが人生というものなのだ。人は大切な者から引き離され、家は壊される。命にあふれ、思い出を持ち、その者だけのささやかな才能を持つ生き物が、焼かれ、砕かれ、引き裂かれ、飢えさせられ、だめにされる。ロンドン! ベルリン! サンフランシスコ! ニューヨークで、われわれが終わらせたすべての人間の来歴を考えてみろ! ……。そして残った者たちは、そんなことなどありえないかのように、また暮らしていく。私がそうしていたように! 動物みたいに! まるきり動物みたいに。」
長いあいだ何も言わなかったが、やがてぽつりと漏らした。「王子は狂人だ!」
二人はよじ登らなければならない場所へ出、それから小川に沿って長く広がる泥炭地の平地へ出た。そこでバートは、繊細な小さな桃色の花がたくさん咲いているのに気づいた。「へえ!」と言い、かがんで一輪摘んだ。「こんな所に。」
クルトは足を止め、半ば振り返った。顔が苦痛にゆがんだ。
「こんな花、見たことない」とバートは言った。「なんて繊細なんだ。」
「欲しければ、もっと摘むといい」とクルトは言った。
バートはそうした。クルトは立ったまま見ていた。
「不思議ですね。花を見ると、いつも摘みたくなる」とバートは言った。
クルトは何も付け加えなかった。
また歩きだし、長いあいだ口をきかなかった。
ようやく岩の小丘に着くと、滝が見渡せた。クルトはそこで止まり、岩に腰を下ろした。
「ここまで見られればよかったんだ」と説明した。「そっくりではないが、十分似ている。」
「何にです?」
「昔、知っていた別の滝に。」
不意に質問した。「恋人はいるのか、スモールウェイズ?」
「不思議なもんですね」とバートは言った。「あの花のせいでしょうね。ちょうど、あの子のことを考えてたんです。」
「私もだ。」
「えっ! エドナのことを?」
「違う。私のエドナを考えていた。誰にでも、思いを巡らせるエドナがいるのだろう。ある娘のことだよ。だが、それも永遠に過ぎ去った。ただ一分でも会えないと思うのは、つらいものだ。ただ、あの子を思っていると知らせるだけでも。」
「きっと」とバートは言った。「ちゃんと会えますよ。」
「いや」とクルトは断言した。「私にはわかる。」
「あの子に会ったのは」と続けた。「ここに似た場所だった。アルプスの、エングストレン・アルプだ。これによく似た滝がある――インナートキルヒェンへ向かって下ったところに、幅の広い滝がね。それで今朝、ここに来たんだ。二人でこっそり抜け出し、そのそばで半日過ごした。花も摘んだ。おまえが摘んだような花だ。もしかしたら同じ花かもしれない。それにリンドウも。」
「わかります」とバートは言った。「おれもエドナと、そういうことをしました。花を摘んだり。いろいろ。今じゃ何年も前みたいです。」
「あの子は美しくて、大胆で、はにかみ屋だった。ああ神よ! 死ぬ前にもう一度会い、声を聞きたい。その思いで、気が変になりそうだ。今どこにいるのだろう……。なあ、スモールウェイズ。私は手紙のようなものを書こうと思う――それに、あの子の写真もある。」
胸のポケットに触れた。
「きっとまた会えますよ」とバートは言った。
「いや! もう二度と会えない……。引き裂かれるためだけに、なぜ人は出会うのか、私にはわからない。だが、私とあの子は二度と会わない。私が死んで終わったあとにも、太陽は昇り、この滝は岩を越えて輝き落ちる。それと同じくらい確かに、わかっている……。ああ! 何もかも愚かさと性急さと暴力と、残酷な蒙昧、無知と見当違いの憎しみ、身勝手な野心だ。人間がしてきたことは、すべて。これからすることも、すべて。ああ、スモールウェイズ、人生はいつの世も、なんという混乱と無秩序だったのだろう。戦闘と虐殺と災厄、憎しみと無慈悲な仕打ち、殺人と搾取、リンチと欺瞞。今朝は、そのすべてにうんざりしている。たった今、初めて気づいたかのように。実際、気づいたんだ。人生に飽きたなら、死ぬ時なのだろう。私は気力を失った。死が覆いかぶさっている。死はすぐそばにある。終わらねばならないとわかっている。だが、ほんの少し前まで、どれほど希望に満ちていたか、考えてみろ。すばらしい始まりの予感に! ……。全部まやかしだった。始まりなどなかった……。われわれはただ蟻塚のような都市に住む蟻なのだ。何の意味もなく、ただ続き、さまよって虚無へ向かう世界のなかの蟻なのだ。ニューヨーク――ニューヨークは、恐ろしいとさえ思えない。ニューヨークなど、馬鹿者に蹴り崩された蟻塚にすぎなかった!
「考えてみろ、スモールウェイズ。どこもかしこも戦争だ! 文明を築き上げもしないうちに、自分で壊している。イギリスがアレクサンドリアで、日本が旅順で、フランスがカサブランカでしたようなことが、至る所で起きている。至る所だ! 南アメリカでさえ、互いに戦っている! 安全な場所はない。平和な場所はない。母親と娘が身を隠し、安らいでいられる場所はどこにもない。戦争は空からやって来る。夜には爆弾が降る。おとなしい人々が朝、外へ出ると、頭上を航空艦隊が通っていく――死を滴らせながら――死を滴らせながら!」
第八章 戦火の世界
一
世界全体が戦争をしているという考えを、バートがのみこむには、ひどく時間がかかった。この北極圏近くの孤独な荒野の南で、人々のひしめく国々の空を、生まれたばかりの航空艦隊が横切り、恐怖と狼狽で打ちのめしている。その光景を思い描くだけでも容易ではなかった。世界をひとつの全体として考える習慣はなく、自分のすぐ目に見える範囲の向こうへ、出来事の起こる奥地が際限なく広がっている、と考えていたからだ。戦争とは、戦地と呼ばれる限られた区域で起き、報道や感情の源になる何かだった。だが今や、大気全体が戦地で、あらゆる土地が闘技場になっていた。各国は研究と発明の道を、それほど僅差で競走していた。計画も成果も、それほど秘密にされながら、それほど並行して進んでいた。だからフランケンで最初の艦隊が飛び立って数時間もたたぬうちに、アジアの大艦隊はガンジス平原の驚嘆する幾百万の人々をはるか下に見て、西へ飛んでいたのである。しかも東亜連合の準備は、ドイツとは比較にならないほど巨大な規模で進められていた。「この一歩をもって」とタン・ティンシアンは言った。「われわれは西洋に追いつき、これを追い越す。この蛮族どもが破壊した世界の平和を、われわれは取り戻す。」
秘密保持も、迅速さも、発明も、ドイツをはるかに上回っていた。ドイツが百人を働かせたところで、アジア側は一万人を働かせていた。今や中国全土を網のように結ぶモノレールを通じ、チンシーフーとチンイェンの大航空基地には、熟練した有能な工員が無尽蔵に集まってきた。工業的な作業能率では、平均的なヨーロッパ人をはるかにしのぐ工員たちだった。ドイツの世界的奇襲の報は、その努力をいっそう速めただけだった。ニューヨーク爆撃の時点で、ドイツが世界じゅうに合わせて三百隻の飛行船を持っていたかどうかは疑わしい。東へ西へ南へと飛ぶ二十のアジア艦隊は、総数数千隻に達していたに違いない。しかもアジア側には、本物の戦闘飛行機があった。ニアイと呼ばれる、軽量ながら十分に有効な兵器で、ドイツのドラッヘンフリーガーより格段に優れていた。同じく一人乗りだったが、鋼と籐と化学繊維の絹でごく軽く造られ、横置きの機関と羽ばたく側翼を備えていた。飛行士は酸素を詰めた炸裂弾を発射する銃を持ち、それに加えて、日本の最良の伝統に忠実に、刀を帯びていた。飛行士の大半は日本人であり、初めから剣士であることが想定されていた点に、その特色が表れていた。機体の翼の前方にはコウモリのような鉤があり、敵船へ乗り移る際、そのガス室に引っかけて取りつく仕組みだった。こうした軽飛行機は艦隊に積まれ、また操縦士とともに陸路や海路で前線へ送られた。風次第で、二百から五百マイルの飛行が可能だった。
こうして、最初のドイツ航空艦隊の飛翔に続き、アジアのこの群れが空へ舞い上がった。たちまち、組織を備えた世界じゅうの政府が、狂ったような勢いで飛行船を造り、発明家が考案していた飛行機らしきものを、何であれ製作しはじめた。外交の暇はなかった。警告と最後通牒が電信で飛び交い、数時間のうちに、恐慌で凶暴になった全世界が、最も複雑な形で公然と戦争に入った。イギリス、フランス、イタリアはドイツに宣戦し、スイスの中立を踏みにじった。インドではアジアの飛行船を見て、ベンガルでヒンドゥー教徒の反乱が起こり、北西諸州ではそれに敵対するイスラム教徒の反乱が起きた。後者は野火のようにゴビから黄金海岸まで広がった。そして東亜連合はビルマの油田を奪い、アメリカもドイツも分け隔てなく攻撃した。一週間もすると、ダマスカス、カイロ、ヨハネスブルクで飛行船が建造され、オーストラリアとニュージーランドは狂奔して装備を整えていた。この展開の特異で恐ろしい一面は、怪物たちを造る速さにあった。装甲艦の建造には二年から四年かかったが、飛行船は同じ数の週で組み立てられた。しかも飛行船は、水雷艇と比べてさえ、驚くほど構造が単純だった。気嚢の材料、機関、ガス製造設備、設計図さえあれば、百年前の普通の木造船より複雑ということはなく、造るのははるかに容易だった。そして今や、ホーン岬からノヴァヤゼムリャまで、広州から世界を一周してまた広州まで、工場も作業場も工業資源も存在していた。
ドイツの飛行船がようやく大西洋を望むころ、最初のアジア艦隊が上ビルマで報じられるかどうかというころには、百年にわたって世界を経済的に結びつけていた、信用と金融の幻の構築物は、きしみ、断ち切れていた。換金売りの竜巻が世界のあらゆる証券取引所を吹き荒れた。銀行は支払いを停止し、商売は縮小して止まった。工場は一種の惰性で一日か二日動きつづけ、破産し、消滅した顧客の注文を仕上げ、それから止まった。バート・スモールウェイズの見たニューヨークは、きらめく照明と交通にもかかわらず、史上類例のない経済・金融崩壊の底にあった。食糧供給の流れも、すでにわずかに滞っていた。そして世界戦争が二週間続かぬうちに――つまり、ラブラドールであのマストが立つころには――中国を除く世界のあらゆる都市や町で、実際の破壊の中心からどれほど遠く離れていようと、警察と政府は食糧不足と失業者の激増に対処する、特別な非常措置を取りはじめていた。
空中戦の特性は、いったん戦争が始まれば、ほとんど必然的に社会の解体へ向かわせる性質のものだった。その第一は、ドイツ軍がニューヨーク攻撃で思い知らされたことだった。飛行船は下にあるものを破壊する莫大な力を持つが、降伏した地点を占領し、治安を保ち、警備し、守備兵を置く能力は、それに比べて著しく乏しい。経済的混乱のなかで怒り、飢える都市住民を前にすれば、それは必然的に、激烈で破壊的な衝突を招いた。航空艦隊が何もせず上空に浮かんでいる場合でさえ、下では内紛と狂熱的な混乱が起きた。従来の戦争史に、これに匹敵する事態はなかった。十九世紀の軍艦が、いわゆる未開人や蛮族の大集落を攻撃した例、あるいは十八世紀末のイギリス史を汚す艦砲射撃の例を除けば、である。そこには確かに、空中戦の恐怖をかすかに予告する残虐と破壊があった。さらに、近代都市の住民が戦争の重圧のもとで何をなしうるかについて、二十世紀以前の世界が持つ経験は、比較的軽微なものが一度あるだけだった。すなわち、一八七一年のパリのコミューン蜂起である。
初めて世界に現れた飛行船戦争の第二の特性もまた、社会崩壊を促すものだった。それは、初期の飛行船同士の攻撃が、あまり有効ではなかったことだ。下にあるものには、致命的な破壊力で爆薬を降らせることができた。要塞も船も都市も、その意のままだった。だが、心中覚悟で組みつくのでなければ、互いに与えられる損害は驚くほど小さかった。海上最大級の巨大客船ほどもあるドイツの大飛行船の武装は、ラバ二頭に楽々積める機関銃一挺だった。加えて、空の支配を争わねばならぬと明らかになってからは、酸素または可燃物を詰めた炸裂弾を撃つ小銃が乗員に配られた。だが、いかなる時点でも、最小の砲艦が普通に持つほどの砲と装甲を備えた飛行船はなかった。したがって、この怪物たちが戦場で出会うと、上方を取ろうと動き回るか、ジャンク船のように組みつき、手榴弾を投げ、白兵戦を行うという、まったく中世風の戦いをした。どの場合にも、勝利の見込みと、双方が壊れて墜落する危険とが、ほぼ釣り合っていた。その結果、最初の戦闘を経験したのちには、航空艦隊の提督たちは会戦を避け、むしろ破壊的な反撃によって、心理的優位を得ようとする傾向を強めていった。
飛行船があまりに非力だった一方、初期のドラッヘンフリーガーは、ドイツのもののように不安定すぎるか、日本のもののように軽すぎて、ただちに決定的な結果をもたらせなかった。確かに、後にはブラジルが、飛行船を相手にできる型と規模の飛行機を送り出した。だが造られたのは三、四機だけで、活動範囲も南アメリカに限られた。そして、世界的な破産によって、相当な規模の工業生産がすべて止まった時期に、跡もなく歴史から消えてしまった。
空中戦の第三の特性は、破壊力が途方もなく大きい一方で、まったく決着がつかないことだった。双方とも報復攻撃にさらされるという、独特の性質があった。それ以前の陸戦でも海戦でも、敗勢にある側は、まもなく敵の領土や交通線を襲撃する能力を失った。「前線」で戦い、その背後では、勝ちつつある側の物資と資源、町と工場と首都、国土の平穏が守られていた。海戦ならば、敵の主力艦隊を破壊して港を封鎖し、給炭基地を押さえ、自国の貿易港を脅かす単独の巡洋艦を追い詰めればよかった。だが海岸線を封鎖し監視することと、国土の表面全体を封鎖し監視することとは、別物だ。巡洋艦や私掠船は建造に時間がかかり、梱包して隠したり、人目につかずあちこちへ運んだりはできない。空中戦では、強い側が弱い側の主力艦隊を破壊したとしても、そのあと、敵が新たな飛行体を――おそらくは新型で、さらに致命的なものを――生産しうるすべての地点を、巡回し監視するか、破壊しなければならなかった。それは敵の空を飛行船で暗くすることを意味した。何千隻もの飛行船を造り、何十万人もの飛行士を育てることを意味した。まだガスを詰めていない小型飛行船なら、鉄道の車庫にも、村の通りにも、森にも隠せる。飛行機はなおさら目立たない。
しかも空には、道もなければ航路もなく、敵について「わが首都に来たければ、ここを通らねばならない」と言える地点もない。
空では、どの方向からも、どこへでも行ける。
したがって、従来のいかなる方法でも戦争を終わらせることは不可能だった。Aが数でBを圧倒し、その首都の上空に千隻の飛行船を浮かべ、降伏しなければ爆撃すると脅す。Bは無線電信で、今まさに襲撃用飛行船三隻を使い、Aの最大の工業都市を爆撃中だと答える。AはBの襲撃船を海賊などと罵り、Bの首都を爆撃してから、その飛行船を追いに出る。一方Bは、激昂し、英雄的な不屈の精神に燃え、自らの廃墟のなかで、Aにお見舞いする新たな飛行船と爆薬を造りはじめる。戦争は必然的に、普遍的なゲリラ戦となった。民間人も家庭も、社会生活のあらゆる仕組みも、ほどきがたく巻きこむ戦争となった。
空中戦のこうした側面は、世界の意表を突いた。これらの帰結を導き出すだけの先見の明はなかった。もしあったなら、世界は一九〇〇年に全世界平和会議を開いていただろう。だが機械の発明は、知的・社会的組織の発展を追い越していた。そして世界は、愚かしい古い旗や、愚かしく無意味な国民意識の伝統、安っぽい新聞や、さらに安っぽい情念と帝国主義、卑しい商業的動機、習い性になった不誠実と俗悪、人種をめぐる虚偽と争いを抱えたまま、不意を突かれたのだ。戦争はいったん始まると、止めようがなかった。誰も先を見通さぬまま育ち、何億もの人間を、誰もはっきり理解していない経済的相互依存に結びつけていた、薄弱な信用の織物は、恐慌のなかで溶け去った。至る所で飛行船が爆弾を落とし、立ち直る希望をすべて打ち砕いた。その下には至る所、経済的破局、飢えた失業者、暴動、社会的混乱があった。諸国に多少なりとも存在した建設的な指導の知性は、時代の激情の重圧に消え失せた。この時期から残る新聞も記録も歴史書も、みな同じ普遍的な物語を伝えている。食糧供給を断たれ、飢えた失業者で街路のあふれる都市や町。行政の危機と戒厳令。臨時政府と防衛評議会。そしてインドとエジプトでは、反乱委員会が、住民の再武装、砲台や砲座の構築、飛行船や飛行機の猛烈な製造を指揮していた。
こうした光景は、吹き流れる濃い雲越しに見るように、世界じゅうのあちこちで、断片的に、ふと照らされる瞬間に姿を現す。それは一時代の解体だった。機械を頼みとした文明の崩壊であり、その破壊の道具もまた機械だった。だが、先の偉大な文明、ローマの崩壊が、何世紀にもわたり、人間が老いて死ぬように段階を重ねた出来事だったのに対し、これは鉄道や自動車にひかれて死ぬように、一瞬の、決定的な粉砕と終焉だった。
二
空中戦争の初期の戦闘は、疑いもなく、敵艦隊の位置を突き止め、これを撃滅せよという、古い海軍の格言を実現しようとして生じたものだった。最初はベルナー・オーバーラントの戦いだった。フランケンの航空基地へ側面から奇襲をかけたイタリアとフランスの飛行船が、スイスの実験飛行隊に襲われ、日が進むにつれて、ドイツの飛行船もスイス側の援軍に加わった。次いで、イギリスのウィンターハウス=ダン飛行機と、不運なドイツ船三隻との遭遇戦があった。
そのあと北インドの戦いが起こり、英領インドの航空施設と部隊の全勢力が、圧倒的な劣勢のもとで三日間戦い、分散させられ、各個撃破された。
そしてその開戦と同時に、ドイツ軍とアジア軍の重大な戦いが始まった。アジア側の攻撃目標にちなんで、通常ナイアガラの戦いと呼ばれるものである。だがそれは次第に、半大陸にわたる散発的な抗争へ変わっていった。戦闘で破壊を免れたドイツの飛行船は降下してアメリカ側に降伏し、乗員を入れ替えられた。そして最後には、敵を絶滅させようと凄絶な決意を固めたアメリカ人と、太平洋岸一帯を拠点に、巨大な艦隊の支援を受け、絶えず増援されるアジアの侵略軍との、情け容赦のない英雄的な遭遇戦の連続となった。アメリカでの戦争は、初めから和解の余地のない憎悪をもって戦われた。助命を求める者はなく、捕虜も取られなかった。アメリカ人は凄まじく壮大な精力で次々に船を造り、アジアの大群と戦って滅びるために送り出した。ほかのすべてはこの戦争に従属し、まもなく全国民が、そのために生きるか死ぬかすることになった。後に述べるように、やがて白人たちは、バタリッジ式飛行機のなかに、アジアの剣士の飛行機に立ち向かい、戦える武器を見いだした。
アジア軍のアメリカ侵攻は、独米戦争を完全に押し流した。それは歴史から消える。初めは、忘れえぬ虐殺に始まっただけに、それだけで十分すぎる悲劇をもたらすように見えた。ニューヨーク中心部の破壊後、全アメリカは一丸となって立ち上がり、ドイツに屈するくらいなら千回でも死のうと決意した。ドイツ側も、アメリカを力ずくで服従させると冷厳に決め、王子が練り上げた計画に従い、その巨大な発電設備を利用するためナイアガラを占領した。住民をすべて追い出し、周辺をバッファローまで荒野に変えた。さらに、イギリスとフランスが宣戦するとただちに、カナダ側の土地を内陸ほぼ十マイルにわたって破壊した。東海岸沖の艦隊から人員と資材を運びはじめ、蜜を集める蜂のように列をなして往復した。そのときアジア軍が現れた。そして、このナイアガラのドイツ軍基地への攻撃で、東西の航空艦隊は初めて相まみえ、より大きな争点が明らかになった。
初期の空中戦に見られたひときわ顕著な特異性は、飛行船が極秘裏に準備されていたことから生じた。各国は競争相手の計画を、ほんのかすかにしか知らず、自国の装置の実験さえ、秘密保持の必要から制限されていた。飛行船や飛行機の設計者は誰一人、自分の発明が何と戦わねばならないかを、はっきり知らなかった。空中で何かと戦うことなど想像もせず、爆薬を落とすことだけを考えて設計した者も多かった。ドイツの構想はそうだった。フランケン艦隊がほかの飛行船と戦うために備えていた武器は、船首の機関銃だけだった。炸裂弾を撃つ短銃身の小銃が配られたのは、ニューヨーク上空の戦いのあとである。理論上、戦闘兵器となるはずだったのはドラッヘンフリーガーだった。空の水雷艇と称され、飛行士は敵のすぐそばへ急降下し、旋回して通り過ぎざまに爆弾を投げることになっていた。だが実際には、これらの装置は絶望的に不安定だった。どの戦闘でも、母船へ帰り着けたのは三分の一に満たなかった。残りは大破するか、地上へ降りてしまった。
中日連合艦隊も、ドイツと同じく、飛行船と、空気より重い戦闘機とを区別していた。だが、どちらの型も西洋のものとはまったく違っており、ほとんどあらゆる細部が、アジア人技師の発明だった。この偉大な諸民族が、いかに精力的にヨーロッパの科学研究法を取り入れ、改良したかを、雄弁に物語っている。その中心人物が、かつてラホールの英領インド航空基地に勤務した政治亡命者、モヒニ・K・チャタジーだったことは、記しておく価値がある。
ドイツの飛行船は、頭の丸い魚形だった。アジアの飛行船も魚形だったが、タラやハゼより、エイやシタビラメに近かった。幅広く平らな下面には、中央線に沿う部分を除いて、窓も開口部もなかった。船室は中心軸に沿って置かれ、その上に一種の船橋甲板があった。ガス室によって全体は、ジプシーの丸屋根の天幕に似た形になっていたが、それよりずっと平たかった。ドイツ船は本質的には、空気よりずっと軽い、操縦可能な気球だった。アジア船は空気よりわずかに軽いだけで、安定性はかなり劣ったものの、はるかに速く空を滑った。船首と船尾に砲を備え、後者のほうがはるかに大きく、焼夷弾を撃った。さらに上面と下面の両方に、小銃手の銃座があった。かつて海に浮かんだ最小の砲艦に比べれば軽武装だったが、ドイツの巨大飛行船を、速度だけでなく戦闘力でも上回るには十分だった。戦闘ではドイツ船の背後か上方へ回りこもうとした。下を突っ切ることさえあったが、弾薬庫の真下だけは避け、通過するやいなや後部砲を放ち、火炎弾や酸素弾を敵のガス室へ送りこんだ。
アジア側の強みは、すでに述べたように、飛行船ではなく、本来の意味での飛行機にあった。それらはバタリッジ式に次ぎ、空気より重い飛行体として、それまでに現れたなかで確実に最も有効なものだった。日本人の芸術家の発明で、箱凧めいたドイツのドラッヘンフリーガーとは、型が大きく異なっていた。奇妙に湾曲した柔軟な側翼は、何よりも、曲げられた蝶の羽に似ていた。セルロイドに似た物質と、鮮やかに彩色された絹でできており、長いハチドリの尾がついていた。翼の前隅には、コウモリの爪に似た鉤があり、それで飛行船のガス室の壁に引っかけ、ぶら下がり、引き裂くことができた。一人の乗り手が、横置きの内燃機関の上、両翼の間に座った。その機関は、当時の軽オートバイに使われていたものと、本質的には何も違わなかった。下には大きな車輪がひとつあった。乗り手はバタリッジ式と同じく鞍にまたがり、炸裂弾を撃つ小銃に加えて、両手で扱う大きな両刃の剣を携えていた。
三
こうして細部を書き記し、アメリカ式やドイツ式の飛行機と飛行船の特徴を比べることはできる。だが、アメリカの五大湖上空で、この途方もなく混乱した戦いに加わった者のうち、これらの事実を明確に知っていた者は一人もいなかった。
双方とも、何を相手にするのかわからぬまま、新たな条件のもとへ出撃した。しかも使う装置は、敵の攻撃がなくとも、ひどく面食らうような不意打ちを演じかねないものだった。作戦計画も、集団的な機動の試みも、戦闘開始と同時に、必然的に崩れ去った。前世紀の初期の装甲艦戦のほとんどと、まったく同じだった。それからは各船長が、個別の行動と自分の才覚に頼らねばならなかった。一人が勝機と見るものを、別の者は逃走と絶望への合図と読んだ。それはひとつの戦いではなく、小さな「戦いの束」だったという点で、ナイアガラの戦いはリッサの海戦と同じだった。
バートのような観察者には、それは一連の出来事として映った。巨大なものもあれば、些細なものもあったが、全体としてつながりがなかった。明確な争点をめぐって戦い、何らかの地点を争って勝つか負けるかする、という感覚は一度もなかった。途方もないことが起きるのを見た。そして最後には、自分の世界が災厄と破滅に暗く閉ざされた。
バートはこの戦いを地上から見た。プロスペクト・パークから、そして逃げこんだゴート島からである。
だが、どうして地上にいることになったのか、それを説明しなければならない。
ツェッペリン号がラブラドールの野営地を発見するよりずっと前に、王子は無線電信で艦隊の指揮を再開していた。王子の命令により、前衛の偵察隊がロッキー山脈上空で日本軍と接触していたドイツ航空艦隊は、ナイアガラに集結し、到着を待った。王子が指揮下の部隊に戻ったのは十二日の早朝だった。バートが初めてナイアガラの峡谷を見たのは、日の出のころ、中央のガス室の外で網渡りの訓練をしていたときだった。ツェッペリン号はそのとき非常な高空を飛んでいた。はるか下には、峡谷の水面に泡が大理石のような模様を描き、さらに西には、カナダ滝の巨大な三日月が、横から差す日の光に輝き、きらめき、泡立ちながら、深く絶え間ない、どどどという轟音を空へ送り上げていた。航空艦隊は巨大な三日月形の陣形を保ち、その両端を南西へ向けていた。輝く怪物が長く並び、尾部のプロペラをゆっくり回していた。腹の下では、マルコーニ無線の垂下線の後方に、ドイツ軍旗が垂れていた。
ナイアガラ市は当時、まだ大半が建っていた。ただし街路には人影がなかった。橋は無事で、ホテルやレストランにはまだ旗や客を誘う高架看板があり、発電所も動いていた。だが周囲の土地は、峡谷の両岸とも、巨大な箒で掃かれたようだった。ナイアガラのドイツ軍陣地を攻撃する際、隠れ場所になりうるものは、機械と爆薬で可能なかぎり、無慈悲に平らにされていた。家は爆破されて焼かれ、森も焼かれ、柵も作物も壊された。モノレールは引き剥がされ、道路沿いはとりわけ、身を隠したり守ったりできるものをすべて取り払われた。上から見たこの破壊のありさまは、異様だった。若い森はワイヤーを引きずって丸ごとなぎ倒され、折られ、根こそぎにされた若木が、鎌で刈られた穀物のように、帯状に横たわっていた。家々は巨大な指で押しつぶされたように見えた。まだ多くの場所が燃えており、広い区域が黒い斑に変わり、くすぶり、ときにはまだ赤く光っていた。
ところどころに、逃げ遅れた人々の残した荷物や荷車、馬と人間の死体があった。水道のあった家の跡には、壊れた管から水が流れ出し、水たまりや泉をつくっていた。焼かれていない畑では、馬や牛がまだのどかに草を食んでいた。この荒廃地帯の向こうには、田園がそのまま残っていたが、人々はほぼ全員逃げていた。バッファローは広大な範囲で燃えており、火と闘おうとしている形跡はなかった。ナイアガラ市そのものは、急速に軍の補給基地へと変えられつつあった。すでに多数の熟練技師が艦隊から運ばれ、この地にある工業設備を航空基地の用途に転用するため、忙しく働いていた。アメリカ滝の角、ケーブル鉄道の上方には、ガスの補給所が設けられ、その南にも、同じ目的のため、はるかに広い土地を開いていた。発電所やホテルなど、目立つ場所、重要な地点には、ドイツ国旗が翻っていた。
ツェッペリン号はこの光景の上をゆっくり二度旋回し、その間、王子は揺れる張り出し通路から視察した。それから三日月陣形の中央へ向かって上昇し、王子と、クルトを含む随員たちを、迫る戦いの旗艦に選ばれたホーエンツォレルン号へ移した。前部の張り出し通路から細いケーブルで吊り上げられ、王子と幕僚が去る際には、ツェッペリン号の乗員が外側の網に整列した。その後ツェッペリン号は向きを変え、旋回しながら降下して、プロスペクト・パークへ着地した。負傷者を降ろし、爆薬を積みこむためだった。ラブラドールでは、どれほどの重量を運ばねばならないかわからなかったので、弾薬庫を空にして来ていたのだ。また、漏れのあった前方のガス室のひとつに、水素を補充した。
バートは担架係に割り当てられ、カナダ岸に面した大ホテルのうち、最も近い建物へ、負傷者を一人ずつ運ぶのを手伝った。ホテルはほとんど無人だったが、資格を持つアメリカ人看護師が二人と黒人のポーター一人、それに待ち受けるドイツ人が三、四人いた。バートはツェッペリン号の船医と町の大通りへ行き、薬局をこじ開けて、必要な品をいろいろ手に入れた。戻るときには、士官一人と兵二人が、商店にある利用可能な物資の、おおまかな目録を作っているのに出会った。それ以外には、町の広い大通りはまったく無人だった。住民は三時間以内に立ち退くよう命じられ、どうやら全員が従ったらしかった。ある角では、男が一人、壁にもたれて死んでいた。撃たれたのだ。空っぽの通りの先には犬が二、三匹見えたが、川寄りの端では、モノレールの車列が静けさを破っていた。ホースを満載し、プロスペクト・パークを飛行船用の港に変えている、列車一編成分の作業員たちのもとへ向かっていた。
バートは隣の店から持ち出した自転車に薬の箱を載せ、釣り合いを取りながらホテルまで押した。それからツェッペリン号の弾薬庫へ爆弾を積む仕事に回された。細心の注意を要する仕事だった。やがて船長に呼び出され、アングロ・アメリカン電力会社を管理する士官へ、書付を届けるよう命じられた。野戦電話は、まだ調整が済んでいなかったのだ。バートはドイツ語の指示を、意味を推し量って受け取り、敬礼して書付を受け取った。言葉がわからないことを明かす気にはなれなかった。道は承知しているという明るい顔で歩きだし、ひとつふたつ角を曲がって、自分はどこへ行くのかわかっていないのではないかと思いはじめたころ、ホーエンツォレルン号の砲声と空の歓声に、注意を頭上へ引き戻された。
見上げたが、両側の家々が視界を遮っていた。迷った末、好奇心に駆られ、川岸へ引き返した。ここでは木々が邪魔をした。そして、弾薬庫がまだ四分の一空いていると知っていたツェッペリン号が、ゴート島の上へ上昇しているのを見つけ、はっとした。弾薬を満載するのを待たなかったのだ。置き去りにされたのだと思いついた。身をかがめ、木や茂みの間へ後戻りした。船長が思い直しても、もう見つけられないと思えるところまで下がった。だが、それからドイツ航空艦隊が何に向かい合っているのか見たい気持ちが勝ち、とうとうゴート島へ渡る橋の中ほどまで引き出された。
そこからは、ほぼ半球分の空が見えた。そして、きらめき騒ぐ上流の急流の上、低い空に浮かぶアジアの飛行船を、初めて目にした。
ドイツ船ほどの迫力は、まったくなかった。距離がわからず、しかも薄い縁をこちらへ向けて飛んでいたので、幅広い機体の姿は隠されていた。
バートは橋の真ん中に立っていた。そこを知る人の多くが、見物客や行楽客でにぎわう場所として記憶している地点に、見渡すかぎり、たった一人の人間として立っていた。頭上のはるか高空では、相争う航空艦隊が機動し、足下では水門を抜けるように、川がアメリカ滝へ向かって煮え立っていた。奇妙な格好だった。安物の青いサージのズボンを、ドイツ飛行船用のゴム長靴に突っこみ、頭には少し大きすぎる白い飛行帽をかぶっていた。それを後ろへずらすと、まだ額に傷痕の残る、目を見開いたロンドン下町の小さな顔が現れた。「ひええ!」とささやいた。
じっと見た。身振りをした。一度か二度、叫び、拍手した。
それから、ある瞬間に恐怖に捉えられ、ゴート島へ向かって一目散に逃げだした。
四
互いの姿が見えるようになってからもしばらく、どちらの艦隊も交戦しようとはしなかった。ドイツ側は六十七隻の大飛行船を擁し、ほぼ四千フィートの高度で三日月形の陣形を保っていた。船の全長の約一・五倍の間隔を取っていたので、三日月の両端はほぼ三十マイル離れていた。両翼の最外側の飛行隊では、搭乗済みのドラッヘンフリーガー約三十機を、飛行船のすぐ後ろに曳いていた。だが、小さく遠すぎて、バートには見分けられなかった。
初め、バートに見えていたのは、アジア軍の南方艦隊と呼ばれるものだけだった。四十隻の飛行船から成り、その両脇に、合計ほぼ四百機の一人乗り飛行機を載せていた。しばらくはドイツ軍と最も近いところでも十二マイルほどの距離を保ち、その前面をゆっくり東へ横切った。バートが最初に見分けられたのは大きな船体だけだった。やがて一人乗りの機体も、大きな形の周囲や下方を、日なたの塵のように漂う無数の小さな物体として見えてきた。
そのとき、バートにはアジア軍の第二艦隊はまったく見えなかった。だが、おそらくドイツ側からは、北西に姿が見えはじめていただろう。
大気は静まり返り、空にはほとんど雲がなかった。ドイツ艦隊は途方もなく高く上昇していたので、飛行船はもうさほど大きく見えなかった。三日月の両端ははっきり見えた。南へ進むにつれて、艦隊はゆっくりバートと太陽の間を通り、黒い輪郭となった。この空の大艦隊の両翼に、ドラッヘンフリーガーが小さな黒い点となって現れた。
両艦隊とも、交戦を急いでいる様子はなかった。アジア軍は速度を上げ、上昇しながら、はるか東へ進み、それから長い縦列に伸び、ドイツ軍の左翼めがけて上昇しながら戻ってきた。ドイツの飛行隊は、この斜めからの前進に向き直った。突然、小さな明滅と、かすかなぱちぱちいう音が、射撃開始を知らせた。橋の上の観察者には、しばらく何の効果も見えなかった。それから、ひとつかみの雪片のように、ドラッヘンフリーガーが攻撃へ急降下し、無数の赤い点が迎え撃とうと舞い上がった。バートには、ただ途方もなく遠いだけでなく、ひどく人間離れして感じられた。四時間も前には、まさにあの飛行船の一隻に乗っていたというのに、今は人を乗せたガス袋ではなく、自らの意志で動き、何かをする、奇妙な知覚ある生き物に思えた。アジアとドイツの飛行機の群れは合流し、地上へ落ちていった。遠い窓から投げられた、ひとつかみの白と赤のバラの花びらのようになり、次第に大きくなった。バートには、ひっくり返った機体が空を回転しながら落ちるのが見えたが、やがてバッファローの方から立ち上る大量の黒煙に隠された。しばらく全部が見えなくなったあと、白いものが二、三機と、赤いものがいくつか、大きな蝶の群れのように、また空へ舞い上がった。戦いながら旋回し、東へ飛び去って、ふたたび見えなくなった。
重い爆音に、バートはまた天頂を見た。見よ、巨大な三日月は整列を失い、ばらばらの長い飛行船の雲へ崩れていた! 一隻は空の半ばまで落ちていた。船首と船尾が燃えていた。見ているうちに横転し、何度も何度も回りながら落ち、バッファローの煙へ消えた。
バートは口を開閉させ、橋の手すりをいっそう強く握った。しばらくのあいだ――長い時間に思えた――両艦隊にはそれ以上の変化がなく、斜めに近づきつづけ、バートの耳には小人の騒動のような音を届けていた。すると突然、双方の飛行船が、見えもせず軌道も追えない弾に打たれ、列から落ちはじめた。アジア船の縦列は向きを変え、砕けたドイツの戦列へ突入するか、その上を越すかした。下からでは、どちらかわからなかった。ドイツ側は道を譲るように広がった。何らかの機動が始まったが、バートには意味がつかめなかった。戦場の左側は、飛行船の入り乱れる踊りになった。数分のあいだ、交差する二つの船列はひどく近く見え、空中で取っ組み合いをしているようだった。それから集団戦と一騎打ちに分かれた。ドイツの飛行船が低空へ降りてくる数が増えた。一隻は炎を上げて落ち、はるか北へ消えた。二隻は、何かねじれ、損なわれた動きで沈下した。それから、アジア船二隻とドイツ船一隻が、渦巻く戦いの塊となって天頂から降りてきた。まもなくもう一隻が加わり、ドイツの戦列からほかの船も降りて加勢するなか、一団となって東へ流れていった。アジア船一隻が、さらに巨大なドイツ船へ体当たりしたか衝突したかして、二隻はもつれ回りながら破滅へ落ちた。アジアの北方艦隊が加わったのを、バートは気づかなかった。ただ、頭上の船の数が増えたように思っただけだった。ほどなく戦いは完全な混乱となり、全体としては風に逆らい、南西へ移っていった。ますます、集団ごとの遭遇戦の連続になった。こちらでは、巨大なドイツ船が炎に包まれて地上へ落ち、その周囲を十二隻もの平たいアジア船が囲み、立て直そうとする試みをことごとく潰していた。こちらでは別の船が宙にとどまり、プロペラで、飛行機の群れから来る剣士たちを追い払っていた。またこちらでは、両端に火のついたアジア船が、戦場から急降下していった。澄みわたる広大な空で、バートの注意は出来事から出来事へ移った。こうした目立つ破壊が心を捉え、離さなかった。近くの鮮烈な場面の間に、全体の構図らしいものが現れはじめたのは、ごくゆっくりとだった。
だが、はるか上で渦巻く飛行船の大部分は、破壊してもいなければ、破壊されてもいなかった。たいていは全速力で、位置を得るために上昇しながら旋回し、効果のない射撃を交わしているようだった。最初の体当たりで、仕掛けた側も受けた側も悲惨に墜落したあと、体当たりはほとんど試みられなかった。乗り移ろうとする試みがあったとしても、バートには見えなかった。ただ、敵を孤立させ、仲間から切り離して圧倒しようとする、執拗な動きはあるらしかった。そのため群れなす船体は、絶えず引き返し、交錯していた。数の多さと、すばやく身を傾けて回る動きによって、アジア軍がドイツ軍を絶えず攻め立てているように見えた。頭上では、明らかにナイアガラの設備との連絡を保とうとして、ドイツ船の一群が密集した方陣を組み、アジア側はそれを崩すことに、ますます力を注いでいた。バートは滑稽にも、池でパンくずを奪い合う魚を思い出した。小さな煙の噴出や爆弾の閃光は見えたが、音はひとつも降りてこなかった……。
はばたく影が一瞬、バートと太陽の間を横切り、もうひとつが続いた。機関の唸り、カチ、コト、カタカタ、コト、という音が耳を打った。たちまち天頂のことを忘れた。
おそらく水面から百ヤードほどの高さを、南から、アジアの剣士たちが長い列をなしてやって来た。ヨーロッパの工学が日本の芸術的霊感との間に生んだ奇妙な乗り物にまたがり、ワルキューレのように、すばやく空を駆けてきた。翼がぎくしゃく羽ばたく。カチ、コト、カタカタ、コト。機体は上がり、翼が広がって止まると、空を滑っていった。そうして上がり、下がり、また上がった。あまり近くを通ったので、互いに呼び交わす声が聞こえた。ナイアガラ市へ急降下し、ホテル前の空き地に長い列をなして、次々と着地した。だがバートは着地を見届けなかった。一つの黄色い顔が身を乗り出して見下ろし、不可解な一瞬、目が合ったのだ……。
そのときバートは、橋の真ん中ではあまりにも目立ちすぎると思い、ゴート島へ向かって逃げだした。そこから、いささか自意識過剰なほど木々の間を渡り歩き、戦いの残りを見守った。
五
安心感を取り戻し、また戦いに目を向けられるようになると、ナイアガラ市をめぐって、アジアの飛行士とドイツの技師の間に、激しい小戦闘が起きているのがわかった。この戦争の全過程で、少年時代に絵入り新聞で学んだ戦闘に似たものを見たのは、初めてだった。ようやく物事が正しく運びはじめたような気さえした。男たちが小銃を持ち、物陰に隠れ、散開した攻撃隊形で地点から地点へとすばやく走るのが見えた。最初の飛行士たちは、おそらく町が無人だと思いこんでいたのだろう。プロスペクト・パーク近くの開けた場所に降り、発電所寄りの家々へ近づいたところで、突然の射撃に思い違いを知らされた。水辺近くの土手の陰へ散り散りに退いた。自分の機体へ戻るには遠すぎたのだ。伏せたまま、発電所の周りのホテルや木造家屋にいる男たちへ撃ち返していた。
そこへ援軍として、第二の赤い飛行機の列が東から飛来した。家々の上の霞から姿を現し、下の状況を調べるように、大きな弧を描いて回った。ドイツ側の射撃は轟音へ高まり、空を滑る影のひとつが、突然後ろへがくりと揺れ、家々の間に落ちた。ほかの機体は、まさに大きな鳥そのものの動きで、発電所の屋根へ舞い降りた。そこへ鉤をかけると、一機ごとに小柄な身軽い人影が飛び出し、胸壁へ駆けていった。
ほかにも羽ばたく鳥のような影が、この戦いに加わったが、バートはその到来を見ていなかった。歯切れのよい銃声が届き、陸軍の演習や、新聞の戦闘記事や、自分の戦争観にまったく正しく収まるものを思い出させた。かなりの数のドイツ兵が、外側の家々から発電所へ走るのが見えた。二人が倒れた。一人は動かなくなり、もう一人はしばらく身をよじり、もがいていた。その日の早く、ツェッペリン号から負傷者を運ぶのを手伝った、病院に使われているホテルが、突然、赤十字旗を掲げた。あれほど静かに見えた町には、相当数のドイツ兵が隠れていたらしく、今は中央の発電所を守るために集まっていた。どれだけ弾薬があるのだろうと、バートは思った。アジアの飛行機は、ますます多く戦闘に加わった。不運なドイツのドラッヘンフリーガーを片づけ、今度は、できかけの航空基地、すなわちドイツ軍の拠点となる電解式ガス発生設備と修理施設を狙っていた。着地した機もあり、乗り手は物陰に入り、活発な歩兵となった。ほかは戦場の上を飛び回り、ときおり下に敵が姿をさらすと射撃した。銃撃は発作のように起きた。警戒し合う静けさが訪れたかと思うと、すばやい連射が始まり、轟音へ高まった。一度か二度、用心深く旋回する飛行機が真上へ来た。そのたびバートは、心も体も、ただ小さくすくめることに費やした。
ときおり、さらに大きな雷のような音が銃声に交じり、はるか上で飛行船同士が組み合っていることを思い出させた。だが注意を引きつけていたのは、近くの戦いだった。
突然、天頂から何かが落ちてきた。樽か、巨大なフットボールのようなものだった。
轟然! すさまじい音とともに炸裂した。川の近く、芝生と花壇の間に着地していたアジアの飛行機の群れへ落ちたのだ。機体は細片や破片となって飛び、芝土も木も砂利も跳ね上がって落ちた。まだ水路の土手に伏せていた飛行士たちは、袋のように放り投げられ、泡立つ水面を細かな波紋が走った。ついさっきまで青空と飛行船を明るく映していた病院ホテルの窓は、どれも巨大な黒い星となった。ドン! ――二発目が続いた。バートは見上げ、いくつもの巨大な船体が急降下してくるのを感じた。風をはらんだ毛布の群れのように、巨大な料理覆いの列のように、眼前のすべてへ降りかかってきた。上空の戦闘の中央のもつれが、発電所の戦いに接触しようとでもするように、旋回しながら降りていた。飛行船は、まるで新しい姿を現した。自分へ迫り、みるみる大きくなり、圧倒的になっていく巨大なもの。ついには向こう岸の家々は小さく、アメリカ側の急流は狭く、橋は華奢に、戦う人間は微細に見えた。降りてくるにつれ、銃撃、巨大なきしみ、唸り、打ち鳴る音、脈動、叫び、発砲の複雑な音塊として聞こえるようになった。ドイツ船の船首に描かれた黒鷲は、見上げる角度で縮まって見え、実際に羽を飛び散らせて戦っているようだった。
戦う飛行船の一部は、地上五百フィート以内まで降りた。ドイツ船の下部通路で小銃を撃つ男たちが見えた。綱にしがみつくアジア人も見えた。アルミニウムの潜水服を着た男が一人、きらりと光って、ゴート島上流の水へ頭から落ちるのも見た。アジアの飛行船を間近で見たのは、初めてだった。この角度からは、何よりも巨大な雪靴を思わせた。黒と白の奇妙な模様があり、その形は、機械彫りの懐中時計の蓋に似ていた。吊り下げ式の通路はなく、中央線上の小さな開口部から、人間と銃口がのぞいていた。こうして長い下降と上昇の曲線を描き、怪物たちは組み合って戦った。雲同士の戦いのようだった。プディングが互いを暗殺しようとしているようだった。互いの周りを回転し、旋回し、しばらくゴート島とナイアガラを煙の薄闇に沈めた。そのなかへ、日光が柱となり、光条となって差しこんだ。広がり、詰め寄り、広がり、組みつき、急流の上を回り、二マイル以上カナダ側へ入り、また滝の上へ戻った。ドイツ船一隻に火がつくと、全体がその炎から離れ、散りながら上昇した。残された船はカナダ側へ落ち、落ちながら爆発した。それからまた騒音が高まり、残りが接近した。一度、ナイアガラ市の男たちから、蟻塚が歓声を上げるような音がした。またドイツ船が一隻燃え、別の一隻は敵船の船首でひどくガスを抜かれ、よろよろと南へ戦場を離れた。
不均衡な戦いでドイツ軍が敗れつつあることは、ますます明白になった。追い詰められていることが、ますます露骨になった。逃げる以外の目的で戦っているようには、次第に見えなくなった。アジア船は脇や上を飛び抜け、気嚢を引き裂き、火をつけた。内部の網で消火器と細長い絹布を使い、火と裂け目に立ち向かう、潜水服姿のかすかな人影を狙い撃った。ドイツ側は、効果のない射撃で応じるばかりだった。戦いは旋回してナイアガラの上へ戻った。そして突然、あらかじめ合図でも決めてあったように、ドイツ軍は崩れて散り、東西南北へ、公然と混乱した逃走に移った。それに気づいたアジア軍は、上昇して頭上に回り、追いかけた。ただ、ドイツ船四隻と、およそ十二隻のアジア船から成る小さな一団だけが、ホーエンツォレルン号と王子の周囲に残った。王子はナイアガラを救おうと、最後の試みのために旋回していた。
その一団は、またカナダ滝の上を回り、東の広大な水面の上へ進んで、遠く小さくなった。それから向きを変えて戻り、急ぎ、跳ね、急降下しながら、口を開けて見ているたった一人の観客へ迫った。
もみ合う塊全体が、非常な速さで近づき、みるみる大きくなった。午後の太陽を背に、まぶしく騒ぐ上流の急流の上で、黒く、細部のない影となった。嵐雲のように膨らみ、ふたたび空を暗くした。平たいアジア船はドイツ船のはるか上方と後方を保ち、反撃されることなく、ガス室と側面へ弾を撃ちこんだ。一人乗りの飛行機は、攻撃する蜂の群れのように、飛び回っては取りついた。近づき、さらに近づき、低い空を埋めた。ドイツ船二隻は急降下してから再上昇したが、ホーエンツォレルン号は損傷がひどすぎて、それができなかった。弱々しく持ち上がり、戦場を離れようとでもするように急旋回した。船首と船尾が炎に包まれ、水面へ突っこみ、斜めに水をはね上げて落ちた。何度も横転し、生き物のように転がり、砕け、身をよじりながら流れ下った。止まり、また進んだ。裂けて曲がったプロペラは、なお空をたたいていた。噴き出した炎は、水蒸気の雲のなかでじゅうじゅうと消えた。巨大な規模の破局だった。船は島のように、高い崖のように、急流に横たわった。転がり、煙を吐き、ひしゃげ、崩れながら、速くなったり遅くなったりして、バートへ迫る高い崖だった。アジア船一隻が――下からは、三百ヤード分の舗道のように見えた――向きを変え、この大崩壊の上を二、三度回った。深紅の飛行機六機ほどが、日の光のなかで大きな小虫のように一瞬踊り、それから仲間を追って飛び去った。残りの戦闘はすでに島を越え、銃声と叫びと破砕音が荒々しく高まっていた。今は島の木々に隠れ、バートも、敗れたドイツ飛行船の巨大な残骸が迫る、より近い光景に心を奪われ、忘れていた。背後では何かが落ち、枝々をすさまじく折り砕いたが、気づかなかった。
しばらくは、ホーエンツォレルン号は「分水点」で胴をへし折られるに違いないと思えた。それからしばし、プロペラが川をばたばたとかき、泡立て、折れ曲がりひしゃげた残骸の塊を、アメリカ岸へ押した。だが、アメリカ滝へ泡立ちながら走る急流が船を捉えた。一分もすると、しぼみゆく巨大な残骸は、新たに三か所から炎を噴きながら、ゴート島とナイアガラ市を結ぶ橋へ激突した。長い腕のような部分が、うねるもつれとなって中央の橋桁の下へ押しこまれた。それから中央のガス室が大音響とともに爆発し、次の瞬間には橋が崩れた。飛行船の主要部分は、ぼろをまとった異形の不具者さながらに、炎を松明のように振り回し、よろめき、はためきながら滝の縁へ進み、そこでためらい、絶望的な自殺の跳躍とともに消えた。
切り離された船首だけが、小さな島に引っかかって残った。かつてグリーン島と呼ばれ、本土と、ゴート島の木立との間の踏み石となっていた島だった。
バートはこの惨事を追い、「分水点」から橋のたもとまで来た。それから、隠れることも忘れ、吊り橋の上に、壁のない巨大な家の屋根のように浮かぶアジア船も気にせず、北へ全速力で走った。そして初めて、ルナ島のそば、アメリカ滝を真下に見下ろす岩の突端へ出た。そこで、永遠に響きつづける水音のなか、息を切らして立ち、息を切らしたまま見つめた。
はるか下では、巨大な空袋のようなものが渦を巻き、峡谷をすばやく流れ下っていた。バートにとって、それは何を意味したか――いや、意味しないものがあっただろうか。ドイツ航空艦隊、クルト、王子、ヨーロッパ、確かでなじみ深いすべて、自分をここへ連れてきた力、勝利が疑いないと思えた力。それが空袋のように急流を下り、目に見える世界をアジアへ、キリスト教世界の外の黄色い人々へ、恐ろしく見知らぬすべてへと明け渡していった!
カナダのはるか上空では、残る戦いが遠ざかり、視界の彼方へ消えていった……。
第九章 ゴート島にて
一
すぐ脇の岩に銃弾がぴしりと当たり、バートは、自分が丸見えで、しかも一部とはいえドイツ軍の制服を着ていることを思い出した。また木立へ飛びこみ、しばらくは、いるはずもない鷹から葦の間へ逃げこむ雛のように、身をかわし、伏せ、隠れ場所を探しまわった。
「負けたんだ」とささやいた。「負けて、おしまいだ……中国人だ! 黄色い連中が追いまわしてる!」
やがて、鍵をかけて閉めきった無人の売店のそば、アメリカ側の岸が見渡せる茂みに落ち着いた。枝葉は頭上ですっかり重なり、穴ぐらのような格好の隠れ家になっていた。急流の向こうを見やったが、銃声はもう完全にやみ、何もかも静かに見えた。吊り橋の上にいたアジアの飛行船は位置を変え、今はナイアガラ市の上空に静止して、地上戦の舞台となった発電所付近一帯に影を落としていた。その巨体には、静かな、自信に満ちた支配者の風格があった。船尾からは長い旗が、飾りのようにゆるやかになびいている。赤と黒と黄、大同盟の旗、旭日と竜である。その向こう、東のずっと高いところにも一隻の僚船が浮かんでいた。やがて少し勇気を取り戻したバートが這い出して首を伸ばすと、南の夕焼けを背に、もう一隻の飛行船がじっと浮かんでいた。
「うわあ」と言った。「負けて、追っぱらわれたんだ! なんてこった!」
ナイアガラ市の戦闘は、最初のうち、すっかり終わったように見えた。とはいえ、破壊された一軒の家にはまだドイツ国旗がひるがえっていた。発電所の上には白いシーツが掲げられ、それはその後の出来事のあいだもずっとなびいていた。だが間もなく銃声がして、ドイツ兵たちが駆けてきた。兵たちが家並みに消えると、今度は青いシャツとズボンの技師が二人、刀を持った三人の日本兵に激しく追い立てられて現れた。先を走る男は均整の取れた体つきで、身軽に、みごとな足取りで駆けていた。もう一人は小柄でがっしりした、かなり太った男だった。ふくよかな腕を脇で折り曲げ、頭をのけぞらせて、跳ねたり飛んだりしながら滑稽に走っていた。追手は軍服をまとい、黒っぽい薄い金属と革でできた兜をかぶっていた。小柄な男がつまずいた。バートは息をのみ、戦争の新たな恐ろしさを知った。
先頭の刀を持った兵が三歩ぶん追いつき、斬りつけられる距離に入ったが、男が急に足を速めたので刃は空を切った。
十二ヤードほど走ると、兵はまた斬りつけた。小柄な太った男が前のめりに倒れたとき、水音を越えて、妖精の牛の鳴き声のような小さな声がバートの耳に届いた。刀が振り下ろされ、また振り下ろされた。地面に転がったものが、何の役にも立たぬ両手で身を守ろうとしている。「ああ、だめだ、見てられねえ!」バートは泣きださんばかりに叫び、飛び出しそうな目で見つめた。
兵は四度目の刀を振り下ろすと、足の速いほうの男を追って仲間たちが駆け寄ってくるのに合わせ、また走りだした。最後尾の兵が立ち止まって引き返した。何か動くのが見えたのかもしれない。ともかく、その場に立ち、倒れた体に何度も刀を振り下ろした。
「うう、うう!」刃が落ちるたびバートはうめき、茂みの奥へ縮こまって、息をひそめた。やがて町のほうで銃声がし、それからすべてが静まり返った。何もかも、病院さえも。
しばらくすると、小さな人影が刀を鞘に収めながら家々の間から出てきて、爆弾に壊された飛行機の残骸へ歩いていくのが見えた。別の者たちは、無傷の飛行機を自転車でも押すように車輪で転がしてきて、鞍に飛び乗り、羽ばたいて空へ上がった。はるか東に三隻の飛行船が一列に現れ、頭上へ向かって飛んできた。ナイアガラ市の低空に浮かんでいた一隻はさらに降下し、発電所から人を収容するため縄ばしごを下ろした。
バートは長いあいだ、猟の集合を見守る兎のように、ナイアガラ市で続く出来事を見つめていた。男たちが建物から建物へと渡り歩いている。やがて、火をつけているのだとわかった。発電所の水車坑からは、鈍い爆発音が続けざまに聞こえた。カナダ側の施設でも同じようなことが行われていた。その間にも飛行船は次々と姿を現し、飛行機はさらに多く集まって、ついにはアジア艦隊の三分の一近くが再集結したように思えた。バートは茂みの中で、体がこわばっても身じろぎせず、集結し、隊列を整え、信号を交わし、人員を収容する艦隊を見つめていた。やがて艦隊は燃える夕焼けへと去っていった。クリーヴランドの油井上空にある、アジア軍の大集結地点へ向かうのである。船影は小さくなり、消えていった。あとに残ったのはバート一人。見渡すかぎり、生きている人間は彼だけだった。そこは廃墟と、言葉ではほとんど言い表せぬ奇妙な孤独の世界だった。遠ざかり、消える艦隊を見送った。口をあけたまま、その行方を見つめて立っていた。
「うわあ!」ようやく、夢うつつから我に返るように言った。
胸に押し寄せたものは、一個人の孤独や絶望などをはるかに超えていた。これはまさしく、自分の人種そのものの落日なのだと思えた。
二
はじめのうち、自分の窮状を、はっきりした理解できる言葉で捉えることはなかった。このところあまりに多くのことが身に降りかかり、自分の努力はあまりに何の役にも立たなかったため、ただ受け身で、何の計画も持たなくなっていた。最後に立てた計画は、「砂漠の修道僧」に扮し、上品な余興を世間の人々に披露しながら、イングランドの海岸を巡ることだった。それを運命が押しつぶした。運命は彼を別の行く末へ導こうと決め、あちらこちらへ慌ただしく運び、とうとう滝と滝の間にある、この小さなくさび形の岩の上へ落としていった。今度は自分が動く番だとは、すぐには思いつかなかった。これはみな夢が終わるように終わり、じきにきっとグラブとエドナとバン・ヒルの世界に戻るのだという、不思議な気持ちがあった。この轟音も、絶えずきらめきながら流れる水の存在も、休日の幻灯会が終わって幕が引かれるように脇へ退き、昔なじみのありふれた物事が、またもとの力を取り戻すのだ。ナイアガラを見てきた話をみんなにしたら、さぞ面白いだろう。すると、クルトの言葉が頭に浮かんだ。「愛する者から引き離される人々。壊される家庭。命も、思い出も、その人なりのささやかな才もある者たちが――引き裂かれ、飢えさせられ、台なしにされる」……
本当にそうなのだろうかと、半信半疑で考えた。実感するのはひどく難しかった。この遠い向こうで、トムとジェシカも何か恐ろしい窮地に陥っていることなど、ありうるのだろうか。あの小さな八百屋は、もう店をあけていないのか。ジェシカが丁寧に客を迎え、合間に辛辣な小声でトムの耳を痛めつけ、時間どおりに品物を届けに出す――そんな日々はなくなったのか。
今日は何曜日か考えてみたが、もう日を数えられなくなっていた。日曜日かもしれない。だとしたら、二人は教会へ行っているのか、それとも隠れているのか、ひょっとすると茂みの中に。あの宿の主人や肉屋はどうなったのだろう。バタリッジや、ディムチャーチの浜辺にいた人たちは。ロンドンで何かがあったことは知っていた――爆撃だ。しかし、誰が爆撃したのか。トムとジェシカも、長い抜き身の刀と邪悪な目を持つ、見知らぬ褐色の男たちに追いまわされているのだろうか。さまざまな苦難のありようを思い描いたが、やがて一つがほかをみな押しのけた。二人はちゃんと食べているのだろうか。その問いが取りついて離れず、頭を占めた。
ひどく腹が減ったら、人は鼠を食べるだろうか。
自分を押しつぶしているこの妙な苦しさは、不安や祖国を思う悲しみというより、空腹なのだと気づいた。そうだ、腹が減っているのだ!
ひとしきり考えると、壊れた橋の端近くにある小さな売店へ足を向けた。「何かあるはずだ――」
一、二度まわりを歩いてから、ポケットナイフで鎧戸をこじ開けにかかった。じきに、ちょうど近くで見つけた木の杭も使った。とうとう一枚がゆるみ、それを引き剝がして頭を突っこんだ。
「食いもんだ」と言った。「とにかく。まあ、少なくとも――」
鎧戸の内側の留め具に手が届き、じきに店をあけて中を調べられるようになった。封をした殺菌牛乳の瓶が数本、たっぷりのミネラルウォーター、ビスケットの缶が二つと、すっかり古くなった菓子の入った壺、大量だがひどく乾いた紙巻き煙草、やや干からびたオレンジ、木の実、肉や果物の缶詰、それに数十人分の皿、ナイフ、フォーク、コップが見つかった。亜鉛張りの収納箱もあったが、南京錠はどうしても開かなかった。
「飢え死にはしねえな」とバートは言った。「当分は、とにかく。」
売り手の椅子に腰かけ、ビスケットと牛乳に舌鼓を打つと、一時はすっかり満ち足りた気分になった。
「ずいぶん落ち着くぜ」と、むしゃむしゃ食べながら、落ち着きなくあたりに目を走らせてつぶやいた。「あんな目に遭ったあとじゃな。
「ちくしょう! なんて一日だ! ああ、なんて一日だったんだ!」
驚嘆が胸を占めた。「うわあ!」と叫んだ。「なんて戦いだったんだ! かわいそうに、みんなめちゃめちゃだ! 真っ逆さまだ! 飛行船も――飛行機も、何もかも。あのツェッペリンはどうなったんだろう……あのクルトってやつも――あいつはどうなったんだ? いいやつだったよ、クルトは。」
帝国を気づかう思いの幻が、頭をよぎった。「インドはなあ」と言った……
もっと実際的な関心がわいてきた。
「このコンビーフの缶、何か開けるものはねえかな?」
三
たっぷり食べると、バートは煙草に火をつけ、しばらく物思いにふけって座っていた。「グラブはどこにいるんだろう」と言った。「ほんと、どこにいるんだろうな! 誰かおれのこと、どうしてるかと思ってくれてるかな?」
また自分の境遇に思いを戻した。「どうやら、しばらくこの島にいなきゃならねえな。」
安心してくつろごうとしたが、じきに、仲間から切り離された社会的動物の、言い知れぬ落ち着かなさに悩まされた。背後を振り返りたくなってきたので、それを振り払うため、腰を上げて島の残りを探検することにした。
自分の置かれた状況がどういうものか、グリーン島と本土を結ぶ橋のアーチが落ちたことで、世間から完全に切り離されたのだということを、ようやく少しずつ悟りはじめた。実際、そのことが腑に落ちたのは、座礁船のように横たわるホーエンツォレルン号の前部へ戻り、壊れた橋を眺めたときだった。それでも衝撃らしい衝撃はなかった。どうにも扱いかねる異常な事実がいくつもある、その一つにすぎなかった。バートはしばらく、ホーエンツォレルン号の壊れた船室と、寡婦の喪服のように乱れた絹の外皮を見つめたが、中に生き物がいるとは少しも思わなかった。何もかもねじれ、潰れ、すっかり逆さまになっていたからだ。それからしばらく、夕空を眺めた。薄雲が広がりはじめ、飛行船は一隻も見えなかった。燕が一羽飛び過ぎ、目に見えぬ獲物をぱくりと捕らえた。「夢みたいだ」とまた言った。
次に、しばらく心をとらえたのは急流だった。「ごうごういってる。いつまでも、いつまでも、ごうごうざぶざぶいってる。ずうっとだ……」
ようやく関心が自分のことに戻った。「さて、どうすりゃいいんだろう?」
考えた。「まるっきり思いつかねえ」と言った。
何より強く感じられたのは、二週間前には旅に出ようなど思いもせずバン・ヒルにいたのに、今は世界最大の空中戦が残した荒廃と残骸のただ中、ナイアガラの滝の間にいて、その間にフランス、ベルギー、ドイツ、イングランド、アイルランド、その他いくつもの国を通ってきたということだった。面白い思いつきで、話の種にはよかったが、実用にはあまりならなかった。「どうしたらここから出られるんだろう?」と言った。「出口はあるのかな? なかったら……妙な話だぜ!」
さらに考えて、結論を出した。「あの橋を渡って、とんだ袋小路へ入りこんじまったらしいな……
「ま、ともかく――あの日本人どもからは逃げられた。あいつら、おれの喉なんか、あっという間にかっ切ったろうさ。うん。それでも――」
ルナ島の先端へ戻ることにした。長いあいだ身じろぎせず、カナダ側の岸、ホテルや家々の残骸、そして日没の光で薔薇色に染まるヴィクトリア公園の倒木をつぶさに眺めた。そのなだれ落ちるような破壊の風景には、人影一つ見当たらなかった。それから島のアメリカ側へ戻り、潰れたホーエンツォレルン号のアルミニウムの残骸のすぐそばを通ってグリーン小島へ渡り、先の橋にぽっかり開いた絶望的な切れ目と、その下で煮え立つ水をじっと見た。バッファローの方角にはまだ大量の煙があり、ナイアガラ駅のあたりでは家々が激しく燃えていた。今やどこにも人はいず、すべてが静かだった。町と道路を結ぶ横道に、小さなものが一つ、置き去りにされていた。しわくちゃの衣服の山から、手足が投げ出されていた……
「ひとまわり見てみよう」とバートは言い、島の中央を通る道へ入った。じきに、ホーエンツォレルン号を最期へ追いやった戦いで墜落した、アジア軍の飛行機二機の残骸を見つけた。
一機目には、飛行士の残骸もあった。
飛行機は明らかに垂直に落ち、林の中のへし折れた枝に埋もれて、ひどく壊れていた。曲がり、折れた翼と砕けた支柱が、裂けたばかりの木の間に広がり、機首は地面に突き刺さっていた。飛行士は数ヤード離れた枝葉の中で、頭を下にして奇妙にぶら下がっていた。バートがそれを見つけたのは、飛行機から顔を背けたときだった。薄暗い夕暮れの光と静けさの中で――日はすでに沈み、風もすっかりやんでいた――わずか二ヤード先に逆さまの黄色い顔を突然見つけるのは、およそ心の安まる経験ではなかった。折れた枝が胸をまっすぐ貫き、その枝に刺しとめられた男は、ぐったりと、間の抜けた格好でぶら下がっていた。片手にはなお、短く軽い小銃を、死の握力でつかんでいた。
しばらくバートは身動き一つせず、このものを調べるように見つめた。
それから歩き去りはじめたが、何度も何度も振り返った。
やがて木のない空き地に出て、立ち止まった。
「うわあ!」とささやいた。「死体って、どうも苦手だな! あいつ、生きてたほうがまだよかったくらいだ。」
中国人がぶら下がっている下の道は通るまいと思った。もう木に囲まれるのは嫌で、人なつこくざぶざぶと騒ぐ急流のすぐそばにいるほうが、居心地がよさそうだった。
流れの脇の開けた草地で、二機目の飛行機に出くわした。こちらはほとんど壊れていないようだった。ふわりと降りて、そのまま休んでいるかに見えた。横倒しになり、片翼を空へ向けていた。近くには、生きている飛行士も死んだ飛行士もいなかった。ただ置き去りにされ、長い尾に水が寄せていた。
バートは長いこと少し距離を取り、また中国人が、生きているにせよ死んでいるにせよ、どこかにいるのではないかと、木々の間で濃くなる影に目を凝らした。それからごく用心深く機体に近づき、広げられた翼、大きな操縦輪、誰もいない鞍を眺めて立った。触ってみる勇気はなかった。
「あっちの男さえ、いなきゃなあ」と言った。「ほんと、あいつさえいなけりゃ!」
数ヤード先の、突き出した岩の内側で巻く渦に、何かが浮き沈みしていた。ぐるぐる回るそれは、気の進まぬバートを引き寄せるかのようだった……
何だろう?
「ちぇっ!」とバートは言った。「もう一人いやがった。」
目が離せなくなった。もう一人の飛行士が、戦いで撃たれ、着陸しようとして鞍から落ちたのだと考えた。立ち去ろうとしたが、枝か何かを持ってきて、回っているものを本流へ押し出せばいいと思いついた。そうすれば、気にしなくてはならない死体は一つだけになる。一つなら、どうにかやっていけるかもしれない。ためらったのち、ある種の気持ちに駆られ、自分を無理に動かした。茂みへ行って細い枝を切り取り、岩へ戻り、渦と本流の間の角までよじ登った。そのころには夕焼けは消え、蝙蝠が飛びはじめていた――そしてバートは汗でびっしょりだった。
青い服を着た浮かぶものを枝で突いたが、うまくいかなかった。もう一度回ってきたときに試すと、今度はうまくいった。本流へ流れ出すとき、そのものは裏返った。金色の髪に光がきらめいた――クルトだった!
クルトだった。白く、死んでいて、とても穏やかだった。見間違いようもなかった。それと見定めるだけの明るさは、まだ十分にあった。流れに捕らえられると、休もうと身を伸ばす人のように、その速い抱擁の中で姿勢を整えたように見えた。顔は今や真っ白で、体からは血の気がすっかり失せていた。
遺体が滝へ向かって見えなくなると、果てしない苦しさがバートを襲った。「クルト!」と叫んだ。「クルト! そんなつもりじゃなかったんだ! クルト! おれをここに置いてくな! 置いてくなよ!」
孤独と寂寥が押し寄せた。もう耐えられなかった。夕暮れの岩の上に立ち、子供のように激しく泣き、声を上げた。自分をこのすべてにつなぎとめていた何かが、切れて消えたようだった。誰もいない部屋の子供のように怖かった。恥も外聞もなく怖かった。
薄闇がまわりを包みはじめた。木々には今や奇妙な影が満ちていた。身のまわりの何もかもが、夢の中で最もしばしば感じる、あの捉えがたい不気味さを帯び、見知らぬ異様なものに変わっていった。「ああ神様! もう耐えられねえ」と言い、岩から草地へ這い戻ってしゃがみこんだ。すると突然、クルトの死を悼む激しい悲しみが――勇敢なクルト、親切なクルトへの悲しみが――救いに来た。弱々しいすすり泣きが、涙を流す慟哭へと変わった。しゃがんでいるのをやめ、草の上に腹ばいになり、無力な拳を握りしめた。
「この戦争め」と叫んだ。「この、くそくだらねえ戦争め。
「ああ、クルト! クルト中尉!
「もうたくさんだ」と言った。「もうたくさんだ。十分すぎるほどだ。もう、いらねえ。世の中なんてでたらめだ、何の意味もねえ。夜が来る……あいつが追っかけてきたら――あいつが来るはずはねえ――来るはずは! ……
「あいつが追っかけてきたら、おれは水へ飛びこむ」……
やがてまた、低い声で話しはじめた。
「ほんとは、怖がるもんなんか何もねえ。気のせいだ。かわいそうなクルト――こうなると思ってたんだ。予感みたいにな。あの手紙もくれなかったし、相手の女の人が誰かも言わなかった。あいつの言ったとおりだ――みんな、自分の居場所から引きはがされる――どこでも。まるっきり、あいつの言ったとおりだ……おれはこうして取り残されてる――エドナやグラブや仲間のみんなから、何千マイルも離れて――根っこごと引き抜かれた草みてえに……戦争って、いつだってこうだったんだ。ただ、おれにはわかるだけの頭がなかった。いつだってそうだ。あらゆる穴ぐらや片隅で、人が死んできたんだ。それをみんな、わかるだけの頭も、身にしみて感じてやめさせるだけの頭もなかった。戦争は立派だと思ってた。なんてこった! ……
「大好きなエドナ。ほんと、いい娘だった――ほんとにな。キングストンでボートを借りた、あのとき……
「きっと――また会ってみせる。会えなくたって、おれが手を尽くさなかったせいにはしねえ」……
四
その勇ましい決意が固まりかけたまさにそのとき、バートは突然、恐怖に体をこわばらせた。何かが草の中を這って近づいてくる。薄暗い草の中を、何かが這い、止まり、また這って近づいてくる。夜は恐怖を帯びてびりびりと震えた。しばらく、すべてが静まり返った。バートは息を止めた。そんなはずはない。いや、小さすぎる!
それはいきなり、か細くみゃあと鳴き、尾をぴんと立てて駆け寄ってきた。バートに頭をこすりつけ、喉を鳴らした。ちっぽけな、痩せた子猫だった。
「おい、猫ちゃん! びっくりさせやがって!」とバートは言った。額には汗の粒が浮かんでいた。
五
バートは一晩じゅう、切り株に背を預け、子猫を抱いて座っていた。頭は疲れきり、もう筋道の立ったことを話すことも考えることもなかった。夜明け近くに、うとうとした。
目が覚めると、体はこわばっていたが、気分はよくなっていた。上着の中で子猫が暖かく眠り、そのぬくもりが心を落ち着かせた。そして木々の間からは、恐怖が消えていた。
子猫をなでると、小さな生き物は目を覚まし、夢中で甘えて喉を鳴らした。「ミルクが欲しいんだな」とバートは言った。「そうだろ。おれもちっと朝飯が欲しいよ。」
あくびをして立ち上がり、子猫を肩に乗せたまま周囲を見渡して、前日の事情を、あの灰色の途方もない出来事を思い出した。
「何かしなきゃな」と言った。
木立のほうへ向かい、じきにまた死んだ飛行士を眺めていた。子猫は友達のように首筋へ抱き寄せた。死体は恐ろしかったが、夕暮れほどではなかった。手足はいっそう力なく垂れ、小銃は地面に落ちて、草に半ば隠れていた。
「埋めてやったほうがいいんだろうな、猫ちゃん」とバートは言い、あたりの岩だらけの地面を途方に暮れて見まわした。「こいつと一緒に、この島にいなきゃならねえんだ。」
顔を背け、食料のある売店へ歩きだせるまで、少し時間がかかった。「まずは朝飯だ」と言った。「とにかくな」。肩の子猫をなでた。子猫は毛むくじゃらの小さな顔を愛情深くバートの頬にこすりつけ、やがて耳を軽くかじった。「ミルクが欲しいんだろ、え?」と言い、死者などどうでもいいかのように背を向けた。
昨夜は丁寧に閉めて掛け金までかけたのに、売店の戸が開いているのを見て、不思議に思った。台の上には、前には気づかなかった汚れた皿もあった。金属張りの収納箱は蝶番のねじが外され、開けられることがわかった。昨夜はそれに気づかなかったのだ。
「ばかだな、おれは!」とバートは言った。「ちっとも気づかずに、南京錠を前に首ひねって、がんがんやってたんだから。」
どうやら氷冷蔵庫として使われていたらしいが、今入っていたのは、茹でた鶏半ダースぶんの食べ残し、かつてバターだったかもしれない得体の知れぬ物体、そしてひときわ食欲をなくさせる臭いだけだった。蓋をまた丁寧に閉じた。
汚れた皿に牛乳を入れて子猫にやり、しばらく座って、せわしなく動く小さな舌を眺めた。それから食料の在庫を調べる気になった。牛乳は未開封の瓶が六本、開けたものが一本。ミネラルウォーターが六十本、シロップが大量にあり、紙巻き煙草が二千本ほど、葉巻が百本以上、オレンジが九個、コンビーフは未開封が二缶と開けたものが一缶、それにカリフォルニア産の桃の大缶が五つ。紙切れに書きつけた。「腹の足しになるもんは少ねえな」と言った。「まあ、それでも――二週間ってとこか!
「二週間あれば、何が起こるかわからねえ。」
子猫に牛乳のおかわりを少しと牛肉のかけらをやり、それからホーエンツォレルン号の残骸を見に降りていった。小さな連れは、尾を立て、上機嫌で後ろを駆けてきた。
残骸は夜の間にずれたらしく、全体として前よりしっかりグリーン島に乗り上げているようだった。そこから壊れた橋へ、さらに対岸のナイアガラ市の静かな荒廃へと目を移した。動くものは、何羽かの烏だけだった。前の日に斬り倒されるのを見た技師のところで、忙しそうにしていた。犬は見えなかったが、一匹が遠吠えするのは聞こえた。
「何とかしてここを出なきゃな、猫ちゃん」と言った。「あのミルクも、いつまでもはもたねえぞ――おまえの飲みっぷりじゃな。」
目の前の、水門を抜けるような奔流を眺めた。
「水ならたっぷりだ」と言った。「飲むもんには困らねえ。」
島を念入りに探検することにした。やがて「ビドル階段」と書かれた施錠された門に行き当たり、よじ登って越えると、崖に沿って下へ続く、急な古い木の階段を見つけた。水の轟音は凄まじく、下るほどに大きくなった。子猫を上に残して降りると、中央の滝がごうごうと流れ落ちる足元の岩場に、一本の道を見いだし、希望に胸を躍らせた。これはどこかへ通じる道かもしれない!
だが道の果てにあったのは、「風の洞窟」での息も詰まり、耳も聞こえなくなるような体験だけだった。固い岩と、それに劣らず固い滝の間でぺしゃんこになり、半ば呆然として十五分ほど過ごしたあげく、やはりここはカナダへ渡る実用的な道ではないと判断し、引き返した。ビドル階段を上り返す途中、頭上の砂利道を誰かが歩きまわるような音がした。結局、一種の反響に違いないと考えた。上に着くと、あたりは前と同じように無人だった。
そこから、子猫がそばの草むらを跳ねまわるのを連れ、別の階段へ向かった。その下の突き出した岩からは、壮大な緑色のホースシュー滝を横から見通せた。バートはしばらく黙って立っていた。
「こんなに水があるなんて」と、ようやく言った。「思いもしねえよな……このごうごうざぶざぶも、しまいにゃ神経に障るぜ……人が話してるみてえだ……人が歩きまわってるみてえだ……考えようで、何にでも聞こえる。」
また階段を上って戻った。「この忌々しい島を、ずっと歩きまわることになるんだろうな」と、陰鬱に言った。「ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。」
やがて、あまり壊れていないほうのアジア軍飛行機のそばへまた来ていた。バートは機体を見つめ、子猫は匂いをかいだ。「壊れてやがる!」と言った。
はっと体を震わせて顔を上げた。
木々の間から、背の高い、やつれた二人の男がゆっくり近づいてきた。黒く汚れ、服はぼろぼろで、包帯を巻いていた。後ろの男は足を引きずり、頭が白い布に包まれていた。だが先頭の男は、左腕を吊り、顔の片側が火傷でどす赤くなっていても、なお王子らしい身のこなしを保っていた。軍神、「ドイツのアレクサンドロス」、カール・アルベルト王子だった。後ろの男は、かつて自分の船室を取り上げられてバートにあてがわれた、あの鳥のような顔の男だった。
六
二人の出現によって、バートのゴート島での経験は新たな段階へ入った。もはや、広大で凶暴で不可解な宇宙にただ一人残された人類の代表ではなかった。また社会的な生き物へ、ほかの人間のいる世界の人間へ戻ったのである。一瞬、この二人は恐ろしく見えたが、次には兄弟のようにありがたく、好ましく思えた。二人も同じ難儀に陥り、取り残され、途方に暮れているのだ。いったい二人に何が起こったのか、詳しく聞きたくてたまらなかった。一人が王子で、二人とも外国の軍人で、おそらくどちらも満足に英語を話せないからといって、何だというのだ。生まれながらのロンドン下町っ子の気取りのなさが、そんなことを考える余地もなく、ふんだんにあふれ出した。そもそもアジア艦隊が、そうした些細な違いなど、みな洗い流してしまったではないか。「よう!」と言った。「どうやってここへ来たんだ?」
「バタリッジの機械を持ってきた、あのイギリス人です」と、鳥顔の将校がドイツ語で言った。それから、バートが近づくと、ぎょっとした声で「敬礼!」、さらに声を張って「敬礼せんか!」と言った。
「なんだよ!」バートは立ち止まり、もう一言、口の中でつぶやいた。じろじろ見ながらぎこちなく敬礼し、たちまち仮面をかぶって身構え、協力などできない人間に変わってしまった。
この磨き上げられた二人の近代貴族は、しばらく、アングロサクソンの一市民という難題を見つめていた。血の中の不可思議な法則に従って、軍隊式の規律にも服さず、かといって民主主義者にもならない、あのどっちつかずの市民である。バートは決して見栄えのする姿ではなかったが、どういうわけか反抗的に見えた。安物のサージの服には、今やあちこちに傷みが目立ち、だぶだぶの仕立てのせいで実際よりがっしりして見えた。人を食った顔の上には大きすぎるドイツ軍の白い帽子があり、ズボンは脚にしわくちゃにたまり、裾は死んだドイツ人飛行士のゴム製短靴に押しこまれていた。下等な者には見えたが、決して扱いやすい下等な者ではなく、二人は本能的に彼を嫌った。
王子は飛行機を指し、片言の英語で何か言ったが、バートはドイツ語だと思い、理解できなかった。わからないという身ぶりをした。
「愚か者め!」鳥顔の将校が包帯の中から言った。
王子は無傷の手でまた指さした。「おまえ、このドラッヘンフリーガー[訳注:ドイツ語で「竜の飛行機」の意。作中の羽ばたき式飛行機]、わかるか?」
バートにも事情がわかりはじめた。アジア軍の機体を眺めた。バン・ヒルでの習慣が戻ってきた。「外国製ですね」と、どっちとも取れる答えをした。
ドイツ人二人は相談した。「おまえ、専門家か?」と王子が言った。
「まあ、修理は請け負ってます」とバートは、そっくりグラブの口ぶりで言った。
王子は言葉を探した。「これ」と言った。「飛ぶ、だいじょぶか?」
バートは考え、ゆっくり頬をかいた。「見てみねえと」と答えた……「ずいぶん乱暴に扱われてますからね!」
グラブから覚えた、歯の間で鳴らす音を立て、両手をズボンのポケットに入れて、ぶらぶらと機体へ戻った。こういうときグラブなら何かを噛んでいるのだが、バートは気分だけで噛むしかなかった。「こりゃ三日はかかるな」と、歯を動かして言った。この機体には使い道があるのだと、初めて気がついた。地面に接した翼がひどく傷んでいるのは明らかだった。翼を張って支える三本の支柱が岩の稜線に当たって折れ、エンジンも相当傷んでいる可能性が高かった。そちら側の翼鉤も曲がっていたが、それはおそらく飛行には響かない。そのほかは、大した故障はなさそうだった。また頬をかき、日差しを浴びて広々と荒れ狂う上流の早瀬を眺めた。「何とかなるかもしれねえな……おれに任せときな。」
バートはもう一度、熱心に機体を調べ、王子と将校はその様子を見守った。バン・ヒルでバートとグラブは、貸し自転車の在庫を使い、部品を交換する修理法を大いに発達させていた。他の機械の部品を移すのである。あまりにも、誰の目にも明らかに壊れきっていて、貸し出すことさえできない自転車にも、なお資産価値があった。ナット、ねじ、車輪、棒、スポーク、鎖の環などの採石場となるのだ。まだ現役の自転車の不具合を埋め合わせる、寸法の合わない「部品」の鉱山である。そして木立の奥には、もう一機のアジア軍飛行機があった……
子猫がバートの飛行士用の靴にすり寄ったが、気づかれなかった。
「そのドラッヘンフリーガー、直せ」と王子が言った。
「仮に直したって」とバートは、新たなことに思い当たって言った。「ここに、まともに操縦できるやつはいねえでしょう。」
「わたしが飛ぶ」と王子は言った。
「首の骨、折るのが落ちですね」とバートは、間を置いて言った。
王子は意味がわからず、その言葉を無視した。手袋をはめた指で機体を指し、鳥顔の将校に向き直ってドイツ語で何か言った。将校が答え、王子は空へ大きく手を振って応じた。それから一席ぶった。どうやら雄弁に語っているらしかった。バートは眺めながら、言っていることを推し量った。「首の骨を折るほうが、ずっとありそうだがね」と言った。「まあ、いいや。やるか。」
道具を探して、飛行機の鞍やエンジンのあたりをのぞきはじめた。それに、手や顔に塗る黒い油汚れも欲しかった。グラブ・アンド・スモールウェイズ商会の修理術では、手と顔を徹底的に、誰にも文句のつけようがないほど真っ黒にするのが、第一の心得だったのである。上着とチョッキも脱ぎ、頭をかきやすいよう、帽子を念入りに後ろへずらした。
王子と将校は作業を見物するつもりらしかったが、バートは、それでは邪魔だ、仕事にかかる前に「ちっと考えをまとめる」必要がある、と何とか伝えた。二人は彼を見定めようとしたが、店での経験から、バートには素人を相手にする専門家らしい威厳が多少身についていた。とうとう二人は去った。するとバートはまっすぐもう一機の飛行機へ行き、飛行士の銃と弾薬を取って、すぐ近くのイラクサの茂みに隠した。「これでよし」と言ってから、木々の間の翼の残骸を念入りに調べた。その後、最初の機体へ戻って二つを比べた。エンジンに絶望的な故障や理解できない仕組みがなければ、バン・ヒル方式は十分使えそうだった。
やがてドイツ人たちが戻ると、バートはもう気前よく煤だらけになり、底知れぬ知恵があるような顔で、つまみやねじやレバーに触れ、調べていた。鳥顔の将校が声をかけると、手を振って退け、「ノン・コンプロン[訳注:フランス語の「わからない」をまねた片言]。黙っててくれ! 言っても無駄だ」と言った。
そこで思いついた。「あっちの死んだやつ、埋めてやんなきゃ」と言い、親指で肩越しに示した。
七
この二人が現れて、バートの宇宙全体はまた変わった。彼を打ちのめしていた、広大で恐ろしい孤独の前に幕が下りた。今いるのは三人の世界だった。ごく小さな人間の世界だが、それでも熱心な推測や計画や抜け目ない考えで頭をいっぱいにするには十分だった。あいつらは何を考えている? おれをどう思っている? 何をするつもりだ? アジア軍の飛行機に丹念に手を入れている間、忙しい思考の糸が百本も頭の中で交錯した。新しい考えが、ソーダ水の泡のように浮かんできた。
「ちくしょう!」と突然言った。運命のこの不条理な不公平が、ひときわ際立つ事実に今気づいたのである。この二人は生きていて、クルトは死んだ。ホーエンツォレルン号の乗組員はみな、撃たれ、焼かれ、潰され、溺れたのに、クッションのある前部船室に潜んでいたこの二人は助かった。
「あいつは、自分のありがたい星の加護だと思ってるんだろうな」とつぶやき、抑えきれぬ腹立ちを覚えた。
立ち上がり、二人に向き直った。二人は並んで立ち、彼を見つめていた。
「そうやって」と言った。「じろじろ見たってしょうがねえだろ。気が散るだけだ。」
それから、通じていないのを見て、レンチを持ったまま近づいた。近づきながら、王子は実際、とても大きく、強そうで、落ち着き払った男だと思った。それでも木々の奥を指さし、「死人!」と言った。
鳥顔の男が割って入り、ドイツ語で答えた。
「死人だ!」とバートは言った。「あそこ!」
死んだ中国人を見に行かせるのには大変な苦労がかかり、とうとう自分で案内した。すると二人は、士官より身分の低い平民であるバートこそ、死体を水辺へ引きずっていって処分する栄誉を、独占すべきだという意向を明らかにした。激しい身ぶりの応酬があり、ようやく鳥顔の将校が身を低くして手を貸した。二人で、ぐったりして、もう膨らみはじめたアジア人を木立の中へ引きずった。引くにはひどく重かったので、一度か二度休み、それから西へ向かう急流へ放りこんだ。ようやく飛行機の専門的な点検に戻ったバートは、両腕が痛み、陰気な反抗心に満ちていた。「ずうずうしいにもほどがある!」と言った。「まるでおれが、あいつの忌々しいドイツ人奴隷の一人みてえじゃねえか!
「気取りくさった野郎め!」
そして、飛行機が直ったら――直せるとしてだが――どうなるだろうと考えはじめた。
ドイツ人二人はまた去った。少し考えたのち、バートはいくつかのナットを外し、上着とチョッキを着直し、ナットと工具をポケットに収め、もう一機の工具一式を木の股に隠した。「よっしゃ」と、最後の用心を終えて飛び降りながら言った。水辺の機体へ戻ると、王子と連れがまた現れた。王子はしばらく仕事の進み具合を見てから、水流の分岐点へ向かい、腕を組んで上流を見つめ、深く考えこんだ。鳥顔の将校は、一文の英語を重たげに抱えてバートに近づいた。
「行け」と、身ぶりを添えて言った。「そして、食え。」
売店へ行くと、きっちり一人前に分けたコンビーフとビスケット三枚を除き、食料はすべて消えていた。
バートは目も口も開けたまま、それを見つめた。
子猫が売り手の椅子の下から現れ、ご機嫌を取るように喉を鳴らした。「そうだよな!」とバートは言った。「おい、おまえのミルクはどうした?」
しばらく怒りをためこんでから、片手に皿、もう片手にビスケットをつかみ、「食いもん」と自分の腹の中のことをめぐって下品な悪態をつきながら、王子を探しに出た。敬礼もせず近づいた。
「おい!」と荒々しく言った。「こりゃいったい何のつもりだ?」
まったく埒のあかない口論が続いた。バートは、食事と仕事の能率の関係について、バン・ヒル流の理論を英語で説き、鳥顔の男は、国家と規律についてドイツ語で応じた。王子はバートの性質と体格を値踏みすると、突然、威圧に出た。肩をつかみ、ポケットががちゃがちゃ鳴るほど揺さぶり、何か怒鳴り、もがくバートを後ろへ突き飛ばした。ドイツの一兵卒を殴るように殴った。バートは青ざめ、おびえながら後ずさったが、下町っ子のあらゆる掟に照らして、一つだけは決めていた。面目にかけて、王子に「食ってかかる」しかない。「ちくしょう!」と息を弾ませ、上着のボタンをかけた。
「さあ」と王子は叫んだ。「行くか!」そして、バートの目に勇ましい光が宿るのを見ると、剣を抜いた。
鳥顔の将校が割って入り、ドイツ語で何か言って空を指さした。
南西のはるか向こうに、日本の飛行船が現れ、こちらへ急速に近づいてきた。争いはそれで終わった。最初に状況を悟り、退却を先導したのは王子だった。三人とも兎のように木立へ逃げこみ、あちこち遮蔽物を求めて走りまわり、草の伸び放題になった窪地を見つけた。そこで互いに六ヤード以内の距離にしゃがみこんだ。長いことその場所に座り、首まで草に埋まり、枝の間から飛行船をうかがった。バートはコンビーフを少し落としていたが、手にはビスケットが残っていたので、黙って食べた。巨大な船はほぼ真上まで来て、それからナイアガラへ向かい、発電施設の向こうへ降下した。近くにいるあいだ三人とも黙っていたが、やがて口論を始めた。それが即座に爆発しなかったのは、互いの言葉が通じなかったおかげにすぎなかったかもしれない。
口火を切ったのはバートで、相手がわかろうがわかるまいが、構わずしゃべり続けた。とはいえ、その声から、喧嘩腰なのは伝わったはずだった。
「あの機械を直してほしいんなら」と、まず言った。「おれに手を出さねえこった!」
相手が無視したので、繰り返した。
それから考えを広げ、語る勢いに取りつかれた。「自分とこの兵隊みてえに、蹴ったり殴ったりできるやつをつかまえたと思ってんなら、大間違いだ。わかるか? おまえと、おまえの馬鹿騒ぎには、もううんざりなんだよ。ずっと考えてたんだ、おまえと、おまえの戦争と、おまえの帝国と、そのでたらめ全部のことをな。でたらめなんだよ! ヨーロッパで、最初から最後まで騒ぎを起こしてきたのは、おまえらドイツ人だ。何のためでもねえ。ただ威張って見せてえだけだ! 軍服と旗があるってだけでよ! おれはここに――おれは、おまえらなんかと関わりたくもなかった。どうだってよかったんだよ。それがおれをつかまえて――ほとんどさらったも同然じゃねえか――気がつきゃ家からも何もかもからも何千マイルも離れたところで、おまえの間抜けな艦隊はぼろくずだ。それでもまだ、今さら威張り散らしてえのか! おれが許すと思うなよ!
「どれだけひどいことをしたか、見てみろ! ニューヨークをどう壊したか――何人殺して、どれだけ無駄にしたか。まだわからねえのか?」
「愚か者め!」鳥顔の男が突然、悪意を凝り固めた声で言い、包帯の下からにらみつけた。「このロバが!」
「間抜けって意味のドイツ語だろ! ――知ってるよ。だが間抜けなのは誰だ――あいつか、おれか? ガキのころ、おれだって、冒険だの偉い司令官だの、そういうくだらねえ一ペニー小説を読んだもんだ。でも、もうやめた。ところがあいつの頭ん中は何だ? ナポレオンのたわごと、アレクサンドロスのたわごと、ご立派な一族だの、自分だの、神様だの、ダビデだのってたわごとばかりだ。着飾った馬鹿王子でさえなけりゃ、誰だってこうなるとわかったはずだ。ヨーロッパじゃ、くだらねえ旗と、互いをけしかけて仲たがいさせるくだらねえ新聞のせいで、おれたちはばらばらだった。そこへ中国だ。チーズの塊みてえに一つに固まって、何百万、何千万の人間がいて、科学と進取の気性をちっと身につけりゃ、おれたちみんなに引けを取らなくなる。おまえらは、あいつらの手は届かねえと思ってた。ところが、あいつらは飛行機を手に入れた。で、どかん! ――このざまだ。そもそも中国が大砲や軍隊をこしらえてなかったころ、おれたちのほうからつつきまわして、こしらえさせたんだ。あいつらは、こうしておれたちをぶちのめすしかなかったんだよ。そうされるまで、おれたちは満足しなかった。だから言ってるだろ、このざまだ!」
鳥顔の将校は黙れと怒鳴り、それから王子と話しはじめた。
「こっちはイギリスの市民だ」とバートは言った。「聞く義務はねえが、おれにだって黙る義務はねえ。」
しばらく、帝国主義、軍国主義、国際政治についての論説を続けた。だが相手の会話に調子を狂わされ、ある間は、確かに「気取りくさった大馬鹿ども」だの何だの、古い悪口や新しい悪口を繰り返しているだけだった。すると突然、肝心の不満を思い出した。「それはそうと、聞けよ――おい! ――そもそも、おれが話しはじめたのは、あの売店にあった食いもんはどこだってことだ。それが知りてえんだよ。どこへやった?」
返事を待った。二人はドイツ語で話し続けた。質問を繰り返した。無視された。三度目は、我慢のならないほど挑発的な調子で尋ねた。
張りつめた沈黙が落ちた。数秒のあいだ、三人は互いを見つめた。王子はじっとバートを見据え、バートはその目にひるんだ。王子はゆっくり立ち上がり、鳥顔の将校も傍らですっと立った。バートはしゃがんだままだった。
「静かにしろ」と王子は言った。
今は雄弁を振るう時ではないと、バートにもわかった。
ドイツ人二人は、うずくまる彼を見下ろした。一瞬、死がすぐそばまで来たように思えた。
それから王子は背を向け、二人で飛行機のほうへ歩いていった。
「ちくしょう!」とバートはささやき、さらに小声で、一語だけ悪態をついた。三分ほど身を縮めて座っていたが、やがて跳ね起き、草むらに隠した中国人飛行士の銃を取りに向かった。
八
その瞬間を境に、バートが王子の命令下にあるとか、飛行機の修理を続けるとかいう建前はなくなった。ドイツ人二人は機体を占領し、自分たちで作業にかかった。バートは新しい武器を持ってテラピン岩の近くへ行き、座ってそれを調べた。大きな弾薬を使う短い小銃で、弾倉にはほぼいっぱいに弾が入っていた。慎重に弾を抜き、それから引き金や装置を試して、使い方を確かにつかんだと思えるまで調べた。慎重に装填し直した。そこで空腹を思い出し、銃を脇に抱え、売店の内外を探しに行った。王子と連れに銃を見せてはいけないとわかるだけの分別はあった。丸腰だと思っているかぎり放っておくだろうが、このナポレオン気取りがバートの武器を見れば、何をしでかすかわからない。それに、二人へ近づかなかったのは、自分の中で怒りと恐怖が煮えたぎり、この二人を撃ちたがっていると知っていたからでもあった。撃ちたかった。そして撃つのは、ひどく恐ろしいことだと思った。彼の身についた、矛盾に満ちた文明の二つの面が、胸の中で争っていた。
売店の近くで子猫がまた現れ、いかにもミルクを欲しがった。それで自分の空腹への怒りがいっそう募った。あたりを探しながらしゃべりはじめ、やがて立ち止まって悪口を怒鳴った。戦争と傲慢と帝国主義について語った。「おまえ以外の王子なら、部下と船と一緒に死んだはずだ!」と叫んだ。
機体のそばにいたドイツ人二人には、水の轟音に混じって、その声がときおり聞こえた。二人は目を合わせ、かすかに笑った。
しばらくは売店に座り、二人が来るのを待とうかと思ったが、そうすると二人とも至近距離で迎えることになると気づいた。やがてルナ島の先端へぶらぶら歩き、状況を考えることにした。
最初は比較的簡単に思えたが、考えを巡らすにつれ、可能性は次々に増えていった。二人とも剣を持っている――どちらかは拳銃も持っているのか?
それに、二人とも撃ち殺したら、食料がどこにあるか、永久にわからなくなるかもしれない!
ここまでは銃を脇に抱え、王様のような安心感で歩きまわっていたが、二人が銃を見て、待ち伏せしようと決めたらどうなる? ゴート島は、木や岩や茂みや起伏、ほとんどすべてが隠れ場所だ。
今すぐ行って、二人とも殺してしまえばいいのではないか?
「できねえよ」とバートは、その考えを退けた。「そこまで頭に血が上らなきゃ。」
だが、二人からすっかり離れたのは間違いだった。それが突然はっきりした。見張っていなくてはいけない。「偵察」すべきなのだ。そうすれば、何をしているか、どちらかに拳銃があるか、どこへ食料を隠したかもわかる。自分をどうするつもりかも、判断しやすくなる。こちらが「偵察」しなければ、そのうち向こうがおれを「偵察」しはじめるだろう。これはまことに理にかなって思えたので、さっそく実行した。服装を考え、襟と、目立つ白い飛行帽を、はるか下の水へ投げ捨てた。汚れたシャツの白さを隠すため、上着の襟を立てた。ポケットの工具とナットが鳴りそうだったので、入れ直し、何通かの手紙とハンカチで包んだ。一歩ごとに耳を澄まし、目を凝らしながら、慎重に音を立てず進んだ。敵に近づくと、盛んなうなり声ときしむ音で居場所がわかった。二人はアジア軍の飛行機と格闘しているようだった。上着を脱ぎ、剣を脇へ置き、実に見事な働きぶりだった。どうやら機体の向きを変えているらしく、木々の間で長い尾を扱うのにひどく難儀していた。バートは二人を見ると腹ばいになり、小さな窪地へ這いこんで、その奮闘を見守った。ときおり退屈しのぎに、どちらかへ銃の狙いをつけた。
二人の様子はなかなか面白く、面白すぎて、ときには大声で助言しそうになった。機体を回し終えれば、すぐに、おれの持っているナットと工具が必要になるはずだと気づいた。するとおれを追ってくるだろう。おれが持っているか、隠したと必ず考えるはずだ。銃を隠し、工具と引き換えに食料をもらう取引をするべきか? だが一度この銃の心強さを知ったからには、もう手放すことはできそうになかった。子猫がまた現れ、大いに甘え、耳をなめたり噛んだりした。
太陽は真昼へ向かって昇った。その午前中、一度、ドイツ人たちは見なかったが、バートははるか南にアジア軍の飛行船が東へ急ぐのを見た。
ついに飛行機は向きを変え、車輪の上に釣り合いを取って立ち、鉤を急流の上流へ向けた。二人の将校は顔をぬぐい、上着と剣をつけ、午前中よく働いたと満足する人間らしい態度で語り合った。それから王子を先頭に、売店へきびきび歩いていった。バートも活発に後を追ったが、食料の隠し場所を突き止められるほど素早く、しかも静かに尾行するのは無理だった。再び姿が見えたときには、二人は売店を背に座り、膝に皿を乗せ、間にコンビーフの缶とビスケットを盛った皿を置いていた。かなり機嫌がよさそうで、王子は一度笑いさえした。この食事の光景を見て、バートの計画は崩れた。猛烈な空腹に突き動かされた。銃を手に、二十ヤードほど離れたところへ突然姿を現した。
「手を上げろ!」硬く、凶暴な声で言った。
王子はためらったが、それから二人ぶんの両手が上がった。銃は二人にとって、まったくの不意打ちだった。
「立て」とバートは言った……「フォークを捨てろ!」
二人はまた従った。
「次はどうする?」バートは自問した。「退場してもらうか。そっちへ」と言った。「行け!」
王子は驚くほど素早く従った。空き地の端へ来ると、鳥顔の男に何か早口で言い、二人とも威厳も何もかなぐり捨てて、走った!
あとから思いついたことに、バートは腹が立った。
「しまった!」たまらなく悔しがって叫んだ。「そうだ! 剣を取り上げるんだった! おい!」
だがドイツ人たちはもう見えず、間違いなく木々の間へ身を隠していた。バートは悪態をついて気を晴らし、それから売店へ行き、横から襲われる可能性をざっと調べ、銃を手近に置いて、王子の皿のコンビーフに取りかかった。一口ごとに、びくっと動きを止めて耳を澄ました。それを平らげ、皿の食べ残しを子猫にやり、二皿目に取りかかったとき、手の中で皿が砕けた! 見つめるうちに、その一瞬前、茂みの中でぱんという音がしたことが、ゆっくり頭へ入りこんできた。すると跳ね起き、片手で銃、もう片手でコンビーフの缶をひっつかみ、売店の裏を回って空き地の反対側へ逃げた。そのとき茂みからもう一度乾いた音がし、何かが耳のそばをひゅっとかすめた。
ルナ島近くの、守りには堅固そうな場所へ着くまで走り続けた。そこで身を隠し、息を切らせてしゃがみこみ、待ち構えた。
「やっぱり拳銃を持ってやがった!」あえぎながら言った……
「二挺あるのかな? もしそうなら――ちくしょう! おれはおしまいだ!
「子猫はどこだ? あのコンビーフを片づけてるんだろうな。小さなやつめ!」
九
こうしてゴート島の戦争が始まった。一昼夜続いた。バートの生涯で、いちばん長い一日と、いちばん長い一夜だった。じっと隠れ、聞き耳を立て、見張らなくてはならなかった。どう行動するかも考えねばならなかった。今や、できるならこの二人を殺さねばならず、向こうも、できるならおれを殺すということは明らかだった。勝者の取り分は、まず食料、それから飛行機と、それに乗ってみるという怪しげな特権だった。失敗すれば確実に死ぬ。成功すれば、向こうのどこかへ逃げられる。しばらくバートは、その向こうがどんなところか想像しようとした。荒野、怒ったアメリカ人、日本人、中国人――ひょっとしたらアメリカ先住民! 頭の中に、ありそうなものが巡った。(先住民はまだいるのだろうか?)
「来るもんは受けるしかねえ」とバートは言った。「ほかに逃げ道は見えねえんだから!」
今のは声か? 注意が散漫になっていたことに気づいた。しばらく全神経を研ぎ澄ませた。滝の轟音はひどく紛らわしく、足で歩く音や、話し声や、叫びや悲鳴のような、あらゆる音を織りこんでいた。
「馬鹿でけえ滝め」とバートは言った。「落ちて、落ちて、何の意味もねえ。」
今はそんなことはいい! ドイツ人たちは何をしている?
飛行機へ戻るだろうか? 何もできはしない。ナットやねじ、レンチやほかの工具はおれが持っている。だが、木に隠したもう一組の工具を見つけたらどうする! もちろんうまく隠したが、それでも見つけるかもしれない。確かじゃない、もちろん――確かじゃない。どう隠したか、正確に思い出そうとした。間違いなく、確実に隠れているのだと自分に言い聞かせようとしたが、記憶が妙な悪戯をはじめた。レンチの柄を突き出したまま、枝の股できらりと光るままにしてきたのではなかったか?
しっ! 何の音だ? あの茂みで誰か動いたのか? 待ち構える銃口が上がった。違う! 子猫はどこだ? 違う! 気のせいだった。子猫でさえない。
ドイツ人たちはきっと、バートのポケットにある工具やナットやねじがないと気づき、探しはじめる。それは明らかだ。それから、おれが持っていると判断して、追ってくる。ならば、物陰でじっとしていれば、仕留められる。どこか考えに穴はあるか? あいつらが飛行機からもっと部品を外して、それからおれを待ち伏せしたら? いや、そうはしない。二対一なのだから。おれが飛行機で逃げるとは心配していないだろうし、おれが機体に近づくと思う確かな理由もない。だから機体を壊したり、使えなくしたりはしない。それは明白だと決めた。だが食料のところで待ち伏せしたらどうだ? いや、それもしないだろう。おれがこのコンビーフを持っていると知っているからだ。この缶には、節約すれば数日はもつ量がある。もちろん、襲う代わりに、おれを疲れきらせようとするかもしれない――
はっと我に返った。自分の立場の本当の弱点を、今つかんだ。
眠ってしまうかもしれない!
その考えを思い浮かべてわずか十分もすると、実際に眠りかけているとわかった!
目をこすり、銃をいじった。アメリカの日差しや空気、ナイアガラの眠気を誘う轟音に、これほど強い催眠作用があるとは、今まで気づかなかった。これまでは、どちらかといえば気分を高ぶらせるものに思えていた……
あんなにたくさん、あんなに急いで食べなければ、これほどだるくはならなかっただろう。菜食主義者はいつも頭が冴えているのだろうか……
また、がくりとして目を覚ました。
何かしなければ眠ってしまう。眠れば、十中八九、いびきをかいているところを見つけられ、即座に片づけられる。動かず、音も立てず座っていれば、必ず眠る。それくらいなら、攻撃の危険を冒すほうがまだいい、と自分に言った。この眠気の問題がおれを負かす、最後には必ず負かすのだと感じた。あいつらはいい。一人が眠り、一人が見張れる。考えてみれば、いつでもそうできるのだ。一人が必要なことをし、もう一人は近くの物陰に潜み、撃つ用意をしている。そんなふうに罠を仕掛けることだってできる。一人がおとりになればいい。
そこから、おとりのことを考えた。帽子を捨てたのは、なんという間抜けだったことか。棒の先にかぶせれば、どれほど役に立ったか――とくに夜には。
喉が渇いてきた。小石を口に入れ、しばらくはそれを紛らわせた。すると眠気がまた戻った。
攻撃しなくてはならないと、はっきりした。先人の多くの偉大な将軍と同じく、荷物、つまりコンビーフの缶が、機動性の大きな妨げになると気づいた。とうとう、肉をそのままポケットへ入れ、缶は捨てることにした。理想的な始末とは言えないかもしれないが、戦場では犠牲も払わねばならない。十ヤードほど這ったところで、この状況で起こりうるさまざまなことを思い、しばらく身動きが取れなくなった。
午後は静かだった。滝の轟音は、ただ、その広大な静けさを際立たせていた。自分よりも上等な二人の人間を殺そうと、懸命に算段している。そして二人もまた、おれを殺そうと懸命に算段している。この静けさの裏で、何をしているのだろう。
もし突然出くわして、撃って、外れたら?
十
這い、立ち止まって耳を澄まし、また這って、日が暮れた。ドイツのアレクサンドロスとその部下も、きっと同じことをしていたに違いない。ゴート島の大縮尺地図に、この戦略的移動を赤と青の線で描けば、さぞ複雑に入り組んだ模様になっただろう。だが実際には、気の遠くなるほど長く、退屈な警戒の一日じゅう、双方とも相手を一度も見なかった。どれほど近づき、どれほど離れていたのか、バートにはついにわからなかった。夜になったとき、もう眠くはなかったが、喉が渇いていて、アメリカ滝の近くにいた。敵はグリーン島に引っかかっているホーエンツォレルン号の船室の残骸の中かもしれない、という考えがひらめいた。積極的な気持ちになり、身を隠そうとするのをやめ、小さな橋を駆け足で渡った。誰もいなかった。この巨大な飛行船の破片へ入るのは初めてで、薄明かりの中、しばらく興味深く探検した。前部船室はほとんど無傷で、扉は下へ傾き、一隅が水に浸かっていた。這いこみ、水を飲み、それから、扉を閉めてその上で眠ればいいという名案を思いついた。
だが今度は、少しも眠れなかった。
朝方にうとうとし、目を覚ますとすっかり日が昇っていた。コンビーフと水で朝食を取り、自分のいる場所の安全さをありがたく思いながら、長いこと座っていた。ついには積極的で大胆な気分になった。ともかく、すぐにこの一件に決着をつけようと決めた。這いまわるのにはもううんざりだった。朝の日差しの中へ、銃を手に出ていき、静かに歩こうとすることさえ、ほとんどなかった。売店のまわりを歩いたが誰も見つからず、木々の間を飛行機へ向かった。すると鳥顔の男が地面に座り、木に背を預け、組んだ腕の上へ身を折って眠っていた。包帯は片目にずいぶんかぶさっていた。
バートはぴたりと立ち止まり、十五ヤードほど離れたところで、銃を構えて立った。王子はどこだ? そのとき、向こうの木の脇から肩がのぞいているのが見えた。バートは慎重に左へ五歩進んだ。偉大な人物の姿が現れた。幹にもたれ、片手に拳銃、片手に剣を持ち、あくびをしていた――あくびを。あくびをしている人間は撃てない、とバートは知った。愚かにも「手を上げろ」と言おうかなどと考えながら、銃口を向けたまま敵へ進んだ。王子が気づいた。あくびの口が罠のようにぱちりと閉じ、硬直して立ち上がった。バートは黙って止まった。一瞬、二人は見つめ合った。
王子が賢明な人間なら、木の陰へ身をかわしただろうと思う。だがそうせず、大声を上げ、拳銃と剣を振り上げた。その瞬間、からくり人形のように、バートは引き金を引いた。
酸素入りの弾丸を撃つのは、これが初めてだった。王子の胴の真ん中から大きな炎が噴き、目もくらむ閃光が走り、砲を撃つような鈍い音がした。熱く濡れたものがバートの顔に当たった。それから、視界を遮る煙と蒸気の渦を通して、手足と、裂け崩れた体が地面へ投げ出されるのが見えた。
あまりの驚きに、バートは口をあけたまま立ち尽くした。鳥顔の将校なら、抵抗を受けずに斬り倒せたはずだった。だが将校は、身をかわしながら下生えの中を逃げていた。バートは我に返って少し追ったが、何の成果もなかった。これ以上殺す気にはなれなかった。ついさっきまで偉大なカール・アルベルト王子だった、ずたずたに飛び散ったものへ戻った。まわりの草木が焦げ、飛沫に汚れているのを眺めた。いくつかのものが何であるか、推測してみた。そろそろと進み、熱い拳銃を拾うと、薬室がみなゆがみ、破裂していた。陽気で人なつこい存在に気づいた。これほど幼いものが、こんな恐ろしい光景を見ていることに、強い衝撃を覚えた。
「ほら、猫ちゃん」と言った。「ここは、おまえのいるとこじゃねえ。」
荒らされた一帯を三歩で横切り、子猫をうまくつかまえ、肩の上で盛んに喉を鳴らさせながら、売店へ向かった。
「おまえは気にしねえんだな」と言った。
しばらく売店の中をあれこれ探り、とうとう屋根に隠された残りの食料を見つけた。「情けねえよな」と、受け皿いっぱいの牛乳をやりながら言った。「こんな窮地に三人いて、一緒に働けねえなんてさ。だが、あいつの王子様ぶりは、ちっとばかしひどすぎた!」
「まったく!」カウンターに腰をかけ、食べながら考えた。「人生ってのは妙なもんだ! おれはこうしてここにいる。まだスカートみてえな服を着てたガキのころから、あいつの写真を見て、名前を聞いてきたんだ。カール・アルベルト王子! それをおれが粉々に吹っ飛ばすことになるなんて、誰かが言ってたら――なあ! 信じなかっただろうよ、猫ちゃん。
「マーゲイトのあいつも、そのことを教えてくれりゃよかったんだ。教えてくれたのは、おれの胸が弱いってことだけだ。
「あっちの男は、大したことはしねえだろう。あいつをどうすりゃいいんだろうな?」
鋭い青い目で木々を見渡し、膝の銃を指でいじった。「人殺しは好きじゃねえよ、猫ちゃん」と言った。「血に慣れることについて、クルトの言ってたとおりだ。若いうちに慣れなきゃならねえんだろうな……あの王子がこっちへ来て、『握手しよう!』って言ったなら、おれは握手したんだ……なのに今は、もう一人が逃げまわってる! 頭はもう傷だらけで、脚もどこか悪い。それに火傷だ。まったく! 初めてあいつを見てから、まだ三週間もたってねえんだぞ。そのときは、ぴしっとして、しゃんと立って――ヘアブラシやら何やら両手に持って、おれに悪態をついてた。ちゃんとした紳士だった! 今じゃ半分野人だ。どうすりゃいいんだ? いったいあいつをどうすりゃいいんだよ? 飛行機を譲るわけにはいかねえ。そりゃ虫がよすぎる。だが殺さなきゃ、あいつはこの島をうろついて飢え死にするだけだ……
「もちろん、あいつには剣がある」……
煙草に火をつけてから、また哲学を始めた。
「戦争なんて馬鹿な遊びだ、猫ちゃん。馬鹿な遊びだよ! おれたちみてえな庶民は――馬鹿だったんだ。偉い連中は自分のしてることがわかってると思ってた――ところが、わかっちゃいなかった。あいつを見ろよ! ドイツじゅうを後ろにつけて、それで何をこしらえた? ぶっ壊し、へまをやり、破壊し、それであのざまだ! 血と長靴と何やかやのぐちゃぐちゃな山だ! ただの、ぞっとする飛び散った染みだ! カール・アルベルト王子! 率いてた兵も、持ってた船も、飛行船も、竜の飛行機も――この穴ぐらからドイツまで、紙追い競走の紙みてえに散らばってる。あいつが始めた戦いや火事や人殺しが、まだ続いてる。世界じゅうで終わりのねえ戦争だ!
「やっぱり、あっちの男も殺さなきゃならねえんだろうな。そうなんだろう。だが、おれのやりてえ仕事じゃ、まるっきりねえよ、猫ちゃん!」
しばらく、滝の轟音の中、負傷した将校を探して島を歩きまわり、ついにビドル階段の上近くの茂みから追い出した。だが、包帯を巻いた屈んだ姿が、足を引きずって逃げていくのを見ると、下町っ子の情の弱さにまた負けた。撃つことも追うこともできなかった。「できねえ」と言った。「どうしたってな。そんな度胸はねえ! 行かせるしかねえよ。」
飛行機へ足を向けた……
鳥顔の将校を見たのは、それきりだった。その後、そこにいるしるしも見つからなかった。夕方になると待ち伏せが怖くなり、一時間ほど熱心に探したが、無駄だった。カナダ滝へ突き出した岩の岬の先端、守りのよい場所で眠った。夜中に恐慌に襲われて目を覚まし、銃を撃った。だが何でもなかった。その晩はもう眠らなかった。朝になると、消えた男が妙に気にかかり、道を誤った兄弟でも探すように探した。
「ドイツ語が少しわかれば」と言った。「大声で呼ぶんだがな。ドイツ語を知らねえ、それだけのせいなんだ。説明できねえんだから。」
あとになって、壊れた橋の切れ目を渡ろうとした跡を見つけた。ボルトを結んだ縄が向こうへ投げられ、突き出した欄干の破片の隙間に引っかかっていた。縄の端は、滝へ向かう煮え立つ水の中になびいていた。
だが鳥顔の将校は、すでに二・二五マイル先、ワールプールの巨大な円の中で、かつてクルト中尉や中国人飛行士だった、今は動かぬ物体や、死んだ牛、その他多くの気の合わぬ仲間たちと肩を触れ合わせていた。あの巨大な集積場、捨てられ、打ちのめされたものが、休みなく、目的も前進もなく慌ただしく回り続ける場所が、これほど奇妙で哀れな漂流物で混み合ったことはなかった。ぐるぐると回り、日ごとに新たなものが加わった。不運な獣、砕けた舟や飛行機の破片、上流の大湖の岸辺にある都市からの、際限もない市民たち。クリーヴランドから来たものも多かった。みなここに集まり、果てしなく回った。そしてその上には、日に日に多くの鳥が集まってきた。
第十章 戦火の下の世界
一
バートはさらに二日、ゴート島で過ごした。煙草とミネラルウォーターを除く食料をすべて食べ尽くしてから、ようやくアジア軍の飛行機を試す気になった。
最後になっても、自分から飛び立ったというより、運び去られたのだった。もう一機から翼の支柱を移し、自分で外したナットを戻す作業は、一時間ほどで済んだ。エンジンは正常で、同時代のオートバイのものと、ごく単純でわかりやすい違いしかなかった。残りの時間は、途方もなく長い思案と、引き延ばしと、ためらいに費やした。主に思い描いたのは、急流へどぼんと落ち、何かにつかまろうともがきながら溺れ、渦に巻かれて滝へ運ばれる自分の姿だった。だが、空高くどうにもならなくなり、猛速度で進むばかりで地上へ戻れない姿も思い浮かべた。頭は飛ぶことに集中しすぎていて、立場もはっきりせず、身元を証明するものもないロンドン下町っ子が、アジア軍の飛行機で、戦争に怒り狂う向こう岸の人々の中へ降りたらどうなるかなど、あまり考えなかった。
鳥顔の将校のことは、まだ少し気にかかっていた。島のどこかの隅や岩の割れ目に、動けなくなって、あるいは何かでひどく傷ついて倒れているのではないかという想像が、頭から離れなかった。徹底的に探し尽くして、ようやくその苦しい考えを捨てた。「見つけたって」と、その間にも考えた。「どうしてやれるんだ? 倒れてるやつの頭を撃ち抜くわけにはいかねえし。ほかにどう助けりゃいいのかも、わからねえ。」
それから子猫が、彼のよく発達した社会的責任感を悩ませた。「置いてきゃ、飢え死にする……自分で鼠を捕るべきなんだろうが……鼠はいるのか? ……鳥なら? ……まだ小さすぎる……おれと同じだ。ちっと文明的すぎるんだよな。」
結局、脇のポケットへ押しこんだ。子猫はそこに残るコンビーフの思い出に、たいそう興味を持った。子猫をポケットに入れたまま、飛行機の鞍に腰を下ろした。大きくて、扱いにくい代物だった――自転車とは似ても似つかなかった。それでも動かし方は、かなり明白だった。エンジンをかける――こう。蹴って体を起こし、車輪を垂直にする、こう。ジャイロスコープをつなぐ、こう。それから――それから――このレバーを引き上げるだけだ。
かなり固かったが、突然、ぐいと動いた――
両側の大きく湾曲した翼が、ぎょっとするように羽ばたいた。もう一度羽ばたいた。カチ、コチ、カチ、コチ、カタコト!
止まれ! こいつは水へ向かっている。車輪が水に入った。バートは腹の底からうめき、レバーを元の位置へ戻そうと必死になった。カチ、コチ、カタコト、上がっている! 機体が水を滴らせる車輪を渦から持ち上げ、おれは上がっている! もう止められない。今止めてもどうにもならない。次の瞬間、バートは目を見開き、死人のように青ざめ、しがみついてひきつり、硬直したまま、急流の上へ羽ばたいていた。翼ががくりと動くたびに体を揺すられ、上へ、上へと昇っていた。
品のよさと乗り心地では、飛行機は気球とは比べものにならなかった。降下の瞬間を除けば、気球は非の打ちどころなく礼儀正しい乗り物だった。こいつは跳ね馬ならぬ跳ねラバだ。しかも上へ跳ねたきり、二度と下りてこないラバだった。カチ、コチ、カチ、コチ。奇妙な形の翼が打つたびに、バートは上へ放り上げられ、半秒後にはまた、うまい具合に鞍で受け止められた。気球は風の一部なので、気球に乗れば風はない。だが飛行とは、絶えず猛烈に風をつくり、その中へ突っこむことだった。何よりも目をつぶさせ、見えなくしてやろうとする風だった。やがて膝と脚を内側へひねり、締めつけてつかまることを思いついた。そうしなければ、きっと不格好な二つの半身に叩き割られていただろう。それでも上がっていった。百ヤード、二百、三百。下では白く泡立つ水の荒野が流れ、その上を――上へ、上へ、上へ。それはいいが、そのうち、どうやって水平に進むのだ? こういうものは水平に飛ぶのだったか、考えようとした。違う! 羽ばたいて上がり、それから滑るように下りるのだ。しばらくは羽ばたいて上がり続けよう。涙が目から流れた。無謀にも片手を離して、それをぬぐった。
墜落するなら、陸の上と水の上と、どちらがましだろう――こんな水の上と?
上流の急流の上を、バッファローへ向かって羽ばたきながら昇っていた。少なくとも、滝と、その下の荒れ狂う渦が後ろにあるのは慰めだった。まっすぐ上へ飛んでいる。それはわかった。向きはどう変えるのだ?
やがてほとんど落ち着きを取り戻し、目も吹きつける空気に慣れてきたが、ひどく高くなっていた。ひどく高い。頭を前に傾け、まばたきしながら地上を見渡した。三つの大きな黒焦げの傷跡を持つバッファローが、すっかり見えた。その先の丘や広々とした土地も。半マイルの高さだろうか、それ以上だろうかと思った。ナイアガラとバッファローの間の駅近く、家並みの中に人がいた。それからもっと人が見えた。蟻のように忙しく家を出たり入ったりしていた。二台の自動車がナイアガラ市へ向かって道を滑っていくのも見えた。そのとき、南のはるか向こうに、大きなアジア軍の飛行船が東へ進むのが見えた。「ああ、ちくしょう!」と言い、向きを変えようと懸命になったが、役に立たなかった。だが飛行船は彼に注意を払わず、バートはひきつるように昇り続けた。世界はいよいよ広がり、地図のようになっていった。カチ、コチ、カタコト。頭上の、もうすぐ近くに、もやのような雲の層があった。
翼のクラッチを外すことに決めた。そして外した。レバーはしばらく力に逆らったが、やがて倒れ、その瞬間、機体の尾が跳ね上がり、翼は広がったまま固まった。たちまち、すべてが速く、なめらかで、静かになった。目を四分の三ほど閉じ、猛烈な風に逆らって、空中を急速に滑り下りていた。
それまで頑として動かなかった小さなレバーが、今は動くことを白状した。そっと右へ倒すと、ひゅううっ! ――左翼の端が不思議な具合にたわみ、機体は巨大な右回りの螺旋を描いて下降しはじめた。しばらく、破滅に際しての無力な感覚をことごとく味わった。苦労してレバーを中央へ戻すと、翼はまた釣り合った。
左へ倒すと、後ろ向きに振り回されたような感覚がした。「やりすぎだ!」とあえいだ。
鉄道線路と工場らしい建物へ向かって、真っ逆さまの速度で突進していると気づいた。それらが、自分を食らおうと猛然とせり上がってくるように見えた。あれだけの高さを、すっかり落ちてきたに違いない。一瞬、自転車が坂道を暴走したときの、どうにもならぬ感覚がした。地面には、ほとんど不意を突かれた。「おい!」と叫び、全身全霊を振りしぼって羽ばたき機構をまた動かし、翼を打たせた。機体は一度ぐっと下がってから持ち上がり、震え、脈打つような上昇を再開した。
また高く昇り、ニューヨーク州西部の美しい丘陵地帯が広く見渡せるところまで行き、それから長く滑り下り、また上がり、また滑った。その後、村の四分の一マイル上空を滑空すると、人々が走りまわり、逃げ出すのが見えた。明らかに、鷹のように通り過ぎる自分への反応だった。撃たれたような気がした。
「上がれ!」と言って、またレバーを引いた。驚くほど素直に動き、突然、翼が真ん中でへたったようになった。だがエンジンは静かだった! 止まっていたのだ。意図というより本能で、レバーを押し戻した。どうする?
数秒のうちに多くのことが起こったが、頭の回転も速かった。非常な速さで考えた。もう上がれない。空中を滑り下りている。何かにぶつからずには済まない。
おそらく時速三十マイルで、下へ、下へと進んでいた。
あのカラマツ林が、いちばん柔らかそうだ――苔みたいなくらいだ!
届くだろうか? 操縦に全力を注いだ。右へ回れ――左!
ひゅうう! ばきばき! 梢をかすめ、その中へ突っこみ、鋭い緑の葉と黒い小枝の雲の中へ転がりこんだ。突然何かが折れ、鞍から前へ投げ出された。どしんという衝撃と、枝の砕ける音。小枝が何本か、顔をぴしりと打った……
木の幹と鞍の間に挟まり、片脚が操縦レバーをまたいでいた。わかるかぎりでは、怪我はなかった。姿勢を変えて脚を抜こうとすると、下のものが次々に折れ、枝の間を滑り落ちた。手を伸ばしてつかむと、飛行機の下、木の低い枝にいた。空気は快い樹脂の匂いで満ちていた。しばらくじっと見つめ、それからごく慎重に、一本ずつ枝を伝い、針葉に覆われた柔らかな地面へ下りた。
「うまくいった」と、頭上で曲がり、傾いた凧のような翼を見上げて言った。
「柔らけえとこへ落ちたぞ!」
手で顎をこすり、考えた。「どうやらおれは、かなり運のいいやつらしいな!」木々の下、日だまりが散らばる気持ちのよい地面を見渡して言った。そこで脇腹が猛烈に騒いでいるのに気づいた。「おっと!」と言った。「半分窒息しかけてるだろうな」。ハンカチとポケットから子猫を取り出した。ねじれて、しわくちゃになり、再び光を見られて大喜びだった。小さな舌が歯の間からのぞいていた。地面へ置くと、十数歩走り、体を振り、伸びをし、きちんと座って顔を洗いはじめた。
「さて次は?」とあたりを見まわし、それから悔しそうに身ぶりをした。「しまった! あの銃を持ってくるんだった!」
飛行機の鞍に乗るとき、木に立てかけておいたのだ。
世界があまりに静かで平和なのが、しばらく不思議だった。それから、もう滝の轟音が耳にないことに気づいた。
二
この土地でどんな人々に出会うのか、はっきりした考えはなかった。ここがアメリカだということは知っていた。アメリカ人といえば、偉大で強大な国の国民で、態度は淡々としてユーモアがあり、ボウイナイフと拳銃を愛用し、ノーフォークの人間のような鼻声で話し、ハンプシャーのニュー・フォレスト寄りに住む人々よろしく、「思うに」「たぶん」「見たところ」などという言い方をするものと、ずっと理解していた。それに非常な金持ちで、揺り椅子を持ち、足を妙に高いところへ上げ、煙草やガムやその他のものを、飽くことなく熱心に噛み続ける。そこへカウボーイ、赤い肌のインディアン、おどけて礼儀正しい黒んぼも交じる。公共図書館の小説から学んだのは、そんなことだった。それ以外はほとんど知らなかった。だから武装した男たちに会っても、驚かなかった。
壊れた飛行機は捨てていくことにした。しばらく林をさまよい、それから一本の道に出た。都会育ちのイギリス人の目には、ずいぶん広いのに、きちんと「造られた」道ではないように見えた。
生け垣も溝もなく、縁石で区切られた歩道もなく、森からそのまま続き、開けた大陸の道らしい、長くゆるやかな曲線を描いていた。前方に、銃を脇に抱えた男が見えた。柔らかな黒い帽子、青い上っ張り、黒いズボンを身につけ、広く丸い太った顔には、やぎひげなど影もなかった。男は横目でバートを見、話しかけられるとびくりとした。
「ここがどのへんか、教えてもらえますか?」とバートは尋ねた。
男は不吉な疑いの目で、バート、とくにそのゴム靴を眺めた。それから、奇妙な異国の言葉で答えた。実はチェコ語だった。バートのきょとんとした顔を見ると、急に「エイゴ、ワカラナイ」と言ってやめた。
「ああ」とバートは言った。しばらくまじめに考え、それから歩きだした。
「どうも」と、思い出したように言った。男はしばしその背中を見つめ、何か思いついて身ぶりをしかけたが、ため息をついてあきらめ、沈んだ顔で自分も歩いていった。
やがてバートは、木々の間に無造作に建つ、大きな木造家屋に出た。寒々しく、むき出しの箱のような家に見えた。蔓草は一本も這わず、まわりの林と区切る生け垣も壁も柵もなかった。三十ヤードほど先の、玄関へ上がる階段の前で立ち止まった。家は無人に見えた。玄関まで行って戸を叩くつもりだったが、突然、脇から大きな黒い犬が現れ、こちらを見た。見慣れぬ種類の、顎のがっしりした巨犬で、鋲のついた首輪をはめていた。吠えもせず、近づきもせず、ただ静かに毛を逆立て、短い低い咳のような音を一つ発した。
バートはためらい、先へ進んだ。
三十歩ほど行って止まり、木々の間をのぞきまわした。「子猫を置いてきちまったじゃねえか」と言った。
しばらく、鋭い悲しみが胸を締めつけた。黒い犬が、もっとよく見るため林を抜けてきて、またあの育ちのよさそうな咳をした。バートは道を進んだ。
「あいつなら大丈夫だ」と言った……「何か捕まえるさ。
「あいつなら大丈夫だ」と、やがてまた、確信もなく言った。だが黒い犬さえいなければ、戻っただろう。
家と黒い犬が見えなくなると、道の反対側の林へ入った。しばらくして現れたときには、かなり立派な棍棒をポケットナイフで削っていた。やがて道端に手頃な石を見つけ、拾ってポケットへ入れた。それから三、四軒の家に行き当たった。先ほどと同じ木造で、それぞれ塗りの粗い白いベランダ――彼にはそう見えた――があり、どれも同じように地面の上へ無造作に置かれていた。裏手の木々の間には豚小屋が見え、黒い雌豚が土を掘り返しながら、元気で冒険好きな一家を率いていた。一軒の階段には、黒いスモモのような目と乱れた黒髪の、野性的な女が座り、赤ん坊に乳を飲ませていたが、バートを見ると立って中へ入り、閂をかける音がした。次に豚小屋の間に少年が現れたが、バートが呼びかけても、わかろうとしなかった。
「ここ、アメリカなんだよな!」とバートは言った。
道沿いの家は増えてきた。さらに二人、ひどく荒々しく汚れた男たちとすれ違ったが、話しかけなかった。一人は銃、もう一人は手斧を持ち、バートとその棍棒を軽蔑するように眺めた。それから交差する道に出た。その脇にはモノレールがあり、角の掲示板には「乗車はこちらでお待ちください」と書いてあった。「ともかく、こりゃいい」とバートは言った。「どれくらい待ちゃいいんだろう?」
国内がこんなに混乱しているのだから、運休しているかもしれないと思った。左より右のほうに家が多く見えたので、右へ曲がった。年老いた黒人とすれ違った。「やあ!」とバートは言った。「おはよう!」
「こんにちは、旦那様!」と老人は、ほとんど信じられないほど豊かな声で答えた。
「ここは何ていうところです?」とバートは尋ねた。
「タヌーダでございます、旦那様!」と老人は言った。
「どうも!」とバートは言った。
「こちらこそ、旦那様!」と老人は、圧倒するような調子で言った。
相変わらず、離れ離れに建ち、塀もない木造家屋が続いたが、今度は一部が英語、一部がエスペラントの、ほうろう看板で飾られていた。それから、食料品店らしいところへ来た。開いた戸で来客を歓迎しているのは、ここが初めてだった。中からは妙になじみのある音が聞こえた。「あれ!」とポケットを探った。「そうだ! 三週間も金を使ってねえ! おれ、あるかな――大半はグラブが持ってた。あった!」
硬貨をひとつかみ出して眺めた。一ペニー銅貨が三枚、六ペンス銀貨、一シリング銀貨。「よし、大丈夫だ」と言った。ごく明白なことを忘れていた。
戸口へ近づくと、シャツ一枚の、引き締まった体つきで灰色がかった顔の男が現れ、バートとその棍棒を吟味した。「おはよう」とバートは言った。「このショップで、何か食ったり飲んだりできますか?」
戸口の男は、ありがたいことに、はっきりしたまともなアメリカ英語で答えた。「こちらはね、お客さん、ショップではなく、ストアです。」
「ああ」とバートは言った。それから、「それで、何か食えますか?」
「食べられますとも」とアメリカ人は、自信たっぷりに励ます口調で言い、先に立って中へ入った。
店はバン・ヒルの基準からすると、ひどく広く、明るく、物が邪魔にならずに置かれていた。左手には長いカウンターがあり、その後ろに引き出しや雑貨が並んでいた。右手には椅子が何脚か、テーブルが数卓、痰壺が二つあり、奥へ向かって樽やチーズやベーコンが見え、その先の大きなアーチ形の開口部から、さらに広い場所へ続いていた。一つのテーブルを囲んで数人の男が集まり、三十五歳ほどの女がカウンターに両肘をついていた。男たちはみな小銃で武装し、カウンターの向こうにも銃身がのぞいていた。全員が、そばのテーブルにある安物の、金属的な音の蓄音機を、手持ち無沙汰に、さして注意もせず聞いていた。その真鍮の喉から流れる言葉に、バートは郷愁で胸が痛くなった。日の当たる浜辺、子供の一団、赤く塗られた自転車、グラブ、そして近づいてくる気球が、記憶によみがえった――
「チンガリンガ、チンガリンガ、チンガリンガ、タン……ヘアピンなんて、もう用なし?」
何かを噛んでいた、麦わら帽子の首の太い男が、ちょいと触って機械を止めた。みんなの目がバートへ向いた。その目はどれも疲れていた。
「おい、このお客さんに何か食べてもらえるかね、それとも無理かね?」と店主が言った。
「何だってあるわよ」とカウンターの女は、動かずに言った。「クラッカー一枚から、きちんとした食事までね。」
徹夜をした人らしく、あくびをこらえた。
「飯が食いたいんですが」とバートは言った。「あんまり金がなくて。一シリングより多くは出したくねえんです。」
「何より多くないって?」店主は鋭く尋ねた。
「一シリングです」とバートは言った。突然、嫌な事実が頭へ入ってきた。
「なるほど」と店主は、一瞬、慇懃な物腰を忘れて言った。「だが、シリングってのはいったい何なんだ?」
「二十五セントって意味だろ」と、乗馬用の脚絆をつけた、賢そうな細長い若者が言った。
バートはうろたえを隠そうとして、硬貨を取り出した。「これが一シリングです。」
「ストアをショップと呼んで」と店主は言った。「一シリングで飯を食いたいとおっしゃる。失礼だが、お客さん、アメリカのどちらから来なさった?」
答えるときには、バートはシリングをポケットへ戻していた。「ナイアガラです。」
「ナイアガラを出たのは、いつです?」
「一時間ほど前です。」
「ほう」と店主は言い、困惑した笑みを浮かべてほかの者を見た。「ほう!」
いろいろな質問が一度に飛んだ。
バートは一つ二つ選んで答えた。「実は」と言った。「ドイツの航空艦隊にいたんです。ちょっとした偶然みてえなことで捕まっちまって、こっちへ連れてこられたんです。」
「イングランドから?」
「ええ、イングランドから。ドイツ経由で。あのアジア人どもとの大きな戦いに巻きこまれて、滝の間の小島に取り残されたんです。」
「ゴート島か?」
「名前は知りません。とにかく、飛行機を見つけて、まあ何とか飛んで、ここへ来たんです。」
二人の男が立ち上がり、信じられないという目を向けた。「飛行機はどこだ?」と尋ねた。「外か?」
「この先の林です――半マイルほど向こう。」
「使えるのか?」と、傷跡のある、唇の厚い男が言った。
「着くとき、ちっとばかしぶつけちまって――」
全員が立ち上がり、彼を囲んで、入り乱れてしゃべった。すぐ飛行機まで案内してほしいのだった。
「あのですね」とバートは言った。「案内はします――ただ、おれ、昨日から何も腹に入れてねえんです――ミネラルウォーター以外は。」
それまで黙っていた、乗馬用の脚絆と弾薬帯をつけた、長く細い脚の痩せた軍人風の若者が、自信ある権威の響きで、味方をするように口を挟んだ。「よろしい」と言った。「何か食べさせてあげてください、ローガンさん――私のおごりだ。彼の話をもっと聞きたい。機械はそのあとで見よう。私に言わせれば、実に興味深い偶然が、この人をここへ落としてくれたようだ。その飛行機は――見つかればだが――土地の防衛のため徴用することになるだろう。」
三
こうしてバートはまたうまく着地し、冷たい肉と上等なパンにマスタードを添えて食べ、とてもおいしいビールを飲みながら、自分の冒険の単純な物語を、ごく大まかな輪郭で語った。彼のような頭の持ち主には自然な、省略や不正確さを交えての話だった。自分と「紳士の友人」が健康のため海辺を訪れていたこと、気球で「ある男」がやってきて、自分が乗りこんだ拍子にその男が落ちたこと、フランケン地方まで漂流したこと、ドイツ人が誰かと取り違えたらしく「捕虜にして」ニューヨークへ連れてきたこと、ラブラドールへ行って戻ったこと、ゴート島へ着いて、気づけば一人になっていたことを話した。王子の一件と、バタリッジに関わる部分は省いた。深い悪巧みからではなく、自分の話術では手に余ると感じたからだった。何もかもが簡単で、自然で、まともに見えるようにしたかった。自分は信用でき、理解しやすいイギリス人で、健全で平凡な身の上だから、安心して気楽に食事や宿を与えてよいのだと示したかった。途切れ途切れの話がニューヨークとナイアガラの戦いに及ぶと、彼らは突然、テーブルの上にあった新聞を持ち出し、その激越な記事に照らして話を確かめ、問いただしはじめた。バートにも、自分の到来が、それまで絶えず燃え続け、ただ話の材料が尽きたために、蓄音機という一時の気晴らしの間だけくすぶっていた議論を、再び燃え上がらせたのだとわかってきた。この男たちを小銃片手に集まらせた議題、全世界のただ一つの最重要の話題――戦争と、その戦い方である。自分が何者か、自分にどんな冒険があったかという問題は背景へ退き、自分の存在は当然のことと受け入れられ、ただの情報源になったと感じた。日用品を売り買いし、土地を耕し、家畜の世話をする、日常の仕事は、いわば習慣の力で続いていた。家の主人が生死にかかわる大手術を受けている家でも、日々の用事は続くように。あらゆる関心を押さえていたのは、予測もつかぬ任務で空を横切る巨大なアジア軍飛行船や、ひらひら舞い降りてガソリンや食料や情報を要求しかねない、深紅の服で刀を帯びた兵士たちだった。この男たちも、大陸じゅうも、問い続けていた。「どうすればいい? 何が試せる? どうしたらやつらに手が届く?」
バートは全体の一項目としての位置に収まり、自分の考えの中でさえ、中心に立つ独立した存在ではなくなった。
十分に食べ、飲み、ため息をつき、体を伸ばし、食事がどれほどおいしかったか話してから、もらった煙草に火をつけ、少し迷い、難儀しながらも、カラマツ林の飛行機へ案内した。ローリエという名らしい、あの痩せた若者が、地位の上でも天性の資質でも指導者なのは、明らかになった。同行した全員の名と性格と能力を知っていて、この貴重な戦争の道具を確保するため、即座に力強く、効果的に働かせた。彼らは木を二本ほど切り倒しながら、慎重に、着実に機体を地上へ下ろし、通りかかったアジア人に偶然発見されないよう、木材と枝で幅広い平たい屋根をかけ、貴重な獲物を隠した。夕方よりずっと前に、隣町から技師を呼んで修理にあたらせ、最初の飛行を望む選抜された十七人の間でくじを引いていた。そしてバートは子猫を見つけ、ローガンの店へ連れ帰り、念を押して頼みながらローガン夫人に渡した。夫人は、自分にも子猫にも心の通う人だと、はっきりわかって安心した。
ローリエは、指導力のある人物で、裕福な資産家であり雇い主であるだけではなかった――タヌーダ缶詰会社の社長だと聞いて、バートは畏敬の念を抱いた――人望があり、人に好かれる術にも長けていた。夕方には大勢の男たちが店へ集まり、飛行機と、世界をずたずたに引き裂く戦争について語った。やがて、自転車に乗った男が、印刷の悪い一枚刷りの新聞を持ってきた。それは、燃え盛る会話の炉へくべられた燃料のように働いた。ほとんどがアメリカ国内のニュースだった。旧式の海底電信は数年前から使われなくなっており、大洋の向こうや大西洋岸にあるマルコーニ式無線局は、ことに魅力的な攻撃目標になったらしかった。
だが、そのニュースたるや。
バートは片隅に座って聞いていた。もうこのころには、彼の人間としての程度は、ほぼすっかり見抜かれていた。人々の話を聞く、ぐらつく頭の前を、奇妙で巨大な像が通り過ぎた。重大な問題が危機に瀕し、国々が騒然と進み、大陸が覆され、飢餓と破壊が計り知れず広がる像だった。ときおり、抑えようとしても、その沸き返る混乱を横切って、個人的な印象が駆け抜けた。爆発した王子の恐ろしいぐちゃぐちゃの姿、逆さ吊りの中国人飛行士、包帯を巻き、足を引きずり、惨めで絶望的な逃走を続ける鳥顔の将校……
人々は火災と虐殺、残虐と報復の残虐、人種憎悪に狂った者たちが無害なアジア人に加えた仕打ち、町や鉄道の接続点や橋の全面的な焼き払いと破壊、住民全員の潜伏や避難について語った。「やつらの船は、残らず太平洋にいる」と一人が叫ぶのを聞いた。「戦いが始まってから、太平洋側に少なくとも百万人は上陸させたはずだ。この合衆国に居座るために来たんだ。そして居座るさ――生きていても、死んでいてもな。」
ゆっくりと、大きく、抗いがたく、バートの心に理解が広がった。自分の人生が流れこんでいる人類の途方もない悲劇、今や到来した時代の、恐るべき、世界を覆う性質。そして安全と秩序と慣習の終わりという観念。全世界が戦争をしていて、平和へ戻れない。もう二度と、平和を取り戻せないかもしれない。
自分の見てきたものは、例外的で、決着をつける出来事なのだと思っていた。ニューヨーク包囲や大西洋の戦いは、長い安穏な年月の間を区切る、画期的な出来事だと。それらは、世界を覆す大変動が最初に送った警告の衝撃にすぎなかった。日ごとに破壊と憎悪と災厄が増し、人と人の間の亀裂が広がり、文明を織りなす新たな部分が崩れ、落ちていった。下では軍隊が膨れ、人々が死んだ。上では飛行船と飛行機が戦い、逃げ、破壊を降らせた。
広い心と長い見通しを持つ読者には、科学文明の崩壊が、この時代を実際に生き、その破局の中へ身をもって沈んでいった人々にとって、どれほど信じがたいものだったか、理解しにくいかもしれない。進歩は無敵と見える足取りで地球を巡り、もはや二度と休むことはないかのようだった。三百年以上、ヨーロッパ化された文明の長い拡張期は、着実に速度を増しながら続いていた。町は増え、人口は増し、価値は上がり、新しい国々は発展し、思想、文学、知識は展開して広まった。毎年、戦争の道具がいっそう巨大で強力になり、軍隊と爆薬が、成長するほかのすべてを追い越して膨れ上がるのも、その過程の一部にすぎないように見えた……
三百年の拡張のあと、握り拳が閉じるように、急激で思いがけぬ収縮が訪れた。人々には、それが収縮だとは理解できなかった。
ただの揺れ、つまずき、進歩の速さを示す単なる振動としか考えられなかった。崩壊は、身のまわりで起こり続けていても、信じがたいままだった。やがて落下する塊が彼らを打ち倒し、あるいは足元の地面が口を開けた。信じないまま死んでいった……
店の男たちは、この災厄の巨大な天蓋の下にいる、遠い片隅の小さな一団だった。目を向けるのは、ある小さな局面から別の局面へということばかりだった。何よりの関心は、ガソリンを奪いに、あるいは武器や交通・通信施設を壊しに急降下してくるアジア軍の襲撃者から、どう身を守るかだった。このころはどこでも、交通が早く回復することを願い、鉄道設備を昼夜守るための義勇隊が組織されていた。陸の戦争は、まだ遠かった。平板な声の男が、知識と抜け目のなさを披露して目立った。ドイツのドラッヘンフリーガーやアメリカの飛行機の、何がまずかったのか、日本の飛行機はどんな長所を持つのか、皆に自信たっぷりに語った。バタリッジの機械について、夢のような説明を始めると、バートの注意は釘づけになった。「おれ、それを見た」とバートは言い、ある考えに打たれて黙った。平板な声の男は気にも留めず、バタリッジの死という奇妙な皮肉について話し続けた。それを聞いてバートは、ちくりと安堵した。もうバタリッジに会うことはないのだ。バタリッジは急死したらしかった。ほんとうに、ひどく突然に。
「そして諸君、秘密は彼とともに死んだのです! 部品を探しに行っても、誰一人見つけられなかった。隠し方が、あまりにうまかったのです。」
「だが、本人に言えなかったのか?」と麦わら帽子の男が尋ねた。「そんなに急に死んだのか?」
「倒れたのです。怒りと卒中です。イングランドのディムチャーチというところで。」
「そうだ」とローリエが言った。「サンデー・アメリカンに、一ページの記事があったのを覚えている。そのときは、ドイツのスパイが気球を盗んだと書いてあった。」
「ええ、諸君」と平板な声の男は言った。「ディムチャーチでのあの卒中こそ、最悪のこと――世界に起こった、まさしく最悪のことでした。なぜなら、バタリッジ氏さえ亡くならなければ――」
「秘密を知っている者は、誰もいないのか?」
「一人も。消えたのです。気球は、設計図もろとも海で失われたそうです。沈んだのです。図面も一緒に。」
間が空いた。
「彼の造ったような機械があれば、アジアの飛行機と互角以上に戦えるのです。あの真紅のハチドリがどこへ出ようと、飛行性能で上回り、叩き落とせる。だが消えた、消えたのです。今さら発明し直す暇はありません。手持ちのもので戦うしかない――しかも不利なのです。それで戦いをやめるわけではない。断じて! だが、考えてもみてください!」
バートは激しく震えていた。かすれた咳払いをした。
「あの」と言った。「ちょっと、おれは――」
誰も彼を見なかった。平板な声の男は、話を新たな方面へ広げようとしていた。
「思うに――」と始めた。
バートはひどく興奮した。立ち上がった。
両手で何かをつかもうとするような動きをした。「あの!」と叫んだ。「ローリエさん。ちょっと――おれ――あのバタリッジの機械のこと――」
隣のテーブルに腰かけていたローリエは、大きな身ぶりで、平板な声の男の話を止めた。「彼は何と言っている?」と言った。
すると皆は、バートに何か起こっていると悟った。窒息しかけているか、気が狂いかけているか、そのどちらかだった。口ごもり、言葉を噴き出していた。
「あの! 聞いて! ちょっと待って!」そう言いながら、震え、夢中でボタンを外していた。
襟元を引き開け、チョッキとシャツを開いた。懐へ手を突っこみ、一瞬、自分の肝臓を引きずり出しているかのように見えた。だが肩のボタンに手こずるうち、その平たい恐ろしげなものは、実はひどく汚れたフランネルの胸当てだとわかった。次の瞬間、バートは胸元をちぐはぐにはだけ、テーブルに覆いかぶさるように立ち、一束の紙を広げていた。
「これだ!」とあえいだ。「これが設計図だ! ……ほら! バタリッジさんの――あの機械の! 死んだ人の! あの気球で飛んでいったのは、おれなんだ!」
数秒、誰もが黙った。紙から、バートの白い顔と燃える目へ、それからまたテーブルの紙へと視線を移した。誰も動かなかった。やがて平板な声の男が口を開いた。
「皮肉だ!」と、満足げな響きで言った。「まったく、これ以上ない皮肉だ! もう造ろうと考えるには遅すぎる今になって!」
四
誰もがきっと、バートの話をもう一度聞きたがっただろう。だが、ここでローリエが本領を示した。「いいや、違う」と言って、テーブルから滑り下りた。
散らばるバタリッジの設計図を腕のひと払いで一まとめに確保し、平板な声の男が説明しようと伸ばす指の跡からさえ救い出して、バートへ渡した。「しまいたまえ」と言った。「さっきの場所へ。我々は旅に出る。」
バートは受け取った。
「どこへ?」と麦わら帽子の男が言った。
「決まっている。この合衆国の大統領を見つけ、設計図を渡すのだ。私は、手遅れだとは信じない。」
「大統領はどこにいるんです?」そのあとの沈黙に、バートが弱々しく尋ねた。
「ローガン」とローリエは、その気弱な問いを無視した。「手を貸してもらわなくてはならない。」
ほんの数分後にはもう、バートとローリエと店主は、店の奥の部屋にしまってあった何台かの自転車を調べていたように思えた。バートはどれもあまり気に入らなかった。木製のリムで、イングランドの気候の中で木製リムを使った経験から、ひどく嫌っていたのだ。しかしそれも、すぐ出発することへのほかの一、二の反対も、ローリエが押し切った。「でも大統領は、どこにいるんです?」
空気の抜けたタイヤを膨らませるローガンの後ろに立ちながら、バートは重ねて尋ねた。
ローリエは彼を見下ろした。「オールバニ近郊――バークシャー丘陵のほうにいると伝えられている。場所を移しながら、できるかぎり電信と電話で防衛を組織しているのだ。アジア航空艦隊は所在を探している。政府の居場所がわかったと思うと、爆弾を投下する。厄介ではあるが、今のところ大統領から十マイル以内に近づいたことはない。アジア航空艦隊は現在、東部諸州の全域に散らばり、ガス工場や、飛行船建造、兵員輸送に役立ちそうなものを探して破壊している。我々の報復手段は、極端に乏しい。だが、この機械があれば――君、この旅は、世界史に残る旅の一つになるぞ!」
ほとんど見得を切りそうな様子だった。「今夜のうちには、着かねえんでしょう?」とバートは尋ねた。
「着かない、もちろん! 何日かは走ることになる。確実にね!」
「列車か何かに、乗せてもらえないもんですか?」
「無理だ! タヌーダを通る交通は、三日前から止まっている。待っても仕方がない。できるかぎり自分たちで進むしかない。」
「今から出るんですか?」
「今からだ!」
「でも、その――今夜は、そんなに進めねえでしょう。」
「疲れきるまで走って、それから眠ればよい。そのぶん、まるまる得になる。我々の道は東へ続いている。」
「そりゃ、まあ」とバートは、ゴート島の夜明けを思い出しながら言いかけ、最後まで言わなかった。
胸当てをもっと科学的に詰め直すことへ注意を向けた。何枚かの図面が、チョッキの外にはみ出してひらひらしていたのである。
五
一週間、バートはさまざまな感覚の入り混じる生活を送った。その中で最も強かったのは、脚の疲れだった。大半は自転車をこいだ。容赦なく先を行くローリエの背中を追い、大きくなったイングランドのような土地を走った。丘はもっと大きく、谷はもっと広く、畑も大きく、道も広く、生け垣は少なく、木造の家にはゆったりしたポーチがあった。こいだ。ローリエが尋ね、ローリエが曲がり角を選び、ローリエが迷い、ローリエが決めた。大統領と電話で連絡がついたかと思うと、何かが起こり、また居場所がわからなくなった。だがいつも進まねばならず、いつもバートはこいだ。タイヤの空気が抜けた。それでもこいだ。鞍ずれができた。ローリエは、そんなことは重要でないと言った。アジア軍の飛行船が頭上を通ると、二人は物陰へ駆けこみ、空が晴れるまで待った。一度、赤いアジア軍飛行機が羽ばたきながら追ってきた。飛行士の頭が見分けられるほど低かった。一マイルもあとをつけられた。恐慌に包まれた地域へ入り、破壊された地域へ入った。食料を奪い合っている場所もあれば、田舎の日常からほとんど揺り動かされていないような場所もあった。無人となり、傷ついたオールバニで一日を過ごした。アジア軍が降りてきて、すべての電線を切り、鉄道の接続点を燃え殻の山にしていた。二人の旅人は、さらに東へ進んだ。ろくに注意も払わぬ百もの出来事を通り過ぎ、その間じゅう、バートはローリエの疲れを知らぬ背中を、苦労して追い続けた……
さまざまなものが目に飛びこみ、バートを困惑させた。それでも通り過ぎるうち、答えのない問いは頭から薄れていった。
右手の丘の斜面で、大きな家が燃えているのを見た。誰も気にしていなかった……
狭い鉄道橋に来て、やがて、線路の上で安全支持脚をついて止まったモノレール列車に行き当たった。ラスト・ワード大陸横断急行という、驚くほど豪華な列車だった。乗客はみなトランプをするか、眠るか、近くの草の斜面で野外の食事を用意していた。六日間そこにいたのだった……
あるところでは、浅黒い肌の男十人が、道沿いの木々から一列に吊るされていた。バートは、なぜだろうと思った……
平和そうなある村で、バートのタイヤを直してもらうため立ち寄り、ビールとビスケットにありつくと、靴を履かない、ひどく汚れた小さな少年が近づき、こう言った――
「あそこの林で、チャンコロ吊ってらあ!」
「中国人を吊っているのか?」とローリエは言った。
「そうさ。見張りの連中が、鉄道の小屋をのぞいてるとこ、つかまえたんだ!」
「そうか!」
「あいつら、弾なんか無駄にしねえよ。吊ってから、脚を引っぱったんだ。見つけたチャンコロは、みんなそうしてる! 危ねえ真似はしねえんだ。見つけたチャンコロ、みんなだよ。」
バートもローリエも答えなかった。やがて少年は、ちょっと器用に唾を吐き、道の向こうに友達二人が現れたのに気を取られ、奇妙な雄叫びを上げながら、足を引きずるように去っていった……
その日の午後、オールバニのすぐ外で、胴を撃ち抜かれ、腐りかけた男を、危うく轢くところだった。道路のほぼ真ん中に倒れていた。何日もそこにあったに違いない……
オールバニの先で、タイヤの破裂した自動車に出会った。若い女が運転席のそばに、すっかり無気力に座っていた。老人が車の下で、どうにもなりそうにない修理を試みていた。その向こうでは、若い男が車に背を向け、小銃を膝に横たえて座り、林をにらんでいた。
二人が近づくと老人は這い出し、四つんばいのままバートとローリエに話しかけた。車は昨夜故障したのだという。何が悪いかわからないが、何とか突き止めようとしているのだと老人は言った。自分も娘婿も、機械の心得はない。誰にでも扱える車だと、請け合われて買ったのだ。こんな場所で止まっているのは危険だった。一行は浮浪者に襲われ、戦わなくてはならなかった。食料を持っていることが知られていた。老人は金融界の著名な名を挙げた。ローリエとバートに、立ち止まって助けてくれないかと頼んだ。最初は希望を持って、それから切迫して、最後には涙と恐怖に暮れて。
「だめだ!」ローリエは容赦なく言った。「先を急がねばならない! 我々には、一人の女性よりも大きな、救うべきものがある。アメリカを救わなくてはならないのだ!」
娘は身じろぎもしなかった。
またあるときには、歌っている狂人のそばを通った。
そしてついに、ハドソン川沿いのピンカーヴィルという町の外れ、小さな酒場に隠れていた大統領を見つけ、バタリッジの機械の設計図をその手に渡した。
第十一章 大崩壊
一
いまや文明という織物の全体がたわみ、ほころび、ぼろぼろに崩れ落ちて、戦争の炉の中で溶けつつあった。
二十世紀の幕開けを飾った金融と科学の文明は、全世界にわたって急速に崩壊した。その各段階はあまりにも目まぐるしく続いたので、歴史の紙面に縮めて眺めると、何もかも重なって起きたように見える。初めに目に入るのは、富も繁栄もほぼ絶頂に達した世界だ。そこに暮らす人々には、安泰さえも絶頂にあると思われていた。いま思慮ある観察者がこの時代の精神史を振り返り、残された文学の断片や政治演説の切れ端、十億もの発言の中から偶然に選ばれて後世へ届いたわずかな声を読むとき、この英知と誤謬の織物の中で何より目を引くのは、まさしくその安泰の幻覚であろう。秩序があり、科学に立脚し、安全の確保された現在の世界国家に暮らす者には、二十世紀初頭の人々が満足していた社会秩序ほど心もとないもの、目もくらむほど危険なものはない。私たちの目には、あらゆる制度や人間関係が、行き当たりばったりと因習の産物であり、明らかに偶然のなすがままに見える。法律はそれぞれ別個の事情に応じて作られ、将来の必要とは何のつながりもなく、慣習は非論理的で、教育は目的を欠き、無駄が多かった。その経済的搾取の仕組みに至っては、訓練を積み、知識を備えた者には、およそ想像しうるかぎり最も狂乱じみた破壊的な奪い合いと映る。金には価値があるという実体のない伝統の上に据えられた信用と貨幣の制度も、ほとんど空想めいたほど不安定に思われる。しかも人々は無計画な都市に住み、その大部分は危険なまでに過密だった。鉄道も道路も人口も、互いに無関係な無数の事情が生み出した、でたらめな混乱のままに地上へ配置されていた。
それでも人々は、これを安定した、永続的に進歩する体制だと確信し、およそ三百年にわたる変化と不規則な改善を根拠に、疑いを差し挟む者へこう答えた。「これまではいつもうまくいってきた。何とか切り抜けられるさ!」
しかし二十世紀初頭の人間の状態を、それ以前のどの時代と比べてみても、この盲目的な自信の幾分かは理解できるかもしれない。それは理屈に裏打ちされた自信というより、長く続いた幸運の必然的な結果だった。当時の人々が持ち合わせていた尺度で測るなら、物事は確かに驚くほどうまくいっていたのだ。歴史上初めて、国民全体が日常的に十分すぎるほどの食料を得られるようになった、と言ってもほとんど誇張ではない。当時の人口動態統計は、衛生状態が前例のない速さで改善され、生活を健全にするあらゆる技術において知性と能力が大きく発達したことを物語っている。平均的な教育の水準も質も飛躍的に向上し、二十世紀の夜明けには、西ヨーロッパやアメリカで読み書きのできない人間は比較的少なくなっていた。これほど多くの大衆が本を読んだ時代は、それまで一度もなかった。社会の安全も広く保たれていた。普通の人間が、人の住む地球の四分の三を安全に旅でき、熟練職人の年収に満たない費用で世界一周さえできた。当時のありふれた暮らしの自由さや快適さに比べれば、アントニヌス朝時代のローマ帝国の秩序など、局地的で限られたものにすぎなかった。そして毎年、毎月、人間の達成には新たなものが加わった。新たな土地が開かれ、新たな鉱山が見つかり、新たな科学上の発見がなされ、新たな機械が生まれた!
実際、その三百年のあいだ、世界の動きはすべて人類のためになるように見えた。なるほど、道徳面の組織化が物質的な進歩に追いついていないとは言われていた。しかし、いまの私たちの安全の根底にあるのはこの言葉の理解だというのに、当時、この言葉に意味を認めた者はほとんどいなかった。社会を支え、築き上げる力は、しばらくのあいだ、偶然の悪しき流れや、人類に生来備わる無知、偏見、盲目的な激情、浪費的な私利追求を、確かに上回っていたのである。
偶然にも進歩の側に傾いていたこの釣り合いは、当時の人々が考えたよりはるかにわずかな差で成り立ち、その調整は限りなく複雑で繊細だった。それでも、現に有効な釣り合いであったことに変わりはない。人々は、この比較的幸運な時代が、自分たち人類にとって途方もなく大きいが一時的な好機の時代であることを悟らなかった。進歩は必然であり、自分たちにはそのための道徳的責任などないと、安閑と決め込んでいた。進歩の安全は、まだ勝ち取らねばならないもの――失われることもあるもの――であり、それを勝ち取るための時間は過ぎ去ってゆくのだと気づかなかった。日々の仕事には十分精力的に取り組みながら、迫りくる脅威に対しては奇妙なほど怠惰だった。人類にとって真の危険を気にかける者は誰もいなかった。陸海軍がますます巨大になり、不吉な威容を増してゆくのを人々は見ていた。末期の装甲艦の中には、一隻で高等教育の年間支出総額に匹敵するものさえあった。爆薬と破壊の機械を蓄え、国ごとの伝統と嫉妬を積もるままにし、人種間の距離が縮まるにつれて敵意が着実に増してゆくのを、懸念も理解もなく眺めていた。そして、自分たちの中に悪意に満ちた新聞が育つのを許した。金に動かされ、良心を欠き、善をなす力はなく、悪をなす力だけは強大な新聞を。国家は新聞を事実上まったく統制できなかった。戦争の火薬庫の戸口に、火花ひとつで燃え上がる火口紙を、まるで無頓着に置いておいたのである。歴史の先例はことごとく文明の崩壊を語り、その時代の危険も明白だった。いまの私たちには、人々がそれを見抜けなかったとは信じがたい。
人類は、この空中戦争という災厄を防げたのだろうか。
無益な問いだ。アッシリアとバビロンを人影のない砂漠へ変えた衰亡や、西ローマ帝国の歴史を閉じた緩慢な衰退と滅亡、段階を追って進んだ社会の解体を、人類は防げたのかと問うのと同じくらい無益である。防げなかった。なぜなら防がなかったからだ。それを食い止める意志がなかったからだ。人類が別の意志を持っていれば何を成し遂げられたかという思索は、壮大であると同時に無益でもある。しかもヨーロッパ化した世界を襲ったのは、緩慢な退廃ではなかった。ほかの文明は腐り、崩れ落ちたが、この文明はいわば爆破されたのだ。わずか五年のうちに、完全に分解され、破壊された。空中戦争の前夜までは、絶え間ない進歩の雄大な光景が見える。世界に広がる安定、高度に組織された産業と定住する人口を抱えた広大な地域、巨大なままさらに膨張する巨大都市、大小の海を点々と埋める船舶、鉄道と街道が網の目のように走る陸地。そこへ突然、ドイツの飛行艦隊が舞台を横切って押し寄せ、終わりの始まりが訪れる。
二
ドイツ第一飛行艦隊がニューヨークへ急襲をかけ、その後、決着をもたらさない破壊の狂宴が、避けがたく荒れ狂ったことは、すでに語った。その後方では第二飛行艦隊がガスタンクのかたわらで早くも膨らみ始めていたが、そこでイングランド、フランス、スペイン、イタリアが手の内を明かした。いずれの国も、ドイツほど壮大な規模で航空戦に備えてはいなかった。しかし各国とも秘密を抱え、それぞれに準備を進めており、ドイツの活力と、カール・アルベルト王子に体現される攻撃精神への共通の恐れから、こうした攻撃をひそかに予期して、以前から互いに接近していた。そのため迅速な協力が可能となり、実際、協力はすばやく行われた。当時、ヨーロッパ第二の航空強国はフランスだった。イギリスはアジアの帝国領を案じ、十分に教育されていない住民に飛行船が与える甚大な心理的効果も承知していたため、航空基地を北インドに置いており、ヨーロッパの戦いでは脇役しか務められなかった。それでもイングランド本土にさえ、大型飛行船が九、十隻、小型が二、三十隻、そして各種の実験用飛行機があった。カール・アルベルト王子の艦隊がイングランドを横断し終える前、バートがまだマンチェスターを鳥瞰していたころには、ドイツ攻撃へとつながる外交交渉が進んでいた。大きさも形式もまちまちな飛行船の雑多な集団がベルナー・オーバーラント上空に集結し、この集結に予想外の抵抗を示したスイスの飛行船二十五隻を、アルプスの戦いで打ち砕き、焼き払った。そしてアルプスの氷河と谷に奇怪な残骸を散らしたまま、二つの艦隊に分かれ、ベルリンを恐怖に陥れ、フランケン航空基地を破壊しようとした。第二飛行艦隊へのガス充填が終わる前に、それを果たそうとしたのである。
ベルリンでもフランケンでも、攻撃側は最新の爆薬を使って大損害を与えたのち、ようやく撃退された。フランケンでは、ガスを満たした巨大飛行船十二隻と、半ばまで充填を済ませ乗員も乗り込んだ五隻が敵に立ち向かい、最後にはハンブルクから来たドラッヘンフリーガー[訳注:ドイツ軍の凧型飛行機]の一隊の助けを得て攻撃側を打ち破り、追撃し、ベルリンを救援することができた。ドイツ軍は圧倒的な艦隊を空へ送り出そうと全力を傾け、すでにロンドンとパリへの空襲を始めていた。そのとき、アジアの航空基地から出撃した先遣艦隊の姿がビルマとアルメニアから報告された。戦争に新たな要因が加わったことを告げる最初の知らせだった。
その時点で、世界の金融組織全体はすでによろめいていた。北大西洋ではアメリカ艦隊が壊滅し、北海では激烈な戦闘によってドイツ海軍が消滅し、世界の四大都市では数十億ポンド相当の財産が焼かれ、破壊された。戦争には到底負担しきれない費用がかかるという事実が、初めて人類の意識に突きつけられた。顔面への一撃のように突きつけられたのだ。売りの狂乱の渦の中で信用は崩れた。過去の恐慌期にも軽度ながら現れていた現象が、至るところに見られた。相場が底を打つ前に、何としても金を確保し、蓄え込もうとする欲望である。だが今度は、それが野火のように広がり、全世界を覆った。頭上では目に見える戦闘と破壊が繰り広げられ、その下では、人々が盲信してきた金融と商業主義の薄弱な組織に、はるかに致命的で取り返しのつかないことが起きていた。飛行船が上空で戦うあいだに、地上では世界の金が人目から消えていった。個人による買い占めと、誰もが誰をも信用しない風潮が、疫病のように世界を席巻した。数週間のうちに、値打ちの落ちた紙幣を除く貨幣は、金庫へ、穴の中へ、家の壁の中へ、一千万もの隠し場所へ消えた。貨幣が消え、その消失とともに商業と工業も終わりを迎えた。経済の世界はよろめき、倒れて死んだ。それは何かの病に突然襲われたようだった。生き物の血液から水分が失われたようだった。あらゆる取引が、全世界で一挙に凝固したのである……。
そして科学文明の生きた砦であった信用制度がぐらつき、経済的な関係で結びつけてきた幾百万もの人々の上に崩れ落ちる中、戸惑い、なすすべもない人々が、信用の完全な消滅という驚異に直面する中、アジアの飛行船が無数に、容赦なく天空へあふれ出し、東はアメリカ、西はヨーロッパへと襲いかかった。歴史の頁は、戦闘が長く激しさを増してゆく記録となる。英領インド飛行艦隊の主力は、ビルマで炎上する敵艦もろとも火葬の薪となって滅びた。ドイツ軍はカルパチアの大戦で四散した。広大なインド半島は端から端まで反乱と内戦に燃え上がり、ゴビからモロッコまで「ジハード」[訳注:イスラム教の聖戦]の旗が立った。
戦争と破壊が続く数週間、東亜連合は世界を征服せずにはおかないかに見えた。だがそのとき、中国の急ごしらえの「近代」文明も、重圧に耐えかねて崩れた。平和に暮らす膨大な中国の住民は、二十世紀初頭、深い憤りと不本意を抱きながら「西洋化」させられていた。日本とヨーロッパの影響のもとで威圧され、訓練され、衛生措置、警察の統制、兵役、そして徹底的な搾取の仕組みに従わされてきたが、そのすべてに彼らの伝統は反発していた。戦争の負担で忍耐は限界に達し、中国全土が統一を欠いた反乱に立ち上がった。そして主戦場を生き延びた少数の英独飛行船が、北京の中央政府を事実上破壊したため、この反乱を鎮圧するすべはなくなった。横浜にはバリケードと黒旗が現れ、社会革命が起きた。これをもって、全世界は戦乱のるつぼとなった。
こうして世界規模の戦争には、いわば論理的な帰結として、全面的な社会崩壊が続いた。人口の集中するところではどこでも、膨大な人々が仕事を失い、金を失い、食料を手に入れられなくなった。開戦から三週間以内に、世界のあらゆる労働者街を飢饉が襲った。一か月もたたぬうちに、通常の法と社会の手続きが何らかの非常統制に取って代わられ、秩序の維持と暴力の防止に銃器や軍による処刑が用いられない都市は、どこにもなくなった。それでも貧民街では、人口の密集した地域では、そして早くも、かつて裕福だった人々のあいだにさえ、ところどころで飢餓が広がっていった。
三
かくして、歴史家が「非常委員会期」と呼ぶようになった時代が、開戦期と社会崩壊期から生まれた。続いて訪れたのは、解体に抗する激烈で熱情に満ちた闘争の時代だった。至るところで、秩序を保ち、なおも戦い続けるための闘争が進められた。同時に、戦争の道具がガスを満たした巨大飛行船から飛行機へ置き換わるにつれ、戦争の性格も変わった。大艦隊同士の会戦が終わるや、アジア側は敵国の急所の近くに、飛行機による襲撃の拠点となる要塞化された基地を築こうとした。しばらくは思うままに事を運んだが、その後、この物語ですでに述べたように、失われていたバタリッジ式飛行機の秘密が明るみに出たため、戦力は均衡し、戦争はいっそう決着のつかないものとなった。というのも、この小型飛行機は、大規模な遠征や決定的な攻撃には役立たなかったが、ゲリラ戦には恐ろしいほど便利で、速く安く作れ、使うのも隠すのも容易だったからだ。その設計図はピンカーヴィルで急いで複写、印刷され、アメリカ全土へ広く配布された。ヨーロッパにも送られ、そこでさらに複製された。作れる者は誰でも、町でも村でも、製造して使うよう促された。ほどなく政府や地方当局ばかりでなく、盗賊団、反乱委員会、ありとあらゆる私人が製造するようになった。バタリッジ式飛行機が社会に対して特異な破壊力を持ったのは、徹底して単純だったためである。オートバイと大差のない簡単な構造だった。その影響で、戦争初期の大きな輪郭は消え、国家と帝国と人種の壮大な対立は、細かな争いが沸騰する混沌の中にかき消された。世界は、最盛期のローマ帝国よりも広大な統一と単純さから、中世の盗賊騎士[訳注:通行人や商人を襲って略奪した領主・騎士]の時代にも劣らぬ完全な社会的分裂へ、一足飛びに移った。しかも今回は、解体の緩やかな坂道を長く下るのではなく、崖から転げ落ちるような墜落だった。至るところに、それを悟り、いわば崖の縁にしがみつこうと必死にもがく男女がいた。
第四の段階が続く。混沌との闘いのさなか、飢饉の後を追って、人類のもう一つの古敵が現れた。疫病――紫死病である。だが戦争は止まらない。旗はいまなお翻る。新たな飛行艦隊が上昇し、新型の飛行船が現れ、その急降下と格闘の下で、世界は暗くなってゆく――歴史からほとんど顧みられぬままに。
その後の物語を語ることは、本書の意図するところではない。どの当局も集まって合意し、終結させることができないという、ただそれだけの理由で空中戦争が続き、ついには世界中のあらゆる組織的政府が、棒で叩き割られた陶器の山のように砕け散った、その過程を語ることも。あの恐ろしい歳月には、週を追うごとに歴史は細かく錯綜し、出来事で混み合い、不確かになってゆく。文明は、偉大で英雄的な抵抗もなしに打ち倒されたのではなかった。地上の苛烈な社会的闘争の中から、愛国団体、秩序を守る結社、市長、君主、臨時委員会が立ち上がり、地上に秩序を築き、頭上の空を確保しようとした。その二重の努力が彼らを滅ぼした。そして文明の機械的資源が尽き果て、ついに空から飛行船が完全に姿を消すと、その下では無政府状態と飢饉と疫病が勝利を収めているのが見いだされる。大国も大帝国も、人々の口にのぼる名前でしかなくなった。至るところに廃墟と埋葬されない死者がおり、生存者は痩せ衰え、黄色い顔をして、死んだような無気力に沈んでいる。ここでは盗賊、あそこでは自警委員会、また別のところではゲリラ隊が、疲弊した土地の小片を支配する。奇妙な連合や同盟が生まれては消え、絶望から生まれた宗教的狂信が、飢えにぎらつく目の中で光る。全面的な解体である。地上の見事な秩序も安寧も、破裂した空気袋のようにしぼんだ。わずか五年で、世界と人間の生活圏は、アントニヌス朝時代から九世紀のヨーロッパに至るほどの、大きな後退を遂げたのである……。
四
この陰鬱な破局の光景を、小さな、取るに足りない一人の人間が横切ってゆく。この物語の読者も、いまでは多少はその身を案じているかもしれない。彼について語るべきことは、あと一つだけ、奇跡のようなことが残っている。暗くなり、道を失った世界を通り、断末魔の文明を通り抜けて、このロンドン下町育ちの小さな遍歴者は旅を続け、とうとうエドナを見つけたのだ! 自分のエドナを見つけたのである!
大西洋を渡って帰れたのは、一つには大統領の命令書のおかげであり、一つには自分自身の幸運のおかげだった。バートは材木貿易に従事していたイギリスのブリッグ[訳注:二本マストの横帆船]に、何とか乗り込むことができた。その船が積荷もなくボストンを出港したのは、どうやら主に、船長がサウス・シールズへ「帰郷する」という漠然とした考えを抱いていたかららしい。バートが乗せてもらえたのは、おもにゴム長靴を履いた姿が船乗りらしく見えたためだった。航海は長く、事件続きだった。数時間にわたってアジアの装甲艦に追われた――少なくとも自分たちではそう思った――が、その装甲艦はまもなくイギリスの巡洋艦と交戦した。二隻は三時間にわたって戦い、旋回しながら南へ流されていったすえに、夕闇と、強まりつつある暴風の流れ雲に呑まれた。数日後、バートの船は嵐で舵と主マストを失った。乗組員は食料が尽き、魚を食べて命をつないだ。アゾレス諸島の近くで東へ向かう見慣れぬ飛行船を見かけ、食料の調達と舵の修理のためテネリフェ島に上陸した。町は破壊され、港には死者を乗せたままの大型客船が二隻、沈んでいた。そこから缶詰と修理材料を手に入れたが、町の廃墟にひそむ一団の男たちが敵意をむき出しにして狙撃し、追い払おうとしたため、作業は大いに妨げられた。
モガドルでは停泊して水を求めるボートを岸へ送り、アラブ人の計略にかかって危うく捕まるところだった。ここで紫死病も船に持ち込み、血の中に病を潜ませたまま出帆した。まず料理人が発病し、次いで一等航海士が倒れ、ほどなく全員が床につき、船首楼では三人が死んだ。たまたま凪が続き、船はなすすべもなく、いや、自分たちの運命を気にかけることさえなく、赤道のほうへ押し戻されるまま漂った。船長はラム酒で皆を治療した。全部で九人が死に、生き残った四人には航海術を知る者が一人もいなかった。ようやく気力を取り戻し、帆を扱えるようになると、星を頼りにおおよそ北へ進んだ。またも食料が乏しくなったころ、リオからカーディフへ向かうガソリン機関の船に出会った。その船も紫死病で人手が足りず、喜んで彼らを乗せてくれた。こうして一年の放浪のすえ、バートはついにイングランドにたどり着いた。六月の明るい空の下で上陸すると、そこでは紫死病が猛威を振るい始めたばかりだった。
カーディフの人々は恐慌状態にあり、多くが丘陵地へ逃げていた。汽船が港へ入るや、正体も定かでない臨時委員会が乗り込んできて、残りの食料を押収した。バートは、疫病で秩序を失い、食べ物もなく、太古から続く社会秩序の根底まで揺さぶられた国を、歩いて進んだ。幾度となく餓死しかけ、あるときは命を落としてもおかしくない暴力沙汰にも巻き込まれた。だが、カーディフからロンドンへ、ぼんやりと「家へ帰る」つもりで、エドナ以外には具体的な姿を持たない何か自分のものを漠然と求めて歩くバート・スモールウェイズは、一年前、バタリッジ氏の気球でイングランドからさらわれた「砂漠の修道士」とは、まるで別人だった。日に焼け、痩せ、辛抱強くなり、目は落ち着き、疫病にも鍛えられていた。かつてぽかんと開いていた口は、いまは鋼の罠のように固く閉じていた。額には、ブリッグ船上の喧嘩で負った白い傷痕が走っていた。カーディフでは新しい服と武器が必要だと感じ、一年前なら自分でも仰天したに違いない手段で、放棄された質屋からフランネルのシャツとコーデュロイの上下、拳銃と弾薬五十発を手に入れた。石鹸も手に入れ、町外れの小川で、十三か月ぶりにまともに体を洗った。当初は略奪者を盛んに射殺していた自警団も、いまでは疫病で完全に散り散りになったか、町と墓地のあいだを忙しく往復して、死者の増加に追いつこうとむなしい努力をしていた。バートは三、四日、飢えながら町の周辺をうろつき、その後町へ戻って一週間救護隊に加わった。そこで幾度かまともな食事を取り、体力をつけてから東へ向かった。
当時のウェールズとイングランドの田園には、二十世紀初頭の安泰と富が、デューラーの絵を思わせる中世的な光景と、奇妙に入り混じっていた。旧秩序の設備――家々もモノレールも、畑の生垣も送電線も、道路も歩道も、道標も広告も――大半はまだそのまま残っていた。破産も社会崩壊も飢饉も疫病も、これらを傷つけてはいなかった。直接の破壊を受けたのは、この国家のいわば神経節にあたる大都市や中心地だけだった。何も知らず突然この地方へ降り立った者なら、ほとんど違いに気づかなかっただろう。最初に目につくのは、どの生垣も刈り込みが必要で、道端の草が伸び放題になり、路面がひどく雨に削られ、沿道の小屋の多くが閉め切られていること、ここでは電話線が垂れ、あそこでは荷車が道端に放置されていることくらいだったろう。それでもなお、ワイルダーの缶詰桃は絶品だとか、朝の食卓にはゴブルのソーセージに勝るものはないとか、明るく断言する広告が、空腹を刺激したに違いない。そこへ突如、デューラー的なものが現れる。馬の骸骨、あるいは溝に丸まって落ちているぼろの塊。そこから突き出た痩せこけた足、紫の斑点の浮いた黄色い肌、そして顔――いや、かつて顔だったもの。痩せ、目をむき、無残に崩れた顔。こちらには耕したまま種をまいていない畑があり、あちらには獣に踏み荒らされた穀物畑があり、また別のところでは、焚火のために引き倒した広告板が道をふさいでいた。
そのうちに、黄色い顔で、たいていはだらしない身なりをし、武器を持って食べ物を探し回る男や女に出会う。肌の色も目つきも表情も浮浪者か犯罪者のようでありながら、服装はしばしば裕福な中流階級や上流階級のものだった。そういう人々の多くは世間の知らせに飢えていて、その見返りに力を貸し、ときには得体の知れない肉の切れ端や、灰色で生焼けのパンの皮まで分けてくれた。バートの話をむさぼるように聞き、一日かそこら引き留めようとした。郵便の配達が事実上止まり、新聞事業がすべて崩壊したことで、この時代の精神生活には、痛むほど大きな空白が生じていた。人々は突然、世界の果てを見通す目を失い、まだ中世の噂を伝え合う習慣を取り戻してはいなかった。その目に、身のこなしに、話しぶりに、道を失い、方角もわからなくなった魂の姿があった。
バートは、暴力と絶望が膿む中心地である大きな町をできるだけ避け、村から村へ、地方から地方へと旅するうち、土地によって情勢が大きく違うことを知った。ある村では、大邸宅が焼け、牧師館が荒らされていた。食料が隠してあると疑われ、おそらくは実在しないその備蓄をめぐって激しい争いが起きたのだろう。埋葬されない死体が至るところにあり、共同体の仕組みは完全に止まっていた。別の村では、組織を立て直す力が力強く働いていた。塗りたての掲示板が浮浪者に立ち入りを禁じ、武装した男たちが道路や、なお耕されている畑を巡回し、疫病は抑えられ、看護さえ行われていた。食料の蓄えは大切に管理され、牛や羊は厳重に守られ、二、三人の治安判事や村医者、あるいは農場主からなる一団が村全体を統率していた。つまり十五世紀の自治共同体への逆戻りである。だが、そんな村にもいつ何時、アジア人やアフリカ人、その他の空賊が襲来し、ガソリンやアルコールや食料を要求するかもしれなかった。その秩序の代価は、ほとんど耐えがたい警戒と緊張だった。
やがて、もっと大きな人口集中地の錯綜した問題や、より複雑な抗争に近づいたことを知らせるものが現れた。雑に塗りつけられた「検疫」「よそ者は射殺する」の掲示、あるいは道端の電話柱にずらりと吊るされた、腐りかけの略奪者たちである。オックスフォードの周辺では、空をさまよう者たちに近づくなと警告する大きな板が屋根に掲げられ、ただ一言、「大砲」と書いてあった。
そうした状況の中でも、危険を冒して自転車で出歩く者はまだいた。バートの長い徒歩旅行のあいだには一度か二度、覆面とゴーグルをつけた人々を乗せた強力な自動車が、猛然と通り過ぎてもいった。警官の姿はほとんどなかったが、ときおり痩せこけたぼろ服の自転車兵の一隊が、流れるように通っていった。ウェールズを出てイングランドへ入ると、そうした出会いは増えた。この崩壊のただ中でも、まだ軍事行動は続いていた。飢えがひどくなれば、救貧院で一夜を過ごそうかとも考えていた。だが、閉鎖されたところもあれば、臨時病院になっているところもあった。グロスターシャーのある村の近くで夕暮れにたどり着いた一軒は、扉も窓もすべて開け放たれ、墓場のように静まり返っていた。そして悪臭のする廊下を手探りで進むうち、そこが埋葬されない死体でいっぱいだと気づき、バートは戦慄した。
グロスターシャーから、バートは北へ向かい、バーミンガム郊外のイギリス航空基地を目指した。雇ってもらい、食べ物にありつけないかと思ったのである。そこでは政府、少なくとも陸軍省が、まだ精力的な実体として存在していた。崩壊と社会的災厄のただ中で、イギリスの旗をなおも空に翻させようと力を集中し、市長という市長、治安判事という治安判事を奮い立たせて、あらためて組織化を進めようとしていた。彼らはその地方に生き残った最も優秀な職人を集め、籠城に備えて基地に食料を蓄え、バタリッジ式飛行機の大型版を急いで建造していた。だがバートには、この仕事へ入り込む余地がなかった。技量が足りなかったのだ。これらの工場がついに破壊される大戦闘が起きたころには、オックスフォードへ流れ着いていた。ボア・ヒルという場所から、その戦いを少しだけ見た。南西の丘を越えてアジアの飛行隊が進んでくるのが見え、うち一隻の飛行船が二機の飛行機に追われて再び南へ旋回するのが見えた。その一隻は、最後にはエッジ・ヒルで追いつかれ、撃破されて燃えた。しかし戦闘全体がどう終わったのか、バートはついに知らなかった。
イートンからテムズ川を渡ってウィンザーへ入り、ロンドンの南を回ってバン・ヒルへ向かった。そこで見つけた兄のトムは、暗がりで身構える獣のように昔の店にうずくまっていた。紫死病からようやく回復しかけたところで、二階ではジェシカがうわごとを言い、バートには、むごたらしく死にかけているように見えた。彼女は客への配達のことを口走り、トンプソン夫人のジャガイモとホプキンズ夫人のカリフラワーを遅らせるなと、絶えずトムを叱っていた。だが商売はとうの昔に途絶え、トムはネズミや雀を罠で捕らえ、略奪された食料品店から持ち出した穀物やビスケットの蓄えを隠しておくことに、ほとんど不気味なほど熟達していた。トムは用心を解かぬまま、それでも温かく弟を迎えた。
「おやまあ!」と彼は言った。「バートじゃないか。いつか帰ってくるとは思ってたよ。会えてうれしいさ。だが何か食えとは言えねえんだ。食うものが何もなくてな……。どこにいたんだ、バート、今までずっと?」
バートは食べかけのルタバガをちらりと見せて兄を安心させ、脱線を交えながら途切れ途切れに自分の話をしていた。そのとき、カウンターの奥に、黄ばんで忘れ去られた自分宛ての手紙を見つけた。「こいつは何だ?」と言って見ると、一年前のエドナの手紙だった。「あの子、ここへ来たんだ」とトムは、つまらないことを思い出したように言った。「お前はいないか、ここへ置いてもらえないかってな。あの戦いのあと、クラパム・ライズに火をつけられたあとだよ。俺は置いてやるつもりだったが、ジェシカが承知しなくてな。それでこっそり俺から五シリング借りて、先へ行った。たぶん手紙に書いてあるだろうが――」
確かに書いてあった。ホーシャムの近くで煉瓦製造場を営む叔父と叔母のところへ行く、とある。そしてさらに二週間、波瀾に満ちた旅を続けたすえに、バートはとうとうそこで彼女を見つけた。
五
バートとエドナは互いの姿を目にすると、まじまじと見つめ合い、間の抜けた笑い声を上げた。それほど変わり果て、ぼろぼろで、驚いていたのだ。それから二人とも泣きだした。
「ああ、バーティー!」と彼女は叫んだ。「来てくれたのね――来てくれた!」そして両腕を差し伸べ、よろめいた。「あいつには言ったのよ。あいつ、結婚しないなら殺すって。」
だがエドナは結婚していなかった。やがて話ができるようになると、バートが何をしなければならないかを説明した。この人里離れた小さな農村地帯は、ビル・ゴアという頭目に率いられた無法者の一団に支配されていた。ビルは肉屋の小僧から身を起こし、賞金拳闘家となり、勝負事で食う男になった。もともと一団を組織したのは、かつて競馬界で名を知られた地元の貴族だったが、しばらくすると、どういう事情か誰にもよくわからないまま姿を消した。そのあとビルが地方の支配者の座を継ぎ、師のやり方をかなり精力的に発展させた。その貴族には先進的な哲学を気取るところがあり、「人種改良」や「超人」の創出に心を奪われていたが、それは実際には、とりわけ本人が頻繁に結婚し、配下の小集団もほどほどにそれをまねるという形を取った。ビルはその考えを、部下たちからの人望さえ損ないかねない熱意で受け継いだ。ある日、豚の世話をしているエドナを見かけると、残飯の入った飼い葉桶のあいだで、すぐさま猛烈に言い寄り始めた。エドナは勇敢に抵抗したが、男はいまも盛んに押しかけ、異常なほど待ちきれない様子だった。いつ来てもおかしくない、と言って、彼女はバートの目を見つめた。二人はすでに、男が愛する者のために戦わねばならない野蛮な時代へ逆戻りしていたのだ。
ここで、真実と騎士道物語の伝統が相容れないことを、嘆かずにはいられない。バートが恋敵へ挑戦すべく勇ましく出てゆき、人垣に囲まれて熱戦を繰り広げ、勇気と愛と幸運の奇跡によって勝つ、そんな話を語りたくなる。だが実際には、そのようなことは何一つ起きなかった。代わりにバートは拳銃へ念入りに弾を込め直し、荒廃した煉瓦製造場のそばの小屋で、いちばん上等な部屋に腰を下ろした。不安げに困り果てた顔で、ビルとその振る舞いについての話を聞きながら、考えに考えた。すると突然、エドナの叔母が、緊張に震える声でその男の到来を告げた。仲間二人と一緒に庭の門を入ってくるところだった。バートは立ち上がり、叔母を脇へよけて外を見た。三人とも異様ないでたちだった。赤いゴルフ用の上着、白いセーター、フットボールのシャツに靴下と靴という、一種の制服を着ていたが、かぶり物だけはめいめいの趣向に任せてあった。ビルは雄鶏の羽根だらけの女物の帽子をかぶり、どの帽子にも、カウボーイ風の大きな垂れたつばがついていた。
バートはため息をつき、深く考え込みながら身を起こした。エドナは不思議そうに彼を見守った。女たちはじっと動かなかった。バートは窓を離れ、複雑で先の読めない仕事に頭を使う男の疲れた表情で、ゆっくり廊下へ出た。「エドナ!」と呼び、彼女が来ると玄関の扉を開けた。
三人の先頭を指さし、ごくあっさりと尋ねた。「あいつか? ……間違いないな?」……そうだと言われると、即座に、しかもきわめて正確に、恋敵の胸を撃ち抜いた。次いでビルの右腕の頭を、今度はそれほどきれいにはいかなかったが撃ち、さらに逃げる三人目へ発砲して腕をかすめた。三人目の紳士は甲高い悲鳴を上げ、体を妙に横へひねりながら走り続けた。
それからバートは拳銃を手に、背後の女たちなど眼中にない様子で、立ったまま思案した。
ここまでは、うまくいった。
ただちに政治へ乗り出さなければ、暗殺者として絞首刑になる。それが明らかになったので、女たちには一言も告げず、一時間前、エドナのもとへ来る途中で通り過ぎた村の酒場へ向かった。裏から入ると、そこには素性の怪しい荒くれ者の小集団がいて、酒を飲みながら、結婚やビルの恋心を、冗談めかして、しかし羨ましげに話し合っていた。バートは、無造作に持っているが念入りに装填し直した拳銃を手に、彼らと向き合い、自分の指揮する――こう呼んだことは残念ながら事実だが――「自警委員会」へ加わるよう勧めた。「この辺には必要なんでな。俺たち何人かで始めるところだ。」
外に仲間がいるように振る舞ったが、実際には、この世に味方といえる者はエドナとその叔母、そして二人の女の従妹しかいなかった。
手短に、だが終始きわめて丁重に、事態についての話し合いが行われた。一同はバートを、ビルのことを知らずにこの土地へ歩いてきた気違いだと思った。頭目が来るまで時間を稼ぎたかった。ビルなら始末をつける。誰かがビルの名を口にした。
「ビルなら死んだ。たったいま俺が撃った」とバートは言った。「あいつのことは勘定に入れなくていい。あいつは撃たれた。それから赤毛の、やぶにらみの野郎もな。そいつも撃った。その辺は片がついてる。もうビルはおしまいだ、永久にな。あいつは結婚だの何だのについて、間違った考えを持ってた。俺たちが取り締まるのは、ああいう手合いだ。」
それで満場の賛同が得られた。
ビルは形ばかりに埋葬され、バートの自警委員会――その名がそのまま定着した――が、代わって君臨した。
バート・スモールウェイズに関するかぎり、この物語はここで終わる。彼はエドナとともに、歴史の流れから遠く離れたウィールドの粘土質の土地と樫の茂みの中で、空いた土地に住み着く者となる。私たちはそこで二人と別れよう。それからの暮らしは、農民として日々出会う出来事の連続となった。豚と鶏、ささやかな必要、小さな節約、そして子供たちの暮らしである。やがてクラパムもバン・ヒルも、科学時代の生活のすべても、バートには薄れてゆく夢の記憶にすぎなくなった。空中戦争がその後どう続いたのか、まだ続いているのかさえ、知ることはなかった。飛行船の往来や、ロンドン方面の出来事の噂は耳にした。一度か二度、働いている彼の上に飛行船の影が落ちたが、どこから来てどこへゆくのかはわからなかった。語りたいという欲求さえ、糧を与えられずに消えた。ときには強盗や泥棒が来た。ときには家畜に病気が流行し、食べ物が足りなくなった。一度は猪狩り犬の群れが地方を荒らし、その退治を手伝った。つながりも脈絡もない数々の冒険をくぐり抜けた。そしてすべてを生き延びた。
事故と死は幾度となく二人に近づき、通り過ぎた。二人は愛し、苦しみ、幸福だった。エドナは次々に多くの子供を――十一人の子供を――産んだ。そのうち、つつましい暮らしに避けがたく伴う苦難に命を奪われたのは、わずか四人だった。二人は生き、うまく暮らした。当時の意味での、うまい暮らしを。そして年ごとに、肉あるものすべての道を歩んでいった。
終章
最初のドイツ飛行艦隊が出撃してから、ちょうど三十年後のことだった。ある明るい夏の朝、一人の老人が幼い少年を連れ、いなくなった雌鶏を探しに、バン・ヒルの廃墟を抜けて、クリスタル・パレスの砕けた尖塔のほうへ歩いていった。ひどい高齢というわけではない。実際には、六十三歳までまだ数週間あった。だが、鋤や農用フォークを使って絶えず腰をかがめ、根菜や肥やしを運び、着替えもないまま野外の湿気にさらされ続けたため、体は鎌の形に曲がっていた。しかも歯の大半を失っており、そのため消化が悪く、ひいては肌も気性も悪くなっていた。顔立ちと表情は、かつてサー・ピーター・ボーンの御者を務めた老トマス・スモールウェイズに不思議なほど似ていた。それもそのはず、彼はその息子トム・スモールウェイズであり、以前はバン・ヒルのハイ・ストリートで、モノレール高架がまたぐ下に小さな青果店を構えていた男だった。しかし、もう青果店は存在しなかった。トムは、昔も今も日々の畑仕事の場である未開発の住宅用地のすぐそばで、打ち捨てられた郊外住宅の一軒に暮らしていた。夫婦は二階を住まいとし、芝生へ出るフランス窓のついた応接間と食堂、それに一階のあちこちでは、ジェシカが三頭の牛と、ぎこちない足取りの鶏を大勢飼っていた。ジェシカはいまでは痩せ、しわが寄り、頭も薄くなった老女だったが、手際のよさと精力は健在だった。この夫婦は、取り残された者や帰還した避難民が作った小さな共同体の一員だった。総勢おそらく百五十人ほどで、戦争に続く恐慌と飢饉と疫病のあと、新しい暮らしの条件に落ち着いていた。見知らぬ避難先や隠れ場所から戻り、なじみの家々に住み着いて、食べ物を得るため自然との厳しい闘いを始めたのである。それがいまでは生活の最大の関心事だった。そのことにかかりきりであるために、彼らは平和な人々だった。とりわけ、不動産屋のウィルクスが、時代遅れの所有欲の夢に駆られて土地の権利を調べ回り、訴訟好きな気質を見せたため、廃墟となったガス工場脇の池で溺死してからは、なおさらそうだった。(念のために言っておくが、殺されたのではない。見せしめの水責めを、健康に差し支えない限度より十分ほど長く続けられたのだ。)
この小さな共同体は、もともとの郊外寄生的な習慣から、ほとんど太古以来の長い歳月、人類の普通の生活であったに違いないものへ戻っていた。牛と鶏と小さな土地に密着して倹しく暮らし、牛の匂いを吸っては吐き、暮らしが生み出す細菌と害虫の活動で、刺激への欲求も満たされる生活である。歴史の夜明けから科学時代の始まりまで、ヨーロッパの農民はそうして暮らしてきた。アジアとアフリカの大多数の人々も、いつもそう暮らしてきた。一時は、機械と科学文明の力によって、ヨーロッパはこの動物じみた苦役の果てしない循環から引き上げられ、アメリカは初めからその大半を免れるかに見えた。だが、驚異的にそびえ立った機械文明の、高く危うく壮麗な建物が崩壊すると、普通の人間は土地へ帰った。肥やしのもとへ帰ったのだ。
小さな共同体は、かつてのより偉大な社会の無数の記憶につきまとわれながら、ほとんど暗黙のうちに慣習法を寄せ集めて育て、呪医や聖職者の導きに従うようになった。世界は宗教を、そして共同体を結びつける何かの必要を、再発見した。バン・ヒルでは、その役目は年老いたバプテスト派の牧師に託された。教えは簡素だが十分だった。「み言葉」と呼ばれる善の原理が、「緋色の女」[訳注:『ヨハネの黙示録』に由来する、悪徳を象徴する女]という悪魔的な女性の力と、「アルコール」という邪悪な存在に対して、絶えず戦っている、というのである。このアルコールは、とうの昔に純粋に霊的な概念となり、物質的なものに当てはまる要素はすっかり失っていた。ロンドンの家々の地下室でときおり見つかり、バン・ヒルに唯一の祝祭をもたらすウイスキーやワインとは、何の関係もなかった。牧師は日曜にはこの教えを説き、平日には愛想のよい親切な老人だった。毎日手を洗い、できれば顔まで洗おうとする風変わりな性向と、豚を解体する驚くべき才能が際立っていた。日曜礼拝はベッケナム・ロードの古い教会で行い、そのときは近在の人々が、エドワード朝時代の都会の装いを奇妙に思い起こさせる身なりで集まった。男たちは例外なくフロックコートとシルクハットと白いシャツを着たが、靴のない者は大勢いた。そんな折、トムはとりわけ目立った。アーバン・アンド・ディストリクト銀行の地下室で骸骨が身につけていた、金モール付きのシルクハットと緑の上着とズボンを着用したからである。女たちはジェシカまでが上着を着て、造花や珍しい鳥の羽根で豪勢に飾った巨大な帽子をかぶった――そういう品は北のほうの店にふんだんに残っていた。子供たちも同じような服を体に合わせて切り詰めて着ており、ストリンガーの四歳の幼い孫さえ、大きなシルクハットをかぶっていた。(ただし子供は多くなかった。バン・ヒルに生まれる赤ん坊のかなりの割合が、わけのわからない病気で、生後数日のうちに死んだからだ。)
それがバン・ヒル地方の日曜の装いであり、科学時代の上品ぶった伝統の、奇妙で興味深い名残だった。平日には人々は、汚れた雑巾や真っ赤なフランネル、麻袋、カーテン用のサージ、古い絨毯の切れ端を、薄汚く奇妙な具合に体へぶら下げ、裸足か粗末な木のサンダルで歩いていた。理解していただきたいのは、この人々が、野蛮な農民の状態へ落ち戻った都市住民であり、そのため野蛮な農民なら備えているはずの簡単な技術を何一つ持たなかったことである。多くの点で、奇妙なほど退化し、無能になっていた。織物を作るという考えそのものを失い、生地があってもろくに服へ仕立てられず、身を覆うため、周囲の廃墟に残る減り続ける品々をあさらねばならなかった。
かつて知っていた簡単な技術はすべて失われ、近代的な排水や給水、買い物などが崩壊すると、文明的な生活のやり方も役に立たなくなった。料理は原始的なものよりひどかった。調理用かまどでは燃料を食いすぎるため、応接間の錆びた暖炉で薪を燃やし、食べ物を頼りなくいじり回すだけだった。パン焼きも醸造も金属加工も、心得のある者は一人もいなかった。
普段着に麻袋などの粗い素材を使い、それを紐で体へくくりつけ、暖を取るため中へ詰め綿や藁を押し込む習慣のせいで、人々は奇妙に「梱包された」ような姿をしていた。トムが幼い甥を雌鶏探しへ連れ出したのは平日だったので、二人もそのいでたちだった。
「とうとうバン・ヒルへ来たんだな、テディ」と老トムは言った。老ジェシカの声が届かないところまで来ると、歩調を緩め、話し始めたのだ。「バートの子供で、まだ顔を見てなかったのは、お前だけだ。ワットには会った。若いバートにも会った。シシーとマット、俺の名をもらったトム、それからピーターにもな。旅の連中は、ちゃんと連れてきてくれたかい?」
「何とかなったよ」とテディは言った。幼いながら、そっけないところのある少年だった。
「途中でお前を食おうとはしなかったか?」
「いい人たちだったよ」とテディは言った。「それでね、途中のレザーヘッドの近くで、自転車に乗った男の人を見たんだ。」
「そりゃたまげた!」とトムは言った。「いまどきそんなものは、めったにないぞ。どこへ行くところだった?」
「大通りが通れそうならドーキングへ行くって。でも、着けたかどうかわかんない。バーフォードの辺りは水浸しだったもの。僕たちは丘を越えてきたんだ、おじさん。ローマ街道っていうところ。あそこは高くて安全だよ。」
「そこは知らねえな」と老トムは言った。「だが自転車とはね! 本当に自転車だったのか? 車輪は二つあったか?」
「間違いなく自転車だったよ。」
「なんとまあ! テディ、俺の覚えてるころには、自転車なんぞいくらでもあってな。ちょうどここに立ってると――あのころの道は板みたいに平らだった――二十台も三十台も、いっぺんに行ったり来たりするのが見えたんだ。自転車やらモーター自転車やら、モーター車やら、いろんなものがびゅんびゅん走ってた。」
「うそだ!」とテディは言った。
「覚えてるとも。一日じゅう通り続けるんだ。何百台も何百台もな。」
「でも、みんなどこへ行ってたの?」とテディは尋ねた。
「ブライトンへすっ飛ばしてくのさ。ブライトンは見たことないだろうな。海辺にあってな、そりゃ驚くようなところだった。それにロンドンから来たり、ロンドンへ行ったりだ。」
「どうして?」
「そうしてたんだ。」
「でも、どうして?」
「さあな、テディ。とにかくそうしてた。それから、あそこにでっかい錆びた釘みたいなものが、家より高く突き出てるだろ。向こうにも、その向こうにもある。そのあいだの家並みに、何か落っこちてるのが見えるな。あれはモノレールの一部だったんだ。あれもブライトンへ行ってた。昼も夜も人が乗っていってな、家ほどもある大きな車両が、人でいっぱいだった。」
少年は、かつてハイ・ストリートだった、牛の糞だらけの細い泥溝の向こうにある、錆びついた証拠を眺めた。疑いたい気持ちは明らかだったが、現に廃墟はそこにあった。想像力の及ばない概念と格闘した。
「何しに行ったの?」と尋ねた。「みんな?」
「行かなきゃならなかったんだ。あのころは何もかも動き回ってた。何もかもさ。」
「うん、でも、どこから来たの?」
「この辺り一帯だよ、テディ。あの家々には人が住んでた。道を上がった先にも家があって、人がいた。信じられねえだろうが、テディ、聖書に誓って本当だ。あっちへいくら進んでも、ずうっと家が続くんだ。まだ家、その先にも家。終わりがない。果てしないんだ。家はどんどん大きくなる。」
異界の名でも口にするように、声が低くなった。
「ロンドンだよ」と彼は言った。
「いまはみんな空っぽで、ほったらかしさ。一日じゅう、ほったらかしだ。人間にはまず出くわさねえ。ネズミを追う犬や猫しかいない。ブロムリーやベッケナムの辺りまで行くと、ケントの連中が豚を飼ってるがな。(また、がらの悪い連中でよ!)いいか、日が出てるあいだは、墓場みたいにしんとしてるんだ。昼間なら俺も歩いたよ。何度も何度もな。」
彼は言葉を切った。
「あの家も道も路地も、空中戦争と飢饉と紫死病の前には、みんな人でいっぱいだった。人でいっぱいだったんだよ、テディ。それから、死体でいっぱいの時が来た。あっちへ一マイルも行かねえうちに、臭くて引き返さずにいられなくなった。みんな紫死病で死んだんだ。猫も犬も鶏も、害獣もかかった。何もかも、誰も彼もだ。俺たち何人かだけが、たまたま生き残った。俺もおばさんも切り抜けたが、おばさんは髪が抜けちまった。いまでも家に入ると骸骨があるぞ。こっちの家は全部入って、欲しいものをもらい、死んでる人もたいてい埋めてやった。だがあっち、ノーウッドのほうには、まだ窓にガラスがはまってて、家具も手つかずの家がある。埃だらけで、ぼろぼろになってるがな。それで人の骨が、ベッドの上だの家のあちこちだのに横たわってる。二十五年前に紫死病が置いてったまんまだ。去年、俺とヒギンズじいさんで、その一軒へ入った。すると本のある部屋があってな、テディ――本ってものは知ってるか、テディ?」
「見たことあるよ。絵のついたのを見た。」
「その本がぐるりとあってな、テディ。何百冊だ。わけも道理もないほどってやつだよ。緑のかびが生えて、からからになってた。俺は放っとこうと思った。昔から本を読むのは好きじゃなくてな。ところがヒギンズじいさんは、触らずにいられなかったんだ。『わしはいまでも一冊くらい読めると思うぞ』って言うんだ。
「『読めるもんか』と俺は言った。
「『読めるとも』とあいつは笑って、一冊抜き出して開いた。
「見てみると、テディ、色のついた絵があったんだ。それはそれは見事な! 庭に女たちと蛇がいる絵だった。あんなものは見たことがねえ。
「『これはいい』とヒギンズじいさんが言った。『まったくいい。』
「それから、親しげな感じに、本をぽんと叩いた――
老トム・スモールウェイズは、もったいをつけて黙った。
「それから?」とテディは言った。
「全部、粉になっちまった。白い粉にな!」
さらに重々しい調子になった。「その日はもう、本には一冊も触らなかった。あんなことがあってからはな。」
長いあいだ二人は黙っていた。やがてトムは、抗いがたい魅力に引きつけられる話題をもてあそぶように、繰り返した。「昼間はずっと横たわってる。墓場みたいに、しんとな。」
テディはようやく、その言わんとするところをつかんだ。「夜は横たわってないの?」と尋ねた。
老トムは首を振った。「誰にもわからん、坊主。誰にもな。」
「でも、何ができるっていうの?」
「誰にもわからん。見て帰って、人に話した者はいねえ。」
「誰も?」
「話はいろいろある」と老トムは言った。「話はいろいろあるが、信じちゃいけねえ。俺は日暮れどきには帰って、家から出ない。だから何とも言えんだろう? だが、あれこれ思ってる連中はいる。骨が白くなってない死体から服を取ると、縁起が悪いって聞いたことがある。話があるんだ――」
少年は叔父を鋭く見つめた。「どんな話?」と言った。
「月の明るい夜に、何かが歩き回るって話さ。だが俺は信じちゃいねえ。寝床から出ねえんだ。話なんぞ聞いてたら――まったく! 真昼間の野原で、自分まで怖くなっちまうぞ。」
少年は辺りを見回し、しばらく質問をやめた。
「ベッケナムに豚飼いがいてな、ロンドンで三日三晩迷ったっていうんだ。ウイスキーを探しにチープサイドへ行って、廃墟で道がわからなくなり、さまよった。三日三晩歩き回ったが、通りが次々に変わるもんで帰れねえ。聖書の言葉を思い出さなかったら、いまでもあそこにいたかもしれん。昼も歩き、夜も歩いた。昼間はずっと静かだった。死んだように静かだったんだ、日が沈んで薄闇が深まるまではな。すると、かさかさ、ひそひそと聞こえ始め、急ぎ足みたいな、ぱたぱたいう音がしだした。」
彼は黙った。
「うん」と少年は息を詰めて言った。「続けて。それから?」
「荷車や馬の音がして、辻馬車や乗合馬車の音がした。それから笛がいくつも鳴りだした。甲高い笛だ。骨の髄まで凍るような笛の音だった。で、その笛が鳴り始めるとすぐ、ものが見えだしたんだ。通りを急ぐ人々、家や店で忙しく働く人々、道を走るモーター車。ランプにも窓にも、月明かりみたいなものがともった。人々と言ったがな、テディ、あれは人じゃなかった。災いに襲われた連中の幽霊だったんだ。昔、あの通りを埋めてた連中の幽霊さ。そいつらは男の横を通り、体を通り抜け、気にも留めなかった。霧やもやのように通り過ぎたんだ、テディ。楽しそうなときもあったが、恐ろしいときもあった。言葉にならねえほど恐ろしかった。そして一度、ピカデリーってところへ来たんだ、テディ。そこじゃ明かりが昼みたいに輝いて、立派な服の紳士淑女が歩道にあふれ、タクシーが道を連なってた。見ているうちに、みんな邪悪になった。顔が邪悪になったんだ、テディ。そして突然、向こうにも男が見えた気がした。女たちが男を見始め、いろいろ言いだした。恐ろしい、悪いことをな。一人がすぐそばまで来たんだ、テディ。すぐ目の前まで来て、顔をのぞき込んだ。間近にな。だが、のぞき込む顔なんてなかった。色を塗った髑髏だけだった。それで男にもわかった。みんな、色を塗った髑髏だったんだ。一人また一人と押し寄せ、恐ろしいことを言い、つかみかかり、脅し、なだめすかした。怖さのあまり、心臓が体から飛び出しそうになった。」
「うん」とテディは、たまらない沈黙に息を弾ませて言った。
「そのとき男は聖書の言葉を思い出し、命を救ったんだ。『主はわが助け主』と言った。『ゆえに、われ何ものをも恐れじ』。するとたちまち鶏が鳴いて、通りは端から端まで空っぽになった。そのあとは主がお恵みをくださり、家へ導いてくださったんだ。」
テディは目を見開いたまま、別の疑問をつかまえた。「でも、その人たちは誰だったの?」と尋ねた。「この家全部に住んでた人たち。何をしてたの?」
「商売をする紳士や、金持ちさ。少なくとも、何もかも壊れるまでは金だと思ってたんだが、どうやらただの紙だったらしい。いろんな連中だよ。何十万人もいた。何百万人もいたんだ。あのハイ・ストリートが、買い物どきには女やら買い物客やらで、歩道を歩けないほどになるのを、しょっちゅう見たもんだ。」
「でも、食べ物なんかはどこで手に入れてたの?」
「俺がやってたような店で買うんだ。帰りに場所を見せてやるよ、テディ。いまの人間には店ってものがわからねえ。まるでわからねえんだ。板ガラスの飾り窓なんて、言ったってちんぷんかんぷんさ。俺なんぞ、一度に一トン半ものジャガイモを扱ったことがある。昔うちの店に何があったか、それを見るだけで目玉が落っこちるほど驚くぞ。梨を山盛りにした籠、マロー[訳注:大型のウリ状の果実をつけるカボチャの一種]、リンゴや梨、うまい大きな木の実。」
声がうっとりと甘くなった。「バナナに、オレンジ。」
「バナナって何?」と少年は尋ねた。「オレンジって?」
「果物さ。甘くて、汁がたっぷりで、うまい果物だ。外国の果物だよ。スペインやニューヨークや、あちこちから運んできた。船なんかでな。世界じゅうから俺のところへ運んできて、俺が店で売ったんだ。俺が売ったんだぞ、テディ! いま古い袋を着て、お前といなくなった鶏を探してる、この俺がな。店には人が来た。いまじゃ夢にも思えねえような、きれいな奥様が、めかし込んでやって来て、『さて、スモールウェイズさん、今朝は何があるの?』って言う。すると俺は、『ええ、カナダ産のたいへんよいリンゴがございます』とか、そうでなきゃ、カスタード・マローがあります、とか言うんだ。わかるか? すると買ってくれた。その場で『いくらか届けてちょうだい』ってな。ああ、何て暮らしだったろう。商売、にぎわい、目に入るしゃれた品々、通り過ぎるモーター車、馬車、人々、手回しオルガン弾き、ドイツ人の楽隊。いつでも何かが通ってた。いつでもだ。あの空き家がなけりゃ、全部夢だったと思っちまう。」
「でも、何がみんなを殺したの、おじさん?」とテディは尋ねた。
「何もかも壊れちまったんだ」と老トムは言った。「あの戦争を始めるまでは、すべてうまくいってた。時計みたいにきちんと動いてた。誰もが忙しく、誰もが幸せで、誰もが毎日腹いっぱい食ってた。」
信じられないという目にぶつかった。「誰もがだ」ときっぱり言った。「ほかで食えなくても、救貧院へ行けば食えた。スキリーっていう、熱い汁物を一杯、それに、いまじゃ誰にも作れないようなうまいパンがもらえた。ちゃんとした白いパンだ。お上のパンさ。」
テディは驚いたが、何も言わなかった。胸の奥に激しい欲求がわき、押し殺すのがいちばんだとわかっていた。
しばらく老人は、味覚の追憶に身を委ねた。唇が動いた。「鮭の酢漬け!」とささやいた。「それに酢……オランダのチーズ、_ビール_! パイプ一服の煙草。」
「でも、みんなはどうやって死んだの?」と、やがてテディが尋ねた。
「戦争があった。始まりは戦争だ。戦争はどんどん、どたばたやったが、実際にはそんなに大勢を殺しちゃいねえ。だが物事をめちゃくちゃにした。やつらが来てロンドンに火をつけ、昔テムズ川にいた船を全部焼いて沈めた。煙と湯気が何週間も見えたよ。クリスタル・パレスにも爆弾を落としてぶっ壊し、線路を壊したり、そんなことをした。だが人を殺すのは、たまたまそこにいればというくらいだった。殺し合ってたのは、やつら同士のほうが多い。ある日、この辺り一帯で大きな戦いがあった、テディ。空の上でな。家を五十軒集めたより大きなものが、クリスタル・パレスより大きなものが――もっと、何よりも大きなものが、空を飛び回って互いをぶん殴り、死人がそこから落ちてきた。すさまじかったぞ! だが、問題は殺した人の数じゃなく、止めちまった商売のほうだった。商売ができなくなったんだ、テディ。金は出回らねえし、持ってても買うものがなかった。」
「でも、人はどうやって死んだの?」と、話が途切れると少年は言った。
「いま話してるだろう、テディ」と老人は言った。「次に来たのは商売の停止だ。突然、金というものがなくなったみたいだった。小切手ってものがあった。字を書いた紙切れでな、金とまったく同じだった。知ってる客がくれたものなら、まったく同じだったんだ。それが突然、そうじゃなくなった。俺の手元には三枚残った。二枚には釣りまで渡してた。次には五ポンド札もだめだって話になり、それから銀貨も何となく消えた。金貨なんぞ、頼もうが何をしようが手に入らなかった。ロンドンの銀行が持ってて、その銀行がみんな壊れちまったんだ。誰もが破産した。誰もが仕事を失った。誰もが!」
彼は黙り、聞き手をじっと見た。賢そうな少年の顔には、どうにも理解できないという戸惑いが浮かんでいた。
「そうして起きたんだ」と老トムは言った。何とか伝える言い方を探した。「時計を止めるようなもんだった」と言った。「しばらくは静かだった。空で飛行船が戦ってるほかは、死んだように静かだった。それから人々が騒ぎだした。最後の客を覚えてるよ。俺の店の本当に最後の客だ。モーゼス・グルックシュタインさんっていう、シティの紳士で、気のいい、アスパラガスとアーティチョークの好きな人だった。その人が飛び込んできた。何日も客なんぞいなかったのにな。それで早口にしゃべりだし、何でもいい、うちにあるものなら、ジャガイモでも何でも、それと同じ重さの金を出すって言った。ちょっと投機をしてみたいんだという。まあ一種の賭けで、たぶん損をするだろうが、そんなことは気にしない、やってみたいんだってな。昔から賭け事が好きでね、と言った。俺が量りさえすれば、すぐに小切手を書いてくれるって言う。それで少し口論になった。礼儀はちゃんと守ってたが、小切手がまだ通用するかどうかで言い合いになったんだ。その人が説明してると、例の失業者の連中が、大きな旗を持って通りかかった。誰にでも読めるようにな。あのころは誰でも字が読めたんだ。『食べ物をよこせ』ってあった。そのうち三、四人が、いきなりこっちを向いて店へ入ってきた。
「『食い物はあるか?』と一人が言った。
「『ない』と俺は言った。『売るものはない。ありゃいいんだがね。だが、あっても残念ながらあんたたちには譲れない。この紳士が、さっきから――』
「グルックシュタインさんは俺を止めようとしたが、遅かった。
「『そいつは何を出すって言った?』と、手斧を持ったでかい男が言った。『何を出すって言ったんだ?』言うしかなかった。
「『おい、みんな』とそいつが言った。『ここにも金融屋がいやがる!』それで、その場で外へ連れ出し、通りの先の街灯に吊るしたんだ。あの人は指一本動かして抵抗しなかった。俺がしゃべっちまってからは、一言も口をきかなかった……」
トムはしばらく考え込んだ。「吊るされる人を見たのは、あれが初めてだった」と言った。
「いくつだったの?」とテディは尋ねた。
「三十くらいだ」と老トムは言った。
「へえ! 僕なんか六つになる前に、豚泥棒が三人吊るされるのを見たよ」とテディは言った。「誕生日が近いからって、父さんが連れてってくれた。そろそろ血に慣れとかなきゃいけないって……」
「だが、モーター車にひき殺された人間は見たことねえだろう」と、老トムは一瞬むっとしたあとで言った。「死人が薬屋へ運び込まれるのも、見たことねえだろう。」
テディの束の間の得意顔は消えた。「うん」と言った。「見たことない。」
「これからも見ねえ。見られねえさ。俺が見たようなものは、お前には見られない。決してな。百まで生きたって……。さて、話を戻すと、そんなふうに飢饉と暴動が始まった。それからストライキや社会主義が起きた。俺は昔からああいうものは嫌いだったが、どんどんひどくなった。戦い、銃撃、放火、略奪だ。ロンドンじゃ銀行を壊して金を奪ったが、金から食べ物は作れなかった。俺たちはどうしたかって? おとなしくしてた。誰にも手出ししなかったし、誰も俺たちには手出ししなかった。古いジャガイモが少しあったが、たいていはネズミで食いつないだ。うちは古い家で、ネズミだらけだった。やつらは飢饉なんぞ平気らしかった。よく捕れたよ。よくな。だが、この辺りの連中はたいてい、ネズミを食うには胃が上品すぎた。食う気にならなかったらしい。いろんな気の利いた食べ物に慣れちまってて、まっとうな食い物には手をつけなかった。手遅れになるまでな。食うくらいなら死んじまったんだ。
「人を殺し始めたのは飢饉だ。紫死病が来る前にも、夏の終わりには蠅みたいに死んでた。ああ、みんな覚えてるよ! 俺は病気にかかった最初のほうだった。猫か何かつかまらねえかと思って外へ出てな、それから自分の畑へ回って、忘れてた若いカブを抜けねえかと見に行った。そこでひどい具合になったんだ。あの痛みは想像もつかねえぞ、テディ。体が二つに折れるくらいだった。あそこの角でばったり倒れた。おばさんが探しに来て、袋みたいに家まで引きずってくれたんだ。
「おばさんがいなけりゃ治らなかった。『トム』と俺に言った。『あんたは治らなきゃいけないよ』。だから俺も、治らなきゃならなかった。それからおばさんが病気になった。病気にはなったが、あの人はそう死にやしねえ。『まったく!』って言うんだ。『あんたを一人でおたおたさせといて、あたしが死ねるもんか!』ってな。おばさんは口が達者だよ。だが髪が抜けちまった。それで、いくら頼んでも、俺が取ってきたかつらをかぶりたがらねえ。牧師館の庭にいた、おばあさんからもらったやつをな。
「さて、その紫死病だが、あれは人を一掃しちまったんだ、テディ。埋めきれなかった。犬も猫も、ネズミも馬もやられた。しまいには、どの家も庭も死体だらけだ。ロンドンのほうは臭くて行けなかったし、俺たちもハイ・ストリートを出て、いまの家へ移らなきゃならなかった。あっちじゃ水もすっかりなくなった。排水路や地下トンネルに流れ込んじまったんだ。紫死病がどこから来たかは、神様しか知らん。いろんなことを言うやつがいる。ネズミを食ったからだと言うのもいれば、何も食わなかったからだと言うのもいる。アジア人がどこか高い土地から持ってきたって話もある。チベットだったかな。そこじゃ、たいして誰にも害を与えなかったそうだ。俺にわかるのは、飢饉のあとに来たってことだけだ。飢饉は恐慌のあとに、恐慌は戦争のあとに来た。」
テディは考えた。「何が紫死病を起こしたの?」と尋ねた。
「いま言っただろうが!」
「でも、どうして恐慌になったの?」
「なったんだよ。」
「でも、どうして戦争を始めたの?」
「自分たちを止められなかったんだ。あの飛行船を持ったせいさ。」
「それで、戦争はどう終わったの?」
「終わったかどうかは、神様しか知らねえよ、坊主」と老トムは言った。「終わったかどうかは神様しか知らん。ここを旅人が通ったことがある。ほんの二夏前にも一人いた。まだ続いてるって言ってた。北のほうに戦争を続けてる一団があって、ドイツや中国やアメリカや、あちこちにもいるんだとさ。まだ飛行機やガスなんかを持ってるって言った。だが、俺たちはもう七年も空に何も見てねえし、誰も近くへ来ちゃいねえ。最後に見たのは、ひしゃげたような飛行船が飛び去ってくところだった。あっちへな。小ぶりなやつで、どこか故障でもしてるみたいに、傾いてた。」
彼は指をさし、柵の切れ目で立ち止まった。それは昔の柵の名残であり、かつて隣人の牛乳屋ストリンガー氏と並んで、南イングランド航空クラブの土曜午後の上昇飛行を眺めた場所だった。あの特別な午後のぼんやりした記憶が、あるいはよみがえったのかもしれない。
「あそこだ。あの下の、錆が赤く光ってるところ。あれがガス工場だ。」
「ガスって何?」と少年は尋ねた。
「ああ、空気みたいな、何もねえようなもんでな、気球に入れると上へ上がるんだ。電気が来るまでは、燃やしても使った。」
少年は、その説明をもとにガスを想像しようとしたが、うまくいかなかった。それから考えが、前の話へ戻った。
「でも、どうして戦争を終わらせなかったの?」
「意地っ張りだったんだ。みんな傷ついてたが、みんな相手を傷つけてもいたし、誰もが気位が高くて愛国者だった。だから、終わらせる代わりに物を壊した。ひたすら壊し続けたんだ。そのうち、やけになって野蛮になった。」
「終わらせればよかったのに」と少年は言った。
「始めちゃいけなかったんだ」と老トムは言った。「だが人間は思い上がってた。気取って、偉そうで、思い上がってたんだ。肉も酒も取りすぎてた。降参なんぞするもんかってな! しばらくすると、降参しろと言う者もいなくなった。誰も言わなくなった……」
彼は考え込みながら、歯のない口をもぐもぐさせた。その目は谷の向こう、クリスタル・パレスの砕けたガラスが陽光をきらめかせるほうへさまよった。途方もない浪費と、取り返しのつかぬ失われた機会への、漠然とした大きな思いが心を満たした。彼はこれらすべてについての究極の判断を、頑固に、ゆっくりと、断固として繰り返した。この件についての、最後の言葉だった。
「何とでも言うがいい」と彼は言った。「あんなものは、絶対に始めちゃいけなかったんだ。」
ただ、それだけだった。どこかで誰かが、何かを止めるべきだった。だが、誰が、どうやって、なぜ止めるべきだったのかは、すべて彼の知るところの外にあった。